テーマ)第*9章 贖罪の受容

テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 だが、真理が不可分のものなら、自分自身についてのあなたの評価は、まさに神によるあなたの評価でもあるに違いない。 あなたが自分自身の価値を確立したのではないのだから、それは防衛される必要はない。 いかなるものもそれを攻撃できず、それを打ち負かすこともできない。 それは移り変わることもない。 それはただ在るのみである。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 神の心の中では、あなたはまったく代替不可能な存在である。 他の誰もその中にあるあなたの持ち場を埋めることはできない。 そして、あなたが神の心の中におけるあなたの持ち場を空(から)にしている間は、永遠なるあなたの場所はただあなたの帰りを待っている。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 神ご自身があなたの壮大さを証(あか)しするとき、あなたの壮大さが傲慢であり得るだろうか。 そしてまた、証人なくして実在し得るものがあるだろうか。 そうしたものからいかなる良きことが生じ得るだろうか。 そして、良きことが何も生じなければ、聖霊はそれを使えない。 聖霊が神の意志へと変換できないものは、そもそも存在してはいない。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 壮大さを尊大さから区別することは簡単である。 愛は返ってくるが、うぬぼれは返ってこないからである。 うぬぼれは奇跡を生み出さず、したがって、あなたの実相の真の証人をあなたから奪う。 真理は不明瞭でもなければ、隠されてもいない。 しかし、真理があなたに明白となるのは、あなたが真理の証人たちに喜びをもたらすときである。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 壮大さは真理であるから、真理と卑小さは相互に否定し合う。 真理は揺れ動かない。 それはいつでも真理である。 壮大さがあなたからすり抜けていくとき、あなたは壮大さを、自分が作り出した何かに置き換えてしまったのである。 それは卑小さへの信念かもしれない。 あるいは、尊大さへの信念かもしれない。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 自我を容認しようとするあなたの気持ちだけに、自我は依存している。 もしあなたに自分自身の壮大さを見ようとする意欲があれば、あなたが絶望することはあり得ず、したがって、自我を望むことはあり得ない。 あなたの壮大さは、自我に対する神の答えである。 なぜなら、それは真実だからである。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 あなたの壮大さからは、祝福することだけが可能である。 なぜなら、あなたの壮大さはあなたの豊かさだからである。 祝福することにより、あなたは壮大さを心の中に保持し、それを幻想から守り、自分自身を神の心の中に保つ。 あなたは神の心の中以外のどこにもいられないということを、いつも覚えておきなさい。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 自我は神の壮大さの前では動けなくなる。 なぜなら、神の壮大さがあなたの自由を確立するからである。 あなたの実相についてかすかにほのめかすだけでも、文字通り自我をあなたの心から追い払うことになる。 なぜなら、そのときあなたは、自我に対する一切の思い入れを手放すからである。 壮大さにはまったく幻想がない。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 自我には壮大さと尊大さの違いがわからない。 なぜなら、自我には、自我自身がもつ信念の中で自分にとって異質な信念と、奇跡志向の衝動との見分けがつかないからである。 すでに述べたように、自我は自らの存在に対する脅威を自覚しているが、これらの非常に異なった種類の二つの脅威を区別しない。...
テーマ)第*9章 贖罪の受容 · 10月 23日, 2018年
 尊大さとは、常に絶望を隠すための覆いである。 それは実在しないので、希望がない。 それは、卑小さは実在するという信念に基づいて、あなたの卑小さを打ち消そうとする試みである。 この信念がなければ尊大さに意味はなく、あなたがそれを望むことはあり得ない。 尊大さの本質は競争心である。 なぜなら、それはいつでも攻撃を伴うからである。...

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