テーマ)第23章 自分自身との戦い

 神の強さを自らの内に自覚している者たちは、戦闘というものを考えることさえできない。 そのようなことを考えれば、自分の完全無欠性を失うだけである。 戦場で勝ち取れるものはすべて、肉体に関するものである。 すなわち、肉体が提供するように見えるものか、あるいは肉体が所有するかに見えるものである。...
 父の目的を共有し、それを自分のものと知る者たちに、何が与えられているか、考えてみなさい。 彼らには何も不足していない。 いかなる種類の悲しみも考えられない。 彼の愛する光のみが自覚され、愛のみが彼らの上に永遠に輝く。 それが彼らの過去であり現在であり未来であり、このすべてが常に同一で、永遠に完全で、全一に共有されている。...
 誰のことも戦場から見てはならない。 そこでは、存在してもいない場所から相手を見ることになるからである。 そのときあなたには、見るための判断基準となるものや、自分が見ているものに意味を付与できる基点が何もない。 肉体のみに攻撃や殺害が可能なのであり、もしそうすることがあなたの目的であるなら、あなたは肉体とひとつになっているに違いない。...
 攻撃への誘惑が生じて、あなたの心を闇と殺意で満たそうとするとき、自分が戦闘を高みから見ることが可能(・・傍点)だと、思い出しなさい。 形において認識できなくても、あなたはそのしるしなら知っている。 刺すような痛み、罪悪感の疼き、そして、何よりも、平安の喪失といったしるしである。 こうしたものをあなたはよく知っている。...
 高みへと引き上げてもらい、そこから、戦場を見下ろしなさい。 そこからあなたが展望するものはきわめて違ったものとなるだろう。 戦場の直中(ただなか)であるここにおいては、戦場は実在するように見える。 ここでは、あなたはその一部となることを選択している。 ここでは、殺害があなたの選択である。...
 あなたの関わる関係がもつ麗しい光は、神の愛と同質のものである。 だがそれはまだ、神が神の子に与えた神聖な機能を担うことができてはいない。 なぜなら、兄弟に対するあなたの赦しはまだ完全ではなく、したがって、その光が被造物全体にまで延長されないからである。...
 神は自らの機能を肉体と共有しない。 創造することが神の機能であるから、神はわが子にその機能を授けた。 神の子の機能が殺害だと信じることは罪深いことではないが、それはまさしく狂気である。 同一であるものが異なった機能をもつことはない。...
 真理と同じでありながらも違っているというものがあり得るだろうか。 殺害と愛は両立不可能である。 だが、もしこのどちらも真理だというのなら、両者は同一で、見分けがつかないはずである。 神の子を肉体と見る者たちにとっては、そのように、両者の見分けがつかなくなる。 というのも、神の子の創造主と同質だというのは、肉体のことではないからである。...
 葛藤の中にとどまってはならない。 攻撃がなければ争いはあり得ない。 神に対する恐れとは、生命(いのち)に対する恐れであって、死に対する恐れではない。 それでも、神が唯一の安全な場所であることに変わりはない。 神の中に攻撃はなく、いかなる形の幻想も、天国に忍び寄ることはない。 天国は完全に真実である。...

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