テーマ)まえがき

テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
 赦しは私たちが思い出すための手段である。 赦しによって世界の思考は逆転する。 赦された世界は天国への門となる。 なぜなら、その慈悲により、私たちはついに自らを赦すことができるようになるからである。 誰のことも罪悪感の虜にせずにおけば、私たちが自由になる。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
 赦しの必要性など想像することもできない天国にあっては、赦しは知られざるものである。 しかしこの世界においては、赦しは私たちの犯したすべての間違いに必要な訂正である。 赦しを差し出すことが、私たちが赦されるための唯一の方法である。 それが、与えることと受け取ることは同一であるという天国の法則を反映するからである。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
 キリストの心眼(ヴィジョン)は聖霊の贈物であり、分離という幻想や、罪、罪悪感、死の実在性を信じる信念にかわるものとして、神により用意されている選択肢である。 それはすべての知覚の誤りに対する一なる訂正であり、この世界が依拠している相対立するように見えるものごとの間の和解である。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
肉体の耳で聞くことの反対は、神を代弁する声を介した親交(コミュニケーション)であり、その声である聖霊は、私たち一人ひとりの内に宿っている。 その声は、か細くて聞きとりにくいもののように思われているが、その理由は、卑小な分離した自己を代弁する自我の声のほうがずっと大きいかのように感じられるからである。 これは実際には逆である。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
心が肉体を何らかの形の攻撃に使いたいと思うなら、肉体は病気や老化や衰退の餌食となる。 一方、心が聖霊の目的を受け入れるなら、肉体は他者と親交(コミュニケーション)をするための有用な手段となり、必要とされる間は傷つくことなく、その役割が終われば静かに横たえられるものとなる。 肉体はそれ自体ではよくも悪くもない。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
 この世界の「特別な関係」は、破壊的で利己的、そして幼稚なほど自我中心的である。 しかし聖霊にゆだねられたとき、そうした関係は、地上で最も神聖なものとなり、天国へ戻る道を指し示す奇跡となる。 この世界は、「特別な関係」を除外という究極の武器として、また分離を実証するものとして用いる。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
「卑小な自分」は、外界からの承認、外界における所有物、そして外界における「愛」により、自らを補強しようとする。 神の創造した自己は何も必要としない。 それは永遠に完全であり、安全であり、愛され、愛するものである。 それは獲得するのではなく分かち合おうとし、投影するのではなく延長しようとする。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
 罪は、「愛の欠如」(テキスト第1章・Ⅳ・3)と定義される。 愛は存在するすべてであるから、聖霊から見れば、罪とは罰せられるべき悪ではなく、訂正されるべき間違いである。 力不足、弱さ、もの足りなさといった私たちが抱く感覚は、幻影の世界全体を支配している「欠乏の原理」への強い執着に由来している。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
私たちは歪んだ防衛により世界を歪曲してしまったので、本来はそこに存在しないものを見ている。 知覚上の誤りを認識することを学ぶとき、私たちはまた、そうした誤りを超えたところを見ること、すなわち、「赦すこと」を学ぶ。 同時に私たちは自分自身をも赦し、歪曲された自己概念を超えて、神が私たちの内に、私たちとして創造した自己を見る。...
テーマ)まえがき · 4月 28日, 2017年
 私たちの見ている世界は、自らの内なる判断基準を映し出しているにすぎない。 すなわち、心の中にある支配的な想念や願望や感情の反映である。 「投影が知覚を作り出す」(テキスト第二十一章・序・1)のである。 私たちは最初に自分の内を見て、どのような世界を見たいかを決め、それからその世界を外に投影し、自分が見ているままにそれを真理とする。...

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