『幻想直視のやり方』を説いているある本の中の記述~OSHOに見る『思考の手放し方』

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 赦しの実践において重要な『幻想直視』。 そのやり方については奇跡講座に具体的な記述は見当たらない。 そのやり方をめぐってはいろんな議論があるだろう。

 

 私のやっている「やり方」をまさに表現している文献を以下に発見した。

 

 著者はOSHO。 クリシュナムルティに並ぶインドの革命的神秘思想家である。

 

 

 これまでOSHOについては、私自身いくつかのOSHO本を読んだものの、いくぶん懐疑的で、イマイチ信用に欠ける部分も多くあった。

 

 しかし、つい最近邦訳された新刊を読んだところ、少なくともある部分においては本物であると確信。

 

 なかでも以下の文章は、まさに私がやっている「幻想直視のやり方」と同じものを表現している文章である。

 

 

 もちろんそれを具体的にどうやるかまでの記述はされてはいないが、やり方としての方針、アウトライン、考え方はまさにそのものである。

 

 これは奇跡講座の教えからもなんら外れてはいない。

 

 

 ぜひ参考にして欲しい。

 

 

OSHOに見る『思考の手放し方』

 これはまさに『奇跡講座』でいうところの「幻想を直視する」である。

 ここでの「思考」は誤った・・・傍点)思考、つまり自我からの考え、自我の想念ということになる。

 

 

 以下、「あなたの魂を照らす60の物語」 OSHO(著)(P.120 - P.123)より引用。

 

 

「どうすれば思考を手放すことができるのですか?」

 

 おそらく、あなたも私に同じ質問をするだろう。 平安を探し求める人なら誰でも、基本的な困難に直面する。 真実や救済を探し求める人なら誰でも、この疑問を抱えている。 だが、思考自体が障害になっている。 そして思考自体が平安ではないのだ。

 

 (中略)

 

 思考が存在しないところ、そこには平安がある。 そこでしか、平安は存在できない。 思考が存在するということは、平安がないということだ。 思考が存在しない場所に、真実が存在する。 だが、あなたたちはこう尋ねるだろう。 「どうすれば、思考が存在しない状態になれるのか?」 友よ、尋ねるな。 尋ねているのが思考だ。 「どうすればいいか」という探求が、思考に属している方法や手段を探すことが、思考に属しているのだ。 何かになるための探求は、思考に属しているのだ。 思考はいつも「どうすればいいか?」と尋ねている。

 

 そうではない。 こう問わずに、思考の作用の仕方を観察するのだ。 どんな方法で思考が入り込んでくるのか? どんな方法で増大するのか? どんな手段で強くなるのか? もちろん、思考の作用の仕方は巧妙だ。 そのやり方に、目を向けるのだ。 何も行動する必要はない、ただ目を向けるのだ。 思考の形態やそれに付随した形に注意し、意識を向けるのだ。 思考を理解し、思考の全体像を認識するのだ。 思考の行為や反応、思考が執着するものしないもの、思考が好むもの好まないものに目を向けるのだ。 絶えずこのことを思い出せ。 忘れるな。 そして、思考に向ける意識は、自然でなくてはならない。 私たちの目は、自然と思考に向けられている必要がある。 革命は、緊張や集中することなしに思考を理解し、知ることでのみ実現する。 実際、思考を知ること自体が改革なのだ。

 

 思考を知ることで、思考が消える。 思考を認識する学びの中で、思考を捨て去ることができる。 なぜなら、知ることや気づいている状態は、願望ではないからだ。 これらの状態は、何かになろうと競っているわけではないし、何かになろうとしているわけでもない。 存在しているものへの目覚めであり、起っている出来事への目覚めでしかない。 願望は常に未来へと向かい、知るということは常に今に存在している。 知るということの出現が願望への別れになる理由がここにある。 思考を知ることは、思考から自由になることだ。

 

 これは思考の解放ではなく、思考そのものからの解放であることを覚えておくのだ。 ここから、自由という無限の光の中、神を知ることができるだろう。

 

 

 

第二十五話 平安への道(P.120-P.123より引用。 平穏→平安に変更、太字・下線共に当方にて)

あなたの魂を照らす60の物語 OSHO(著)

https://amazon.jp/dp/4479784918

 

 

 

 これほどの幻想直視に対する適切に表現された文章を、他の文献で見つけたのは初めてである。

 

 見事というほかない。

 圧巻である。