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最新更新日[2025.12.11]
KEN(管理人) (火曜日, 14 4月 2026 09:53)
いまだ考察中ですが現時点での備忘録として。 「本気で生きる」は、「意図してはできない」という整理でした。 「本気で生きる」すなわち「本気で動く」、つまり「本気でなんとかしたい」ことがある、ということ。 「意欲」の問題ですね。(コースでもよく出て来るワードです) この「意欲」、どういうときに強く現れるかというと、 「自分が地獄に居ると感じるとき」(脱出するためだったら何だってやろうとする)ですね。 ただ「地獄に居ると感じる」のは、人それぞれです。 客観的に見て、とてつもない状況に居るのにそう感じない人もいるし、ささいなことでも「地獄」と感じる人もいる。 つまり「感受性の問題」は一つあるのかな?、と。 そして「自分の人生」を本気で考えるようになるきっかけは、もちろん人それぞれですが、よくあるのが、身近な人の死、911や311などの震災を肌で感じた時などが挙がるのかもしれません。 まだまだ考察の余地がありそうです。
いわた (月曜日, 13 4月 2026 09:44)
お世話になっています #248 の御返事ありがとうございます 「本当のところ、自分はどうしたいのか」という問いかけ、深く響きました。 正直なところ、私のなかでは「興味があって読みたい」という気持ちと、「文脈が難しくて立ち止まって本を閉じてしまう」という感覚がずっとループしています。また「読みたい」と戻ってしまうのは、やはりどこかで心が求めているからなのだと、考えています。 第1章Ⅲ.1の解説をいただき、本当にありがとうございます。 「キリスト(聖霊)の存在が必須であること」「最終地点で控えてくれていること」という視点で読むと、難解だった一文が、解りやすいです。 解説を読んで「あぁ、なるほど」と、今の私なりの理解ができている感覚です。 *まずは、自分の本心が「今どうしたいか」を置いてけぼりにせず、教えていただいた自我の声の見分け方を意識しながら、自分のペースで向き合ってみようと思います。 いつもフィードバックありがとうございます
KEN(管理人) (月曜日, 13 4月 2026 07:34)
連日関連投稿が続きますが、 どうすれば人は「そのように生きれる」ようになるのか? 人は「本気で生きる」と決めて生きられるものなのか? 人が「そのように生きる」かどうか「決められる」ようなものではないと思います。 勝手にそう「決まる」ような性質のものです。 なぜか「そう生きる」と決まってしまう。 つまり「意図してはできない」。 できる人はなぜかそできるし、まだできていない人はその時点ではどうやっても出来ない。 つまりあるとき「そうなっている」、です。 人の意志では出来ない。 私自身も「そのように生きよう」と自分で「決めて」生きたわけではありませんでした。 勝手にそういう生き方になってしまっていました。 つまり「小学生のことろはなぜか足が速かった」みたいな部類。 「高校生になって急に勉強に目覚めた」部類。 なぜそうなったかの理由はいくらでも後付けできるが、実際のところはどれも「結果的にそうなった」部類。 誰でも「今もっとも最適な場所に居る」。 それが受け入れられる人は受け入れられるし、そうでない人は今はまだそれが出来ない。 つまり結局は仏教でいう「縁」ということになりそうです。 後付けですが、「本気で生きる」と決まっている人たちがどういう人たちかは・・・ キーワードは「主体性」「自己信頼(自信)」「逆境(突き放し、放置、助けない、過保護にしない、本人に取り組ませる、間違ってもいいから本人にさせる)」 幼少期に関わっていたまわりの環境、つまりもっとも影響を与える人(親など)がそういう関わりをしてくれたのが大きい、のか もしそうなら社会全体がそのような関わりをもつ機能に変わっていくことで「本気で生きる」人がもっと輩出されるようになっていくだろうし・・・何よりこの自分がそのように関われる人になればいい。影響を与える存在に。
KEN(管理人) (日曜日, 12 4月 2026 09:59)
前回投稿では、『奇跡講座』を何度も読めるようになるかどうかは分かりませんが、大事なことは「自分自身の本心がどう言っているかに耳を傾け、それに沿う」でした。 1日経って「自分自身、強烈に本心に耳を傾けられるようになった理由を1つ挙げよ」を考えていました。 結論としては、「一度死んだ」です。 これは積極的に「死にに行く」わけではなく、結果的に「死を覚悟した」です。 自分自身の取り組みとしては、「必死で生きた」その結果です。 今風に言えば「燃え尽きた」。 ある意味人生を賭けて、「それしか生きるすべがない、それが出来ない人生はあり得ない、生きている意味がない」と完全に思い込んで生きてしまった結果です。 今のように内面に深く向き合えるような状況でもなく、ただ単に無条件に(ここではまったく吟味されることがないという意味での「無条件に」)無意識レベルで「そうするものだ」という勝手な思い込みのもとに、これまた無意識に「全身全霊」で取り組んだ結果です。 私の「それ」とは「偉くなる」ことです。「人よりも偉くなる」。雑に言えば「権力者」でありその先に見ているものは「カネ」であり「金銭的豊かさ」です。とても世俗的ですね。 「生活に何不自由なくラクに生きたい」、それは突き詰めれば「生存の恐怖」です。 つまり「切迫した恐怖」に冒されて生きてきた。 この恐怖から逃れるためによく吟味されずに、無意識レベルで「全身全霊」で取り組んだ。 その結果、「どうやっても絶対に無理だ」と悟った瞬間です。 つまり「生きている意味がない」に至った瞬間。 それが「死を覚悟した」です。 この整理でいけば、結局のところどうであろうと(自我からであろうと)結論は「本気で生きる」になってしまいますが。(「本気で生きていない」つまり「本気で生きようという意志がないから」という結論になってしまいますね。 この言葉はまさに『神との対話』という本の中に出てきます、13章「なぜなら、あなたには生きようという意志がないからだ」。 12章には「なまはんかな気持ちでなく、実際に、思いきり選びなさい」つまり徹底的に生きよ、と。 では、どうすれば人はそのように生きれるようになるのか?そう生きれる人とそうでない人との違い・・・今のところは分かりません。この分野は自分の中ではまだ十分に吟味できていません。今後の課題です。) これらは今振り返っての分析です。 もちろん当時はまったく言語化されてもいなく完全な無意識駆動です。
KEN(管理人) (土曜日, 11 4月 2026 10:30)
第一章Ⅲ.1「私は贖罪の過程を任されているが、その過程は私が始めることを引き受けたものである。」の箇所ですね。 ここでの「私」とはキリストを指します。 段落の後半を見ていけば、キリストであることがわかると思います。 「贖罪の過程つまり赦しは、私キリスト(キリストの心が聖霊なので聖霊を含む)が居ないと出来ない。 キリスト(聖霊)が居ないとそもそも不可能。 つまりキリスト(聖霊)の存在が必須。 天上界においてキリストに赦しは任されている。 私キリストが責任をもってそれを行うことを引き受けているのだから安心しなさい。」という意味になります。 私が何度も読み進められているのは、自分の心が求めているからです。 「なぜかわからないけれどもそうしたい」自分がいるだけです。 こういうことは実際のところ全員の心にもあるのかもしれませんし、そうでないかもしれません。 人によるのかもしれません。 また、時期やタイミングもあるのでしょう。 私の場合は生まれる前からそのような傾向が設定されていたのかもしれません。 私にとっては「趣味」のようなものです。 「趣味」とは言っても暇つぶしの要素はありません。 やるなと言われても、お金を払ってでも、無い時間を作ってでも「そうしたい(読みたい)もの」なんです。 アドバイスとしては、「そうしたければやる(読む)」、「そうでなければやらない(読まない)」でいいと思います。 つまり、「自分自身の本心がどう言っているか」に耳を傾け、それに沿うだけです。 もし「読みたい」と言っているなら読みます。 「どうもまだ読みたいとは言っていないようだ」「むしろ他のことを優先してしたいことがある」と言っているなら、それに従うだけです。 やりたいことをやりましょう。 やらせてあげましょう。 「自分自身の本心がどう言っているかに耳を傾ける方法」はセッションで教えている通りです。 ポイントは「自我からの声を選り分け排除して本心からの声を拾いやすくする」ことです。 1.自我の主要戦略である「獲得思考」からの発想かどうかを見分け排除 2.それでも本心からの声を見つけにくければ、本心は愛つまり「無条件」なので、無条件ならほんとうはどうしたいのかを確認する (「そうしなければならない」などの条件が付いていないか、あまりにも当然の前提になりすぎて、条件付けがあるのに気付いていない場合があるので、プロに見てもらうことが必要な場合もあります) 私は贖罪の過程を任されているが、その過程は私が始めることを引き受けたものである。 あなたが私の兄弟たちの誰かに奇跡を差し出すとき、あなたはそれをあなた自身と私に差し出している。「あなた自身」が「私」よりも前にくる理由は、私は、私自身の贖罪のために奇跡を必要としてはいないが、あなたが一時的に失敗した場合に備えて最終地点に控えているからである。 贖罪における私の役割は、あなたが他の方法では訂正できないような一切の誤りを無効にすることである。 あなたが自分の本来の状態についての認識を取り戻したとき、あなた自身が自然に贖罪の一部となる。 あなた自身の中にも他の人の中にも誤りを受け入れようとしない私の意志をあなたも共有するにつれて、あなたはその誤りを正すための大いなる聖戦に必ず参加することになる。 私の声を聞き、誤りを取り消すことを学び、それを正すために行動する。 奇跡講座テキスト 第1章 三 贖罪と奇跡 1.
いわた (金曜日, 10 4月 2026 23:39)
いつもお世話になっております。 質問させて下さい テキストを読み進めていますが、一語一句が難解だなとかんじてます。 例えば第一章Ⅲ.1の「私は贖罪の過程を任されているが…………」という箇所。 これは、「私は初めから罪がなかった、咎められる原因は無かったという事を今後受け入れていく」という意味と解釈してますが どうなんでしょうか�? また、この「私」とは読み手の私なのか、神やイエスのことなのか…と考え出すと読み進められなくなります。 Kenさんはどのように何度も読み進めていかれたのですか? アドバイスいただけると嬉しいです。
いわた (木曜日, 19 3月 2026 22:34)
先日のセッションの感想とお礼です 特に悩みがあって申し込んだわけではなかったのですが、 とても濃い時間で、セッション後も自分の中で何かが変化し続けている感覚があります。 普段は一人でコースを日々実践していますが、一人でコツコツするよりも セッションを受け、深度と密度が違うと感じましたし、テキストの解説についても一緒に読んで頂いた事で理解が進んだと思います。 お話頂いた、「恐れか愛か」という視点を、改めて今日の日常の中で実際に使ってみたところ、本当に「恐れ」が多いことに気づきました。 基本的なことではありますが、「立ち止まって→観る」ということを丁寧に行うこと!これまでは大枠のところでしか捉えていなかったのですが、 それを細部で観ていくことで、不思議と平安に入れ替わっていく感覚をかんじました。 構造仕組みの全体像を伝えていただけたことで、 これまでバラバラに感じていた部分的な理解が、ひとつに繋がったんでしょうね。 静かだけれど、確かな変化が内側で起きていることを感じています。 この感覚をこれからも大切にしていきたいと思います。 本当にありがとうございました。
いわた (金曜日, 13 3月 2026 22:26)
フィードバックありがとうございますkenさん感謝です あの瞬間のことを「聖なる瞬間【赦し】」というのですね! >「心地の良い体験」は赦しの夢です受け入れているという心境が自然に自分の中に”起こった”はずです。そしてこれは、意図して受け入れようとしたわけではないはずです ┗そうなんです 瞬間ですが何処か呆れていました(降参でしょうね).と同時に執着しない(見方を変えたいたのでしょうね)軽い愛おしさがありました 以下も学びになります ⇩ 一度刻み込まれたこの"感覚"は薄らぐことはあっても忘れることはないはずです。少なくとも今の心境がそのときの心境と同じなのか違うのかは分かるようになっています。そして赦しの実践にはそれが重要なんです。 ┗既に感覚は過去の体験になっています ┗現在エゴにどっぷり入り込んでいるのを感じています 肉体.感情.思考と同一化してて抜けられない不快感 ┗「心地の良い体験」は赦しの夢=はい!今は理解しきっているとは言えないですが、そういうことなのでしょうね.............. 明渡し................薄っすら意味が分かるような分からないような.......。 *幻想直視を引き続き継続していきます
KEN(管理人) (土曜日, 07 3月 2026 09:21)
すばらしいシェアありがとうございます。 トリガーの振り返りについて >「その日は夫が子どもみたいに、はしゃいでいました。夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を私が受け入れている心境になっていたのがトリガーだったのかも知れませんこの時自分のあり方は意図してません無意識でした」 ”夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を私が受け入れている心境になっていた” 旦那さんに対する【アホっぽい~】にダメだという裁きが一切なかったはずです。【アホっぽい~】という感想と共にそれを”受け入れている”心境が生じていたはずです。受け入れているという心境が自然に自分の中に”起こった”はずです。そしてこれは、意図して受け入れようとしたわけではないはずです。 これが起こった瞬間のことを奇跡講座では「聖なる瞬間」と呼びます。 そしてこれがまさに赦しです(今回の場合は幻想直視を意図することもなく、一瞬で赦しが終わったパターンです)。「心地の良い体験」は赦しの夢です。 この心境になった"感覚"は重要なので記憶にとどめておいてください。 この体験があるのとないのとではこのあとの赦しの実践に大きく影響してきます。 (とはいえ一度刻み込まれたこの"感覚"は薄らぐことはあっても忘れることはないはずです。少なくとも今の心境がそのときの心境と同じなのか違うのかは分かるようになっています。そして赦しの実践にはそれが重要なんです。) 意図せず無意識だったということですが、少なくとも「受け入れたい」という思い(意図/意欲)はどこかにあったはずです。「受け入れない」「受け入れたくない」ではなく。つまりささやかな意欲はあった。 受け入れたい/裁きたくない/赦したい/それでいいはず・・・そんなささやかな思い/意図があればいつかその思いが満ちたとき、赦しの体験は誰にでも訪れます。 「ごく自然に受け入れる心境になった」。赦しはこれがいつ起きるかだけの話なんです。とはいえ、これは自分の意図の範疇ではないので、通常私たちにはコントロールできません。だとすると、「ただ待つだけなのか?神のみぞ知る?」赦しが必要なシーンは数多くあるのに・・・。いいえ、意図してやる方法はあります。これを「意図して行う」ことをやっているのが私たちが使用しているメソッドです。奇跡講座では幻想直視と呼んでいます。つまりコントロールしたいという欲をよく見て解除する方法です。 私たちが奇跡講座を学んでいるのはこのためです。 そしてこの方法は、ささやかな意欲ではなく、十全な意欲が必要です。
いわた (木曜日, 05 3月 2026 14:57)
さっきの追記です。 あの3/2の体験、先生のフィードバックを読んだ直後に起きたので、たぶんエネルギーが共鳴したんだと思います。 共鳴したことが単純に嬉しかったのでそれだけ伝えたくなりました。 分かち合えて感謝です!
いわた (木曜日, 05 3月 2026 14:38)
お世話になります いつもありがとうございますフィードバックに感謝です kenさんから頂いた 下記のお言葉とリンクする体験があたのでシェアさせてください 【前略】 常にそばにいるこの自分自身は神に守られたつまり背後に神の気配を感じる聖なる自己だということがわかってきます。 つまりそれがあなたの内なるキリストであり聖霊です。 聖霊にゆだねるとは「この自分自身がどう言っているんだろう」と耳を傾けている/耳をそばだてている状態のことを指します。 神なる回答を何度も受け取るたびに、内なる自己との絆が盤石化していきます。 これが絶対的な信へとつながります ----------------------------- 3/2の夜 以下のような体験をしました 身体が自動に動いていてて、私はただ.そこにいて 運ばれている【くつろいでいる】だけ それは心地の良い体験でした。 そこには③つの視点がありました ① 身体としての私(外的な情報と内的な空間の感覚) ② 外部の状況に思考で意味付けをしている私 ③ それらを静かに眺めている私(自動で起きる内外の状況を見ている私) この感覚は現在、意図的な再現はできず、記憶も薄らいでいます。言葉にしようとすると、実感が遠のく感覚もあります トリガーが何だったのかを振り返りました その日は夫が子どもみたいに、はしゃいでいました。 夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を 私が受け入れている心境になっていたのがトリガーだったのかも知れません この時自分のあり方は意図してません無意識でした この体験を追わないように意図します 「自分の在り方次第でそれは在る」と感じました 一時はその「在り方」を意図的に選択しようとも思いましたが、それは「今の自分を否定する」ことになりかねない、という危うさにも気づきました 引き続き心の訓練をしていきます
KEN(管理人) (月曜日, 02 3月 2026 08:38)
>「虚無とまでは行きませんが孤独な感覚あります」 「孤独な感覚」に違和感がなければまったく問題ないですよ。仮に「虚無」でもそれは同じです。 どんな感覚でも自分自身が許可を出せていればまったくもって「あっていい感覚」です。 「許可」が出せないものがあればそれを見に行けばいいことです。 「その感覚」を自分はどう感じていてどうしたいのか、違和感があるのか疑念があるのか、あるいはそのままでいいのかを自分自身に聞いてみてください。 というかもうすでにされていますね! すぐに結論が出ない、よく分からない場合もよくあります。そんなときは、「その感覚」をそのままにしばらく過ごして見て様子を待ちましょう。そのうえで何か変化や印象の変化などがあればその時また見てみましょう。 おそらく、自分自身に聞く/耳を傾ける感覚がもっと定着してくれば、常に自分自身がそばにいることが理解でき、実はまったく孤独ではなかったことに気づくはずです。 常にそばにいるこの自分自身は神に守られたつまり背後に神の気配を感じる聖なる自己だということがわかってきます。 つまりそれがあなたの内なるキリストであり聖霊です。 聖霊にゆだねるとは「この自分自身がどう言っているんだろう」と耳を傾けている/耳をそばだてている状態のことを指します。 神なる回答を何度も受け取るたびに、内なる自己との絆が盤石化していきます。 これが絶対的な信へとつながります。
いわた (日曜日, 01 3月 2026 19:48)
レッスン276の学びと近況 Kenさんお世話になっております 本日はレッスン276を読み進めていたのですが、今の私にとって非常に響くテーマでしたので、今の感覚を投稿します 「私が語るようにと神の言葉が与えられる」 レッスンで言う「言葉」とは、音声としての言葉ではなく、言葉になる前の「意識」そのものだと受け取っています。その意識を神聖なものとして受け入れるか、それとも否定して(エゴの)恐れや防衛に走るのか。兄弟たちも皆、同じなんだと.いう事なのでしょう 何を選ぶかは自由で、エゴでも神聖でもない場所から、あえて「神聖さを選ぶ」ということを、このレッスンは伝えてくれているように思いました。 今の自分は、神聖でも悪でもない、そのどちらでもあり、同時にどちらでもないような境地にいます。 孤独で、冷めているような感覚があります。 それでも肉体がある人として感情を持ったり、目標を持ったりして過ごしていますが、日常の中で頻繁に、以前からの「反応する癖」が出てくるのも感じています。 「意味はない」とふふふと笑いながら、つい反応で意味をつけてしまう自分もいますが、時折それすらも「意味は自分でつけているだけだった」と、一歩引いています。 未来への不安や、過去のお土産のような思い出を抱えながら、空虚感に似た「何か」の中にいる........そんな状態です。 以前は前のめりでコースを読んでいましたが、今は「選んでもいいし、選ばなくてもいい。でも、どうせならこれを使おうかな」という視点でコースと向き合ってます。 また何か気づきがありましたら、投稿したです 虚無とまでは行きませんが孤独な感覚あります 何か軌道修正したほうが良さそうという事を、思われましたらフィードバックいただけるとありがたいです いつもありがとうございます。
いわた (金曜日, 20 2月 2026 21:20)
応援励ましの言葉として受け取ってます ありがとうございます おぞましいほどの思いが自分の中に潜んでいました 今後についてまたシェアさせて下さい
KEN(管理人) (月曜日, 16 2月 2026 19:50)
ここから本当のレッスンになるということですが、うまくいくところもあるでしょうしそうでないところもあるでしょう。 いわたさんは「自我」でなく「ほんとうの自分」のほうに信が置けるようになってきていますから、ナチュラルに「どうしたいか」に耳を傾けて進めていけると思います。 仮に違っていたとしても充分違和感を感じ取れるほど敏感になっていますから、その都度自分自身に聞いて修正していくこともできるでしょう。 またシェアお待ちしています!
いわた (月曜日, 16 2月 2026 00:22)
お世話になります 今の感覚を忘れないように忘備録です もし間違った認識していたらご享受ねがいます 今までは、「この苦しい人生から何とかして逃げたい、救われたい」っていう思いを、実は心の奥にずっと隠し持ってたんです。それは小さなトゲっていうより、もう自分の一部になっちゃってる「大きな山」みたいな執着で、大きすぎて気づけなかった。でも、その「助かりたい」っていう必死さこそが、エゴの力みだったんだと思います。 今は、「もう、どっちでもいいなぁ」っていう、静かでフラットな場所にいます。 苦しいドラマが起きようが、キラキラした幸せが来ようが、どっちもただ現れては消えるバリエーションに過ぎない。そう思えたら執着していた「自分を正さなきゃ」っていう焦りが、スッと消えていきました。 実在そのものは、上にどんな物語が乗っかっても、傷つくことも揺らぐこともない。この場所から本当の意味で「コースという手法を使い天国を選ぶ」という準備ができた気がします。 今の私にとっての「赦し」は、何かを必死に修正する作業じゃなくて、起きてくることをそのまま眺める「あいだの視点」です。絶対的な安心感の中にいながら、「せっかく人間やってるんだから、心地いい方を選ぼうかな」くらいのノリです。 救われるためにコースを握りしめるのは、もうおしまい。 最初から救われている中で、天国を選んで、コースを分かち合っていく。 ここからが私の本当のレッスンになりそうです。 いつもお導きありがとうございます!
いわた (日曜日, 15 2月 2026 11:13)
返信頂き ”ふ”と気づいたことがあったのでシェアさせてください 「よしやろう!取り組もう!」と頑張ること自体が「今の自分は駄目だ!」という自己否定があったことに気が付きました。 今の自分を拒絶しているうちは、結局ずっと思考の中にいるだけ。 「自分はまだだ」というエゴの解釈を手放し、ただ事実の中にいることの大切さが、腑に落ちた感覚があります。 kenさんの暖かく優しい感覚に深い安堵を感じました ありがとうございます
KEN(管理人) (日曜日, 15 2月 2026 09:10)
追記) 最後の文の終わりはこのほうがいいですね。 旧「(なぜならそれは自分で決めることだからです)」 新「(なぜならそれは自分で決めていいことだからです)」
KEN(管理人) (土曜日, 14 2月 2026 21:30)
1)「実在しないものに傷つけられたと感じて動揺しています」 この“傷つけられた”というのは、つまり「そうなって欲しくなかった」を指していると思います。 ですので、「なぜそうなって欲しくなかったのか、なぜそうでないほうがこの自分にとっていいと判断しているのか?」を見にいってください。 2)「【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】が自分の状態.状況変化で、わかるときと 飲み込めないときがあります」 「飲み込めないときがある」という表現からすると、もしかすると頑張ってそう思おうとしているのかもしれません。 これは信念であり信仰です。 奇跡講座で言うところの「信を置けるか」です。 信を置ける状態になるまでは、揺れ動くこともあるでしょう。 それまでは「どうやら【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】らしいのだが、今はまだそのようにちゃんとは思えない」で問題ありません。 つまり、今はまだ「そう思いたくない」ということになります。 それで大丈夫です。 自分に正直なほうがここでは大事です。 自分と闘っても意味はないですから。 自分の状況が変わって「そう思いたい」と思えるようになってから(信を置けるようになってから)で大丈夫です。「よしやろう」と思えるようになってからで大丈夫だということです。 「よしやろう」と思えていないのに無理して取り組もうとしているのなら、頑張って取り組んでいることになっているでしょうし、「頑張る」というのは心が割れていることになりますし、不自然なことをやっているということになります。そこには「早く解決したい」焦りが見え隠れします。そういうときは「現状がいやだ」と幻想を現実だと見てしまっているということになります。 それで問題はありませんが、赦しは進みませんので膠着状態は続くことになります。 解決しない状態が続くことで「ほんとうにもう嫌だ!本気で赦す」と決するときまでいくらでもグズグズして構わないということです。(なぜならそれは自分で決めることだからです)
いわた (土曜日, 14 2月 2026 10:38)
以下の 言葉が、気になりました多分、今.必要な事柄なんだと思った自分がいます 【kenさんの書き出し一部抜粋】 何であれこの世界の中にあるもので、良きもので価値があり獲得するための努力に値するとあなたが信じているものは、あなたを傷つけることができ、実際に傷つけるだろう。 それ自体に傷つける力があるからではなく、それが幻想にすぎないことをあなたが否定し、それを実在のものにしてしまったからに他ならない。 それはあなたにとっては実在している。 無ではない。 そしてその知覚された実在性を通して、病んだ幻想の世界全体が入り込んでいる。」 -- --- -- --- --- ---- --- 【自分ごとですが】 実在しないものに傷つけられたと感じて動揺しています 意味がない幻想を自ら実在させてた事に気づきましたが 実在を与えてべったり同一化していて、なかなか腑に落ちない。 次から次に言い訳が出てきてさらに幻想物語が膨らんでいく 最後には自己否定自己嫌悪に陥って素直になりたい清らかになりたいと願えばどんどん罪悪感へ。 自力でできると考えているのでしょうね........... 聖霊に明け渡します kenさんのユーチューブ動画の 【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】が 自分の状態.状況変化で、わかるときと 飲み込めないときがあります
KEN(管理人) (火曜日, 10 2月 2026 10:03)
追記1の2) “獲得思考”(「獲得する」概念)について T-4.Ⅱ.7.「自我は決して豊かさから与えることはしないが、それは、自分自身が豊かさの代替として作り出されたものだからである。 だからこそ、「獲得する」という概念が、自我の思考体系の中に生じたのである。 欲望は「獲得」のメカニズムであり、自我が自分を確認する必要を表現するものである。 同様のことを、肉体の欲望についても言うことができ、いわゆる「自我の高尚な必要」についても言うことができる。 肉体の欲望の起源は、物理的なものではない。 自我は肉体を自らの家と見なし、肉体を通して自らを満足させようとする。 しかし、それが可能だという考えは、心による決断であり、心は、何が本当に可能なのかについて完全に混乱をきたしている。」 T--26.Ⅵ.1.「何であれこの世界の中にあるもので、良きもので価値があり獲得するための努力に値するとあなたが信じているものは、あなたを傷つけることができ、実際に傷つけるだろう。 それ自体に傷つける力があるからではなく、それが幻想にすぎないことをあなたが否定し、それを実在のものにしてしまったからに他ならない。 それはあなたにとっては実在している。 無ではない。 そしてその知覚された実在性を通して、病んだ幻想の世界全体が入り込んでいる。」 T-4.Ⅲ.4.「愛は、真にそれを欲する心ならどの心の中へでも即座に入ってくるが、そのとき心はそれを真に欲していなければならない。 ということは、心が両面感情をもたずにそれを欲するという意味であり、この種の欲し方には、自我の「獲得しようとする衝動」が皆無である。」
KEN(管理人) (日曜日, 08 2月 2026 21:05)
追記2) “他の赦しに取り組んでいた問題も「芋づる式」に、解決します。” 恐らくこのことをよく示しているテキストの箇所が以下です。 T-27.Ⅴ.9.「 あなたの数多くの異なった問題も、そのうちのどの一つでも片づいたときにはすべて解決されるということが、明らかになるだろう。」
KEN(管理人) (日曜日, 08 2月 2026 21:04)
追記1) “「趣味」なようなもの。” こう表現しましたが、この「趣味」には“暇つぶし”としての要素はありません。 “幸せになるために何かをやる”といった獲得思考がないことが重要です。 「ただやりたいからやる」です。 結果はどうであれただやりたいからやる、です。 悲しいかな、自我は結果を得るために何かをやります。 自我にとっては結果が重要なのです。 ですが禅も奇跡講座も(あるいはどんなことでも)自我からは取り組めません。 (もちろん取り組むことはできますが、意味をなしません)
いわた (火曜日, 27 1月 2026 09:41)
回答ありがとうございます 「ひとつのエゴを解体すると 「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。」 ⬆ はい。 これまで以上に敏感になってます お陰様で心も身体も脱力する感覚を深めました Kenさんのいう「芋づる式」は、オセロが一気に引っくり返る という意味なんですね (根が同じものならそれらも解決する) ⑅⃛ 頭の片隅に学習として入れておきます 奇跡講座、引き続き取り組んでいきます いつもありがとうございます
KEN(管理人) (火曜日, 27 1月 2026 07:08)
いわたさんの「芋ずる式にエゴが出てくる」について 「ひとつのエゴを解体すると 「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。」 私の言っていた「芋づる式」は、「オセロが一気に引っくり返るように」のほうが正確です。 赦しに取り組み始めると、多くの赦すべき問題(つまり嫌だと思っていること)を抱えていることに気づき、目を向け始めることになります。 そのうち一つでも完了したとき、他の赦しに取り組んでいた問題も「芋づる式」に、解決します。 「オセロが引っくり返るように」いくつかの問題は一気に解決します。 おそらく“問題の根”がいっしょだったのでしょう。 もちろん一つ赦せばすべての問題が解決するわけではありませんが、多くの問題は関連しているようです。 いわたさんの言われているものは、数多くある赦すべき問題に対してこれまで以上に敏感に気づき始めたことを指しているのだと思われます。 新たに浮上してくるものもあり、赦すべきものはたくさんありますから。
KEN(管理人) (火曜日, 27 1月 2026 07:03)
崎枝さん、真摯で率直な書き込み、ありがとうございます。 お久しぶりです。 じっくり読ませていただきました。 「「自分を愛する」と言われると、ほぼほとんどの人は 愛せない自分を責めてしまうと思います。 私的には「自分を攻撃しない」方がしっくりきます。」 ほんとそうですね。 「自分を攻撃しない」 その方がしっくりきます。 「自分を愛することが起・こ・る」以外に方法もないのが難しいところです。 続きの追記では禅について触れられていました。 禅も「座ることが起・こ・る」で始まるようです。 座ろうとした時点ではまだ禅ではない。 「正しくあろうとする私」 そうですね。 正しければ幸せだなんて誰が言ったんでしょうね。 なんだっていいと思います。 「趣味」なようなものです。 奇跡講座でも禅でも他の何かでも何でもいいと思います、オウムでも統一教会でもサッカーでもお料理でも。 幸せになろうとしてやらなければ。 今の私たちは「得るために」何かをやろうとします。 そのレベルでの私たちでは不可能なようです。 それを“自我”と呼んだりもします。
いわた (土曜日, 24 1月 2026 23:52)
お世話になります いわたです 以前セッションしてもらったときの 言ってた言葉の意味が少し分かりました「芋ずる式にエゴが出てくる」と聞いたのを覚えてます ひとつのエゴを解体すると 「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。 芋ずる式�����こーゆー意味なのかなーって 思いました。 読んで頂きありがとうございます ┏○ペコ
崎枝 (土曜日, 24 1月 2026)
追記です。 ふと思ったことを書きます。 前投稿内で使用した 「捕まえる」というニュアンスの中に 「私」の意志を感じる新しい「見る者」の香りがするなぁと読み返して思いました。 前から思っていた個人的な意見です。 奇跡講座には必ず: • 選ぶ私 • 気づく私 • 赦す私 が機能として残る。 それがあるから、 • 実践できる • 救われる • 生きやすくなる でも同時に、 「正しくあろうとする私」 が最後まで温存される 全て捨てろと最後に言ってますけどね。 奇跡講座の落とし穴はこの 「正しく理解している正しい私」 が暴走しがちになることと思っています。 最近「道元入門」という本を読みました。 ここを、禅は一切許さない。 禅は現実的で癒しがない。シビアだ。 禅はこう言う。 正しい位置? それがもう分離だよ 見てる? それがもう迷いだよ 何もしない? それを選んだ時点で迷いだ 私にとってはとても興味深かった。 今の私は優劣ではなくこう思います。 人として生きやすくなる → 奇跡講座は最強 構造的に一切逃げ場を残さない → 禅は最終兵器 どちらがいいとかの優劣ではありません。非常に興味深い。 禅の不立文字 只管打坐 私たちの先人は凄いなと思います。 何度もスミマセン
崎枝 (金曜日, 23 1月 2026 20:32)
ご無沙汰しています。 以前何度かセッションを受けさせていただいた者です。 当時、私は 「聖霊を選べない」「知的には理解しているのに手放せない」 というところで完全に行き詰まっていました。 そのときにKENさんから 「自分を愛することが、赦しの前提条件」 「なんとかしようともがいてきた自分の本当の望みを聞いてあげてほしい」 と言われ、正直に言うと、その時の私はその意味を理解できませんでした。 今更そんな自己啓発のようなことを言われて、戸惑い、意図が全くわからなかったのでとりあえずその後も奇跡講座を真面目に学び続け、 「わかったと思っては落ちる」を何年も繰り返しました。 あるとき、 「学べば楽になると思っているのは誰だろう?」 「理解すれば迷いが終わると思っているのは誰だろう?」 とふと立ち止まった瞬間がありました。 自我を手放すために学んでいる、 でもそれをやっているのも自我。 「私が学んでいる限り、迷いは終わらないのでは?」 そう気づいたとき、本当に動けなくなりました。 今は 聖霊を選ぼう! 選べない。なぜ? 手放そう! 手放せない!! こんな迷いが起きるたびにそれをどうにかしようとせず、ただその「迷う心」を捉える、ということをしています。 それでも現象は淡々と起き続けていて 世界は「私を通した現象」でしかないんだなと 世界に対する重さだけが少し薄れるように感じています。 最近になって、 以前KENさんがおっしゃっていた 「自分を愛することが赦しの前提条件」という言葉を あらためて思い出しました。 私なりに振り返ると、 それは「自分を肯定する」「ポジティブになる」ということではなく、 自分の中にある認めたくない思い―― 怒り、嫉妬、承認欲求、優位に立ちたい気持ち、逃げたい気持ち―― それらを否定せず、存在を許した経験だったのかもしれません。これがじぶんを愛することなのかな?と思っています。 迷う心を自由に言いたいことを言わせて、心自体を止めるのではなくて、ジタバタ迷う心を捕まえる(止観のイメージ)と何か柔らかいものが現れて、安心した感覚がありました。 正しい理想の自分を保っていたときに感じていた想像の神とはまったく質が違うものでした。 もしかしたら、 「否定されている心は捕まえられないのかな?」 心は迷う その心を自由にさせると 返って心が逃げなくなるのかもしれません。 これは私の勝手な解釈で、妄想かもしれませんけど… ただもしKENさんの本意が私の気づきと通じ合うところがあるのならば…… 「自分を愛する」と言われると、ほぼほとんどの人は 愛せない自分を責めてしまうと思います。 私的には「自分を攻撃しない」方がしっくりきます。 ただ、あのときいただいた言葉が、 時間をかけて今ここで静かに響いていることを お伝えしたくて連絡しました。 読んでいただき、ありがとうございました。
KEN(管理人) (月曜日, 19 1月 2026 23:03)
虚無感について質問がありましたのでこちらに回答します。 私もかつて虚無というか人生に絶望しました。 文字通り人生に夢も希望も無くなり、もう死のうと決心しています。 その後の展開は個人的なのであまり参考になりません。 既定路線です。 今は虚無感を体験する必要があるからそうなっているのでしょう。 自分に向き合う強さが最も失われているときです。 ですので、ほとんどやれることはないです。 つまり、何をしてもいいし、何をしなくてもいい、何ができなくてもいいし、何もできなくてもいい。まったくできなくてもいい。まったく何もできないものです。もちろん足掻いてもいいです。 それが極まったとき内側から何かに思い至ります。
いわた (日曜日, 18 1月 2026 14:42)
#220読みました わかりやすい内容をありがとうございます 身に染みてます 「幸せになりたい」 「特別になりたい」 「もっと上手くやりたい」 「不安を回避したい」 等 たくさんの思いを抱えている自分に気が付きました。 それでもまだ諦められない自分を見てます。 今この機会に居ることを感謝します。
KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:52)
いわたさんの「真理の考察」に関する書き込みへの返信 【真理の考察:実在するのは平安のみである】 これは単純で、「恐れ」は実在ではない。存在しない。幻想である。以上 『奇跡講座』の基本中の基本概念です。 ですので、『実在するのは平安のみである』完璧な洞察です!
KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:47)
いわたさんのレッスン253に関する書き込みへの返信 『奇跡講座』は「本来の自分に戻る道」なので、レッスン253は「本来の自分はこのように世界を見ており、本来の自分に戻りたいのなら同じように見なければならない。」つまり「あなたの覚悟を見ている」レッスンです。奇跡講座の言葉を使うなら「信」が置けているか。 レッスン253「1. 私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。 この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。 私の身に起こることは、私が望んでいることである。 生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。 このことを、私は受け入れなければならない。」 なので、「こんなことは私が招いたものではない! なんてひどいことが起こったんだ。 運が悪すぎる。。 こんなことは私は望んでいない! どうして望んでいる通りにならないんだ。 最悪だ。。」なんてことを思っているとしたら、奇跡講座を一からやり直す必要がある、というレッスンです。とはいえワークブック編なので、まさにこれを学ばせるレッスンですね。 続くレッスン311、312も同じです。 レッスン311「私はあらゆるものごとを、自分が望む通りのものとして判断する。」 レッスン312「私はあらゆるものごとを、自分が望む通りのものとして見る。」 いずれも簡単に言えば、「それでいい、(そうであっても、そうでなくてもまた)それでいい。 外の世界はそのままで完全完璧。」を言っています。 ですので、赦しに取り組む私たちはこれらを前提としているので、「もしそう思えないのだとしたら、なぜこの自分はそう思えないのか。 思いたくないのか。 それをよく見る必要がある。」です。
KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:44)
以下のブログ記事にコメントを頂きましたので、こちらに書き込みます。 『AIに聞いてみた:赦しが不可能な理由「もっと衝撃な事実とは何か?」』 https://acim.jimdofree.com/i-asked-ai#commentEntry226835488 ―――――――― 雀さん書き込みありがとうございます。 今回はアニメ映画「ひゃくえむ」からの洞察。 映画を観てからコメントと思ったものの、まだ先になりそうなので書き込みます。 「非二元が起きる直前の人間のリアルを描いたアニメ」とのことで、次観る映画になりました。 世間の情景を深い洞察力で読み解く雀さんのコメント、いつも脱帽です。 相当赦しを実践されているように見受けられます。 奇跡体験もいくつもされているのでしょう。 >赦しの一歩手前、とは何か >奇跡講座的に言うと: > 赦し=幻想だと完全に見抜く > その前段階=幻想に“乗らない” まだ観ていないので何とも言えないのですが、その前の前の段階=幻想に"気づく"も描かれていそうですね。 いつも貴重な意見ありがとうございます。
いわた (水曜日, 14 1月 2026 15:16)
度々投稿失礼します Kenさんの今日の教えを拝見しての感じたこと 【真理の考察:実在するのは平安のみである】 もしかしたら、こういうことでは?(とインスピレーション) 恐れや恐怖という感情の中に、人の意識は留まり続けることができない。 私たちは、平安の中でしか留まることができない。 苦しみや恐怖の中にずっと留まれないのと同様に、一方で「世俗的な快楽」や「楽しさ」、あるいは誰かに対する「優越感」といった感情もまた、そこに永続的に留まることはできない。 「ずっと留まれないもの」は、実在しない。 「本当に実在しているのは、平安だけである」と言えるのではないだろうか。 たとえ三次元の世界でどんなに辛い状況にあったとしても、自らの意識が永遠に留まれる平安であるならば、それこそが「実在」に繋がっている証拠?! 一過性の感情の波に一喜一憂するのではなく、ただ唯一、意識が永続して留まれる「平安」こそが真実。 ------------------- この投稿には承認欲求が入っています・笑
いわた (水曜日, 14 1月 2026 15:00)
今ほどKENさんの【今日の教え】を拝見してきました 冒頭から ------時間のことは、気にかけずにいなさい。------ を読んで笑ってしまった 先程の掲示板投稿で私はレッスンを読み解くのに時間かかりすぎた自己否定感があったので 爆笑しちゃいました
いわた (水曜日, 14 1月 2026 14:56)
今年初の掲示板投稿です 今年もどうぞよろしくお願いします 以下を私なりにAIと読み解いてみました レッスン253は長くない文章ですが読み解きにかなりの時間がかかりました //------------------------------------------// レッスン253 私の自己(純粋意識)は宇宙の支配者である ①私自身(純粋意識)から招かれずに 私(三次元人間世界)の元に来るものはない。 この世界においてさえ、私(三次元人間世界)の運命を支配するのは私(純粋意識)である。 私(三次元人間世界)の身に起こることは、私(純粋意識)が望んでいることである。 生じないものは、私(純粋意識)がそれが起こることを望まないものである。 そのことを私(三次元人間世界)は受け入れなければならない。 なぜならそうすることにより 私(三次元人間世界)はこの世界を超えて天国の中の私(純粋意識)の被造物 すなわち 私(純粋意識)の意志から生まれた子供達へと導かれるからである そこには私(純粋意識)の神聖なる自己が私が創造した彼らと私(純粋意識)を想像した神と共に住んでいる ②あなた(大いなる源.神)は大いなる自己(大いなる源.神+純粋意識)であり ご自身(大いなる源.神)のために子(純粋意識)を創造されました その子(純粋意識)はあなた(大いなる源.神)と同じように想像しあなた(大いなる源.神)と一つのもの宇宙を支配する私(純粋意識)の自己は私自身(純粋意識)の意思と完璧に一致しているあなた(大いなる源.神)の意志に他なりません その 私(純粋意識)の意志はそれ(大いなる源.神)自体へと 延長されるようにとただあなた(大いなる源.神)の意志に喜んで 賛同するのみです //------------------------------------------// 自己解釈ですが ①は純粋意識の私が人間の私へ向けて ②は純粋意識の私が大いなる源神へ向けて と解釈しました //------------------------------------------// 罪:ここで言う罪とは現状に抗うこと受け入れれないこと 平安を求めるのであれば喜んで宇宙の支配者である愛ベースの自己を観ることなのでしょうね //------------------------------------------// 流れるように読みたいと思いました 引き続き深めていきたいと思います 上記について補足等あればご教授ねがいます
いわた (日曜日, 28 12月 2025 09:31)
ありがとうございます 引き続き深めていきます
KEN(管理人) (日曜日, 28 12月 2025 08:12)
>「私の、防御は一切発動しない 体験」 “それでいい、(そうであっても、そうでなくてもまた)それでいい” 外の世界はそのままで完璧。 場合によっては今回のように「罵声」であるかもしれない。 それでもまったく問題はない。自分の心の中が平和であるなら。 もし感情的になんらかの反応が自分の中に見つかるなら、赦しのテーマ。 おそらく今回は、感情的反応は皆無なので赦しは完了している。 相手の罵声に対して反応することなく、ただ受け止めることが相手に対してできる(というかごく自然に出て来る)愛の表現だったということ。 「彼らにはいくらでも好きなように、憎々しく狂暴にさせておきなさい。 これが自分の夢だということを、あなたが認識しそこなったのでない限り、彼らはあなたにどんな結果ももたらし得ない。」T-27.Ⅷ.10. そしてこれが「引き寄せの法則」で言うところの『許容し可能にする術』である。
いわた (金曜日, 26 12月 2025 16:15)
〜追記を読んで〜 (ありがとうございます) 攻撃はせず、愛する 赦しとは訂正することであり裁くことでは無い。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 先日 身内から罵声罵倒の言葉を浴びせられた。 あなたなんて 大っ嫌い! ムカつく! 全部あなたのせいだ! と、言われました� 私は愛を求めている叫びだと察知しました。そこには怒りも裁きもありません。愛を求めていんんだな、(罵声として であっても)よく言葉にしてくれたね。苦しい沈黙を、破壊してよく連絡してくれたね【⠀おかえり 】と 思う気持ちになりました。 相手の本当の声(言葉にはしてない)を、聴く時 攻撃は愛の叫びに聴こえ 私の、防御は一切発動しない 体験を、しました。 その後に 相手へ 【⠀もう、その役目(辛く苦しく不安で怯える)はやらなくていいんだよ 】と 心から祈りました。 お読みいただきありがとうございます
KEN(管理人) (月曜日, 22 12月 2025 09:25)
(追記) 「癒しのためにただ一つ要求されることは、恐れの不在である。 恐れている者たちは癒されてはいないし、癒すこともできない。 これは、癒すためには、あなたの心から葛藤が永遠に消え去っていなければならないという意味ではない。 もしそうであったなら、癒しの必要はなかっただろう。 しかしそれは、ほんの一瞬であれ、あなたが攻撃せずに愛するということを意味してはいる。」(T-27.Ⅴ.2.) 「慈愛は、今すぐに達成できるという限られた意味において、正しい心の状態にとって必要不可欠なものである。」(T-2.Ⅴ.9.) 「奇跡志向の赦しとは、訂正に他ならない。 それには裁きの要素はまったくない。」(T-2.Ⅴ.A.16.)
KEN(管理人) (土曜日, 20 12月 2025 10:13)
メールで頂いていたものをこちらに転載していただきました。いわたさん、いつも素晴らしい報告ありがとうございます。 ________________________________ セッションで、奇跡講座(コース)を理解すると神との対話(神対)は実はすごい内容なんですよという話をしました。 両教えをシンクロさせて理解されているのが、内容からうかがえます。 併読することで難解な教えがより確実な理解に昇華されている印象を受けます。 バッチリです。 内省と気づきの部分も、すばらしく驚きを覚えます。 エゴの言い分を否定せずよく聞いてあげる必要があります。 エゴを否定したままだと耳を傾けられません。 否定せず素朴に(ニュートラルに)接することがカギ。 エゴも自分の心(心に抱く信念)の一部。 否定せず心を開いて接することでエゴも真実を語り始めます。 ご自身でちゃんと気づかれている、感動しました。 セッションで伝えていたことが、正確に伝わっています。 ご自身の中で照らし合わせて一つひとつ理解の歩みを進めているのがよく分かるシェア内容、ありがとうございます。 また進展がありましたらシェアお待ちしています。
いわた (金曜日, 19 12月 2025 21:30)
自分にとって 大きな気付きがありました。 234 父よ、今日再び、私はあなたの子です (レッスン234ですが神対の影響受けているので少しズレています) 愛の対局は恐れです。愛を知るために恐れがある。 つまり、愛を知るための道具として恐れがあるのであれば、恐れそのものは幻想でしかありません。 恐れは愛を知るためだけにあるのだから、ただそれを見ればいい。 恐れやエゴを否定しなくてもいいし、追いやらなくてもいい。 源は愛であり、私たちは自由な人間としての表現者です。魂が軽やかに喜ぶことをすればいい。 恐れを見る際、無理に喜ぶ必要も、積極的に迎え入れる必要もなく、ただ見ればいい。 私は常に恐れを抱いていました。不安、心配、自己否定、他者否定。 つまり、これら「反対側」を体験することで、真実を認知したいという自分がいるのでしょう。 もう、恐れは見ました。今日もまた見るでしょう。 ただ見なさい、眺めなさい。恐れを恐れて正当化したり、隠したりしないように。 時間は、本来の自分ではないものを経験し、それを認識することで「本来の自分」を知るためのツールです。愛を思い出すために、この時間が与えられているのだと感じています。 二元性を受け入れます。それは愛(自分自身)を知るための贈り物でしょう。 はじめから恐れは幻想でした。恐れの反対側(真実)にあることに気がつくこと。 厳密に言えば、反対側へ行くのではなく、恐れと愛の二極性を同時に知り、エゴの機能を理解した上で、愛(軽やかな自分)に戻ることなのだと認識しました。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ (ここからは、内省と気づき) 私、勘違いしていました。 エゴは悪いものだと思って、エゴが出てきたらすぐさま蓋をしていた。 エゴを見ることをせず、懺悔もしなかった。 聖霊に差し出さず、解体もできていなかった。 私の「黒いエゴ」だと思っていた部分は、麻痺していました。 実際は黒くもなんともなく、ただのエゴです。 純粋だと思っていた私が、エゴを踏みつけて蹴飛ばし、いなかったことにして「自分は純粋だ」と言い聞かせていた。 本当に(エゴに対して)ごめんなさい。 ※この「ごめんね」は、重苦しい罪悪感ではなく、慈悲深い温かな気持ちです。 エゴは私を導くために存在していた、とも捉えることができます。 エゴを閉じ込めてごめんね。これからはエゴも見るよ。 エゴの中に、私の本心も一緒に隠してしまったような気がしています。 お読み頂きありがとうございます 引き続き学習していきます
いわた (金曜日, 12 12月 2025 09:35)
理解し難いと感じていた内容が、今は潤滑油を垂らしたかのように不思議と読めるようになってます。 【自我と同一化している今の自分】と言い換えると自我を赦し俯瞰して見れるように感じました。 ありがとうございました (感謝) 引き続き深めていきます。
KEN(管理人) (木曜日, 11 12月 2025 12:37)
L226 1. 「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。 これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。 もし私が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私にとって価値あるものであり続ける。 しかし、もし世界を見ながら、その中に価値を見ず、自分のものとしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去ってゆく。 それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。」 一部、私【自我の私】(自我と同一化している今の私)と読み替えてみてください。 ↓ 「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。 これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。 もし私【自我の私】が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私【自我の私】にとって価値あるものであり続ける。 しかし、もし世界を見ながら、その中に【自我の私が価値ありと見なしていたものの中に、つまり偶像に】価値を見ず、自分のものとしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去ってゆく。 それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。」 要約)自我として今まで通り世界を見るなら、自我にとって価値のある世界を見る(引き続き今と同じ争いの世界を見る)。 だが、自我を超えて見るのであれば(偶像や魔術からの誘惑を一切拒絶するなら/キリストの心眼で見るなら)、自我の眼(奇跡講座ではこれを「肉体の眼」と呼ぶ)で見ていた世界は私から消え去る。
いわた (木曜日, 11 12月 2025 09:17)
返答ありがとうございます *KENさんの要約参考になりました 私が腑に落ちなかった点(本から抜粋)は以下です ⇨......................その中に価値を見ず 自分のものとしておきたいものや ゴール として追求したいものを何一つ 見なければ 世界が私から去ってゆく それは私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。 ↑ この部分何度読んでも 何を指しているのか理解しかねます
KEN(管理人) (水曜日, 10 12月 2025 18:54)
いわたさんへ セッションの感想、そしてセッション後の気づきのシェアありがとうございます。 さてワークブック226についてです。 適切に理解されているように見て取れます。 世界の展開はそのままある。 自分の中のエゴの視点を通して世界を見るため、同じ世界を見てもエゴの視点を通した印象を受け取る。 自分の中のエゴが解消されていれば、エゴの視点のない価値観を通して世界を見るため、同じ世界を見ているにもかかわらずエゴの視点のない価値観を通した印象を世界から受け取る。 見ている世界は同じものでありなんら違いはない。(もちろん聖霊による最適なレッスンの提供上、変化し違う世界が展開する場合もある。ex.病気が治る、など) 自分の中のエゴが完全に解消されてしまえば、そもそも目に映る世界自体が消滅する(らしい) どのあたりに腑に落ちなかったのか教えてください。
いわた (水曜日, 10 12月 2025 15:13)
お世話になります 質問です ワークブック/レッスン226の理解が解りかねます ()書きの部分は私の解釈です レッスン226 「私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。」 ---------- もし私がそう選ぶならこの世界を 完全に立ち去ることができる これを可能にするのは死ではなく 世界の目的について心を(分離のエゴ視点から分離していないキリスト視点に)変えることである もし私が今見ている通りに世界を価値あるものと信じるなら世界は私にとって価値あるもの(エゴにとって価値がある世界観)であり続ける。しかし もし 世界(エゴの世界観)を見ながら その中に価値を見ず 自分のものとしておきたいものや ゴール として追求したいものを何一つ 見なければ 世界(エゴの世界観)が私から去ってゆく それは私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったから(赦しの視点でいた)である。 -------------- -------------- 自分なりにですが、 ・端的に解釈すると、エゴの視点でこの世界を見ているとエゴの偽りの幸せの価値観で世界は在り続ける。 がしかし、エゴの偽りの幸せの価値観で世界を見なければ、または世界にエゴの偽りの幸せの価値観を要求しなければその世界観は私の前には現れない と解釈をしましたが、イマイチ腑に落ちませんでした。
いわた (水曜日, 10 12月 2025 13:18)
☆ セッション後の内省☆ セッション後、以下の重要な気づきがありました。 長年、「世界から存在否定されている」という根本的な誤解をベースに生きてきました。 *これは自分にとって根本的大きなモノ(エゴ)だったと認識しています その誤解ゆえに、人にやさしくする 相手を優先するなど、あらゆる努力を…「世界に受け入れられるための証明作業」にしていたのでしょうね。 実は幼少期家庭に居場所が無いと感じていて「存在否定さている!」という誤った解釈が背景にあり、私はこの「存在否定されている」というトラウマを生きる活力(エゴからのエンジン)として利用していたと気づきました。 • 投影の撤回: 虐待やネグレクトは、ただ起きただけであり、それに意味(加害者/被害者)をつけたのは、私自身の勝手な解釈と投影でした。 • 私は肉体ではない。私を傷つけられるものはなく、この傷は私が私につけたものです。加害者だと決めつけていた親や家族も、加害者ではありません。意味はないのだから。 私はこの自己否定のゲームと、意味づけの誤りを認めます。 堂々と親と家族を赦し(投影を撤回し)ます。 ☆聖霊の視点を選択します。濁りがない愛の視点から見る☆ • 私は世界に対して何も証明する必要はありません。 世界に愛を働きかける義務もない。 • 「世界が私を拒絶している」という思い込みは、誤りだったと認めます。 • 純粋な愛は常に注がれている。私は、ただその純粋さを受け取って良い。 安心して良いのですね。私がエゴの働きかけをやめたところから、愛の延長は自然に始まります。 Sessionありがとうございました 引き続きコースを学習していきます
いわた (金曜日, 05 12月 2025 18:20)
お世話になっております 昨日はsessionありがとうごさいました。 奇跡講座について分かり易く丁寧に教えて頂き本当にありがたい! これからも、引き続き学んでいきます。 YouTubeも拝見しました。 分かっているつもりでも Kenさんからの学びは大変身に染みます。
いわた (木曜日, 04 12月 2025 02:56)
sessionありがとうございました。session後から(いい意味で)何悩んでいたか思い出せなかったです 。 ゆっくりではありますが 日々コースを学習しております。 そしてゲーリーさんの本を取り寄せ中です。 ご縁ありましたら 年内にお話できたらいいなあと 思っております。
いわた (金曜日, 31 10月 2025 16:04)
感謝です。 丁寧に 一緒に私の内側にも 外側にも向き合って頂けました。 セッション依頼経緯は、私の頭の中が悩みで膨らんでいて思考が堂々巡りし、呼吸も浅くなっていたのでセッション依頼しました。 セッション後は 【イマココ】に居ることに気が付きました。 何に?悩んで居なのだろう…��と今は思います。 感謝しかないです そして奇跡講座の事についても会話することができる希少な会話でしたし、奇跡講座にまつわる本質な所も学びになりました。 ありがとうございます。
ひろ (木曜日, 12 6月 2025 19:39)
KENさんの無料セッション 今回はセッションを無料で提供していただきありがとうございました。 コースよりたいせつなこと こう書いてしまうと誤解をされてしまうかもしれません。 しかし今回セッションをしていただく中で何回も 「コースを始める前にしておかなければならないことがどれほどたいせつなことか、それを理解してほしい」 と言われました。 本当の自分を知る。そして繋がる。 KENさんのブログを拝見していても、言葉を変え、表現を変え何度も私に訴えかけてかけてきているように思っていました。 何度読み返したことでしょうか。 KENさんとのセッションを通して、今回ようやく私にも理解する兆しが見えてきたように思っています。 それは思いのほかシンプルで、なにひとつ無理なこともなく、あまりに自然なことでした。 この無料セッションの期間の間にまたお願いしたいと思っています。 よろしくお願いしたします。
高橋 (土曜日, 22 3月 2025 10:40)
やります。 ありがとうございました。
KEN(管理人) (土曜日, 22 3月 2025 09:48)
先にメールで頂いたスレッド>>231になります。
高橋 (土曜日, 22 3月 2025 06:03)
この「消したい、悟りたい、手放したいという欲」がどこから来ているのかをよく見る観察する観照する直視するといいですよと言いたいところですが、これもおそらく今はまだ取り組めないと思います。(他ではこれ以外を観察せよと言っている方もいるようですが、私はこれこそ直視するべきところだと提示します。) もし取り組めるようであればぜひ取り組んでみてください。 この 「これ以外を観察せよ」ってどの部分指してますか?
KEN(管理人) (土曜日, 22 3月 2025 01:09)
高橋さん 遅くなりました。 何か助言をと言うことでしたので、回答します。 「助言はありません。」 終了。 ―――― とはいえこれでは納得してもらえないと思うのでもう少し書きますね。 ご自身の最後の文「と言ってる時点で動き回ってますね。」 その通りです。 正しく認識されています。 この「動き回ること」が止んだとき答えが見つかります。 この動き回ることは自力で止めることはできません。 何をやろうと何をやめようと止まりません。 「止んだとき」というのは本当の意味で止まったときです。もはや動き回れなくなったときです。 動き回らなくなったときです。 動き回るエネルギーが枯渇して完全に停止したときです。 どう動き回ったとしても動き回らなかったとしても同じで、もはやどうしようもないと完全に悟ったときです。 一般的にはこの動き回ることを散々やって気が済んだときになります。 だからそのままでいいんです。 この今の高橋くんにとって必要な何かが言える人はもはやいません、誰も。 (もちろんアドバイスをくれる人はいますが、今の高橋さんに真に必要なことは誰も何も言えないということです。) どんな人が現れて何を言ったって動き回ることは絶対に止まないはずです。 それでいいんです。 動き回っていいんです。 もちろん動き回るのを止めようとしたっていいんです。 何をやってもいいんです。 自分がこれと思うものがあれば何だっていいので実践してやってください。 気が済むまでやりましょう。 ラマナ・マハルシが言うように、「すでにトラの口の中にいます。」 これは、恩寵です。 つまりあとはトラの口が閉じるだけです。 時間の問題です。 俗に言う「暗夜」です。 夜明けの直前が一番暗い、ということです。 ――――余談―――― 本当のところはこれまでも散々伝えてきているように、 この「消したい、悟りたい、手放したいという欲」がどこから来ているのかをよく見る観察する観照する直視するといいですよと言いたいところですが、これもおそらく今はまだ取り組めないと思います。(他ではこれ以外を観察せよと言っている方もいるようですが、私はこれこそ直視するべきところだと提示します。) もし取り組めるようであればぜひ取り組んでみてください。
高橋 (金曜日, 21 3月 2025 09:59)
自我が消える恐れで心臓痛や動悸など全身症状が出ています。最近どんどん強まりそれが止まることもありません。 昔ワークブックを途中でやめ、心の訓練を全くやってこなかったので自我の死に向き合うには段階的に早かったように思います。 自我を明け渡す方向じゃなく、自分勝手に思い込みの手放しとか言って好き勝手やってた結果だと受け入れてます。 私は精神安定剤を15才の頃から服用してて10代の頃毎日20錠くらい飲んでたのが減薬により今は1日一錠で過ごしてるんですが、頓服として多めに飲んでも心臓の動悸と痛み、全身の症状が収まることはありませんでした。 自我を明け渡す以外に道はないと感じどうしても心の動きが止まず、自我が執着しているものを手放そうという心の動きも止められず、残ったのは途方もない恐れとそこから腹痛と心臓痛と全身の強張りでした。 自分の生い立ちは側から見ても悲惨で常に恐れと悲しみを感じながら生きてきました。 段階すっ飛ばしていきなり自我が消える恐れに向き合うと精神的外傷を負うだけと書いてありました、とは言っても試しに逃れようとしても激しい身体症状はついて回るので逃れることもできず、このままだと体が持たずに死ぬだろうと感じています。 このような緊急的状況でもはやどうすればいいのか、頭が真っ白になりました。 何か助言があればいただきたいです。 と言ってる時点で動き回ってますね。
HIROKO (日曜日, 23 2月 2025 12:02)
KEN様 先日は素晴らしいセッションありがとうございました。 自分の捉え方、自分を認め理解していくことなど、コースを学んで行く上で認識できていなかったことが明らかになりました。 セッションの後、自分に対する慈愛の気持ちが溢れ、 この想いこそが内側の自然なものだと感じました。 また、セッションでもお話しました「自分が誰なのか分かりたい」 この長年の想いの答えが、昨日、突然分かった気がしました。 「実在するものは脅かされない」 わたしは実在するもの。 わたしは脅かされないもの。 そして、わたしはわたしでした。 本当にありがとうございました。
高橋 (土曜日, 22 2月 2025 11:06)
直接の関連性はないんですね、ありがとうございました。
KEN(管理人) (金曜日, 21 2月 2025 20:27)
みなさまこんばんは。 今回の質問は、「一瞥体験」と「探求者のいない探求」と「自分とつながる」はどう関係しているのかという話だと思います。 以下、回答です。 それぞれは独立で、関係はありません。 ですので、「一瞥体験」と「自分とつながる」ことは直接の関係はありません。 (「自我的エネルギーが尽きる」と「自分とつながる」は関係しています。) 「自分とつながる」とは、ただ条件なく自分自身を受け入れたい、もう咎めることはしたくないと真に思ったときに起こることです。 頑張ったり意志の力ではやれません。 これは「感謝」や「愛する」こと、「眠くなること」と同じで、そうなるときにそうなるだけであって、意志の力で感謝したり愛したり眠くなろうとすることはできない、ということです。 そういう思いが起こって来る、湧いてくる必要があります。
高橋 (金曜日, 21 2月 2025 18:42)
「赦しが機能しない」ことに関連する話なんですが、 たまに耳にするお話で、 何の前触れもなく突然一瞥体験がやってきて「自分というものはいない」、という経験をするも、「私」という感覚が戻って来てそこから「悟りたい」という動機で悟りを得たいと探究者として色々やった挙げ句最終的に自我的探求エネルギーが尽きるという方々のお話を聞きます。 最初に「一瞥体験(解釈は様々だと思います)」があり、そこからスタートしたからと言って、「悟りたい」という自我的動機により推進するということは「一瞥体験」というのは「自分とつながる」ことと必ずしもイコールではないと思っていいですか?
高橋 (火曜日, 18 2月 2025 12:23)
セッションありがとうございました。 自分に聞く(それが自我であっても)、ボロボロの自分を認めて受け入れる 心に響く内容でした。 感謝しかないです。
aki (月曜日, 10 2月 2025 13:59)
セッションを受けて、 恐怖心が強く家族への心配がセッションを受けて落ち着きました。改めてきき返すと今も私に必要な内容ばかりです。 本当に感謝でいっぱいです。
KEN(管理人) (金曜日, 17 1月 2025 19:45)
高橋さんへ 前進したというのであれば、よかったです。 私も自分が意識であるなんて悟ったことはないです。 自分を見つけただけですよ。
高橋 (金曜日, 17 1月 2025 11:36)
諦めの瞬間が来て、しがみつきの感覚がすっと無くなり温かい感情がそこから溢れてきたかと思うとまたしがみつきが起きました。 別に目覚めの体験が起きて自分が意識であることを悟ったなんてことはなかったので本当の腹のしがみつきはまだ残っていて、単に強すぎた握りしめが大分軽減された。 それだけのことだったようです。 この件に関して色々指導して下さりありがとうございました。
高橋 (木曜日, 16 1月 2025 16:42)
ありがとうございました。
KEN(管理人) (木曜日, 16 1月 2025 16:12)
>「アジャシャンティ氏も再一体化は起こると言ってました。Kenさんもきっとそうなんでしょう?」 再一体化は起きますね。起きるのがおそらく普通です。 一体化の強度はまちまちです。 アジャシャンティ氏は自伝を見る限り、ある程度どっぷり浸かって病気になってそれで気づく、これを二度繰り返して克服した感じですね。 私の場合は病気になることまではなく、わりと早めに一体化していることに気づけたほうですが、それでも何度も再一体化(あるいは再一体化したがる自分)はやってきます。 縮小してきてはいますが今でもそれは起こることがあります。 再一体化の完全克服には至っていません。 再一体化したらその都度気づき次第、一体化をやめます。
高橋 (木曜日, 16 1月 2025 13:22)
大きな原因の一つがはっきりしました。 自我の想念や過去の執着など赦される課題がまだまだ残っており、適当に過ごした時期があり、その時に生え直してしまった自己否定の観念も中途半端なまま。 そんな状態で明け渡しが起こってしまったら自らのまだ赦せていない罪悪感の多さや、再び自我の想念が浮上してきたり、 それと一体化したならあの殺される恐怖がやってきた時にまだ残っている自我の想念を自覚した時に発狂するほどの恐怖で身動きが取れなくなるかもしれないという強固な恐れがありました。 ただ、もう限界でしがみついてる抵抗の原因を色々見ましたが握りしめの恐れが強すぎてもう動けないので覚悟はしました。 アジャシャンティ氏も再一体化は起こると言ってました。Kenさんもきっとそうなんでしょう?
KEN(管理人) (土曜日, 04 1月 2025 18:22)
追記) 25歳のときにその大部分は吹き飛んだと思います。 克服は記したとおり大病後と考えます。
高橋 (土曜日, 04 1月 2025 01:39)
わかりました、回答ありがとうございました。
KEN(管理人) (土曜日, 04 1月 2025 00:52)
アジャシャンティ自伝を久しぶりに見てきました。 25歳のときは、自分とつながった瞬間だと思います。 ようやく悟りの入り口に立った(赦しの取り組みが出来る準備ができた)、それだけです。 それまでは自我が駆動エンジンでした。 彼の言葉で「探求が終わった」ということです。 「探究への衝動が消えた」ということです。 自我が必要だと求めていた探求が終わったということです。 動画の中でもエゴではない自分が分かったとありますね。(これは、エゴの自分とエゴでない自分の区別がつくようになった、ということだと思います。) 探求は終わりましたが、それからは自分とつながったので指針を受け取り、彼の場合は続けて悟りへの道に入っていきましたね。(人によっては赦しや悟り以外に取り組み始めることがあります。私の経験値ですが、むしろそちらの人の方が多いです) アジャシャンティ氏が腹の握り締めを克服したのは2度の大病の後だと思います。
高橋 (金曜日, 03 1月 2025 21:23)
アジャシャンティ氏が腹の握り締めを克服したのは25歳の最初の目覚めの直前の座禅中に「これ以上は無理だ、悟りなど永遠の夢だったんだ」と気付いた時だと思いますか?
高橋 (金曜日, 03 1月 2025 18:49)
わかりました、ありがとうございました。
KEN(管理人) (金曜日, 03 1月 2025 17:37)
>執着心を直視し、想念がすっからかんに解放されてもなおその上の層に「頭が悪いのは悪い」という刷り込み、「それは悪いとされていることなんだ」という単純な思い込みが残ります。 想念がすっからかんに解放されているのであれば、単純な思い込みが残るというのは矛盾しているような気がします。 「想念がすっからかんに解放される」というのが何を指しているのかが不明なのでなんとも言えないのですが。 「単純な思い込みが残る」思い込みが残っても高橋さん自身、問題ないなら問題ないと思います。 「思い込みが残る」ことの何が問題なのでしょうか? 「思い込みが残るのはよくない」のなら、なぜよくないのでしょうか? 「そう言われているから」つまり「刷り込み」であるなら、ご自身との通信ができていない可能性があります。 ご自身を最優先する覚悟が決まっていない可能性があります。 まだ自分自身を信頼するのが怖い、つまり恐れです。 また同じ話しに戻ってきますね。 前回の続きですが、アジャシャンティ氏の著書『あなたの世界の終わり』の9章に「腹レベルでの目覚め」について書かれてあります。 おそらく何度も読まれていると思います。 (以下、引用 P.175~178 ) 目覚めとは、腹レベルでのこの握りしめからの突然の解放のこと この地点で、よくある質問は「どうやってそれを取り除くことができるか」というもの この質問はエゴ的意識の視点から来ている あらゆるテクニックが消滅する地点、どのように意識をより明晰な状態に再調整するかについて、私たちが今まで学んだどんなことも挫折する地点がやって来る 私たちのテクニックは役に立たなくなる 実存レベルで手放すために、「私」ができることは何もない 手放すために「私」ができることは何もない このことを理解しなければならない それにもかかわらず、明け渡しと手放しは、絶対的に要求されること それが起こるためには、あなたがそれをするどんな方法もないことが、理解されなければならない あなたは自分のどん詰まりまで来なければならない あなたは自分のロープの終わりに来なければならない そのとき初めて、自然な明け渡しが起こる 人間としてあなたにできる唯一のことは、すべてのしがみつきが空しいことを見る(悟る)こと あなたが腹レベルでのしがみつきを明け渡すとき、自分がこれから死ぬように感じられるかもしれない あなたが真実のためにすすんで死ぬときのみ、そのしがみつきが本当に真に解放されることになる (引用、ここまで) また、P.187にある「これに関してこれ以上進む前に・・」以下を読まれることをおすすめします。 前回も書きましたが、これが私KENに起こったことです。 克明に記述されているこれらの文を見れば、アジャシャンティ氏も同じ道を辿ったのは一目瞭然です。 私にはとても書けません。 でもよく分かります。 美しい文章です。
高橋 (金曜日, 03 1月 2025 15:35)
返信ありがとうございます。 私の場合、ほとんどの思い込みに当てはまるんですが、 例として「頭が悪いのは悪い」という想いがあるとして、「頭が悪いのは嫌だ、悪い」という執着心を直視し、想念がすっからかんに解放されてもなおその上の層に「頭が悪いのは悪い」という刷り込み、「それは悪いとされていることなんだ」という単純な思い込みが残ります。 なので「嫌だ、悪い」という執着心の想念を手放しただけでは、その上の層の「頭が悪い。それは悪いとされていることである」という刷り込みは解除されません。 欲求(執着心)と思考の刷り込みの二つの層を一つの思い込みごとに毎回観ていて、どちらも気づきにより手放せると何も感じなくなります。 kenさんは「悪い」という想いを一つ観れば良いとおっしゃいますが、上記の私のやり方はそれとずれています。上記のやり方はこれはこれで構わないのでしょうか? 改善点あればご教授いただけると幸いです。
KEN(管理人) (金曜日, 03 1月 2025 00:42)
明けましてお芽出とう御座います。 三ヶ日皆様いかがお過ごしでしょうか。 さてご質問の件です。 「嫌だ」というのも、「悪いことだ」というのも、現状のままでは「よくない」つまり「変えたい」という欲求が存在します。 簡単に言えば、今見ているそれを「それでいい」とは思えていない状態。 仏教で言うところの「執着」です。 ですので「嫌だ」も「悪いことだ」も同じことで、ありのままに抵抗している状態です。 この抵抗をよく見ましょうということです。 ここには勘違い、錯覚、幻想が内在しています。 それに気づけば解放が起こります。 これが赦し、つまり奇跡であり知覚の訂正であり贖罪ということになります。 抵抗の見方は人それぞれですね。 私は私が提供しているやり方で行っています。 どんなやり方であれ解放が起こればそれが赦しであり終わりです。
高橋 (木曜日, 02 1月 2025 19:57)
kenさんのおっしゃる「嫌だ」という気持ちを観る。というのは抵抗の感情を解放するという意味と捉えているんですが、それは「悪いことだ」というジャッジとは別ですか? 言い換えると、例えば 「勉強ができないのは悪い①」←なぜ?「頭が悪いのは悪い②」から←なぜ?「劣っているのは悪い③」から←なぜ?「批判されるのは悪い④」から。 等と内観していった場合、①、②、③、④について「それが悪いことだ」というジャッジだけでなく「嫌だ」という抵抗の感情も①②③④一つ一つについて解放していく。ということでしょうか? 「悪い」という判断と「嫌だ」という抵抗心の両側面から観ていく感じかなと感じたんですがkenさんはどう進めていました?
高橋 (水曜日, 18 12月 2024 12:22)
kenさん、返信ありがとうございます。 そうだったんですね、分かりました。 回答ありがとうございました。
KEN(管理人) (火曜日, 17 12月 2024 19:57)
メールによる質問でしたので、回答にあたり掲示板への投稿をお願いしました。 まずみなさんにも申し上げることとして、赦しは恐れを消したりそれから脱したりするためにするものではない、ということです。 それでも人は嫌な気もちを消そうとしたりそれを何とかしたくて取り組んでしまうものです。 それは仕方がないし、まあそんなものです。 高橋さんがそうだと言っているわけではありません。 それはご本人の知るところです。 さて、ご質問ですが、自分が消える恐怖に関してです。 「ケンさんは自我が消える腹の握り締めの恐れは道の最初の方で手放せたんですか?」 道の最初の方ではありません。 道すらまだ辿っていないもっと手前です。 道(おそらく赦しのことでしょう)はもっとずっと後です。 これはエック・ハルトトール氏やセドナメソッドのヘイル・ドウォスキン氏、アジャシャンティ氏など彼らの書籍から、彼らもまた同じ道を辿っているようです。 おそらくはお釈迦様も同様でしょう。 私に起こったことも、彼らと同じことだと思います。 アジャシャンティ氏の著書『あなたの世界の終わり』にその部分と符合する内容の記述がありますので、少し引用して私の話をしたいと思います。 第7章の部分ほぼまるごとですが、特にその中の一部にこうあります。 「その地点で最終的にエゴ的自己感覚が解消し、崩壊したと報告できれば、私もそうしたいところですが、・・・」(P.122) 「私は自分自身の再構築をあきらめる準備が、まだできていなかったのです。」(P.123) 「一年後、私は再び具合が悪くなり、また別の決定的病気でさらに半年間寝込んだのです。」(同) 「私がこれをスピリチュアルな修行や問いかけ、瞑想を通じて達成することができたと言えばすばらしいことなんでしょうけど、しかし・・・」(P.124) 「人生それ自体がしばしば私たちの最大の教師であると知る・・・ときにはそれは、・・・荒々しい恩寵です。」(同) 結局、アジャシャンティ氏にしても、どうすることもできなかった、ということです。 生き切るしかない、ということです。 さて私の話をします。 私の場合アジャシャンティ氏のような自転車競技ではなかったですが、ビジネス界で頂点を目指すような世界に身を置いていました。 今や誰もが知る有名な企業にいました。 そこでそれなりにエリートとして頑張ってきました。 だがしかし、限界が来ました。 一歩も歩けなくなったのです。 休むことは死を意味します。 まるでマラソン競技にでも参加しているかのようでした。 全走者が一斉にゴールを目指しひたすら走り回る中、少しでも足を緩めると置いて行かれる。 ましてや歩くどころか止まるなんて。 私にはそれができずひたすら足を引きずってでもついていきました。 だがもう一歩も足が進まず、ついにそのレースから降りたのです。 いや、降ろされたと言ったほうが近いでしょう。 私にはまだ知らないことがある、彼らはそれを知っている。 だからもう一度リセットして学びなおそう。 会社を辞めました。 とはいえレースから縁を切ったわけではなく、気持ちのうえではレース上にまだ身を置いて復帰を画策しているのでした。 そうこうしているうちに、父が他界し、自身の結婚生活も破綻します。 友人も離れ、孤独が一気に押し寄せることになります。 私自身、もうどうすることもできなくなったとき、死を覚悟する瞬間が訪れます。 そう、本気で「死を覚悟」したんです。 限界でした。 そしてその瞬間、自己への問いかけが起こったのです。 これが結果乗り越えた瞬間です。 ありがとうございました。
高橋 (火曜日, 17 12月 2024)
セッションの後自己否定リストへの執着の関連を見て手放しました。 そして自分が消える恐れがダイレクトにやってきて、それに向き合い、それでも恐怖が消えることはありませんでした。 まだ掴んでいる感覚があり、何だろうと探ってみると胸のあたりに未練の想いがありました。どうしてもある程度思い込みを手放してからじゃないと探求を諦められない。 という想いが何をしても取れませんでした。表面的に手放せたつもりになっていただけであって根こそぎには手放せなかったんです。 試しに自己否定リストをもう一度やってみるとやってる間は楽で恐れもないんですが、その作業から少しでも離れると自分が消える恐怖がどっとやってきます。 今精神安定剤の減薬の離脱症状の最中なのでそれで通常人が感じるレベルじゃない量の恐れを感じてるだけかもしれませんが。 本来セッションでお聞きするべきですが、お金がないので一つだけメールでお聞かせ下さい。 ケンさんは自我が消える腹の握り締めの恐れは道の最初の方で手放せたんですか? もしそうでないなら、ずっと耐え難い恐れを感じながらある程度のところまで進んで初めて握り締めが解放されたんですか?(自分は初めの数年間は精神薬を飲んでいたのでここまでの恐れを感じることなく思い込みの手放しを進めていました。) 自己否定リストどころじゃない、まずはこれへの執着とそこからくる恐れを見ないとと感じずっとやってるんですが、何しても取れなくて、ケンさんはどう乗り越えたんだろうと参考にさせていただきたくメールしました。
高橋 (月曜日, 02 12月 2024 22:17)
今日はありがとうございました。セッション後すぐ寝て今起きたとこです。今から恐れに向き合います。 セッションで指摘していただけなかったらずっと自己流でやっていたと思います。そうじゃなくてもっと大事なところにまさに今、向き合う必要があるということに気づかせていただきました。本当にありがとうございました。
エム (金曜日, 25 10月 2024 06:42)
付箋シェア会参加させていただきました。 KENさんの赦しに対する深い理解をシェアしていただきありがとうございます。 今回は自分の内側がとても静かで納得感を持って聞いていました。 イエスが伝えたいことを一言一句素直に受け入れたい自分を感じました。 本来の自分とのズレはもちろんまだまだあり先は見えていませんが 笑 見たい世界は決まっています。 KENさんの言葉はいつも何かを気づく為のきっかけのように作用しています。 学習会を開催してくださることに感謝です。
ゆうすけ (金曜日, 25 10月 2024 00:50)
KENさん 第2回付箋シェア会ありがとうございました! 獲得思考が少し剥がれてきてるかと感じてます。そしてこれまで自動的に外側からの影響を受けっぱなしだと感じてましたが、自分で選びとっていただけだなと納得しております。 ここ最近は全てそれでよしとする生き方とはどんな在り方か自身の生活で特に意識して過ごしています。 まだまだ勘違いだらけですが、このような貴重な機会を与えていただきありがとうございます。
エム (月曜日, 21 10月 2024 08:09)
KENさんありがとうございます。 源が何処からかなのかが大切で厳密な区別をする必要はないですね。 深読みしたい私がいました 笑
KEN(管理人) (日曜日, 20 10月 2024 21:32)
エムさんこんばんは ここでの「私たち」は、キリストをはじめとする「神のグループに属する存在たち」という理解です。 聖霊も同じグループですが、聖霊の場合はその中でも特別な役割があるので、「聖霊」と表記している、と理解しています。
エム (日曜日, 20 10月 2024 14:42)
KENさんこんにちは ワークブックレッスンから質問です レッスン169を読んでいて「?」と思ったのですが、4段落から書いてある「私たち」とはなにを指しているのでしょう? これまでのレッスンに出てくる「私たち」は「分離を信じている神の子の心」と置き換えて読めましたが、レッスン169に出てくる「私たち」には当てはまりません 太字ではないので真理側ではなく夢の中のそんざいですね ということは、真理を知っている正しい心側の私たちが語っているということになるのでしょうか? であるなら聖霊と区別してわざわざ「私たち」としている意図があるのでしょうか?
ゆうす (木曜日, 03 10月 2024 03:55)
KENさん 先日は長時間にわたりフォローセッションありがとうございます。 やりたいことを聞かれ、何も答えることができず、、そのことについてひとり向き合ってみたら、やりたいことはでてきましたが、こんな本音をKENさんに言うのが恥ずかしいという思いが伝えることを防御していました。 自己責任にすら至っていないのか、、、 やはりとことん恐れがありますね。 奇跡講座に取り組むまでの足元すらまだ見えてないというのが、今の現状かと認識できました。 しかし、奇跡講座等、気になる読書を通して語られていることに純粋に強い関心があり、趣味としてその教えにに何かを期待することなく継続していき、自我の戦略なのかどうかはまだ慎重に見極めていき、実践としては、背伸びせず、自分を大切に、接待主として扱いどんな自分でも愛するということに向き合っているところです。 神の子であるならば、どんなことをしようが神の子であることに変わらない、あれこれ正解を探すような在り方が自分は神の子ではないと宣下してしまっているんだなと。 正直、嫌なことはよくなればそっちのほうがいいけどそうならなくても別に大丈夫、私自身の幸せとは関係ない。幻想は幻想だから。自分の本音を大切に自分を愛する。神を信頼する。というように感じてみたら、なんだか、暖かい気持ちと心強さを感じてます。 お話していただいて今の自分に求められてるのは、やりたいようにやってみる!につきるのかなと理解しました。 地獄をみるまでヘトヘトになるまでやりきるしかないということに関して、自分も背伸びはせずに向き合っていきます。 全く見当違いでしたら指摘していただけるとありがたいです。 今回も本当にありがとうございました! 最新のブログの更新もありがとうございます!自身にあてはめ振りかえっています。
崎枝 (火曜日, 01 10月 2024 09:26)
先日はセッションありがとうございました。 あれから「心」と「本心」に向き合いました。それで本当に今更ですが、人間って「自分の好きなことをやろう!」とかいうより「好きな事しかできない」んだなと実感しています 聖霊を選びたいのに自我を無意識に選んで反応してしまう。これの繰り返しでウンザリでした。 この「無意識」を「意識的」に最近過ごしていたんです。 無意識に自我を選んで裁きがちの私の自我に「意識的」に「これを本心の私はしたい。したい事をしている。」 と自我を選択した後で心の中で付け加える。 一つ心は「本音」ではないという記事がKENさんのブログにありましたが、 昨今の体験から一つ心というのは 正しいこころと間違ったこころの2つが見える地点で、実際に選ぶのは「本心」じゃないのかな?と思いました この本心は自我の外なので当然無意識。よって選びたいと自我が思っても選べるシロモノではないし実際多くの人がここでジレンマに苦しんでいる それを打開するために更なる探求をして迷宮入。 私はここに向き合っています 「無意識だからどうしようもない。 でもその選択は確実に本心が望んでいるらしい…」という事実 コース学習者誰もが知的以上の理解が難しいところだと思います。 自我は恐怖を感じたくないけど 本心は感じたい、体験したい。 この矛盾は知的に理解できても 実践で凄まじい抵抗に合う 「恐怖は避けたい」のであって「恐怖を体験したい」なんて意味わからない!と言ってるのは自我 当然現在自我と一緒になっているので葛藤する 意味わからなくても「これがやりたい事らしいし少なくとも本心とは繋がった」 感じはしています 「もうやりたくない!!!」って本心が思うまでダンジョン攻略を失敗し続けるハードモードを私の本心は望んでいるみたいです。 「もうムリ」とずっと思ってきましたが実は私の自我はまだ余力があるんだ!と自覚せざるをえない。 気が遠くなりますが、どうやらわたしは徹底的にウンザリするまで恐怖を感じないと本心は違う選択をしてくれないようだ… そういう心の最奥からの「諦め」が沸いた時、本心が選んで体験したい恐怖を「咎めず」に見れる様になったかもしれない。 本心と繋がりながら恐怖体験をしている感じです。 ブログの更新楽しみにしています! ありがとうございました。
ゆうすけ (木曜日, 26 9月 2024 19:25)
付箋シェア会の実施ありがとうございました! KENさんを通してワークブックのレッスンの文章を読むことで、今まで自分一人で読んでいて、大切に感じて響いてきた箇所でも、どのように重要なのか、より突っ込んだ角度からそれらの文章を捉え直すことができ、参加させていただきとてもよかったです。 自分一人で奇跡講座を読んでるいるとき、自我の世界の不毛さを徹底的に述べる文章を読んで、自らに光が差し込むような力が湧いてくるような感覚を抱いていてましたが、しかし普段日常の中で全くもって、自我の計画に固執している自分にも度々気づき、実践し真に理解することはなかなか難しいなとかんじてます。 そんな中、今日のシェア会を通してまたあらたに取り組む意欲の再確認ができました。レッスン41の爽快感、このことを、信頼して恐れを笑い飛ばしていきたいです。 今日の要点メモしてポケットにいれて常に持ち歩こうと思います! 【全てのことは最善。必ずいるべき時にいるべきところにいる! 全ては神聖。例外なく!!祝福されている。 (あなたは神が創造したままのあなたである。) 神の子とはあたたのこと。神の強さを信頼、自覚。 自我の救済計画を信じることは狂気 救済がわたしの唯一のはたらき。救済とは赦し。 神の意志が私に望むのは、完全な幸せである。】 シェア会の後、公園のベンチで奇跡講座を読んでいると、紙の上に鳩のフンが落ちてきました、また少し経つと鳩が数匹飛び立ち、白い羽根が1枚ひらひらとまた紙の上に落ちてきました。なんだか面白い1日となりました。 今日という日を、またまだまだ先があるから、まだまだ未熟だからとだらだらと救済を先延ばしにするために生きるのはもう、お終いにしたいです。 そして自身の、真の動機は、どこにあるのか、丁寧に自分自身の内側からの、声に耳を傾けていきたいです。 今日は貴重な機会をありがとうございます!
安田 (木曜日, 26 9月 2024 15:29)
今日はワークブックシェア会に参加させて頂きありがとうございました。KENさんが付箋を貼ったワークブックの文を読み上げるたび、私の中では苦笑いとイエスに対するツッコミが湧いてきました。レッスン94 「あなたは永遠に神の子である。」 というワードには特に…笑 「いや、できないよ!というか神の子と見たくね〜よ!」という自我の抵抗する声が…笑 「はいはい、見たくないのね~」 と、受け入れ笑うしかありません。 それでも今日読み上げた中で心に響いた文もたくさんあり、以前と違う捉え方をしている私もいるんだなと新たな気づきもありました。 まだ「赦し」に入るまではある意味時間がかかると思いますが、全て受け入れ学習を継続しようと思いました。 参加させて頂きありがとうございました。
エム (木曜日, 26 9月 2024 13:41)
付箋シェア会に参加させていただきありがとうございました KENさんの付箋を貼られた箇所はやはりとても重要で深く熟考する必要がある文言だなと思いました 赦しについて浅い理解を、深い理解へ導いてくれるように感じました 今を変えたい、何とかしたいのが自我の思いですが、赦しとは何かを理解せず とりあえずコースを学べば幸せになれると思ってワークブックに取り組んでも、何をレッスンさせたいのか理解せず取り組むことになり意味のない取り組みになってしまうのだと思いました イエスが伝えてくれていることは 一切の妥協を許さない厳しいものですが本気で真理を望むならやる価値があります 今回KENさんのコンセプト「笑えるワークブック編」笑 妥協の無さに本当に笑ってしまいますね KENさんが言われたように「笑いながらも真剣に取り組む」 この態度で学びを続けていきたいと思いました 次回も楽しみにしています! ありがとうございました^ ^
ひろ (水曜日, 25 9月 2024 20:48)
KENさん フォローアップのお時間を取っていただきありがとうございました。 KENさんのブログに書かれていたように、とにかく「自分に聞く、どうしたいのかをちゃんと聞いてみる」を慣れないながらも続けてみました。 しかし自分をどうしても責めてしまう時などは、そんな余裕はどこかに消し飛んでしまいます。 そんな時でも、私の中にある声がありました。 「いいよ そのままでいいよ」と言うのです。 私がどうであっても、何であっても、どれほど落ち込んでも「いいよ」と言い続けているのです。 でもそう言われても私の心は晴れませんでした。 少しも楽しくもありませんでした。 「いいよ」と言われても私自身は少しもいいよとは思えなかったからです。 そのようなことをお話していく中でKENさんは「いいよっていうのはある意味無責任だよね」と言い、可笑しくなって私も一緒に笑ってしまいました。 KENさんから「いいよって言うのは、それはひろさんを信頼しているからだよ」と言われた時、思い出したことがありました。 どれほどいいと言われても納得できなかったのですが、そのいいと言ってくれている、その奥にまだ何かがあるように思えたのです。 それは「そのままでいい そのままのあなたが好き」というものでした。 少し時間がかかりましたが、どんな自分でも「いいよ」と言ってくれて「そのままで好き」と言ってくれている、それが私を信頼してくれている。 今はこれほど強い見方が自分にはいたのだということに励まされています。 毎日の日常の中では、自我と分かっていても引かれてしまうことも多々あります。 KENさんのブログにあるように「聖霊が見るのと同じように見る」それは咎めずに見るということ。 これはなかなか難しく思うことしきりですが、その時こそどうしたいのか、何を選びたいのかを静かに自分の心に聞いていきたいと思います。 ありがとうございました。
安田 (金曜日, 20 9月 2024 15:43)
KENさん、昨日はセッションありがとうございました。 赦し以前に大切な事を気づかされました。奇跡講座は多大な意欲と努力を要するとどこかで学んだような気がして、これまでがむしゃらに自我を見つめる・頑張るという事をしてきましたがそもそも間違っていたように思います。 神から預かっている完全な神の子を任されているにも関わらず、自分の声だけには一向に耳を傾けずそれどころか罵倒さえしてきました。 セッションの中で、相手に対する怒りが自分に向けられていたものだったと少しではありますが分かったように思います。 私は私に理解してもらいたかった、話を聞いてほしかった、認めてもらいたかった、なのに全っ然聞いてくれない!それどころか否定される!と 私は私を全然信用してなかったんだ…と痛感しています。 まずは、ゆっくりと自分自身との信頼関係を取り戻し、話を聴いていこうと思います。それからじゃないと赦しも不可能だなと思います。 地道に和解していきます。 ありがとうございました。
エム (木曜日, 19 9月 2024 20:02)
回答ありがとうございます ワプニックさんの軌跡の原理の解説も読んでみました KENさんの理解と合わせ納得できたのは 時間が存在していると思っている間違った心は 時間の概念を証明する為に別々の心の断片(兄弟達)があると信じている 分離意識(時間という概念)を癒す為に兄弟達は「間違った想念を信じている」と教えてくれる役割をもって世界を使い次々と目の前に現れてくれる 赦しを行うことで 「自身の罪と兄弟の役割が解かれ心に平安が訪れる」 このことは平安が訪れたなら心の中の間違って信じている分離の意識(時間という概念)が癒されることになる だから「すべての心にもそれが到来する」という表現なのだと理解しました ありがとうございました
KEN(管理人) (木曜日, 19 9月 2024 13:02)
ワークブックレッスン169 4段落3について、解釈は前者か後者か、ということですが、 前者です。 以下、私の理解をお伝えします。 >「あなたが神の言葉を証しする者となって真理の体験を急ぎ、真理があなたに与えた影響を認識するすべての心にもそれが到来する時を早めるようにと、あなたに勧めている」 これは、「意欲のある者は赦しを急いで欲しい。 あなたに赦しを行うきっかけとなった嫌な役割を担ってくれたその相手、また(いまだ会ってはいない)別の場所で同様に控えている誰か、そんな役割を持った人たちが存在し、あなたが赦しを行い自身の罪を訂正することで神の平安があなたに訪れると同時に、あなたの赦しに対する彼らの役割が解かれ、彼らにも同様の平安が訪れる。 だから急いでほしい、そのようにあなたに勧めている。」 これは、奇跡の原理45番目と関連しています。 またあればいつでもどうぞ。
エム (水曜日, 18 9月 2024 23:05)
KENさんいつもありがとうございます ワークブックレッスン169を読んでいて疑問に思ったことがあるので質問です コースの「時間を省く」という概念についてです 4段落3 「あなたが神の言葉を証しする者となって真理の体験を急ぎ、真理があなたに与えた影響を認識するすべての心にもそれが到来する時を早めるようにと、あなたに勧めている」 これは赦しをする者によって真理が心に共有されることで、全ての間違った心の側面にも時間の短縮が起こるということ 要は無意識(人間の集合意識)の領域で変革が起きるという意味なのでしょうか? それとも「認識」という言葉は比喩的な使い方ではなく、この世界において真理を見出している人がいることを認識することで、その人の意識が真理を見出す方向に向くことを時間の短縮といっているだけでしょうか? KENさんはどのように解釈されますか?
エム (日曜日, 08 9月 2024 09:00)
KENさん先日はセッションありがとうございました。 KENさんとお話しして分かったことがあります。 私は自分を愛する覚悟、自分を信じる覚悟がまだ全然出来ていなかったのです。 自分に聞くということが出来ているのか出来ていないのかも分からず出来ているつもりでいました。 でも私は、自分に尋ねても答えをもらえないことを凄く恐れていたのです。 答えをもらえなかったら私は見捨てられてるように感じてしまう恐れです。 KENさんはご自分のお話をされていただけですが、答えをもらえないことが答えであって、その状況を信頼しているということが分かりました。 私に起きることが全て神の計らいなのだという態度で受け取る覚悟が出来ていなかったのが、いつまでも自己信頼が強いものにならない原因でした。 自分を愛したい思いは強いのにいつまでも信頼出来ないジレンマから解放出来る道が見つかった感じがしています。 いつもありがとうございます。
KEN(管理人) (金曜日, 06 9月 2024 07:13)
崎枝さんへ 率直なコメントありがとうございます。 より丁寧に回答しようとも思いましたが、表現が変わるだけなので止めました。 これまでにも答えていますし、ブログでも記述しています。 これ以上知識を追加したところで意味のないことです。 セッションを受けられる99%の方が同じ状況にあります。 ほかのの大多数の人も同じ状況にあります。 崎枝さんだけではありません。私もかつてはそうでした。ほかの人にとってもそうです。 崎枝さんには2度も自我がなすすべを無くした経験をお持ちです。 最近も自我が緩まった瞬間がありましたね。 これらの経験は多くの人にとってはまだ訪れてもいません。 今は苦しい、とにかく辛い大変な時期なのは痛いほどわかります。 これは誰かがどうすることもできません。 代わることもできません。 通り抜けるしかないんです。 大丈夫、人生が計らってくれます。 いえ、人生は常に計らってくれています。 今もそしてこの先も。 偶然はない(そう)ですし、必要なことが起こるだけです。 人生を通して学びが起こります。 頭に蓄える知識ではなく経験によって知ることになります。 ご自身で書き込まれた疑問にご自身で答えられる時が来ます。 KENがなぜそう言っていたかということを。 次回のセッションはその時です。 あなたのような人が必要です。 もちろん無料です。 きっとわかる時が来ます。 (改版)
崎枝 (木曜日, 05 9月 2024 16:21)
先日は長々とセッションありがとうございました。 意外なセッションでした。 「自我」を一緒に見ていくのかな?と勝手に思っていました。コースのテクニック的な事を考えていましたが通常のカウンセリングの様に私個人の傷から入っていきました。 最近「本心を見る」事が自我の邪魔なくできればできるほど「自己嫌悪」と常にぶつかってしまい、 その自己嫌悪の根源を探っていきました。私は両親とくに母が信奉する神様、その神はとても厳しい神で自分が完璧じゃないと裁かれる、でも可哀想で神に背かなければ赦してもらえるという「恐怖の神」を私も無意識に信奉していると指摘されました。 私は罪の意識が凄まじく強く、神に許してもらいたいけど、許してもらえない。神はどうせ私を拒否する。なぜなら私は罪人だからと言う思考回路が根底にありました。 常に付きまとう「いつか裁かれる、断罪される」恐怖 から逃げるため、自分を責める事によってその見返りに神に許してもらえるという歪んだ信念も根底にありました。 自分を責めていじめることはあっても優しくなんかできない。被害者であることで、自分が守られていると固く信じているから、恐ろしくて自分を愛することができない。 「あなたはいつか死にます。赦しをしようがしまいがコースを勉強しようがしまいが貴方は貴方から逃げられない。なのにずっと喉元にナイフを突きつけている。貴方は自分自身を愛せない。貴方は今のままの自分じゃ愛せないと思っている。 もっと完璧にならないと愛せないと思ってる。貴方の神様はとても厳しくて、貴方はなんでも赦してくれるコースの神様より、自分の厳しい神様を崇拝している。」 とKENさんに言われました。 「あなたは結局のところどうしたいのか?」 「コースの優しい神を信じたいのか 貴方の厳しい神を信じたいのか」 「これまでの厳しい神を信じたいのなら これまで通り自分を他人を責めればいい 不快を感じる事自体が自我を選んでいるという事だ。あなたは厳しい神を自ら進んで選んでいる。」 「貴方は自分に優しくすることができない。自分を愛することができない。だから「神がどんなあなたを許す」なんて言うことはとても信じられない。」 「あなたはあなたを愛したいですか?」 「あなたはどうしたいですか?」 はっきり言って、コースの内容なんてどうでもいい。 あなたはコースの優しい神を選びますか? それともあなたはこれまでの厳しい神を選びますか? あなたが決めるのです。あなたの意思です。 もしあなたが自分を裁き始めたら、あなたは厳しい神を選んでいることになる。と言うことはあなたは間違ったイメージを見ている。そこで初めて赦しのステップが導入されて心を見ることができる。 それらはあなたの間違ったイメージの投影だ。つまり、勘違いで知覚が間違っていただけだ。 常に不快を感じたら自分に問うてほしい。 厳しい神を選ぶか優しい神を選ぶか。どちらの方向を見ているのか? 優しい神を選んだら見えるものはみんなあなたの間違ったイメージでしかないことに気づく。イメージという幻想、何も起きていなかったとわかる。これが赦しだ。 の様なことをセッションで言われたと理解しています。 「〜さん、ご自分がどうしてこんなに嫌いなんでしょう。可哀想ですよ」 と言われて 「知ってる。だからずっと自愛とかやったけどできなかった。だって嫌いすぎる」 と自分を好きになるなんてムリ!と最初心理的に跳ねつけました。 「私の信奉する神」は自分を責める厳しい神だから当然自愛なんてできない。 信奉する神を変えるというのはいわゆる「決断の主体」なのか! 責める自我の思考体系ではなく、自愛する事が決断の主体で聖霊を選ぶということとリンクできた時何かが動きました。 やさしい神を選ぶと強く決断する事によって 「赦し」のステップが始まるんだ….みんな自分の意思 赦しのステップをどこかで嫌な感情を取り除くメソッドとみなしていたのかもしれません。 自我が赦そうとしていた。心に戻っていなかった! との今更ながらの気づき 間違った恐怖の神を選んでしまったことによるイメージを赦すのが赦しのステップ 「自分を愛する」と言う言葉にとてつもない抵抗を感じていたんです。それは自分を存在化させて愛そうとするこの世的な自愛。分離の概念でできた自分を愛するなんてよく考えたらムリですよね。 心に戻って「全てを赦す優しい神」を選ぶ事がコースでいう自愛なのかな? と思いました。 間違っていたらご指摘願います。 最後に疑問点があります。 「貴女はこの世界が自分の心を表したもの、そう思って人生生きるだけで幸せですか?」と質問されました。 その前に「好きなことやってください」 という話をしてたんですけど、どうとらえていいのかわかりませんでした。私は言葉通り受け取って「夢の中で好きなことしても所詮夢でしかないのでは?」と思ってしまい言葉に詰まりました。答えられなかったのです。 あの時KENさんは何が仰りたかったのかな?て思います コースは心を変える事が目的で結果を変える事ではないと強く言われるので私の様な訓練されていない心でこの世的な幸せは考えてはいけない、コースを学ぶ際にエサになってしまう。「優しい夢」を第一目的にしないよう心がけてきました。 なので上記の質問を投げかけられた時言葉につまりました。世界は「赦し」をするための教材以外に考えてはいけないと思ってきたからです。 それとも質問の意図はこの世界を超えた幸せを示唆されておられたのでしょうか? 覚えておられないとは思いますが気になっていました。 心の話なのになぜ「好きなこと」が関係するのかな?と頭が整理しきれないのです。 上手に言語化できていませんね。スミマセン この度はセッションありがとうございました。
りこ (水曜日, 04 9月 2024 13:19)
長い時間セッションして頂いてありがとうございました! 自我を直視するやり方がなんとなく分かりました。そして、やり方が分かっても難しいものだと知り、今回一緒に掘り下げて頂き、小学校のとき嫌われて傷ついた記憶にまで繋がりました。 独学で奇跡講座を勉強するのに行き詰まっていたので、セッションを申し込み、赦しまでのプロセスを一緒に進めて頂けて良かったです。 ネガティブな気持ちをなんとかしようとするのが目的ではないというところは、思考の逆転を読んでいたつもりで見落としていたポイントでした。 ネガティブな感情を使って、その奥にあるものを突き止めるということですね。 またこれから自分で掘り下げていこうと思います。 ありがとうございました。
KEN(管理人) (火曜日, 30 7月 2024 21:43)
エムさん、いえいえ。私の解釈が間違っているかもしれません。 もっといい解釈があるかもしれません。 ただ、解釈しない限り実用できません。 私は、元に戻りさえすれば、贖罪が完了すればそれでいいと思っています。そこにそれ以上の期待はありません。啓示があろうとなかろうとどちらでもいいと考えています。 教えにとどまって熟考することは大切です。 こちらこそいい機会をありがとうございます!
エム (火曜日, 30 7月 2024 20:45)
KENさんご回答ありがとうございます 私の啓示という概念の捉え方の混乱は結局自分を誰かと見ているのかとという事なのだと思いました 人間であるか、霊であるか 贖罪の計画の一部を成している自分という事がまだピンときません 私が赦しをする目的は贖罪の完了の為なのですね それが啓示と同意という事がよく理解できました ありがとうございました
KEN(管理人) (火曜日, 30 7月 2024 18:17)
エムさんへ ご質問ありがとうございます。 回答はブログ記事として投稿しました。 記事URL https://acim.jimdofree.com/revelation-is-not-the-result/
エム (火曜日, 30 7月 2024 11:33)
KENさんこんにちは 奇跡の原理を読んでいてなんだか違和感がある部分があるのですがKENさんはどう思われるか教えてください 奇跡の原理28 ー奇跡は手段であり、啓示は目的である。 原文に詳しい方に教えてもらうと 原文はMiracles are thus a means and revelation is an end. 「啓示は目的」の部分は revelation is an end. だそうです 啓示は目的と言われると私の思考は途端に掴みどころの無い雲の中に放り込まれたような感覚になり思考停止状態です 奇跡は手段はその通りだと思います 啓示は結果と言われるとなんだかスッキリします endという単語は目的という意味だから間違いはないのではないかという事なのですが、啓示を目的にしてしまったら私達学習者は途端に迷宮に彷徨う事になるのでは無いでしょうか? これは誤訳なのでしょうか? それとも私が赦しの側面で理解が足りない部分があるのでしょうか? KENさんはどう解釈されますか?
エム (金曜日, 19 7月 2024 08:25)
KENさんセッションありがとうございました 今回の私のテーマは依存でした 誰かから私の欲しいものを得て満足したい強い欲求です 依存を良しとしてしてしまえば そこに本来の自分自身では無いズレが生じ弱さからの痛みを伴う投影を見続けることは避けられません それをそのままにしておく訳にはいかないと分かっているので取り組んでみます 見えてきたのは自分自身で全てを受け入れて全責任を取ることに逃げたいという思いがあるということです 私はこれまでの人生振り返ってみると様々なシーンで責任から逃げたいと何度も思ってきました 喜んで責任を果たしてきたことはあるのか?と考えると 責任をきちんと果たしてきたと思えること全て義務感からやり遂げたことばかりです でも今私に与えられた役割があることを認識しています それに対しては喜んでその責任を果たしたいと感じているし、私はそれをすべきだと深いところで知っているし、私にとって自然なことだと分かっています 人から与えてもらえる事でそれを自分への信頼に繋げるのではなく私自身だから信頼できる、信頼の根拠はそこにしかありません さて、さも分かったような風に報告していますがまだ全然スッキリ感は無い状態です 他者への依存は一回赦しをしたからといって外れるものではない根深いものだと思います この幻想解除には自己信頼を育んでいくプロセスを飛ばすわけにはいかないということが分かりました 自分自身と繋がり目の前に用意されている赦しをし続けることでこの問題は解決できることが腑に落ち安心してプロセスに身を任せようと思えることができています KENさんと話している時は人から与えてもらえることを諦めることは難しいなぁと感じていましたがやはりこの幻想を取り消したいと強く思えるのは自分自身を大切にしたいという思いと、私が依存したいと思っている人たちに対しても同じぐらい大切にしたいという思いがあるからです 他者に甘えたい、承認して欲しいという思いは私の中のかわいい幼子です 今はその子供の部分を咎めずかわいいなぁぐらいで見守っていきたいです 本来の自分自身を思い出していけば人から与えてもらいたいなど思う自分では無くなることは分かっています あと今回世界から認めてもらえていない、受け入れてもらえていないという思いは自己信頼が無いから他者信頼も無く当然の結果として痛みを伴う幻想を見ていたということです 目の前の人達がどのような反応を示そうがそれは自分なりに成長したい、自分自身を自分で癒せるようになりたいという共通の課題に取り組んでいるのだと要は本当にただ自分自身を見ているだけなのだと分かりました この納得感の中、目の前の人が私にどんな態度を取ったとしても構わないじゃないかという思いも湧いてきています ただココは自我意識にいるとすぐ忘れてしまいまたぶっちゃけトークがしたいなどと言い出すかもしれません笑 では今後ともよろしくお願いいたします ありがとうございました
エム (土曜日, 13 7月 2024 11:38)
KENさんセッションありがとうございました 今回のテーマは 1.父との関係性から生じている恐れ 2.自分を迷惑な存在という隠されている信念がある 3,自分らしさが分からない でした KENさんに自分ではできない心の声を拾い上げてもらう質問をしてもらいながらセッション後色々な気づきがあったのでシェアさせていただきます 幼い頃私は父の言動から与えられ信じ込んでいた思い込みは 迷惑をかける=怒られるでした 私がすること発言することで父を苛立たせると信じていたのでいつも顔色を伺って怒られたくないと思っていました でも父は私の言動など関係なく自身の問題から怒りたい時にただ怒っていただけで私が怒らせていた訳ではなかったのかもしれません 今思えば100%拒絶されていた訳ではなく楽しい思い出もあります ただ私を肯定する言葉はかけたもらった記憶がありません どちらかと言うと否定し皮肉を言うことが多くそれは今でも変わりません 欲しかったのは父からの愛情(表現)でもそれは諦めなければいけないものです 大人になった今離れて暮らしもう昔みたいに怒りをぶつけられることはないのに父の顔を見るといつもざらっとした不快な感覚を感じそれが嫌で父の顔をまともに見ることに抵抗感がありました この避けていた不快感をしっかり感じてみましたそれで気付いたことは、それはもらえなかった愛情を諦められない執着心の表れだったのだと分かりました 父から得たかったものがもらえず傷ついてきた責任を父に償ってもらいたい、でもそれは望めないこの不快な感覚をもたらしているのは父のせいだと責めているのです 両親が喧嘩した時に父が母に言った言葉「俺の気持ちはどうなるんだ」 正しくコレだなと思いました。 他者によって傷ついたと信じ他者によってなんとかしてもらいたい私たち自我の愛を求める声なのだと理解できました 全ては自我の作り出したストーリーです 自分の間違って信じてきた思い込みや感情そういったものは他者から償ってもらうことで自分が癒されるのではないと前回のセッションを通じて得た体験的理解があるので傷ついてきたと信じている自分に寄り添えるのは自分だけなんだと腑に落ちたら父は父のままでいいし私達家族の為に変わってほしいという思いや執着心も無くなったと言っていいかもしれません‥ 次回父と会った時の自分の反応をしっかり観察したいと思います 自分らしさが分からないというテーマは父との関係性ももちろん絡んでいるし、中学生時代に自分の価値は他者が決めると言う間違った思い込みを作る経験が関係していると分かったので自分なりに解いていきたいと思います 今回私の中でずっと背負ってきた重たいテーマでしたがやっと向き合えることが出来るタイミングに来たことが感無量です KENさん本当にありがとうございました
ひろ (月曜日, 08 7月 2024 13:06)
個人セッションをありがとうございました。 今ある葛藤を話していくなかで、自分の気持ちをどれほど抑えつけてきていたのか、自分の本音を隠し聞き流していくことが、まるで闇を看過することのよう思っていました。 兄弟と交流し繋がっていたいという思いは、本当は自分と交流し、本当に繋がっていたかったのは自分自身だったと気づいたときは、それを今までどれほど無視し、邪険に扱ってきたのかと唖然としました。 聖霊を選んだつもり 赦したつもり こんなことでコースをやっている気になっていました。 もう、こんなフワフワしたものはいらない。 どんなに不器用でもいい、地に足をつけた一歩一歩を着実に歩んで行きたい。 今回のセッションを受けまして、まだコースを始めてもいなかったこと、まずその準備段階が必要であることを教えていただいたと思います。 これからもよろしくお願いいたします。
ゆう (土曜日, 06 7月 2024 23:45)
こんばんは。 近況上げさせていただきます。 全くの初歩的な事かもしれませんが、重大な誤りをしていました。 職場の中で善良な、優しい、無欲な、聖者のような人物になろうと対人関係においてそのような人であろうと努力してきたんだなと気づきました。 ワークブックの言葉ですら、それに役立つように自身で唱え、優しく穏やかでいようと頑張ってる自分がいました。 わたしは見ている世界の犠牲者ではない! などと唱え、頑張る自分がいました。 学習の方向が逆でした! ほんとの事に向き合うより楽だし、めんどくさくないから、ある意味でスッキリするから、そこにずっと留まっていたのかもです。 出来事の方に価値があるとしてマジック的なものに魅力を感じていたのだと思います。 自分自身の間違えた考え方を変えること! なんとシンプルで見過ごされてしまうような言葉の凄みを感じ、はっきりと目が覚める思いがしました。 まだ、自分なりの幻想直視と前回までのセッションの復習、コースの読解のために奇跡講座入門と覚醒へのレッスンという本の読み込み作業をしている段階ですが、何故か身体も軽く、みえている景色も異なるように感じてます。穏やかな感覚です。 原因は自分にある!とほんとに思えてなかったのかもです、それを認めて、見つめていたら、いかに様々な人に対する勝手な、判断を下してたのか!全然まだコースの取組は今まではじめてすらいなかった!と思えました。 ありがとうございます。
ゆう (金曜日, 05 7月 2024 01:50)
kenさん 本日はセッションのフォローアップありがとうございます! かなり、詳細に掘り下げて自身や問題に関してアプローチして頂きありがとうございます。 なんとなく、取り組んでいたことに関して明確な道筋を示して頂けました。スピリチュアルなことに関してたくさんの情報があり、しかし、この日々に着実に当てはめるには、一つ一つ地道にやっていくのみ、その向き合い方、心の持ち方に関して理解がすすみました。 【やりたいようにやる】ということの本意についても訊けてよかったです。 嫌な出来事や動揺する出来事がわたしにはまだまだたくさんありますが、それを解除し解放することは可能なんだと認識できたらなんだか少し清々しくも感じられ、そういった取組をやることがまだまだたくさんあるということことは面白いことなのかもと感じました。 もう、このままの地獄はいやだ、もう終わらせたい!そんな声が内側からかすかに聞こえてきてます。わたしは、やりたいようにやると意欲を感じます。 まずは実践してみます。極めて具体的に! さっそく、寝る前の内省から取組んでみます、 また、その都度セッションで進捗にあわせていろいろとお伺いできればと思います。 そのときはまた宜しくお願いします!
ゆう (木曜日, 27 6月 2024 23:18)
kenさん 先日はセッションありがとうございます! やはり、直接お話することで本やブログなどの文章で読んだ内容のことでも、今はじめて聞いたかのように、自身に響くのを感じ、今まではまだ何もはじめていなかったなとこれから、自身の今の思いとの対話を大切にしていこう、自身が抱いてしまった幻想を具体的に認識していこう、そこから奇跡を体験していきたいと思いました。 日常で起きてくることは、全てがレッスンなんだなと、今までは本ばかり読みないがしろにしていたレッスンをいよいよはじめて行く時がきたなと感じてます。 そして、自身の抱えるプライドにも気づきました。全く赦せてないのにあたかも赦しを行ってるかのような思いこみ、自我からの理想追求的な取り組みをやめて、自身の中から湧き上がるどんな卑近な思いでも耳を傾けていこうと思えました。 自分自身の経験を大切に!していかねば。 ご紹介頂いた神との対話1を今読んでる最中です。 今ここに平安がある、今すでに幸せである、と読書などからそのような気分や、心構えを感じていたはずなのに何故葛藤や、苦しみを、感じるのか!やはり具体的に、取り組んでいくしかない!やっぱり、手っ取り早さを感じるものは怪しいのかなと、瞑想やむやみやたらな読書などはサプリメント的に捉え、しっかり本質と地道に向きあっていきたいです。 このような、貴重な機会を経験でき感謝してます。 ありがとうございます!
エム (火曜日, 25 6月 2024 12:06)
KENさん昨日は個人セッションありがとうございました。 赦しの実践をしていて隠された信念を見つけても辛い思いをしてきた自我に上手く寄り添うことが出来ず分かったふりしか出来ない‥ 自我に対してかける声も上滑りしているような感覚‥ KENさんのブログでそもそも私たちは自我に興味がない寄り添う気持ちがないというような内容の記事を読んだ時ドキッとしました。 きっと赦しが機能しないのはこの部分に関係しているのだろうという直感があり個人セッションの申し込みに至りました。 KENさんに言われたのは、出来ない自分を責めているのは自分に対して期待値が高い、今までの人生何でも自分の力でなんとかしてきてその自分をむしろ気に入っているという言葉。 もう本当にその通りでグーの音もでません‥ そしてKENさんに、今までよく頑張ってきた、努力家で勤勉家だからそんな自分を認めてあげればいいと言っていただいた時涙が溢れてきました‥ 私は自分に対する自己承認を全くせず頑張れば何でもできる精神で「自分は何も分かっていない」と自分を退かす教えのコースの教えでさえも頑張ることで何かを得ようとしてきたことが自覚されました。 今朝ふと「なんの制限もなく何でも出来るとしたら何がしたいか?」というセッション中に聞かれた質問が私の中に起こった時出てきた答が「私を真から理解してくれるパートナーと一緒にいたい」でした。 この時なぜ今までの赦しが機能しなかったのか理解しました。 私は私を理解するパートナーであったことなど無かったのです‥ 頑張ってきた私を、労うことなくいつも頑張れば出来る!とムチ打って「もう疲れたしんどい」という声をスルーしていたんだと理解した時心から「本当に今まで気づかずごめんなさい」が言えました。 泣きたくなり涙がまた溢れてきたのですが「ごめんね、今は職場だから仕事が終わるまでちょっと待ってて」と自然に自分中に対話が起きていました。 今回のセッションは自分の中の見捨てられた自分に気づくことで なぜ赦しの実践が上滑りしているのか理解することのできるとても大きな学びの機会となりました。 そしてこの気づいて欲しい癒しが必要なのは誰か?という問いも内側で起きていて これこそが自己探求なんだと、その道にいることが嬉しく感じました。 KENさんありがとうございました。 フォローアップもしていただけること本当に感謝いたします。
崎枝 (火曜日, 28 5月 2024 21:45)
セッションありがとうございした。 「自分の本心と一致していないと心が分離する」という話を今回は掘り下げていだだきました。 聖霊を選びたいのに自我を選んでしまうジレンマ、コース学習者なら必ず経験するはずです。 もう咎めたくないのに咎めてしまう もう自分を責めたくないのに責めてしまう 私はそれらを延々やっていて本心は咎めたい。自分を責めたいを「自ら」進んでやっている事実に向き合いました。 こういった自分を苦しめる選択をする自分にほとほとうんざりしているのに、苦しむ選択をしたい自分の奥底に、苦しむことでせめて神に罪を軽減してもらえるのではないかと期待している自分がいました。 個人の卑小な私は怖くて怖くて今のままの自分じゃ楽になってはいけないと固く信じています 自分に厳しくする事でせめて許してくださいと思っているのです。 私の神は裁く神、厳しい神です。 コースの聖霊とは全く違う 「決断の主体」に戻って実は聖霊なんて選びたくない事実、自我を選びたい事実に向き合いました。 そんなバカな…と抵抗しますが 「決断する」という本気度が赦しをやる前に大切な前段階のように感じました。 決断に責任を持つというか 「もう自我を選びたくない」という決断という意思、すなわち自分の本音がどこにあるのか見定める。 赦しの前段階のような「覚悟」ですが ここが本心とズレると赦しができない 「もう私は罰する神のいう事は聞きません」 と強く意思表示をします。 ありがとうございました。
崎枝 (火曜日, 14 5月 2024 17:50)
本日はセッションありがとうございました。 ある程度コース理論は理解したつもりでおり、「どうやらこの世は幻想らしい。幻想には見えないけれど幻想に見えるようになったらどれだけ生きるのが楽だろうか。そういう風に見えるようになりたい。」が学習モチベーションでした。 なので必要以上に出来事に向き合うことは幻想を更にリアルにしてしまう。出来事に動揺せず「幻想として」笑って看過ごす事がヴィジョンだと思っていたので出来事の内容には必要以上に入らない、幻想に意味はない、入ってさらに幻想をリアルにする事はコースの正しいやり方ではないと思っていました。 確かに「赦し」の実践においては間違ってはいないのでしょうが、赦しの前段階として私は本音が曖昧だった。本音こそが実は聖霊の声であるという事を全く理解していませんでした。(今だによくわかっていません) この本音に向き合うこと。私の心の声は「助けてほしい」ではないかと指摘され、触れてはいけない場所に触れられた気がしてドキッとしました。 私はこの心の声を自我の声としていたのでこれ以上触れても無駄、自我を助長すると思っていたのでかなり意外な点を指摘されました。 自我の心を声を聞いてみたいと思いました。 自我の中へ逆戻りするような感じですが、赦しができない理由がぼんやりとわかったような気がしました。 苦しかった過去の自我の悲鳴をセッションの中でKENさんにお話させて頂き、自我が少し喜んで(癒されて)、私はこう言った思いに蓋をしてたんだなと思いました。 本音に向き合いたいと思います。宜しくお願いします。
Rumi (水曜日, 08 5月 2024 12:17)
お返事ありがとうございます。 そうですね。私はコースを取り組む準備段階だったんですね。 この後どうするかは自分次第。 ありがとうございました。
KEN(管理人) (火曜日, 07 5月 2024 23:35)
Rumiさん、はじめまして。 管理人のKENです。 「コースの理解を独学でやるのは難しい」これについて何か意見があればとのことでした。 多くの人にとって確かに難しいと思います。 難しく感じるのは意志の力で取り組もうとしているからです。 準備が整った人にとっては、気がついたら「独学でやっている」です。 彼らにとって難しい難しくないは関係なくなります。 これは奇跡講座でよく出てきますが「意欲」の問題です。 彼らはもはや意志ではやっていません。そうせざるを得ない内側から湧き起こる要請に突き動かされてごく自然にやっています。 そんな「意欲」が彼らにはあります。 では難しいと感じる私たちはどうしたら。その答えも載せておきます。 「今の自分はどっちへ行きたいのか」ちゃんと聞く、耳を傾ける、ということです。 「自分と繋がる」と言ってもいい。 つまり「自分についていく」ことです。 「あなたがあなた自身についていく」ことです。 「自分と調和する」です。 「ハートで生きる」とも言います。 そしてもっと経験に耳を傾ける、です。 「学習した知識でもって判断する」ことに偏重しすぎています。 経験体験してきたことよりも経験せず知ってもいない知識を優先しすぎている。 このように、コースに取り組むよりも前にもっとやることがあります。 奇跡講座でいう「準備が整う」に向けた取り組みです。 とはいえ「グループでの悩み」や「独学は難しい」も、「職場や家庭での困難」もこれらすべての「体験」は、「準備が整う」ために確実に貢献しています。 「準備が整う」その日が来ればそれが分かると思います。
Rumi (火曜日, 07 5月 2024 11:51)
はじめてコメントさせていただきます。 #131の中で「他人」の記述つまりコースにおいての「兄弟」の記述がありました。 > 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。 ↑を心において他人と付き合うという事が人生と心に置いて生活すると理解しますが同時に色々思う所があります。 コースグループ等で「兄弟と一緒に目覚める。だからグループ内での会話は助けになる」 と仰るティーチャーが多いと思います。 一体感とか分かち合う喜びも多く、自分の内面を理解し合う事で深く絆を感じモチベーションにもなる…と同時に関係が深まると投影により悩まされる… これではただの「特別な関係」でしかないのではないかと思います。 お互いが分かり合えて嬉しい!というのは正しく自我の動きで、自我は認められたいので人生においていろんな形で「特別な関係」を探し続け落胆します。 うんざりとわかっていてもやめられない。 コース学習者でさえやります。 < 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。 ↑を完全に定着した上でのグループ学習は有意義と思いますが、自他の区別をしている状態だと通常の特別な関係に悩まされるのでは?と思います。 他人との関係においての喜びも実相の反映として享受し嫌な感情は「赦し」のレッスンとして他人と接するのは未熟な心ではなかなか難しいです。 やはり自学がベースなのかなと思いますが、コースの理解を独学でやるのは難しい。 だからKENさんのような方がおられるのはありがたいのですが、この点においてもし何か思うところがあればご意見いただけたらと思います。
まつ (日曜日, 28 4月 2024 08:02)
KENさんのブログを読んでセッションを受けて変われました。 今まで読んだり聞いたりした事でも実際にセッションを受けて、今まで気にしていたのはなんだったのかと生まれ変わった気がします。 本当にありがとうございます。
aki (水曜日, 31 1月 2024 15:41)
セッションありがとうございました。 奇跡講座をどのように学んでいったらいいのか何をしたらいいのか分からずにいました。 相談できた事に感謝でいっぱいです。とても安心できました。 学べる事が嬉しいです。 これからは自分に寄り添えるよう、幸せから選択できるよにいきたいです。 これからもよろしくお願いします。
はちみつ (金曜日, 15 12月 2023 08:26)
セッションを受けて、最近起きた自分のトラブルについて考え、自分の中で出た答えをKENさんに聞いていただいた。するとどうやら赦しができている様だった。 赦しができていると聞いたときはポカンとした感じだったが、お腹の奥のずっと奥の方から『神様が居るのだ』という確信が込み上げてきて涙が出た。 KENさんに確認しなければ気づけないほど、赦しはとても自然に行われていた様だ。 赦しは確かに、精霊さんに委ねた瞬間自動的に起こっている様である。
eve (日曜日, 05 11月 2023 17:47)
KENさま、お考えをありがとうございます。 お返事をいただけて本当に嬉しかったです!ありがとうございます。 今日は普段はしない、義母と主人の農作業の手伝いをしました。 義母も主人も本質はキリストなので、一つに結びつこうという思いで、自分を愛するために奉仕作業を選びました。 昨晩は作業を手伝おうとしている私はこの世界に価値を見いだそうとしているんじゃないか、間違っているんじゃないか、そんなことよりコースの勉強をしたほうがいいという思いが出ました。 でもその声自体が一つにつながることへのエゴの抵抗の声じゃないかと混乱して、どう行動したらいいかわからなくなり、とりとめもなくご質問をしてしまいました。うまく自分の思いを表現できずに書いてしまい、すみませんでした。 今はそんなときは、自己対話が必要だと気づくことができました。 KENさまに自分の心への向き合うことの大事さを優しく教えていただき、もっと自分の心に正直になろうと思えました。赦しと自己対話、キリストへの信頼をもっと深めていこうと思います。 KEN先生さまには、本当に心から感謝の気持ちでいっぱいです。 私の心はこの世界にいないのかもしれませんが、神の子にふさわしく、赦しを通していただいた愛をKENさまのように、たくさんまわりに表現していきたいと思います。ありがとうございました。
KEN(管理人) (日曜日, 05 11月 2023 12:48)
>コースの教えは、この世界は無価値な夢だと認めていく道なのだと自分なりに理解しています。 コースの教えは、(すごくざっくり言えば)この世界で起きる出来事を通して自分の嫌な感情を見つけ出し、それを本来の状態に戻していく道だと理解しています。 つまりこれが赦しの説明です。 >その夢の中での行動面に関してなのですが、世界も相手も、すべて自分でキリスト、相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道なのではと感じています。 「>世界も相手も、すべて自分」・・・それはそうなのですが、これだけでは活用しづらいので、一足飛びにいくのはやめて今は脇に置いておきましょう。 「>相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して」・・・これもそれはそうなのですが、どちらかと言うと、自分が癒されると、その瞬間同時に相手も癒される、がいいかと思います。 「>精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道」・・・これがどのレベルのものを指しているのかわからないのですが、「>相手に奉仕」が特に気になります。 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。 >怖れがなければ奉仕をしたい、でも、奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのではないだろうか?という声もあります。 「>奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのでは」・・・この世界を実在としたくない、転じてこの世界は実在してはならない、存在してはいけない、だから消滅させなければならない、となっているとしたら「すでにこの世界はそんな世界として実在している」ことが前提に話が展開していることになります。 >私の意思は神の意志なので、神のような考えをしたいのです。 「>私の意思は神の意志」・・・そうです。 つまり私たちが何を意思しようとなんでもOKです。 それが神の意志です。 「これをするな、あれをせよ」は、ありません。 なのでしたいことをしましょう。 「>神のような考えをしたい」のであれば、自分の中に答えさせてあげてください。 KENや教典、外からの答えは意味がありません。 「なんでもしていいならどうしたいのか。何がしたいのか。もちろん何の罰則も制限もないとして。」 全体的に、頭でっかちになって難しく考えてしまっている印象をお見受けします。 べつに赦したくなければ赦さなくったっていいんです。 赦すことがいいことでもありません。 赦さないことが悪でもありません。 なんでもいいんです。 したいことをしましょう。 自分がどうしたいかが大事ですから。
eve (土曜日, 04 11月 2023 21:55)
KENさま、いつもありがとうございます。 コースの教えは、この世界は無価値な夢だと認めていく道なのだと 自分なりに理解しています。 その夢の中での行動面に関してなのですが、世界も相手も、すべて自分でキリスト、相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道なのではと感じています。 私の心の中で、それは違う、そんな暇があるならテキストを読むなりコースの勉強をしたがいいという声があります。兄弟と結びつくことで、解放されることへの怖れ声なのだと思います。 怖れがなければ奉仕をしたい、でも、奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのではないだろうか?という声もあります。 私の意思は神の意志なので、神のような考えをしたいのです。 KENさまのお考えを教えていただけたらありがたいです。
eve (木曜日, 02 11月 2023 16:07)
KENさま、とてもわかりやすいご回答をありがとうございます。 実相を知るということは「自我を見ない」ということである。 KENさまのご指導のおかげで、真の赦しにより自分の誤りが訂正され(白紙に戻され)、相手にも自分にも罪である自我はどこにも見当たらない状態に戻ることだと理解することができました。ありがとうございます。 「相手もしくは自分のエゴが存在していると気づいた、でも、そもそもその見方がおかしい自分がいる、相手は間違っていない、間違っているのはこの自分だ、自分のどこが間違っているのか(勘違いしているのか)その誤った知覚、認識、信念をこの相手との関係性を示す出来事を辿ることによって真剣に見つけよう」が正解です、とご指導いただけたことにより、個人の非実在性への認識と自我の誤りを見ていく重要性を改めて感じることができました。 「罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うのではない。 罪は存在していなかったと見るのである。 その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。 赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。 そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。」 答えをありがとうございます!この文章は毎日読んで、しっかり認識していこうと思います。 自分の目的(神の平安、神の子)を意識して自分の誤りに気づかせていただけることに日々感謝をしながら無罪の神の子を選択していきたいと思います。 エゴの誘惑で弱気になることもありますが、KENさまの聖性あふれるご指導に感謝感激し、ブログに救われ勇気をいただいて前進できております。 心から深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。
KEN(管理人) (木曜日, 02 11月 2023)
eveさんへ こちらこそ熱心な学習者に感謝します。 ワークブックにある『自我とは何か』の部分についてですね。 >「実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」 この「自我を見ない」についてさまざまに誤解されてきました。 看過ですが、無視とは違います。 (ここで言う無視とは気づいているのに気づいていないようにふるまう、見なかったことにする、あるいは無かったことにするという意味で使っています。 テキストには「無視」という用語が使われている箇所がありますが、無視の意味が違います。ややこしいですね) 看過とは見過ごすことであり、「誤りを超えたところを見る」です。 つまりこれが、赦すことです。 「赦すことは見過ごすことである。 それならば、誤りを超えたところを見なさい。」(T-9.Ⅳ.1.) https://acim.jimdofree.com/acim-text-09-04-01-1 >これは相手と自分のエゴは存在しないと無視(看過、赦し)し、その先にある光だけを見る心眼を言ってあると解釈していいのでしょうか? >実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので、ここで言われる「見ない」とは、どう解釈したらいいかわかりません。 「>実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので」・・・もちろんそうです。 ここでの論点は、姿勢の問題です。 心構えの問題です。 基本中の基本です。 「実在すると自分で信じている罪を赦すことができる者はいない」(T-27.Ⅱ.2.) 「本人にとって真理と思えるものを看過して赦そうとするのではない」(同) 「赦しは最初に罪を確立して、その後にそれを赦すことはしない」(同) https://acim.jimdofree.com/acim-text-27-02-02 そして以下が答えです。 「罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うのではない。 罪は存在していなかったと見るのである。 その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。 赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。 そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。」(ワークブック 第2部 1.赦しとは何か 1.) つまり、赦しには (1) 相手に問題があると見てそれを見ないでいたり無視するのではなく、「相手には問題がない(罪がない)と見て、問題があるのはこの自分であり、でも、この自分にも罪はないのだから、あるのは自分の中にある誤り(勘違い)だけであり、この誤った部分はどこなのかを知りたい」という理解であり姿勢です。 (2) その上で、その誤り(勘違い)を解くために「その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していく」です。 結論としては、 「相手もしくは自分のエゴが存在しているとすでに思ってしまっている自分がいるのに、そんなのは存在しないと「無視」し、障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくこともしない」では二重に誤解しているということになります。 ですので、 「相手もしくは自分のエゴが存在していると気づいた、でも、そもそもその見方がおかしい自分がいる、相手は間違っていない、間違っているのはこの自分だ、自分のどこが間違っているのか(勘違いしているのか)その誤った知覚、認識、信念をこの相手との関係性を示す出来事を辿ることによって真剣に見つけよう」が正解です。 そして、看過しきったとき(赦しが完了したとき)、自分の誤りが訂正され(白紙に戻され)、相手にも自分にももはや罪である自我はどこにも見当たらない、すなわち「自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」となり、これが「実相を知る」ということです。
eve (木曜日, 02 11月 2023 10:01)
いつも素晴らしいブログをありがとうございます。 ワークブックパートⅡ12、自我とは何か 4 「実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」 とあります。 これは相手と自分のエゴは存在しないと無視(看過、赦し)し、その先にある光だけを見る心眼を言ってあると解釈していいのでしょうか? 実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので、ここで言われる「見ない」とは、どう解釈したらいいかわかりません。KENさま、どうかご教授いただけませんでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。
eve (土曜日, 14 10月 2023 01:30)
KENさま、愛のこもったわかりやすいご回答をありがとうございます! これからは、解放されたくないという自分の気持ちに気づいたときは しっかり認識して精霊に頼っていこうと思います。 KENさまからいただいたたくさんの愛に感謝して 日々精進していきます!本当にありがとうございました!
KEN(管理人) (金曜日, 13 10月 2023 18:46)
お役に立てたのなら何よりです。 少し追記します。 1) >「意欲を持って、手放すと決意することでいいのでしょうか?」の部分について、 意欲や決意は「する」ものではなく、意欲や決意は「起きる」ものとし、この部分は努力でなんとかできるものではないと記述しました。 意欲は、人によってももちろん強弱があります。 ときには、意欲が出ないときもあるでしょう。 私にもあります。誰にでもあると思います。 奇跡講座には次の記述があります。 「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。」(T-16.Ⅵ.12:5) これは、意欲が持てないときは、つまりやる気がないときは、このようにすることでやる気が強化されることを示しています。 1) 「なんだか今、やる気がない」という状態にあることに気づく 2) 「なぜこの自分はこんなにやる気が起きないのだろうか?」と自問する、その理由に気づき、認識する そうすれば、聖霊の意欲が与えられる、つまりやる気が強化されるということです。 とはいっても、これに取り組むこと自体、そもそもやる気がないと始まりませんので、どうどうめぐりですが。。 こちらこそありがとうございます。
eve (金曜日, 13 10月 2023 17:47)
KENさま、 私の質問の意図に沿った丁寧でわかりやすいご回答をありがとうございます。 自分の勘違いに気づくことができ、よく理解できました。 意欲への激励のお優しさも、とてもありがたいです。実践へのやる気がでます。 真摯に本来の自分に向き合い、自分の感情に目を光らせて動揺を常に監視、赦しを実践していこうと思います。また、多大なるKENさまの貴重なご理解をブログを通して共有させていただけることにも心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
KEN(管理人) (金曜日, 13 10月 2023 14:25)
eveさま、以前にも記事にコメントを残してくれていましたよね。 あらためてお礼申し上げます、ありがとうございます。 さて、ご質問の件です。 >「テキスト6章第三のステップ、C神と神の国を守るために警戒するために、精霊を教師にし自我の考えを侵入させないよう考えの一つひとつを精霊の光で判断するよう書かれてありました。」 該当するテキストは以下になりますね。 「聖霊はあなたの心の中で、誤ったものから真実のものを選り分け、あなたが心の中に入らせる考えの一つひとつを、神がそこに置いたものの光に照らして判断するように教える。」(T-6-5.C-1:2) ご質問は、実践に関してでした。 >「これを実践するにあたり、意欲を持ち、心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放すと決意することでよろしいのでしょうか?」 おおざっぱにはこれでいいのですが、実践に関してのご質問でしたので、もう少し丁寧に見ていきます。 1) >「意欲を持って、手放すと決意することでいいのでしょうか?」の部分です。 意欲や決意はするものではありません。 意欲や決意は起きるものです。そのような思いに至る、生じると言ったほうがいいかもしれません。 この部分は努力でなんとかできるものではありません。 eveさんは実践に足を踏み入れていますから、意欲と決意はすでにあってのことだと思います。 ですので、この部分を気にしても仕方ありませんので、次に行きます。 2) >「心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放す」の部分。 心に浮かんでくる考えを意識して認識するのではありません。 ここは警戒の話です。(第六章 愛のレッスン Ⅴ.聖霊のレッスン C. 神と神の国を守るためだけに警戒していなさい。) 聖霊が常にあなたの思考を監視してくれていますので、あなたの思考が聖霊のそれと合わない場合は通知してくれます。 つまり「感情が動揺する」という方法によってです。 ですので、私たちがここで実践としてやることは、「感情に目を光らせて動揺していないかを常に監視する」というものです。 聖霊からの通知を見逃さないようにする、ということです。 動揺したのであれば、それは何を誤認したのか、それを聖霊の光に当てて見ていく、これは誤った自我の考えを手放していくという意味であり、つまり赦しを実践する、ということです。 ご質問の意図を誤認しての回答の場合もありますので、その場合はあらためてご質問ください。 質問に感謝します。 みなさまからの多くの質問をお待ちしています。
eve (木曜日, 12 10月 2023 16:04)
KENさま、いつも素晴らしいブログをありがとうございます。 奇跡講座の理解に本当に助かっております。 可能であればどうかご質問させてください。 テキスト6章第三のステップ、C神と神の国を守るために警戒するために、精霊を教師にし自我の考えを侵入させないよう考えの一つひとつを精霊の光で判断するよう書かれてありました。これを実践するにあたり、意欲を持ち、心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放すと決意することでよろしいのでしょうか?
迷い人 (水曜日, 27 9月 2023 06:05)
管理人様 先日は個人セッションありがとうございました。 様々な気づきを頂きました。 自分だけで考える限界というものを感じ、人に相談することの重要性を改めて知ることができました。 ただ、やはり自分の自我、手放したくない気持ちは強烈で、神への反抗心、消滅願望は根強く残っております。 しばらく管理人様にアドバイス頂いたことを考えてみたいと思います。 掲示板質問にも丁寧にご回答頂き、本当にありがとうございました。
毛利貴子 (火曜日, 12 9月 2023 13:36)
長時間のセッション、本当にありがとうございました!! 常に自分がどうしたいのか、何のためにやるのか、本心に尋ねていこうと思います。心が反応しているときは贖罪(赦し)が必要なときだということ、全ての問題に見えることは贖罪(赦し)ができていないこと、自分を愛そうとする心の姿勢が赦しへと向かわせることなど、セッションでなければ理解できなかったと思います。あれほど難しく見えていた奇跡講座が誰にでも受け入れられる単純な真理に思えてきました。受講させていただけて本当によかった!心から感謝の思いでいっぱいです。KEN先生の心温まるご指導に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。とても幸せです!!
山先初江 (水曜日, 06 9月 2023 11:44)
奇跡講座(以下コース)に出会って10年くらい経ちました。コースに関して願い事が叶う、とか、災いから守ってくれる、という解釈はしませんでした。何か見たくないものを見た時に、唱える言葉をテキストの中から探し、少なくとも6年間はその言葉を思い出せれば、それを呪文の様に唱えていました。そうしている間に目醒め迄の時間が短縮されると思っていたのですが、そのやり方は見当違いだったと気付くことができました。結局見聞きしたくないモノに蓋をして誤魔化していただけなのだ、と。セッションを受けて改めてスタート地点に立った感じです。
迷い人 (火曜日, 22 8月 2023 08:30)
管理人様 御返答ありがとうございます。 立て続けにご質問し申し訳ありませんでした。 質問を重ねていくなかで、赦しのレッスン、幻想直視をするための準備をするための導きに感じております。 今抱えている問題(赦しのレッスン)を整理し、セッションを申し込みさせて頂きたいと思います。 質問はまたございましたらさせて頂きたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。
KEN(管理人) (月曜日, 21 8月 2023 12:10)
ご質問の「投影されたものを知覚する」についての補足追記です。 「投影されたものを知覚する」は、 まず投影は、自分の内にあるもの(罪=差異、つまり自分の勘違いであり誤り)を見ないようにするために外側の何かや人のせいにすることでした。 そもそも投影が生じたのは、自分の中にある差異を「知覚した」ことからでした。 (←ここを赦しで訂正したいのですが無意識下の判断なため直接の訂正はできず、認識すらできない部分です。) 差異(罪)による自分の中の嫌な感情(罪悪感)を「知覚した」ことでそれを自我の戦略により外側の世界へ投影します。 つまり、自分の内側にある問題を外側の問題としてすり替えて原因を外側に見ることで、まるで外側にある出来事が嫌な感情の原因であるかのように「知覚」します。 この外側の出来事で生じたかに見える嫌な感情は、内側に知覚したものとまったく同じ感情です。 結論としては、他の人との関わりや出来事を通して知覚した嫌な感情は、自分自身の中の誤認識、罪、つまり自分自身の勘違いが原因だということです。 ですので、赦しは外側を見て感じた嫌な気持ちを人のせいにするのではなく、自分の問題だとして取り組むことを指します。 そしてこれは、外側によって知覚した嫌な感情をたどることによって、無意識下で下した自分の誤認識による罪を見つけ訂正するための足掛かりにする、ということになります。 以上です。
KEN(管理人) (土曜日, 19 8月 2023 18:22)
戻りました。回答しますね。 まずは投影と知覚について、です。 投影とは、自分の中の罪悪感を解消するために、外側つまり他者のせいにすることを言います。 自分の問題を人のせいにして自分の問題に向き合わないようにする戦略です。これは自我による自我を存続させるための戦略です。 (罪悪感は、自分が自分の実相(ほんとうの自分)を見誤ったことで作り出された差異による罪から生じます。) 知覚は、起きる出来事に対する私たちの「いい、悪い」といった解釈です。 常に二元的です。 この解釈は自分の中にある想念を元に判断されます。 自我の誤った想念と本来の正しい想念とで、同じものを見てもまるで違った解釈、つまり正反対の知覚が生じます。 そして、投影も知覚も別のレベルの意味があります。(これが少々混乱させる原因かもしれません。) この物理的世界は幻想であり、そもそも存在しません。無です。 ありのままの自分を自身が誤認識した瞬間にこの世界が生じます。 誤認識、すなわち赦すべきことがら(罪)に合わせて最適な物理環境が展開されます。 (つまり、1つでも赦すべきものがあれば世界は生成され、無くなれば用済みとなり消滅します。) ですので、誤認識つまり心の中に生じた罪を解消するためにその罪を解消するのに最適な世界が展開する、ということになります。 ここを指して、この世界は心の反映、あるいは、この世界で赦しに使われるために生じる出来事(つまり嫌な出来事)のことを『罪の投影』と言うことがあります。 また、あるがままの自分を誤って認識したことにより差異を『知覚する』ことで罪が生じました。この場合の「知覚」は「認識」程度の意味です。(テキストでは「知覚」を「認識」という意味で使われていることが多いです) 誤認識がもともとの智識という一元の世界から二元の世界(つまりこの物理的世界)を生じさせます。 この二元の世界をひっくるめて『知覚の世界』と呼んだりします。 つまり、本来の自分を誤った卑小な自分と勘違いすることで差異を認識(知覚)した、それを自分以外の外側で何とかするために投影、となります。 ですので、ご質問の回答は、 「自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される」は、 自分の内にある差異の認識(=差異を知覚)=罪であり、この罪から罪悪感が生じ、罪悪感を何とかするために罪が外側へ投影(他人のせいに)される、です。 「投影されたものを知覚する」は、 まず投影は、自分の内にあるもの(罪=差異、つまり自分の勘違いであり誤り)を見ないようにするために外側の何かや人のせいにすることでした。 そもそも投影が生じたのは、自分の中にある差異を「知覚した」ことからでした。 差異(罪)による自分の中の嫌な感情(罪悪感)を「知覚した」ことでそれを自我の戦略により外側の世界へ投影することで、結果、外側の出来事を見てまったく同じ嫌な感情を「知覚する」ことになります。 結論としては、他の人との関わりや出来事を通して知覚した嫌な感情は、自分自身の中の誤認識、罪、つまり自分自身の勘違いが原因だということです。 ですので、赦しは外側を見て感じた嫌な気持ちを人のせいにするのではなく、自分の問題だとして取り組むことを指します。 次に、もう一つの質問への回答です。 「「偶然はない」というのは幻想世界で遭遇する出来事すべては聖霊が用意するものであり、なにひとつ偶然はなく、いわゆる「不慮の事態」と呼ばれるものも必然であり、敢えて自我的なポジティブな言い回しをすれば、自分の目覚めに不必要な「不幸」なるものには一切遭遇しない。」このような理解でよろしいでしょうか? まったくその通りです。 ただし、そのすべてが「偶然ではなかったんだ」とすんなり理解できるほど簡単なものばかりではありません。 その時点ではどう考えても必然とは思えない出来事もたくさん遭遇します。ですが、私たちがそう理解できないだけで聖霊のレベルでは必然であると考えます。(ずいぶん後から必然だったということが分かるものもあります。) そういう意味ではほとんど「信仰」のレベルですが、そう信じられなくても構わず、とりあえず「気にしない」か「そうかもしれない」程度で取り組めばいいと思います。 他にあればまたご質問ください。
迷い人 (金曜日, 11 8月 2023 09:19)
管理人様 お返事本当に遅くなり申し訳ありません。 >憎悪や酷いものがやって来るのではなく、やって来ているものに対してそのように感じているだけで、内なる平安があれば、憎悪や酷いものとは感じない、ということです。 ハッとさせられました。奇跡講座の基本理論は理解したつもりでも、過去の信念に何度も戻ってしまっている自分に気づけました。ありがとうございます。 >内なる平安があれば、つまり赦しが完了し、赦すことが無くなれば、完全贖罪の到達となれば、もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります。 ありがとうございます。 「もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります」 これがまさに私が若い時からずっと追い求めたものです。 改めて奇跡講座にこそ自分がずっと探し求めた答えがあると確信できます。 >自分の内にないものは投影されません。それはその通りです。(出来事には遭遇するかもしれませんが、それに自我が投影されない、ということです。) すごく納得いくご説明ありがとうございます。 これまでモヤモヤしていたところがスッキリしました。 出来事そのものには意味がない(ニュートラル)であり、その出来事に遭遇することもあるだろうが、自分の内にあるものに基づいた投影(知覚、解釈)はされない、ということですね。 あ、違いますね。 「投影(知覚、解釈)」ではないですね。 またモヤモヤしてしまいましたが、投影と知覚の解釈が未だにスッキリしていないかもしれません。 自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される のか 投影されたものを知覚する のか ふたつとも違うのか かなり基本的な部分かもしれませんが、投影と知覚について改めて教えて頂けないでしょうか。 >この「脅かされる」体験を生み出すための最適な環境を常に聖霊が用意しています。 これが「偶然はない」と言われる所存です。 上記は 「偶然はない」というのは幻想世界で遭遇する出来事すべては聖霊が用意するものであり、なにひとつ偶然はなく、いわゆる「不慮の事態」と呼ばれるものも必然であり、敢えて自我的なポジティブな言い回しをすれば、自分の目覚めに不必要な「不幸」なるものには一切遭遇しない。 このような理解でよろしいでしょうか? 質問が多岐に渡りすいません。 また宜しければご回答頂ければ幸いです。 よろしくお願い致します。
迷い人 (火曜日, 08 8月 2023 07:54)
管理人様、連日のご質問に丁寧にご回答頂き本当にありがとうございます。 再度、精読させて頂き、なにかありましたらコメントさせて頂きます。 本当にありがとうございます。 ご縁に感謝致します。
KEN(管理人) (日曜日, 06 8月 2023 20:42)
迷い人さんへ、 遅くなりました。では質問2つですね。 >1、この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか、を悩むときがあります。肉眼に映るものは自我の作り出したものであり、特別な関係であり、一切は自我の策略で騙されるものか、そのように考えると虚しく、気が滅入ることにもなります。 確かに究極的には、肉眼に映るもの、つまりこの物理的世界は自我の作り出したものです。 完全に贖罪が終われば消滅します。(するようです。) 究極的には、、ということであり、その手前の状態では、特別な関係(非神聖な関係)と特別でない関係(神聖な関係)があるように、神聖な関係としてこの世界を体験すればいい、となります。 この世界をそのまま経験することになんら問題なく、この状況を何とかしたい、変えたいと感じなければ、つまり「嫌だ(脅かされた)」と感じなければ、そこには問題はないということです。 経験の中でもし「嫌だ(脅かされた)」と感じるものがあるのであれば、そのとき、赦しを発動させればいいのです。(しかも赦したいと思ったとき。赦したいと思っていなければ発動しても機能しません) ですので、この世界がみせるものを「美しいものを美しいと感じて良く、楽しいことを楽しいと感じてよく、人の優しさに感動、感謝してよい」のです。 >気が滅入る、は、平安とは異なりますからこれは聖霊の見方ではないということでしょうか? おっしゃる通りです。 聖霊の見方ではありません。 >第一義的なもの、真なる幸福は内なる平安であり、それ以外は幸せに似たものであり、永続性なく、いつでも憎悪や醜いものに変わる。 再度確認しておきますが、憎悪や酷いものがやって来るのではなく、やって来ているものに対してそのように感じているだけで、内なる平安があれば、憎悪や酷いものとは感じない、ということです。 内なる平安があれば、つまり赦しが完了し、赦すことが無くなれば、完全贖罪の到達となれば、もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります。 まだ赦す必要のあるところがあれば、憎悪や醜いものとして感じられます。 >これをきちんと理解した上で、五感で幸せに似たものに喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構わないのでしょうか?もしくはそのように感じることは幻想を強化、自我の選択になるのでしょうか? 喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構いません。 気を付けることがあるとすれば、その感じたことを再現しようと捉われることです。 それは執着、つまりその状態が手に入らないと「嫌だ」という自我の策略になります。 >これに関する奇跡講座の該当箇所、管理人様のご見解がありましたら教えて頂ければと思います。 今回の質問自体が奇跡講座のあらゆる個所に及ぶため、シンプルにまとまってここに書かれていると今すぐ指摘することができません。 また、いくつもの箇所を総合するとこのようになる、といったものも含まれます。 それでも「ここについての該当箇所を知りたい」という場合は、直接記述がある場合とそうでない場合がありますので、その都度聞いてもらえれば回答する、ということになります。 >2、自分の肉眼でみるものはすべて自分(この場合の「自分」は分離した迷い人)の内なる思考の投影であり、逆に言えば自分の内にないものは投影されない、人生で遭遇はしない、という理解になるのでしょうか? 「自分の肉眼でみるもの【を通して感じるもの(知覚するもの)】はすべて」としてください。 この世界はすべて関係性を生じさせるために存在します。単独では意味はありません。 自分の内にないものは投影されません。それはその通りです。(出来事には遭遇するかもしれませんが、それに自我が投影されない、ということです。) >過去世含め自分の内にないものは人生に投影されないのか はい、されません。自分の内にあるものが投影されます。 赦しによって取り除かれればそれ以降は自我は投影されなくなります。 >『形』は関係ないため、個としての自分の過去世含めた過去の行為や思考に関係なく、無差別に原初のひとつの自我の投影が様々な形態で個々人の人生にも生じるのか 「無差別に原初のひとつの自我の投影」は、おそらく次のことでしょう。 自分自身の実相を誤認するという「原初の誤り」から「多数の自我」が生じます。 それが様々な形態で個々人の人生に投影されることで「脅かされる」体験として経験されます。 この「脅かされる」体験を生み出すための最適な環境を常に聖霊が用意しています。 これが「偶然はない」と言われる所存です。
迷い人 (日曜日, 06 8月 2023 08:05)
管理人様 お言葉に甘え、また新たに2つご質問させてください。 1、この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか、を悩むときがあります。 肉眼に映るものは自我の作り出したものであり、特別な関係であり、一切は自我の策略で騙されるものか、そのように考えると虚しく、気が滅入ることにもなります。 気が滅入る、は、平安とは異なりますからこれは聖霊の見方ではないということでしょうか? 第一義的なもの、真なる幸福は内なる平安であり、それ以外は幸せに似たものであり、永続性なく、いつでも憎悪や醜いものに変わる。 これをきちんと理解した上で、五感で幸せに似たものに喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構わないのでしょうか? もしくはそのように感じることは幻想を強化、自我の選択になるのでしょうか? このあたりをどのように解釈したらよいのか、なんとなくしっくりせず、これに関する奇跡講座の該当箇所、管理人様のご見解がありましたら教えて頂ければと思います。 2、自分の肉眼でみるものはすべて自分(この場合の「自分」は分離した迷い人)の内なる思考の投影であり、逆に言えば自分の内にないものは投影されない、人生で遭遇はしない、という理解になるのでしょうか? 奇跡講座の赦しと異なるかもしれませんが、自分の赦しのやり方のひとつとして、相手に怒りを感じたときに、過去に自分も相手がしたことと同じことをしていないか、自分にも同じ考えやクセがないか、を考えるようにしています。 そして思い当たることがあれば、ああこれはまさに自分の投影だと思うことができ、赦しが容易にできます。 「神の使者」の著者も同じようなことを述べており、思い当たらないことは過去世で自分がしたことでそれを含めればすべてが自分の投影なのだ、というような趣旨の文章が彼の他の書籍にあったように記憶してます(「神の使者」の著者はJACIMでも功績は認めながらも、逸脱した部分もあると述べていますからそこは参考にすべきではないかもしれません)。 まとめますと、 過去世含め自分の内にないものは人生に投影されないのか もしくは 『形』は関係ないため、個としての自分の過去世含めた過去の行為や思考に関係なく、無差別に原初のひとつの自我の投影が様々な形態で個々人の人生にも生じるのか これは奇跡講座的にはどちらの解釈になるのでしょうか?
迷い人 (金曜日, 04 8月 2023 07:22)
管理人様 >ですが、厳密にはこれも言葉の奥の意図を確認しないと正確には判断できません。 >なので、自分がどう感じているか、それは、自分に聞くしかない、ということです。 本当におっしゃる通りに思います。本当の奥の奥の自分の本心はなにか?をもう少し見つめる時間を取ろうと思います。 >迷い人さん、いつもありがとうございます。 赦しに関心があればどれも思い当たることのある質問です。 こちらこそ本当にありがとうございます。一人では思いつかないヒントや答えを沢山頂き本当に感謝しております。 >質問お待ちしています。 ありがとうございます。 もうひとつ最近思うものがあり、また近々ご質問させてください。セッションも予定が決まり次第、また申し込みさせて頂きたいと思いますのでその節は宜しくお願い致します。
KEN(管理人) (木曜日, 03 8月 2023 12:44)
新たな質問ですね。 回答の前に、 >両親の愛情を他者に求め、むしろ普通以上に人間を無意識に信じようとし、その過度の期待は常に得られず人間に失望する、を繰り返していたのだと気づきました。 素晴らしい洞察ですね! では、質問は2つなので順次見ていきます。 Q1.はじめから他者に期待しない、なにがあっても「そもそも人間などそんなものだし期待しない」という考えにしました。・・・ 他者をみて、裁かずに、「自我の他者はそんなものだ」で留まってます。・・・ これもまた自我の思考体系になるのでしょうか? A1.「期待しない」は聖霊の見方です。 自我は常に「期待」によって何かを獲得しようともくろみます。 ただし、厳密には言葉だけでは判断できず、実際には「獲得」が目的かどうかが判断のポイントとなります。 「期待しています」にも、そこに獲得の意志がない場合もあり、それは聖霊の見方となりますし、その逆もしかりです。 また、「自我の他者はそんなものだ」これは、そのまえに「裁かずに」と書かれていますが、一般的には「自我の他者はそんなものだ」自体は裁きです。他者に対するジャッジです。 ですが、厳密にはこれも言葉の奥の意図を確認しないと正確には判断できません。 今回の迷い人さんの場合は、「その結果、非常に対人関係が楽になりました。」とあるので、おそらく裁きの意味合いはなく自我ではないと見ていいと思います。 まあ、「楽で問題がなければ」自我であろうと、そうでなかろうとどっちでもいいでしょう。(むしろ自我か聖霊かを気にするところに問題があるかもしれません) Q2.もし自我の選択だったとしても、いまの自分はそれがしたいのだから、他者や世界に期待しないという信念を自分がいやになるまでやっていけばよい(やっていくしかない)ということになるのでしょうか? 「いまの自分はそれがしたいのだから」それ以外にやりようがないですよね。 それでいいと思います、、というか、そもそも私がいいとか悪いとか言えるものでもありません(笑) 原理原則は、人が考えを変えるのは「そう考えている自分では幸せでない」ときだけです。 そして、「そう考えている自分は今幸せかどうか」は「自分」しか知りません。 なので、自分がどう感じているか、それは、自分に聞くしかない、ということです。 (逆に言えば、まだそこまでは不幸だと思えていないから、つまり嫌だと思っていないから、考えを変えない、となります。) 迷い人さん、いつもありがとうございます。 赦しに関心があればどれも思い当たることのある質問です。 常に掲示板はオープンですが、迷い人さんのように質問してくださる方は少ないです。 質問お待ちしています。
迷い人 (木曜日, 03 8月 2023 08:21)
管理人様 先日はありがとうございました。新規でご質問させて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。 「赦し」と「期待しないこと」についてです。 私は両親を幼少期に亡くし、医学的には愛着障害に属します。加え、人生で様々な裏切りに遭遇し、人間は信じるに値しない、愛など利用に過ぎないと思っていました。 しかし最近、実は逆で幼少期に受けられなかった両親の愛情を他者に求め、むしろ普通以上に人間を無意識に信じようとし、その過度の期待は常に得られず人間に失望する、を繰り返していたのだと気づきました。「あなたは人を信用しすぎるんだよ。」「会社の人間関係なんかそんなもんだよ」とも言われたことがあります。 前置きが長くなりましたが、そのため最近でははじめから他者に期待しない、なにがあっても「そもそも人間などそんなものだし期待しない」という考えにしました。その結果、非常に対人関係が楽になりました。 この考えは自我の他者に対する見方であればその通りに思いますが、赦し、聖霊の選択は、肉眼でみえるその他者の裏切りなどを超えて相手の聖性をみることになると思います。 ただ、それはできず、自我の他者をみて、裁かずに、「自我の他者はそんなものだ」で留まってます。 これもまた自我の思考体系になるのでしょうか?裁いてはおらず、囚われず、深刻にも考えてはいないです。ただ、それならば聖霊の見方、相手の聖性を見ようとするはずだ、と言われれば違うのかもしれません、、、 前回教えて頂いたようにそれがもし自我の選択だったとしても、いまの自分はそれがしたいのだから、他者や世界に期待しないという信念を自分がいやになるまでやっていけばよい(やっていくしかない)ということになるのでしょうか? 質問以外にも全文から感じたことへのアドバイスなどございましたら頂けますと幸いです。 宜しくお願い致します。
迷い人 (日曜日, 30 7月 2023 06:59)
管理人様 ご返信ありがとうございました。 返答がいつも遅くなりすいません。 色々とすっきり致しました。 本当にありがとうございました。 セッション、また検討の上、申し込ませて頂きます。 たくさんの学びを本当にありがとうございました。
KEN(管理人) (金曜日, 28 7月 2023 10:46)
>「嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ない」が腑に落ちないちない 罪がある人は罪に対処するために状況を変更しようとします。 無罪であれば、今置かれている状況のままでなんら問題と感じていないため、何かを変える必要を感じません。 園長の「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない印象からは、この件に関して関わりたくない、さっさと終わらせたい、ではないかと思います。 他者が関わってくるこの状況を関わりのない状況に変えたい。 関わられているこの状況が『嫌』だから。 もし『嫌』でなければ(『脅かされている』と感じていなければ)、むしろ真摯に対応しているでしょう。 >テキスト(ワークブック?)の該当箇所を教えていただけますでしょうか。 T-12.Ⅰ.1:6(T-12.Ⅰ.1.-10.) >正直な回答は「YES」です。 平安から遠ざかるのが嫌だから赦す、では、『嫌』(脅かされている状態)つまり自我からの選択だということです。 条件付きの赦しは自我、愛は無条件です。 条件がなければ、何の制約もなければ、無条件であれば、迷い人さんの回答は「赦さない」でした。 意志の力は強力です。 神よりも強い(あなたには逆らえない)と奇跡講座にはあります。 赦しは、奇跡志向の衝動(両面感情を伴わない獲得衝動が皆無な思い)から行なわれるものです。 >わたしとしては「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先すべきに思っていますが、それは自我になるのでしょうか? 「べき」は、明らかに自我です。 自分をないがしろにしてしまっています。 真のあなたは神や聖霊と同じく「実在するもの」です。 この「実在するもの」に耳を傾けずに世間一般論である「べき」に委ねてしまうのであれば、私たちにできることは何もありません。 >抑圧して本心に逆らって無理くり行うことが問題というか自我という理解でよいでしょうか? はい、おしゃる通り自我です。 ですが、(奇跡志向の衝動は今の私たちが起こそうと思っても起こせるものではありませんので、)奇跡志向の衝動が生じない今は、自我に従い無理くり行うしかありません。 あるいは混乱するしかありません。(自我に従いたくない!も、嫌なものを避けようとする衝動のため自我) それが成功するかもしれませんし、成功しないかもしれません。 いずれにしても経験をもってはっきりそっちの道ではないと十二分に実感することで、もはや自我は信頼できないと分かり、自我との関係に亀裂が入る瞬間を迎えます。 このときが奇跡講座で言うカリキュラムの変更(方向転換)です。 >※セッションにつきまして 急ぐことでもありませんので、必要だと感じたときにいつでもお申込みください。 いつも迷い人さんの真摯な質問に感謝しています。 それに答えることのできる喜びも感じています。
迷い人 (金曜日, 28 7月 2023)
管理人様 ご返信ありがとうございました。 大変理解が深まりました。 ありがとうございます。 一部不明点を以下に記載させて頂きます。 >園長は罪悪感が無いのではなく、罪悪感があるからこそ嫌な気持ちになり、このような言動をとったと見ます。 嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ないと思います。 「嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ない」が腑に落ちないのですが、本当は罪悪感があるがわざと強がっている、というような意味に捉えればでしょうか? >また、基本的に奇跡講座は他者の罪の分析には意味がない(むしろ危険)と言っています。自分の罪こそが焦点です。 ありこれはどこかで聞いたことがあります。 手帳に自戒の言葉として書き留めておきたいと思いますので、もしお分かりであれば テキスト(ワークブック?)の該当箇所を教えていただけますでしょうか。 >「平安から遠ざかることが一切なければ」赦さないのですか? >脅かされなければ何かを選択しないのでしょうか? 正直な回答は「YES」です。 >どんなことでも「自分がどうしたい」を尊重せず、「何が正しい・正しくない」で選択しようとします。 >そういう生き方を十二分に行った先に、「もういやだ!」と本気になれます。 「正しい・正しくない、そんなの関係ねー!」とようやく本心を吐露できるようになります。 わたしとしては「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを 優先すべきに思っていますが、それは自我になるのでしょうか? 「自分がどうしたい」を尊重せず「何が正しい・正しくない」で選択すると抑圧になる、とい うことでしょうか? この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。 >この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。 >「どうしたいか」、意志の問題です。 ひとつ前の質問と同じで抑圧して本心に逆らって無理くり行うことが問題というか自我という 理解でよいでしょうか? >自我からの選択は選択ではなく、無です。 『「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先』が自我 の選択になってしまうというのが理解できないでおります。 徹底的にそれが自我であろうが自分の本心に正直な選択をし、それで自分自身で「ああもうこの 考えでは苦しい、いやだ!」そう思うまでは真の意志での聖霊の選択ではない、という理解でよろしいでしょうか? 私は意志というものを「〜したい」という気持ちを抑制し、「正しい=聖霊の思考」を選ぶことと思っていました。 ※セッションにつきまして 7/20(木)までで9/4(月)より再開、とありました。まだ9月平日の会社を休める日が不明確なため申し込みは確定後にさせて頂きます。 宜しくお願い致します。
迷い人 (木曜日, 27 7月 2023 09:15)
管理人様 また早々にご返信頂き本当にありがとうございます。 >以上、お答えできずにいる部分もあるかもしれませんが、基本的な回答としてご理解頂けましたらと思います。 また疑問がありましたら追記ください。 セッションでも対応しております。 ありがとうございます。 精読させて頂き、セッション含め返答させて頂きます。 取り急ぎお礼まで。
KEN(管理人) (水曜日, 26 7月 2023 16:42)
>罪を犯した場合は「実相とのずれ」が生じ、「嫌な気持ち」として現れる。その「嫌な気持ち」については真の想念ではなく、幻想直視を行い、それにより幻想世界の行動としても必要であれば「反省、謝罪、懺悔」の行動が自然に表現されていく。 >このように理解を致しました。合っておりますでしょうか? 少し気になる点があります。 次の部分です。 >罪を犯した場合は この部分を、次のように理解があれば問題ないのですが。 >罪を犯しているので なぜこの箇所を指摘したか、ですが、 文章の流れを読むと迷い人さんがここで言われている「罪」というものを、この世界で一般的に使われている「罪」として理解しているのではないか、と感じたからです。 奇跡講座での「罪」は、実相の自分と今の自分とのずれのことです。 私たちはすでに「ずれ」ていますので、この世界で嫌な気持ちを体験します。 つまりすでに「罪」があるので、外の世界を見て嫌な気持ちになる、ということです。 奇跡講座は、この「ずれ」すなわち「罪」に気づいて訂正しましょう、という教えです。 これが赦しです。 >それはまったくの無反省かもしれません >これはあり得るのでしょうか? 無反省があり得るかどうかはわかりません。 これは、実際に赦しによる贖罪、つまり「ずれ」の解消がなされたとき、直感的に(インスピレーションとして)何をすべきかを知るというものです。 ですので、可能性として無反省も排除しなかっただけです。 実際問題としては無反省はないかもしれませんが、今の時点ではそれは誰にも分かりません。 いわゆる神のみぞ知る、というやつですね。 >自分としてはその「実相とのずれ」による「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、導かれるものと思っております。ここに自分の凝りといいますか、なにか強烈な信念があるのだと感じます。 ここも気になります。 >「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、 「嫌な気持ち」の解消のために赦しをやるのではありません。 また、その方法が「反省、謝罪、懺悔」の行動であることもありません。 方法は「赦し」です。 赦しは「反省、謝罪、懺悔」の行動ではありません。 赦した結果、なんらかの行動が現れる、あるいは現れないということです。 >少し前になりますが、ニュースで幼稚園バスの園児閉じ込め事件 (中略) その園長はまったく申し訳なかったという態度や言動はなく、「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない感じでした。 この文章を見ても「罪悪感」の捉え方が奇跡講座のそれではなく、一般的な「罪悪感」の理解を迷い人さんがされているように感じます。 園長は罪悪感が無いのではなく、罪悪感があるからこそ嫌な気持ちになり、このような言動をとったと見ます。 嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ないと思います。 また、基本的に奇跡講座は他者の罪の分析には意味がない(むしろ危険)と言っています。 自分の罪こそが焦点です。 >●Q3につきまして >ご回答いただきました内容については私も理解しているつもりでおります。 >そのうえで、なぜ「病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。」なのか?なぜ「老い」は回避されないのか?が疑問としてございます。 前回も申しました通り、自分の心の平安は「外の世界は関係ない」です。 外の世界がどうであろうと私たちは神の平安をすでに受け継いで保持しています。 奇跡講座では「世界は無い(存在しない)」とも宣言しています。 もちろんこの幻想世界に実相世界が反映されることはすばらしいことです。 ですが、反映していなくても赦しが完了しれば(すなわち贖罪すれば)すでに心の平安はそこにあります。 心の平安があるからこそ、もはや反映していようとしていなかろうとどちらでもいいのです。 実相世界の反映を気にするのは自我だけです。 >わたしとしては正直な気持ち、意志としては怒りを示したいと思っています。 ご自身でお気づきになられています。 自我は、「平安から遠ざかるの・な・ら・ば」赦しを行いたい、いや行うべきだ、とよく言います。 「平安から遠ざかることが一切なければ」赦さないのですか? 脅かされなければ何かを選択しないのでしょうか? もしそうなら自我にからめとられています。 どんなことでも「自分がどうしたい」を尊重せず、「何が正しい・正しくない」で選択しようとします。 自我の人を咎めているのではありません。 自我とはそういうものです。 仕方がないのです。 今はそれ以外の選択肢がないのですから。 そういう生き方を十二分に行った先に、「もういやだ!」と本気になれます。 「正しい・正しくない、そんなの関係ねー!」とようやく本心を吐露できるようになります。 >長期的にはどうすればよろしいのでしょうか?「抑圧するから意志に従い怒りを示す」ことをずっと続けていてはいつまでも平安にたどり着けないのもまた事実で、それも困ると思う自分も事実おります。 迷い人さんはいいところまで来ていると思います。 心の奥深くでどこかでこのまま怒りを示し続けてもうまくいかないと感じています。 この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。 それまでは悩み悶々とした揺れ動く日々を過ごすことは避けられません。 「長期的にはどうすれば」ですが、「どうすれば」はありません。 つまり方法はありません。 「どうしたいか」、意志の問題です。 真の意志によって赦しが選択されるとき、これが奇跡講座の序文にある「いつ受講するかだけがあなたの自由」の意味です。 それまでは選択できません。 自我からの選択は選択ではなく、無です。 以上、お答えできずにいる部分もあるかもしれませんが、基本的な回答としてご理解頂けましたらと思います。 また疑問がありましたら追記ください。 セッションでも対応しております。
迷い人 (水曜日, 26 7月 2023 08:04)
管理人様 大変遅くなりました。 改めてご回答本当にありがとうございました。 ●追加質問へのご回答につきまして >実相と一致していれば(心が癒されていれば)黄金律に則って適切な行動が生じます >適切な行動を取るには、まず実相とのずれを癒す必要があります。 >実相とのずれは「嫌な気持ち」として現れます。 ありがとうございます。 誤解釈かもしれませんが、自分としては、 罪を犯した場合は「実相とのずれ」が生じ、「嫌な気持ち」として現れる。その「嫌な気持ち」については真の想念ではなく、幻想直視を行い、それにより幻想世界の行動としても必要であれば「反省、謝罪、懺悔」の行動が自然に表現されていく。 このように理解を致しました。合っておりますでしょうか? もし合っておりましたら、ここまでは非常に納得がいきます。 ただ、 >それはまったくの無反省かもしれません これはあり得るのでしょうか?ここがどうしてもひっかかります。自分は「反省、謝罪、懺悔は必要である。不要なケース、無反省でよいケースなどない」と強く思っているが故だと思います。 自分としてはその「実相とのずれ」による「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、導かれるものと思っております。ここに自分の凝りといいますか、なにか強烈な信念があるのだと感じます。 少し前になりますが、ニュースで幼稚園バスの園児閉じ込め事件がありました。そのときの会見による園長の態度に驚愕したのを覚えております。その園長はまったく申し訳なかったという態度や言動はなく、「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない感じでした。 ここで思ったのは、しかし奇跡講座では罪悪感は自我であり、罪悪感を感じて泣いて反省しているようにみえる保育士の方々が自我の思考であり、幻想を深刻に捉え罪悪感を感じている。対し、園長は罪悪感なく、深刻にもなっていない。園長は聖霊の思考を選択しているのか?いや、違う、、、 とわけがわからなくなったことがあります。このときに「やはり人間として反省、謝罪、懺悔は不可欠」と強く思ったのかもしれません。 わたしとしては罪悪感をいつまでも持ち続けるのは間違い、しかしながらその対極として、まったく罪悪感なく無反省も同じく間違いと思っています。しかしながら奇跡講座で「まったく罪悪感なく無反省も同じく間違い」とは述べていないように思い、また迷い人になっているのだと思います。 このあたり、なんらかアドバイス頂けますと幸いです。 ●Q3につきまして ご回答いただきました内容については私も理解しているつもりでおります。 そのうえで、なぜ「病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。」なのか?なぜ「老い」は回避されないのか?が疑問としてございます。 神に創造されたままの私としての自覚が深まれば、それが幻想世界にも反映され、老いも含め、神にふさわしくないものは一切が投影されず、代わりに神に創造されたままの姿で、老いず、病も消滅する。これが法則として100%生じるのではないか?なぜ病にのみ限定され、かつ、その病ですらも治癒する場合もそうならない場合もあるのか?が疑問にございます。 もちろん、幻想世界での健康や若さなど形自体は奇跡講座ではまったく重視しておらず、それと関係なしに内なる平安にフォーカスしており、そこは私もとても賛同しております。ただ、自分は完璧主義というか、思想的な矛盾が気持ち悪く感じてしまうためご質問させて頂きました。 ここまで書いていて思いましたが、私は決して奇跡講座にケチをつけたい、なにか思想的な弱点をみつけ崩したいというわけではありませんので誤解なさらないでください(正確には私の自我がなんとか奇跡講座から切り離したいと躍起になっているということかもしれませんが、、、) ●Q2につきまして >はっきりさせておきたいのですが、迷い人さん自身がどうしたいか、つまり迷い人さんの意志が最重要です。 怒りを示したければ示すしか選択肢はありません。 自分自身が怒りを示したいのに、示さなければ自分と闘うことになります。 >繰り替えしになりますが、迷い人さん自身がどうしたいか、が最優先です。 「聖霊のレッスンがいいから」という理由で選んでもそれは自我からの選択です。 「いい・悪い」で選択するものではありません。 そうしたいかどうか、意志の問題です。 これは無理に教えに沿って行うことは抑圧するだけだからということでしょうか? わたしとしては正直な気持ち、意志としては怒りを示したいと思っています。 しかしそれが自我の選択であり、平安から遠ざかるのならば、その意志を止めて、怒りを示さないようにしたい、(ここまで書いて思いましたが、「したい」とは思っていない自分がいます。平安よりもとにかく怒りを示したいのですね、、、、)。 この場合、やはり、無理くりに怒りを抑圧し、聖霊の選択(怒りを示さない)をしたとしても、それはおっしゃるように結局は自我の選択になる、ということでしょうか? もしこれまで私が述べてきたことが正しいとするならば、長期的にはどうすればよろしいのでしょうか?「抑圧するから意志に従い怒りを示す」ことをずっと続けていてはいつまでも平安にたどり着けないのもまた事実で、それも困ると思う自分も事実おります。 長文になり申し訳ございません。 何卒宜しくお願い致します。 (別件) セッションも行っておられることを知りました。 他にもご相談したいこともあり、別途、是非申し込みさせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。 本当に長くなりました。 何卒宜しくお願い致します。
迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 17:49)
管理人様 またまた早々にご回答ありがとうございます。本日、まだ仕事が遅くなりますので、明日以降、きちんとした返信をさせて頂きます。 取り急ぎお礼まで。 本当にありがとうございます。
KEN(管理人) (月曜日, 24 7月 2023 13:08)
迷い人さんへ、真摯な質問ありがとうございます。 追加の質問ですね。お答えします。 Q.罪(と見えるもの)を幻想世界で犯した(ようにみえる)場合、反省、謝罪、懺悔は必要ないのでしょうか? (中略) 形は意味はないのであれば、せめて心の中ででも「申し訳なかった」という考えを持つことは大事なことに思います。もちろんいつまでも繰り返し繰り返し申し訳ないと思い続けるのは自分への攻撃であり、自我の策略に思います。 しかし、全くの無反省、申し訳ないという気持ちすら持たなくてよいのか、がわかりません。 A.まず奇跡講座以前として、反省、謝罪、懺悔は自分がどうしたいかですし、しろとかするなとか言われなくてもしているものです。 自分自身に聞いてしたいことをしましょう。 奇跡講座でいけば、実相と一致していれば(心が癒されていれば)黄金律に則って適切な行動が生じます。 実相と一致していなければ何をやっても不適切な行動となります。 適切な行動を取るには、まず実相とのずれを癒す必要があります。 つまり赦す必要があります。 実相とのずれは「嫌な気持ち」として現れます。 罪と見えるものを幻想世界で犯したように見える出来事を通して何がいちばん嫌なのかを特定する必要があります。 すでにご存じと思いますが、嫌という気持ちは幻想です。 癒されている心には嫌と言う気持ち(脅かされる思い)はありません。 ですので、嫌という気持ちは何かしら勘違いをしている、ということです。 この勘違いを解く必要があります。 つまり幻想直視を行う、ということです。 幻想が解ければ適切な行動ができます。 それはまったくの無反省かもしれませんし、申し訳ないという思いから何らかの行動がでるかもしれません。そのときの行動はつねに適切なものとなります。
迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 12:33)
管理人様 すいません、一番お聞きしたかったことが抜けていましたので、返信より先に追加で書かせてください。 罪(と見えるもの)を幻想世界で犯した(ようにみえる)場合、反省、謝罪、懺悔は必要ないのでしょうか? ワープニックさんの本を読み、幻想だから何をしても良いわけではない、ということは理解することができました。 ただ、反省、謝罪、懺悔は必要ないのだろうか?と悩んでしまいます。 形は意味はないのであれば、せめて心の中ででも「申し訳なかった」という考えを持つことは大事なことに思います。もちろんいつまでも繰り返し繰り返し申し訳ないと思い続けるのは自分への攻撃であり、自我の策略に思います。 しかし、全くの無反省、申し訳ないという気持ちすら持たなくてよいのか、がわかりません。奇跡講座でそれについてどう述べられてるか、お分かりであれば教えて頂けると幸いです。 宜しくお願い致します。
迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 12:07)
管理人様 早々にご回答ありがとうございます。また別途返信させて頂きます。どうもありがとうございます。
KEN(管理人) (月曜日, 24 7月 2023 11:21)
迷い人さん、お久しぶりですね。 学習を継続されているとのこと、嬉しく思います。 さっそく疑問にお答えします。 Q1.赤ちゃんには目覚めの機会すらないのは何故でしょうか。 A.赤ちゃんにとっては関わる人たちを目覚めさせるという役割を持ってこの地上にやってきました。 その赤ちゃんにとってはそれで充分だったのでしょう。 (それで目覚めるかどうかは関わる人たち各人の選択となります。 赤ちゃんはあくまで機会の提供としての役目です) Q1-.聖霊か自我かの選択は、結局は思考ができる年齢からですか。 A.はい、迷い人さんのおっしゃる通りです。 しかし、選択は自我と同一化している今の私たちには出来ません。 ワプニックさんも言及していますが、まずは健全な自我を育て、この私たちが考えている幸せのやり方では幸せになれないとはっきり自覚できたとき、すなわち自我を信じる自己アイデンティティが崩壊したとき、そのとき初めて真の選択が可能となります。 それまでは自我を信じる力が強すぎて聖霊の思考を選択することが私たちにはできません。 自我から選択しようとしてしまうからです。 Q2.怒りは自我の選択に思います。 A.はいそうです。 Q2-.人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか? A.はっきりさせておきたいのですが、迷い人さん自身がどうしたいか、つまり迷い人さんの意志が最重要です。 怒りを示したければ示すしか選択肢はありません。 自分自身が怒りを示したいのに、示さなければ自分と闘うことになります。 Q2--.舐められても自我の投影だとして、相手の聖性をみるレッスンと捉えればよいでしょうか?単に幻想世界でよい人間関係を構築するためならば怒りを示したほうがうまくいきますが、それは自我の考え、特別な関係にあたるのでしょうか。 A.はい。自我の考え、特別な関係にあたります。 繰り替えしになりますが、迷い人さん自身がどうしたいか、が最優先です。 「聖霊のレッスンがいいから」という理由で選んでもそれは自我からの選択です。 「いい・悪い」で選択するものではありません。 そうしたいかどうか、意志の問題です。 Q3.神の創造されたままの私を自覚すれば、その反映として病気はなおる。あくまでもオマケ的な位置づけですが、奇跡講座では病気は反映として治るとされてます。 それならば、老いや様々な悲惨な状況も反映として癒やされる、幻想世界でも老いず、悲惨な状況は投影されないはずですが、敢えて病気のみはなおると限定されているのは何故でしょうか。 A.病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。 癒されるのは病気ではなく、実相からずれた心が癒されるのです。 奇跡講座では外の世界とあなたの幸せ(心の平安)とは一切関係がないと言います。 外の世界がどうであれ、たとえ老いていようと悲惨に見える状況であろうとあなた自身の心の平安とは一切関係がありません。 つまり心が癒されていれば、平安であれば、老いも悲惨な状況も一切気にならない、ということです。 老いも悲惨に見える状況も、嫌なもの、悲惨なものと見ているのは(そう決めつけているのは)今のあなたです。 私たちはそのようには見ません。 ただ老いがある、そういった状況がある、ただそれだけです。
迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 08:19)
すいません、一部補足と訂正です。 >1、赤ちゃんは自己概念AにもBにもCにも属しておらず、聖霊の選択も、自我の選択もしていないように思います。赤ちゃんのまま亡くなる場合もありますが、目覚めの機会すらないのは何故なのか?と思ってしまいます 聖霊か自我かの選択は、結局は思考ができる年齢からであり、それは脳が行っていることを意味すると思います。結局は脳なのか?脳は自我が作り出した幻想ではないのか?とわからなくなります。 >2、怒りは自我の選択に思いますが、人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか? 甘んじて受ける、というより、舐められても自我の投影だとして、相手の聖性をみるレッスンと捉えればよいでしょうか?単に幻想世界でよい人間関係を構築するためならば怒りを示したほうがうまくいきますが、それは自我の考え、特別な関係にあたるのでしょうか。
迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 08:10)
管理人様 ご無沙汰しております。 以前は真摯にご回答くださりありがとうございました。 なんとか以前の疑念は克服し、またワークブックを中心に学んでおります。 新しく疑問が生じたため、ご回答くだされば幸いです。 1、赤ちゃんは自己概念AにもBにもCにも属しておらず、聖霊の選択も、自我の選択もしていないように思います。赤ちゃんのまま亡くなる場合もありますが、目覚めの機会すらないのは何故なのか?と思ってしまいます 2、怒りは自我の選択に思いますが、人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか? 3、神の創造されたままの私を自覚すれば、その反映として病気はなおる。あくまでもオマケ的な位置づけですが、奇跡講座では病気は反映として治るとされてます。 それならば、老いや様々な悲惨な状況も反映として癒やされる、幻想世界でも老いず、悲惨な状況は投影されないはずですが、敢えて病気のみはなおると限定されているのは何故でしょうか。 すいません、宜しくお願い致します。
KEN(管理人) (土曜日, 15 7月 2023 14:04)
みっちーさん、こちらこそありがとうございます。 記事ではうまく表現できず何度もブログに上げては下げてきた「私が支援メニューの提供を全停止した理由と再開について」、この半年でようやく言語化できるに至った内容のシェアを中心にセッションをさせていただきました。 (記事のブログ再掲は無or未定) みっちーさんの文章からKENが伝え語ったことを明晰に受け取って下さっているのがよく伝わってきます。 理解力の高さに感銘を受けました。 ほんとうにありがとうございます。 KEN自身、とても大きなブレイクスルーになりました。 重大な謎が解けた、そんな半年です。 これまで提供してきた内容に違いはないものの、大きく地に足が着いた、そんな印象と言えばいいでしょうか。 奇跡講座は難解だと言われています。 私から言えばとてもシンプル。 KEN自身の内側で掴んでいるこの感覚をよりシンプルに伝えられるよう、明晰な表現を求めてこの先も続けていきます。 この先半年、半年よりは1年先のほうがさらに解像度の高い表現が見つかっているはずですし、そうしたいものです。 またシェアさせてください。 波風が立たない、嫌なことがなければ、奇跡講座は役立たずです。 嫌なことが何もない本来の状態、そこがゴール。 嫌なことがなければ奇跡講座は必要なしです。 案外みっちーさんはもうすでにそこにいるのかもしれませんよ。 これから先も静かに皆さまを支援していければと思っています。 ありがとうございます! 【日本語字幕】キング牧師演説「私には夢がある」 https://www.youtube.com/watch?v=eQ6q2cnVXqQ スティーブ・ジョブズ 伝説の卒業式スピーチ(日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=RWsFs6yTiGQ 「ハングリーであれ。バカであれ。Stay hungry. Stay foolish.」 「最も大事なことは自分の直感に従う勇気を持つことです」 癌、それ以前にすでに死(絶望)に彼もまた直面していたかもしれませんね。 「弓と禅」(武田鉄矢今朝の三枚おろしラジオ語り) https://www.youtube.com/watch?v=zewp3GgeoCg 本「パスワーク」自己のすべてを受け入れ統合された意識で生きる https://www.amazon.co.jp/dp/4903821013
みっちー (金曜日, 14 7月 2023 21:41)
KENさん、久々のセッションありがとうございました。 自分を愛することの大切さは、奇跡講座以外でもよく言われます。でも、ここに至るまでが非常に難しいのですね。 提示いただいた、JACIMサイトの質問No.71「健全な自我を育てる…」を読んで、このページは以前読んで抵抗を感じたことを思い出しました。奇跡講座の道に背を向けるような、こんな回答あり?と。 今日のセッションの後、改めてこれを読んで、自分は若くはないし、多分これまでに自我をしっかり育てられていないこともないだろうから、この自我は意外とうまく表面上は問題解決してきたのかも、と思いました。少しうまくいかないと、小手先でごまかす、みたいな。そうやって、荒波を立てないように生きてきたから、波が小さい分、絶望もなく、方向転換できない…! 自分にやりたいことをやらせてあげる時、自我の意図でさえそれを認める、これは、前にも「自己否定を重ねない」トピックで言われていたことかもしれませんが、それよりも積極的な感じで、驚きでした。 獲得思考からの意図であっても、それをやりたい、と言っていたらやらせてあげる。これは自我だから、とか気にせずに。わたしに必要なことかも、と感じました。 以前なら、「それって自己中で、周りに迷惑をかけるのでは」と思ったでしょうが、今はちょっと楽しみな気持ちです。それが荒波になるとしても! また何かご報告できれば嬉しいですが、さざ波で何もないかもしれません。 でも、今日お話できて心からよかったと思います。ありがとうございました。
KEN(管理人) (火曜日, 22 11月 2022 10:43)
「オンライン学習教材」の受講生の一人で、1年かけて教材を学んでこられた方です。 ぼんやりとしたやり方ではなく、地に足がついた赦しのやり方を学びたいということで、「真の赦しのやり方~超実用講座」を希望されました。 「赦しとは何か、どうすることなのか、どうなれば赦しは完了したことになるのか」 受講生ということもあり、赦しの基本的な理解もしっかりされていましたので、実用講座の理解も早く、実践セッションのさわりの部分まで行なっています。 ――― tomoeさん、感想ありがとうございます。 あれからご自身でも向き合われたようですね。 感じ方が変わったということで、先輩/上司との「非神聖な関係」を「聖性な関係」に戻せたと見ていいと思います。 赦しが出来たということです。 赦しが機能するとよく起きる、「これまでの相手の対応が変わる」があるかもしれません。 もしそうなら、赦しは完全に完了したと見ていいと思います。 そして次はこれですね。 「私の目標にしていたものを同僚が(先に)叶えてしまう」 手順は同じです。 超実用講座図①のところの一番の問題を絞り込む作業が大事です。 では次回会える日を楽しみにしています。 KEN
tomoe (月曜日, 21 11月 2022 22:45)
こんばんは 先日はセッションをありがとうございました。私にはとてもためになりました。 あれから先輩/上司のことは嫌にならずにいます。 最近になり、自分は目標を立てるといつもかなわないことに気づきました。 正確に言うと、他の人がそれを叶えています。 以前からそのようなことは多かったのですが、しばらく忘れていました。 しかし、またそのことに気付いたという感じです。 何か強い思い込みか罪悪感か何が作用しているのかわかりませんが、最近の会社の同僚たちを見ていて、自分が目標としていたのを私ではなく他者が叶えているさまを見ている自分を見ています。 以前のセッションで打ち明けた思い以上に強力な縛りであるように思います。 あまり感想になっていなくてすみません。 またお会いする日を楽しみにしております。 それまで教えていただいた赦しをしたく思います。 それではまた
迷い人 (土曜日, 12 11月 2022 19:48)
管理人様 回答ありがとうございます。 誤魔化さず、わからないところはわからないと述べられ、私が納得いかないであろうことも述べられている回答のご姿勢に尊敬、感謝申し上げます。 もう少しよく考えてみます。 いや、考えてもわかる領域ではありませんね、、、 奇跡のコースに出会い、小躍りした自分でしたが、再び迷い人となってしまいました。奇跡のコースを捨てるつもりはありませんが、歩みは止まってしまい、しばし離れることにはなりそうです。 ご回答ありがとうございました。
KEN(管理人) (土曜日, 12 11月 2022 19:08)
ちなみに、 神は、私たちがどんな夢を見ているかについては知らないと思います。 ただし、人間(あるいは神の子)というものは夢を見る場合があるということについては、神は知っていると思います。 なぜなら聖霊という存在を送り込んでくれていますので。 KEN
KEN(管理人) (土曜日, 12 11月 2022 18:57)
お待たせしました。 迷い人さんはじめまして。 ひとまず回答します。 1. 厳密には私にも分かりません。(いろんな情報を駆使して私なりの回答をでっち上げることはできますが。) 2. 奇跡講座としてはこのあたりが参考になるのではと思います。 「自我はどのようにして始まったのでしょうか? 何が分離の再発を防ぐのでしょうか?」 「神がこの世界や肉体を創造しなかったのなら、誰がそれらを創造したのですか? そしてまた、私たちは誰であり、どのようにしてここにやってきたのですか?」 『赦しのカリキュラム 奇跡講座について最もよく聞かれる72の質問と答え』 ケネス・ワプニック(著) グロリア・ワプニック(著) 澤井美子(訳) 加藤三代子(監) 質問11. 質問12.より Amazon和書サイト:https://www.amazon.co.jp/dp/4813607705/ 質問11.と質問12.の両方をまとめてざっくり言えば、 質問者「あなたは奥さんを虐待するのをいつやめたのですか?」 そもそも虐待をしたこともないのに、ここに登場する質問者は完全に奥さんのことを虐待していたと信じ込んでいます。これと似ていると言っています。 つまり、そもそも起こってもいないことを「どうして起こったの?」と聞いているということです。 存在していない自我と同一化しているあなたが、自我としての存在を確立するために、そのように「尋ねている」だけだと言っています。 「私は自分がここに存在していると信じている。 だから、私がどのようにしてここにきているのかを、今、あなたから私に説明してもらいたい」と言っているのと同じだということだそうです。 偽りの自己が、自分が「ここ」に居ると信じて、自分自身の起源らしきものについての質問を「尋ね」、それにより自分を証明しようとしている。 真実は、そんなことは一度も起こったことがない、です。 『神との対話』でも似たような問答があり、そちらのほうがもう少し分かりやすいですが、『奇跡講座/赦しのカリキュラム』であろうと『神との対話』であろうと、ある意味すべては”神話”であり、人間側が納得するために後付けされた説明にすぎないと私は理解しています。 そしてきっと納得できないのもよく分かります。 回答が一部のみになっているところもありますが、あらためて質問して頂ければ、またお答えしたいと思います。 KEN
迷い人 (土曜日, 12 11月 2022 17:20)
管理人様 ご返信ありがとうございます。 何卒よろしくお願い致します。
KEN(管理人) (土曜日, 12 11月 2022 13:00)
迷い人さんへ 真摯な質問ありがとうございます。 外出から戻ってからの回答になりますので少しお時間ください。 取り急ぎ返信となりすみません。 KEN
迷い人 (土曜日, 12 11月 2022 09:13)
はじめまして。 こんな狂った世界を神は創造などしていない、などに感動、共鳴し、ようやく本当の真理に出会えた気がしております。 しかし最近どうしてもわからなくなりました。それはこの世界が夢ならば、神が即座に目を覚ましてくださらないのは何故か?というものです。 神はこの世界を知らない、ともありますが、完璧な全知全能の神がご存知ないはずがないと思います。 他には悪夢から即時に起こすと衝撃が激しいからというものもありますが、同じく神は完璧ですから、衝撃なく即時に起こすことは可能に思います。 「赦しのレッスン」を得て、イエス・キリストなどの境地に達するなど稀有なケースであり、結局、赦しのレッスンという途方もないプロセスを経なければ目覚めることができない、その間はいくら夢とはいえこの狂った世界に留まらねばならない。そう考えると再び絶望感に陥りました。 神は何故この狂った世界から救う(目覚めさせる)ことはせず、途方もないプロセスを経なければ目覚めることができないことを放置しているのでしょうか?即時に目覚めさせてくれないのは何故なのでしょうか?
KEN(管理人) (水曜日, 25 5月 2022 12:41)
本心に耳を傾け寄り添うことができればそれがHappy。 本心が指し示す方向へ少しずつかもしれないが取り組めている、そしていい感じだとの報告ありがとうございます。 予言通りに運んでいるようでよかったです。 (本当はこれは実践セッションでやることですが) 赦すべきテーマについての個別相談がありました。 このテーマも本質的には以前からのテーマをぐるぐる廻っている感じでしたね。 よくあることです。 そして解決策も同じ。 突破するのに必要なことも同じ。 どの山から登っても結局出るところはいつも同じという感じですね。 こうやって確認することには意味があるし大事なんですよ。 何度も同じテーマに直面することでいずれは腹が決まります。 KENもそうでした。 他の人も多くはそうです。 ですので少しでも気になったことは何でもこうやって見ていくことが赦しに向かう姿勢として大事です。
みっちー (火曜日, 24 5月 2022 22:24)
KENさん、今日もありがとうございました。 前回3月のクラスでのお話を機に、赦しや悟りを一旦置いて、自分の純粋にやりたい事を改めて真剣に考えました。結果、それに向かって一歩か半歩でも踏み出せたことはとても嬉しく、今はそれに関しては楽しみしかないです。本当に感謝です。 それと同時に、赦しが必要と思われる件も出てきていたので、一緒に見ていただきました。 自己愛を望まないはずないじゃん、と思いますが、限界まで行かないと完全に覚悟することはできない…。気が遠くなりそうですが、その覚悟を見てくれている聖霊は何だかまさに神聖な親のようなので、安心して自分を信じて応援して好きなことをする!と思いました。 また報告させてください。ありがとうございました。
KEN(管理人) (金曜日, 18 3月 2022 11:04)
みっちーさん、こちらこそ! 毎回正直なシェアありがとうございます。 本心がやりたいことに沿うしか方法はありません。 つまり本心がエネルギーを注ぎたがっている方向に沿うことです。 本心、実は知っているようでいて真には知らない。 だからこそいろんな切り口を辿ってその本心を確認する。 普通はそんなところに疑問も持たないし、そもそもそこに問題があると思いていないからわざわざそれを見に行く意義も感じない。 普通の人はそこに抵抗を感じてあまり見に行こうとしてくれません。 それを毎回みっちーさんは真摯に取り組んでくれますね。 ありがたく感じます。 だからこそ考えてもみなかった真実に行き着く、気づく、辿り着く。 視界が晴れ、焦点が絞り込まれ、さあいよいよです。 それが赦しではなかったですが問題はありません。 本当にしたいことをする。 それが赦しなら赦しをする。 そうでないならしたいことのほうを優先する。 赦しがべつにいいわけではありません。 したいことをすることがいいことです。 したいことを我慢したりさせないほうが罪が重いです。 それが自分への愛だから。 こちらこそありがとうございます!
みっちー (木曜日, 17 3月 2022)
KENさん、この度もありがとうございました。 本当の自分を思い出すために真の赦しをしたいと思っていたはずなのに、本心では本気ではなかったと思い知らされました。 真の赦しで悟れると思っていて、なぜ悟りたいのか見ていくと、精神的に満たされていないということが出てきましたが、 精神的に高いレベルにいくことで、嫌いな人や周囲の他者よりも特別に優位に立てると思った、というのもやはりあると今改めて思いました。 そのような獲得志向の動機からでは、クラスで何度も出てきたように、真の赦しができるはずもなく、 赦しよりも、やりたいことをして生きていくことにエネルギーを注いだ方が…というお話は、難関クラスから下のクラスに落とされたような気分でしたが、 それでも、たしかにその通りだと思いました。 なぜ悟りたいのかという視点では、これまであまり考えていませんでした。そこも今回正直に見ていって、想定外の展開が再確認されて戸惑いましたが、純粋に楽しみな気持ちになりました。 また報告させてください! ありがとうございました。
みっちー (水曜日, 09 3月 2022)
KENさん、続けてありがとうございます。 キリストは決して裁かない・・・そうでした。 そして、自分の中の問題、自分との和平。注目するところが、外ではなく内ということですね。感覚的なところにとどまってモヤモヤしていましたが、向かう方向は自分の中だった、と改めて思い出せました。(すぐ忘れます。) こっちだよと何度も示していただくことで、奇跡講座の学びの道が、獣道から少しだけ舗装道路に近づくように感じます。 ありがとうございました。
KEN(管理人) (火曜日, 08 3月 2022 13:19)
みっちーさん、いつも率直な質問ありがとうございます。 世界的に大問題となっている戦争も身近な些細な問題も実際のところ同じです。 外の世界はさまざまな出来事の姿をとって現れてきます。 それは何のためか。 この自分との何らかの関係性を生み出すためです。 それはこの自分に最適な問題を投げかけてくれる関係性を作り出しているだけです。 それは自分の動揺する部分をあぶり出してくれる聖なる道具です。 自分の中の訂正すべき問題の箇所に気づくための道具です。 ですので外の世界は直接は関係なく(つまり戦争だろうと身近な諍いだろうと何だってよく)、そこから生まれる関係性に意味があります。 そしてそれはすべて自分の中の問題をあぶりだすためにあります。 つまり、単に赦しの問題があるだけです。 とはいえ、KENが常々言っているように「この自分はどうしたいのか」が大事です。 これは赦し以前の問題です。 この戦争を「絶対に止めたい!」と言っている、いや叫んでいるのであれば、それに従うまでです。 攻め入った露に対して「絶対ダメだ!」と非難したい自分がいるのであれば、そして本当にそうしたいのであればそれ以外に選択肢はありません。 それ以外の選択肢は自分との戦争になりますよね。 世界平和以前に自分との調和、自分との和平が絶対的に重要です。 ときに「私は別の見方でみる」と真に意志する人もいます。 あきらかに奇特な人間です。ある意味狂人かもしれません。ほぼ居ないと思います。 そういう人が赦しの門をくぐります。 奇跡講座に真に取り組む人はそういう人です。 キリストはこの戦争をどう見るかですって? キリストは「裁かない」です。決して。絶対に。
みっちー (月曜日, 07 3月 2022 23:55)
こんばんは。コメントありがとうございます。 世界的に大問題となっている戦争をみて動揺するのも、身近な些細な問題で動揺するのも、等しく間違った見方をしているらしいことは分かります。 が、身近な問題は「別の見方でみたい」とできても、今多くの犠牲が出ているこの戦争をそのように別の見方で見たいと言うのは、目を背けてはいけないことから逃げているのでは???と思ってしまいます。 キリストは、これを「悲惨な戦争」とは見ない、ということなんでしょうか?
KEN(管理人) (月曜日, 07 3月 2022 09:56)
おはようございます。 レッスン14、ですね。 お気づきの通り、レッスン1から続く同じ中心的テーマのレッスンです。 これまでのレッスンの主題だけでも目を通すといいと思います。 その中心的テーマはどれも同じです。 それを代表しているテーマはレッスン5にあります。 「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。」 つまり、もし動揺しているのであれば、「今のあなたの見方は間違っていますよ。」ということです。 おそらく何がどう間違っているのか今はまだわからないかもしれません。 それで大丈夫です。 「どうやら今の自分の見方は間違っているかもしれない。」 ここでは見方に対して疑問を持てるかどうかがとても重要です。 とにかく今までの見方に疑問を差し挟ませることがワークブック前半の命題ですので。 そしてこれはレッスン21につながります。 「私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。」 ここにつながります。 赦しは「幸せになりたい。」ではなく、「別の見方をしたい。」からスタートしますので。
みっちー (日曜日, 06 3月 2022 22:33)
こんばんは。 大国による軍事侵攻のニュースを日々目にするたびに、これは幻想を自分が望んで見ているのだ、と思おうとしながら、気持ちを抑圧している自分に気付きました。 そして、レッスン14「神は意味のない世界を創造しなかった」のなかで、 「神はあの戦争を想像しなかった。だから、それは実在のものではない。」 と、まさに戦争が適用例として挙げられている箇所を読んでいると、 嫌悪感、絶望感、悲しみ、虚無感など、いろいろな感情が湧いてきました。 過去の悲惨な戦争を経験してきたにもかかわらず、それをまたわざわざ人間の手で繰り返すなんていう怒りに加えて、 それは実在しないとバッサリ言われ、気持ちの居場所が無いような、とても嫌な気持ちになります。 奇跡講座を学んでいるのだから、これこそ赦しをするところなんでしょうけれども、気持ちが全く追いつきません…。 近況のあれこれの中の一つですが、サポートクラスの前に共有させていただきました。
KEN(管理人) (水曜日, 09 2月 2022 10:11)
みっちーさん、多忙な日常に戻って赦しから遠ざかる人も多い中、継続して自身の内面に向き合う姿勢は学習者の鏡です。 自身の理解と取り組み状況の確認のために定期的なクラス活用、こちらとしてもやり甲斐があります! 今回は自我を握りしめていることに至る結果となって、ご自身少々落胆しているかもしれませんが、この認識に至ることがまずはとてもとても大事なので大きな大きな成果です。 人はまず「理想の自分」を目指すものです。 これはまさに偽りの「自己の概念」から来るものですが、仕方ありません。 「理想とする自分になれれば私は幸せになる、問題はなくなる」誰でも陥る罠です。 ほとんどの人は自分がこのポジションにいることすら気づいていません。 そして今回みっちーさんのように気づいたとしても、すぐに訣別できるものでもありません。 それくらい自我の提案は魅力的かつ、長い間この考え方ですごしてもきましたから、当然のことです。 自我に耳を傾けてもいいんですよ。 ダメなことはありません。 自分の心に沿うことがいちばん大事です。 それが自分を愛することです。 たとえそれが自我の提唱する道であっても。 そこにはきっと何かしらの意味があります。 偶然はありません。 奇跡講座にもそう書かれてあります。 自分の心と闘うことほど不毛なことはありません。 思いっきり行きましょう! PS. メールありがとうございます。 丁寧に整理されて感謝です。 応援を感じます。 種火ととろ火の話はよかったですね、気に入ってます。 ナイスなインスピレーション感謝です!
KEN(管理人) (水曜日, 09 2月 2022 09:31)
ENAさん、「本文解説コース」の3回に渡るクラスお疲れさまでした! 今回は21章、25章、31章からの解説でした。 前回同様、超難解ヶ所の質問、しっかり取り組まれていることが読み取れます。 31章は最終章に来てもこの話か!というものでしたね。 『奇跡講座』のまさに主題テーマですね。 知覚の根本法則、投影、代価、犠牲、自己の概念、など盛りだくさんでした。 これでテキストとマニュアルが読み終わったとのことで、いよいよ聖戦に参加ですね! 「あなた自身の中にも他の人の中にも誤りを受け入れようとしない私の意志をあなたも共有するにつれて、あなたはその誤りを正すための大いなる聖戦に必ず参加することになる。 私の声を聞き、誤りを取り消すことを学び、それを正すために行動する。」(T-1.Ⅲ.1) ご武運を祈ります!
みっちー (火曜日, 08 2月 2022 16:59)
サポートクラス、ありがとうございました。 愛されなくなったらどうしよう、と愛されるであろう理想像を目指して、怖がりながら努力してきたことがわかりました。更に自分はまだそれを完全にやめる気はないんだ、と明らかになって愕然としました。 でも、満たされ平安しかない境地の自分が、今の自分に「愛されなくてもいいんだよ」と言っているらしい。そう自分で口にしておいて、KENさんから、私の中にそういう自分がいるということでは、と言われ驚きました! 自分の心に正直になって、どうしたいの?と問い続けようと思いますが、今の私の本心は、獲得思考の心にしたがって生きることなのか。いや、やっぱりそんなの嫌だと言っている自分もいて中途半端です。確か、一部自我の思考体系で、一部は聖霊の思考体系ということはないんですよね?そんなことを考えていて、感想まとまりませんでした。 今回も、深い内容のクラス、ありがとうございました。
ENA (火曜日, 08 2月 2022 16:24)
KENさん、テキスト解説ありがとうございました!! 今回も難解な部分をサポートして頂きスッキリです!! あとは日々の生活で赦しを実践して落とし込んでいきます。 これからもよろしくお願いします。
KEN(管理人) (火曜日, 18 1月 2022 14:26)
みっちーさん、こちらこそありがとうございます。 「自己非難は自我と同一化することであり、他人を非難することと同じく、自我による防衛である」(T-11.4.5) オンライン学習コースで学んだことを、日々意識して真摯に実践されているのでそのままで大丈夫です! 他の方のためにもあらためてお伝えします。 成長への希求や努力がダメなわけではありません。 純粋にしたいことであれば何の問題もありません。 嫌なことを避けるための成長や努力が問題です。 これは自我の戦略です。 これまで自我の戦略で生きてきているため、獲得への魅力はすぐには消え失せません。 獲得への努力をやめることは恐怖に直結すると思っている(幻想)ため、なおさらです。 でも、奇跡講座の原理原則を思い出してください。 「実在するものは脅かされない」(T序文) あなたはそのままで恐れを持たない完全な存在です。 イエスも次の言葉で応えるよう幸福の習慣を身につけよと言っています。 「私は神が創造したままの私である。 神の子にはどんな苦しみもあり得ない。 そして私は、まさしく神の子である」(T-31.8.5)
KEN(管理人) (火曜日, 18 1月 2022 14:16)
ENAさん、こちらこそありがとうございます。 本文解説コースのクラスでした。 テキストだけでなくマニュアルに対する質問もあり、弾丸のような集中力を感じさせます。 まだ1回目とのことで、驚きを隠せません。 実践により理解はさらに高まると思います。 こちらこそいろいろと楽しみです!! よろしくお願いします。
みっちー (月曜日, 17 1月 2022 21:27)
KENさん、今回もありがとうございました。 成長しない自分はダメダメ、とダメ出しし続けて、毎回獲得思考で問題解決しようとしてきた人生でした。 成長しない自分が悪いのだし、努力してできることを増やしてがんばるしかない、 できなくても、せめてがんばる努力をしなければ、と思っていました。 そうするのが当然、それしかないと信じていましたから。 どこでもそうでしょうけれど、会社からも、個人の成長は会社の成長、と言われて向上を求められますし・・・。 まだ私は、赦し準備コース真っ只中のようですが、自我の「できるできる詐欺」に気づいたままでいられたら、また違うだろうなと思います。 また、別の問題のように見えるものも、根っこは同じかも、という話は興味深いです。 自分はどうなんだろう、何が大きい根っこなんだろうかと思います。 プライベートな深い話を、ここまで誰かに開示したのは初めてですが、根っこに通じる事なのかもしれません。 また、その根っこまで潜るタイミングが来た折には、サポートお願いします。 ではまた次回、よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。
ENA (日曜日, 16 1月 2022 17:59)
KENさん、テキストの解説ありがとうございました。 難解なテキストを独学で読み切る自信がなく、購入したもののなかなか手をつけられずにいましたが、KENさんのオンライン学習&サポートクラスを受講してからかなり理解が深まり、やっと読み始めることができました。とはいえ難解な部分が数カ所あり、今回はその解説をして頂きました。奇跡講座特有の言い回しがあることや、具体的に実生活だとこういうケースに当てはまるという感じで非常に分かりやすく解説して頂き、今回も目から鱗でした!! 一人で学習していたら、ここまで理解できなかっただろうなと思うとKENさんのサポートが本当に心強いです。 残りのセクションを読むのも楽しみです!! これからもよろしくお願いします。
みっちー (日曜日, 26 12月 2021 23:31)
KENさん コメントありがとうございます。 クラスでお話しした家族の問題は、当人の気持ちを踏まえながら、わたしの本当にやりたかったことを(正月からクリスマスに前倒しして)実行できました。 関係者それぞれ大変でしたが、大変さと同時に何だか愛が満ちているような、とてもいい時間が過ごせました。 わたしも身体的にはクタクタで寝不足で、そんななか夜コメントを読んで涙が溢れました。 家族で、いい時間だったなぁと思える選択ができたのはKENさんのおかげです。 存在に感謝します。ありがとうございます。
KEN(管理人) (土曜日, 25 12月 2021 18:10)
みっちーさん、そしてみなさん、メリークリスマス!ですね。 当方のサポートクラスでは自己愛を重視しています。 なじみのない方に少し説明します。 奇跡講座は「愛についてのコース」(T-13.Ⅳ.1)です。 他者(兄弟)を愛するのはもちろん、自分自身を愛さないでコースは機能しません。 今、操縦席に座っているのは自我に乗っ取られた自己です。 自我と同一化してしまっている自己です。 この自己は自分が「正しい」としてその基準に合わないものを裁きます。 他者に対してだけでなく、今の自分の振る舞いや考え方などすべてを「ダメだ」と裁きます。 判決を下す裁判官の席に座っています。 キリストや聖霊には裁きはありません。 裁くのを止める必要があります。 その操縦席、裁判官の席から降りる必要があります。 そしてキリストと同じ見方で自分自身を見ます。 何のために? 赦しのためではありません。 平安のためでもなければ幸せのためでもありません。 自分を愛するがゆえに、です。 自分を愛しているからこそ、です。 この愛の不在があるかぎり、赦しは機能しません。 愛の不在のまま、赦しに取り組もうとしても機能しません。 奇跡講座はややもすると他者を赦すことにフォーカスされがちですが、その前に自分自身をゆるす必要があります。 自分自身を受容する。抱きしめる。 自分自身との分離をやめる。 自分自身と調和する必要があります。 自分自身と仲直りする。 自分自身を裁かない、OKを出す。 ここからです。 「汝の隣人を愛せよ」 自分自身こそがもっとも身近な「隣人」です。 最も身近な「隣人」である自分自身を愛しましょう、ということです。 みっちーさん、いつもありがとうございます。 KENのインスピレーションの源です。 存在に感謝します。 メリークリスマス。
みっちー (土曜日, 25 12月 2021 00:39)
KENさん、こんばんは。遅くなりましたが、先日はサポートクラスありがとうございました。 自己愛の実践に慣れてきたような気がしていましたが、近況をお話しするうちに、 自分を犠牲にしてまで他者に気を遣っているということが判明し、 ということは、慣れたどころかちっとも自分を尊重し愛していないじゃん、と気づきました。 また、今回「時間」「いまここ」についての話を伺い、 いまここに在ればいつか目覚められるかも、というこれまでの私の思考が、本当に自我そのもので、あとから考えても笑うしかなかったです。 「最も身近な隣人である自分」を愛する助けとして、好きなミュージシャンのラブソングを、自分に向けて歌うことを思いついて、ひそかにやっています。 眠りが深いのかもしれませんが、焦らず自分を咎めずやっていきます。ありがとうございました。
KEN(管理人) (水曜日, 15 12月 2021 07:38)
よっしーさん、おはようございます。 近況ありがとうございます。 理論や理屈的にはエゴだとわかっているのに気が行くのはよくあることです。 おそらくそこに利益やメリットを見ているからでしょう。 そのほうがいいと思っているから気になってしまう。 そういうときは気になるほうへ行きます。 無理に断ち切ろうとしてもできないものです。 自分との格闘は意味がないです。 今は自分が納得するデータが必要なんだと思います。 もしかしたらエゴが言う通りうまくいく可能性だってあります。 あるいはそうでないかもしれません。 それを見極めるためにもはっきりわかるまでのデータ、経験を必要としています。 経験というデータが十分集まればもう迷うことはなくなります。 そのための人生です。
よっしー (火曜日, 14 12月 2021 14:38)
ケンさんご返信ありがとうございます。 ケンさんの言っている事は伝わっておりますので、安心して下さい。 違う方からも同じ事を言われていて、やる事は一緒だから、何か新しい事を学ぶとかそういうのではなく、実践するかしないかの話だと思います。 獲得思考からやっても機能しないのは散々経験してきているので、 純粋にやりたいからただ赦すっていうのがエゴからしたら何言ってんだ! 病気治りたいし、問題解決したいから赦すんだよ!ってエゴが大暴走しております。 本来の自分に戻るよりも結果が全てという獲得思考満載ですね。
KEN(管理人) (火曜日, 14 12月 2021 11:40)
ENAさん、こちらこそありがとうございます。 すでにご自身の人生経験を通して大切なことを学ばれていらっしゃる方でした。 ご自身の経験が裏付けとなり、当方の解説がより納得感を持って受け止めて頂けたようでこちらとしても打てば響く方でありがたかったです。 基本的な理解である俯瞰や客観視、赦しは自分からといったことは押さえられていると思います。 自分自身に素直になっていい、このあたりは今回特に伝わってよかったと思います。 手探りだったところから、明確に意識して実践していけるようになっていると思いますので、人生を通しての答え合わせと、次のステップの課題や疑問が出てきましたらまたやりましょう。 次は幻想直視コースでのセッションに進んで頂いて大丈夫です。
ENA (月曜日, 13 12月 2021 14:05)
ケンさん、先ほどはサポートクラスありがとうございました。 今まで独学で奇跡講座を学んできましたが、ケンさんのテキストとサポートクラスを受講することでさらに深く理解できるようになりました。 目の前の人を赦す前にまずは自分を赦すことの大切さや、あとはケンさんご自身の経験から「成功と幸せは別物」という事、本当の純粋意図とは?の辺りまで分かりやすく解説して頂き感謝です!! あとは個人的にホログラムや時間についてのところが理解しづらかったのですが、ここもケンさんの解説が目からウロコで感動でした…!! 幸せになるには○○が必要という誘惑に負けず、ただやりたいという意図で日々過ごせるよう心がけていきます。 今日は本当に貴重なお話ありがとうございました。
KEN(管理人) (土曜日, 11 12月 2021 08:07)
こちらこそありがとうございます。 その理解で大丈夫です! より厳密さを追求するなら「否認したがゆえに罪悪感を感じるようになった」、の部分くらいです。 わからなければいくらでも聞いてください。 真剣さを有する学習生の支援はとことんやりますので。 こちらも本気です。
みっちー (金曜日, 10 12月 2021 21:44)
回答いただき、ありがとうございます。 「後から重ねた自己否定」にとにかく取り組んでいる最中だったため、「根本的な自己否定」という言葉が出ても、それが他者否定のことだということがピンときていませんでした。 けれども解説していただき、 本来の自己は神と一つであるのに、分離したと思い込んで罪悪感をもち、それを否認した、そして他者に罪を投影して他者否定した。 だから、他者否定はつまり「根本的な自己否定」ということ、 と理解しました。 重ねられた自己否定の方は、薄まっているのかどうかよく分かりませんが、引き続き取り組んでいきます。 何度もありがとうございました。
KEN(管理人) (金曜日, 10 12月 2021 17:18)
>前のメールで引用した部分の「根本的な自己否定」というのは、自分の心に誤りがあるから他者を「それでいい」と見れないことで、 >その後の段落「つまりダメではない。…」の文章でいうと、 > ・「ダメではない」=後から重ねた自己否定を取り払うこと > ・「自分には誤りがある。それを真に知りたい」=他者を「それでいい」と見れていないので、赦しを行う必要があること >ということですね? >(メールやり取りの続きなので、掲示板でなく、メールにさせていただきました。) 掲示板での回答の許可を受けたのでこちらで回答します。 優秀ですね! 書き始めるときりがないので説明を端折っていますがその通りです。 「根本的な自己否定」は「本来の自己(実相)」に対する否定です。 厳密には「本来の自己」を誤って認識した自分像(イメージ)に対する否定です。 この否定(奇跡講座では「否認」)は通常では認識されることはなく、それが原因で他罰や他者非難となって現れます。 つまり外の世界に対する不満です。 これを奇跡講座では赦しでメインに扱うものとして描かれています。 ですがこれに取り組むためには、重ねられた自己否定を外す作業から入らないといけない人もいます。 ほぼすべての人がそうです。(セッションした中で1人を除きすべてそうでした。) そして重ねられた自己否定とは存在に対する否定です。 自罰です。つまり自己愛の不在です。 ここが一番の癌です。
KEN(管理人) (水曜日, 08 12月 2021 22:11)
よっしーさんへ、 返信ありがとうございました。 適切な回答が思いつかず返事が大変遅くなりました。 同じ言葉でもそれぞれ使っている意味が微妙に違う場合があります。 今回は「味わう」というワードですが、その理解が進んでよかったです。 おそらくそれ以外にも相違があるワードがあるかもしれません。 自らの経験を元に万全を尽くして大事なところを伝えてはいますが、うまく伝わっていないとすれば申し訳なく思います。 よっしーさんはすでに基本的なところは充分理解されています。 私も同じく経験が教師になると思っています。 「それでいい」 ありがとうございます。
KEN(管理人) (水曜日, 08 12月 2021 21:33)
ご質問に関して以下についてはこちらに回答します。 >あとは、テキスト第21章五理性の機能8より「部分的に狂っている者ならば、理性に近づくことができ、彼らのみが理性を必要としている」という部分ですが、これは部分的に狂っている者=自我で、自我だけが聖霊を必要としているという解釈であってますか? 「部分的に狂っている者」=自我と完全には同一化していない者、部分的に自我と同一化している者という意味になります。 つまり、「自我と完全に同一化している者」には理性(聖霊、聖霊の思考体系)には近づけない、彼らには理性を受け付けることすらできないが、そうでない「部分的に狂っている者」であれば、つまり自分の自我に気づいて疑える者、正しい心の状態が持てる者であれば、理性を活用できる、という意味になります。 >このようにテキストには難解な文や、どう解釈したらいいんだろう?と思う箇所があると思いますが、KENさんはどのように学習されていましたか? 私自身はプロフィールにもある通り、学習を通して理解できるようになったわけではなく、「死のまぎわに突然そのことがわかった」者です。 むしろ自分が理解したことを確認するために『奇跡講座』を学びました。 そして私のようにみなさんもそれが出来ると思っています。 先に体験として「わかる」ことで難文も理解できるようになります。 それより先に知りたければ知っている人に聞くのがいいと思います。
KEN(管理人) (月曜日, 06 12月 2021 19:38)
返信遅くなりました。 「常に四六時中デフォルトで自己否定していることに気づいた」これは大いなる進歩です。 実践したがゆえの結果ですね。すばらしい。 そうなんです。多くの人は実は常に自己否定で生きています。 でもそれすらも気づいていない。 その多くは親や社会からの「あれはダメこれもダメ、これはいい」といった価値観の刷り込みが原因です。 ものごとや出来事にいい悪いはありません。 それを決めている私たちが居るだけです。 クラス内で質問があった「自我に対しても肯定するのか」について、より詳しい回答を記事にしましたので参考ください。 記事:自己否定の反対、自己肯定はどこまでやるのか https://acim.jimdofree.com/acim-column-20211206/
みっちー (金曜日, 03 12月 2021 22:17)
サポートクラスありがとうございました。 KENさんの、優しさと力のこもったお話は、大丈夫感が増す気がいたします。 自己愛を実践していく中で、常に四六時中デフォルトで自己否定していることに気づいたのはショックでした。 そこから、「ちゃんとしなければならない」という信念が明らかになりましたが、これは少しお話しした、思春期の頃からあった体型への異常なこだわりとも関係があって、 太っていること=食生活を自己管理できていない=ちゃんとしていないと他人から思われる だったんだと先程思いました。 そして、自己否定がベースに横たわっているということは、つまり、結局自分を信じていないし全然認めていないということでした。 行為や成果に関係なく存在そのものに価値があるのだと思っていたはずなのに。それは偽善だったのか。そこは更にショックでした。 こう書きながら、今かなり自己嫌悪感が出て来ています。 偽善者もイヤだし、自分を攻撃するのも非難するのももうイヤです。 自己嫌悪を、本気で自分を救う覚悟に変えられればよいですが。 また報告いたします。 ありがとうございました。
KEN(管理人) (月曜日, 29 11月 2021 22:46)
お問合せありがとうございます。 自学自習向けのテキスト編は、各項の1つ1つはお申込み頂かなくても今でも無料で閲覧可能です。 各章まとまって閲覧できるページにつきましては、出版元から引用量の指摘を受け非公開にしています。 この理由により学習コースや解説コースをお申込み頂いても非閲覧となります。 各コースの案内に記述してある通り、奇跡体験があればテキストは理解できると思います。 ですのでまずはこの奇跡体験ができるように、当コースでは基礎理解と赦しの準備に重点を置いています。 ただし、当コースの受講者であれば、奇跡体験前であっても、希望によりテキスト、ワークブック、マニュアル編の該当部分を個別解説はしています。 テキストでもワークブックでも全体像が理解できていなければ個別の理解は難しいと思います。 そのための基礎理解としての全体像を当学習コースでは提供しています。 そのうえで、テキストを最初から解説付きで学びたいということでしたら、特別クラスも検討します。
よっしー (土曜日, 27 11月 2021 17:51)
けんさん、丁寧にありがとうございます。 感情を味わう=感情を無視しない 自分の感じている感情や気持ちを丁寧に観察するという意味で捉えて頂いて大丈夫です。 ネガティブな感情を無視して、神の愛が♡ とお花畑になると、苦しみが倍増します。 そうなると、犠牲がともなう許しになると思います。 まずは自分の気持ちや感情に正直になる事が大切だと思っております。
KEN(管理人) (土曜日, 27 11月 2021 11:05)
反応や感情を見逃さないように大切にすることは大事です。 さらにそれをどう活用するかが重要です。 誤解のないように言うとコースは感情を味わってはいけないとは言っていません。 味わってください。 ただそれとコースとは関係ありません。 感情を咎めず(避けずに)見ることは必要です。 それを味わうと称しているなら同じことです。 ただし味わう(楽しむ、満喫する)ことに焦点があると目的がずれます。
よっしー (金曜日, 26 11月 2021 19:55)
「感情と反応は聖性に戻るためのツール」 そのフレーズは耳にタコが出来るくらい聞いていますね。 反応や感情を見逃さないように大切にしているのかもしれないですね。 そして感情を味わうのもありですね(^^)
KEN(管理人) (金曜日, 26 11月 2021 14:52)
よっしーさん、こちらこそありがとうございます。 感想ありがとうございます。 ここで基本のおさらいですが、 奇跡講座でも経験、すなわち出来事と感情は大切なものです。 ただ奇跡講座ではそれらを味わうものとしてではなく、聖性に戻すためのツールとして位置付けています。 つまり心の状態を確認し問題を認識して訂正するためのものです。 「自分に見える世界を、私が自分自身の心の状態の表れとして眺めることができますように」奇跡講座ワークブック レッスン54 また、自分を甘やかすかどうかは別にしても、神やキリストと同じように考えることは重要です。 つまり自分自身を信じ、愛し、受容し、咎めず、裁かず、否定せず、尊重し、大切にする、やさしく慈しむということです。 とはいえ、まずは自分に聞いてどうしたいかを確認する必要があります。 ただし、その自分が自我ではない真の自分に聞く必要があります。 自我の自分は、恐れを基軸にしています。 「好きなようにさせると甘やかすことになり怖いことになる」と言っているのであれば、それは恐れに根差しています。 つまり自我と同一化した自分のほうに耳を傾けています。 真の自分は脅かされることはありません。 つまり恐怖はありません。 もし恐怖がなかったら、ほんとうはどうするのでしょうか。 どうしたいのでしょうか。 もし何をしようと怖いことになることが一切なければ、ほんとうはどうする自分が居るのでしょうか。 ここに答えがあります。
よっしー (木曜日, 25 11月 2021 15:49)
コメント出来てたと思ったのですが、反映されていなかったのでもう一度書き込みます。 前回は死についてのワークありがとうございました。 ワークのおかげで感情と経験を大切にしている事に気がつく事が出来ました。 ジェットコースターのようなしんどい感情の経験のドラマは散々やってきたので、 許しによって穏かな水面のような心になるといいなと思いました。 経験と感情=エゴなのかなと思いました。 だからエゴをにぎりしめていてエゴがなくなるのが怖いんだなと感じました。 エゴ=死なんだなと思いました。 ありがとうございました。
よっしー (木曜日, 25 11月 2021 11:32)
先日はサポートクラスありがとうございました。 死についてのワークありがとうございました。 経験と感情をとても大切にしている事が分かりました。 経験と感情はエゴかもしれないけど、エゴを通らないと許された世界に行けないのではと感じました。 経験と感情=エゴ エゴを大切にしている。 エゴがないと生きてる実感がない。 エゴを手放したくない=死が怖いんでしょうね。 感情の波がジェットコースターのようなのはもうしんどいので 穏な水面のように淡々と過ごしていけるといいなと思いました。 自分を愛するという自己愛を育みながら、許したくなったら許していきます。 甘やかす先に平安がある事を 厳しく裁く苦しさから卒業出来る事を祈りながら日々過ごして参ります。
KEN(管理人) (木曜日, 18 11月 2021 11:59)
みっちーさん、新教材に関する質問ですね。 こちらこそありがとうございます。 こちらの質問への回答は長文につき記事としてアップしました。 記事:ネガティヴな反応が起きた時の対応 https://acim.jimdofree.com/acim-column-2021117/ よろしくお願いします。
みっちー (水曜日, 17 11月 2021 23:06)
KENさん、実践解説の教材、ありがとうございます。 キリストの視点で見れるようにする、ということで、 ネガティヴな反応が起きた時、 「こんなことやりたくない」→「それでいい」 「めんどくさい」→「それでいい」 「なんで私ばっかり」→「それでいい」 「私はなんて無力なんだ」→「それでいい」 という感じでやっています。 ネガティブな反応をした自分をまず肯定しているつもりですが、 そうすると、それを引き起こした状況の方は肯定していないことになって、「それでいい」と見れていないってこと?となりましたが、どうなんでしょうか? 今日は仕事は休みでしたが、家でPTAの資料作成をしながら昼寝してしまっていました。 目が覚めて、うわ、やること山のようにあるのに、平日の昼間に爆睡してた!と焦りましたが、思い直して「それでいい」と思ったら、ふわーっと安心感に包まれた気がしました。神様に「それでいい」と言われたような。 寝起きでぼーっとしていたからかもしれませんが…。 雑談でしたm(_ _)m
KEN(管理人) (土曜日, 06 11月 2021 12:17)
みっちーさん、こちらこそありがとうございます。 「赦し」は自己愛の延長線上にあります。 もっと言えば「赦し」は自己愛そのものです。 あまり言われていませんが。 そして自分に対する慈悲でもあります。 「自分を救ってあげたい。」 セルフヘルプです。 セルフヘルプ無くして赦しはありえません。 自己愛に目覚めることで、必然的に「赦し」の必要性に直面することになります。 「赦し」はそれからです。 (セルフヘルプのプロセス自体がすでに赦しです。 奇跡体験を伴う「赦し」はそれをしっかりできるようになったのちに、という意味です。) 今回もいくつもいいテーマがありましたね。 身内や他者の心配事、悩みについてどのように接するのがいいか。 まずは「相手は役割」の可能性を見てみましょう、という話でした。 つまり相手が自分自身の赦しをする必要のある場所を指し示す役割をしている可能性です。 これは自身の感情を確認すればわかります。 『奇跡講座』でいう「肉体」に込められた意味。 獲得思考の延長線です。無いと嫌だ、失うのは嫌だ。有るのがOK。これが肉体として見ているということです。自我はこの視点でいます。 ですので「肉体ではない」とは、「それでいい」です。まさに赦しの先にあります。 「死」も同じ意味です。喪失を恐れています。 自身の肉体はもちろん、家族のだれか、子供が失われることなどもこれに当たります。 すぐには信じられないかもしれませんが、たとえ子供が失われたとしても「肉体ではない」視点に立てば「それでいい」です。これが究極の赦しです。 お話ししましたようにこのレベルの取り組みはそうとう赦しが進んでこないと取り組めません。 「そんなのは嫌です」が先行するはずです。 すぐにそれを「赦したい」とはならないはずです。 ですが、実践していくならいずれこれすらも「赦そう」と思う日が来ます。 「ワークブック」や「テキスト」への取り組みについて。 奇跡講座に取り組むすべての人が確認すべき問いでしたね。 「それは何のためのものか」 それが手に入らなくても取り組みたいと言っているならそれに従いましょう。 そうでなければ意味がなかったという意味を見出すだけです。そういう経験ができる、ということです。したいのであれば、ですが。 そんな経験をしたい人はいないはずですが、このことを知らずにこの経験に突き進んでしまっている人は多いです。 義務はありません。しなければならないこともありません。したいかどうかだけです。 であればこの質問はそもそも出ませんよね。 「期待は追いやる」 期待は期待した結果を追いやります。 手に入らなくしているのは何かもうわかりますよね。 かつて人生最悪だったところから劇的復活を遂げた生徒さんに何がターニングポイントだったのか聞けたのでその話をクラスでしました。 これまでダメだと言われてきて信じて疑わなかったことを自分を信じて生まれて初めて実行に移す、それがどれほど大変だったか、そして結果的にそれが最大のポイントだったかを。 どれもいい質問でした。 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 (新共同訳 マタイによる福音書 22:37-39)
みっちー (金曜日, 05 11月 2021 23:45)
KENさん、本日も濃い内容のクラス、ありがとうございました。 ご自身の体験を含めた事例をいくつかお話しくださったことで、自己愛に取り組むことがいかに大事であるかが納得でき、かつぼんやりしていた所が具体的にみえて、本気で取り組める気がしています。KENさんの貴重なお話、受け取らせていただきました。 私の母親の話も聞いてくださり恐縮です。 今晩も母とは電話で話しましたが、とりあえず話を聞くに徹しました。ありがとうございました。 肉体と死の話は、考えさせられました。 死ぬと苦しみから逃れられる、神の元へ戻れる、といった死を崇拝する思いも同じですね。こういう思いが出てくるのも、やはり自分を愛する必要があるということだと思いました。 また次回よろしくお願いいたします。ありがとうございました。
KEN(管理人) (日曜日, 31 10月 2021 10:19)
毎月、その弟子は自分の進歩を書き綴って、師にまめに送っていました。 最初の月、彼は次のように書きました。 「私は意識の拡大を感じ、宇宙との一体感を体験します」。 師はその報告を一読すると、投げ捨てました。 次の月、彼は次のように書きました。 「私は、あらゆるものの中に聖なるものがあることを、ついに発見しました」。 師はそれを読んで、失望したようでした。 三ヶ月目、その弟子の文章は、熱狂的に叫んでいました。 「一なるものと多様性の神秘が顕現し、私はそれを見て、驚いております」。 師は首を振って、その手紙をまた投げ捨てました。 その次の手紙にはこう書かれていました。 「誰も生まれず、誰も生きておらず、それゆえ誰も死なない。というのは、エゴの自分というものは存在しないからです」。 師は完全に絶望したと言わんばかりに、両手を上げました。 それから、手紙が来ないまま、二ヶ月、そして五ヶ月、ついには丸一年が過ぎ去りました。師は、弟子が自分の霊的進歩について、そろそろ知らせてきてもいい頃ではないかと催促しました。 すると、弟子から手紙があり、こう書かれていました。 「そんなのカンケーねー」 この言葉を読んだとき、大いなる満足の様子が師の顔面に広がりました。
ゆきえ (土曜日, 30 10月 2021 16:25)
けんさん、丁寧にありがとうございます。 反応した時は、愛に戻りたいですね。 エゴから見てる時は、失礼な態度や気に入らない人をなんとか変えたいと思っていますが、上手くはいかないです。 条件付きの獲得思考で相手から奪おうとしているかというのに気がついて、内側に見る方向を変えるチャンスがきました!と反応を見逃さないようにしたいです。 そして、反応した時にどんな信念を握りしめているんだろうって内側に戻していきますね。 自分との関係が外側の関係に反映される。 全てはセルフパートナーシップからだと感じています。 自分を育てる 自分を愛する 命令するのではなく声を聞いていく 日々の習慣にしていきます。 命令されたり、押し付けられると、怒りの感情が湧くのは それだけ自分の声を聞かないで、自分に無理強いをしているっていう事に対する怒りですからね。 心の声を丁寧に聞くことで自己愛が育まれて 獲得思考という依存の状態から 愛するという主体性を発揮していきますね。
KEN(管理人) (木曜日, 28 10月 2021 20:33)
繰り返しになりますが、自我の獲得思考で取り組んでもうまくいきません。 期待して何かをするなら、失敗します。 もしそうなら今は取り組む時期ではないかもしれません。 他のことに取り組む何かがあるのかもしれません。 失敗を確認するために取り組むのならいいと思います。 これは取り組もうとするあらゆることに言えることです。 重要なのでここを見ているすべての人に向けて書きました。
KEN(管理人) (木曜日, 28 10月 2021 10:25)
あと、「純粋意図」のところで、本来の自分につながっている意図と、そうでない場所につながって出てきている意図、すなわち自我から出ている「純粋でない意図」の話をしました。 純粋でない意図の見分け方として、純粋でない意図は自我の獲得思考であるという話です。 テキストにも記述があると伝えただけになっていました。 これは、オンライン学習教材3日目にも記述しています。 逆転のプロセス、すなわち取り消しのプロセスにおける最初のステップは、「獲得する」という概念を取り消すことである。 奇跡講座テキスト 第6章 五 聖霊のレッスン B 平安をもつためには、平安を学べるように平安を教えなさい。 3. より
KEN(管理人) (木曜日, 28 10月 2021 10:06)
ゆきえさん、こちらこそありがとうございます。 自分を愛することは、自分を癒すことである。 奇跡講座テキスト 第11章 八 問題と答え 11. より このように最終的には自分を愛することは、自分を本来の自分に戻す(自分を癒す=贖罪)ことになります。 つまり赦しですね。 自分を愛する人がやることは赦しとなります。 ですが赦しに取り組む前に、まず自分で自分を尊重する、愛する、慈しむことが必要です。 自分を愛することなく、赦しは取り組めません。 自分で自分を愛するとはいったいどうすることなのか。 それを明確にするワークを今回やりました。 仕事柄他の人にはすでにやっていたとのことで、まさにそれを自分自身に向けて欲しいと思います。 自分の要望を聞く、つまり本心を聞くということですが、やってみるとわかりますが意外と技術が必要です。 実践すればするほど上達します。 上達させるべき技能の一つだと思っています。 すべては自分自身との関係です。 自分との関係が良好になればなるほど、外の世界との関係も良好になります。 それは事実です。 ですが、まずはそれを実体験することがとても大事になります。 実体験しないことには大事さがわからないですから。 目に見えない何かがここにも働いていることがわかると思います。 大事だと聞かされていてもほとんどの人は実体験に至るまで続けることをしません。 これまでも多くの人に伝えてきましたが簡単ではないようでした。 ぜひだまされたと思って取り組んで欲しいと思います。 そうですね、これは主体性を取り戻すことでもあります。 他の誰かでなく、自分自身を権威にするということです。 質問がありますね。 それが本来の自分からつながったところから出てきている「答え」だとして、目の前の人の意向と違う場合、自分を優先してください。 なぜなら、「外の世界はどうであれ」そうするというのが純粋意図だからです。 ここで大事なのは、そのときどのような感情をもったのか、ということです。 感情が脅かされるならそれは純粋意図でないか、あるいは他に純粋意図でないものがある、ということを指し示しています。 感情が静かで穏やかなのであれば、相手とぶつかることになったとしても、相手の問題となります。 もちろん、いざぶつかったとして、そのときにやはりこちらの感情がふらつくのであれば、こちらに問題があります。 そうでなければ、相手の問題です。 そして、何としても相手の意向を拒否しようとしている自分がいないか、つまり拒否できないと嫌な感情を抱くかどうかも確認してください。 嫌な感情を抱くのであれば、自分に問題があります。 あなたがそれを何としても拒否しようとして、反射的に対抗意識を経験するなら、あなたは自分の救済がそれを行わないことの中にあると信じていることになる。 奇跡講座テキスト 第12章 三 実相に思いを投入する 2. より ですので、相手から執拗に抵抗を受けるのであれば、相手の意向を引き受けます。 これは、自分にとって外の世界はどちらでも構わないからです。 今の相手は自分の意向が通らないことが「悪」、通ることが「善」となっています。 つまり意向が通ればその人にとっての「救済」となっています。 何が重要でないかを認識しなさい。 そして、もし「法外」と言えるような何かを兄弟があなたに求めるなら、それが重要でないからこそ、それをしてあげなさい。 それを拒むなら、あなたの反対によって、それがあなたに重要なことだという事実が確立される。 したがって、その要求を法外なものとしたのは、他ならぬあなた自身である。 奇跡講座テキスト 第12章 三 実相に思いを投入する 4. より このあたりは、『奇跡講座』の中でも特に難解な部類に入り、理解出来ている人はほとんどいないと思います。 微妙なところですので、必要ならサポートクラスで補足したいと思います。
ゆきえ (水曜日, 27 10月 2021 23:53)
今日はありがとうございました(^^) 愛のある人と愛のない人の女の子への関わり方を考えるワーク面白かったです♫ 私は仕事柄おもてなしやアテンドするのが好きなので、相手に対して関心をよせて相手の要望を聞いていくっていうのは凄くやっているのですが、それを自分にやってあげるっていうのが少ないので、自分にも同じように接していきますね。 やりたい事を心に聞いていくのは、心に問いかけてどうしたいって丁寧に優しく聞いていきますね。 自分の心に問いかけて答えを受け取ってそれを選択していくにつれて、本来の自分に戻りやすくなったり、自分との繋がりが強化されるんだろうなと頭では分かっているけど、経験としては少ないので日常で実践していきます。 レッスン153の防衛について書いているレッスンも 自我は防衛反応そのものだから、コミュニケーションに攻撃性を孕んで、攻撃されたから攻撃しかえすっていうのを繰り返しているのも、純粋意図ではないものを選んでいるからだと感じました。 「どうしたい」って心に尋ねる事もなく、パターン化した思考からロボットの様に生きているんだろうなって思います。 ロボットのようになると感情も麻痺して、自分がどうしたいのかっていうのも分からなくなるから どうしたい?って根気よく聞いてあげるのが大切なんだろうなと感じました。 「どうしたい」っていうのが分からないっていうのは、不正直さに繋がって心を裏切り、外の世界でも裏切りという経験をしているように知覚するのは何度も経験してきました。 手のひらを返すっていう経験ですが、自我には一貫性がないから、コロコロと態度や言っている事が変化して 思っていること、言っていること、行動していることがずれて、それを相手に投影してしまい不信という世界にどっぷりはまってしまうパターンなんだろうなと感じました。 あと1点気になったのは、 自分が「どうしたい」って聞いて出た答えが目の前の人のして欲しい事と逆だった場合はどちらが純粋意図になるのかなって思ったので、次回のサポートクラスでその辺を教えていただけるとありがたいです。 どうぞよろしくお願い致します(^^)
KEN(管理人) (水曜日, 27 10月 2021 18:27)
みっちーさん、報告ありがとうございます。 そうです!一番大事なところで肯定するのを忘れずにいてくれていますね! 「自己否定」は自我が最も喜びます。 自我にエサをやらない。 踏みとどまって肯定する。 簡単なことではないです、うまくやれています。 次回は「死のワーク」をやってもいいかもしれません。 「死のワーク」とはいっても、死ぬ体験をするわけではありません。 「死」が今の自分にとって何を意味しているのかを探るワークです。 死ぬことで何を恐れているのかを見に行きます。 また、「肉体」についても次回補足します。 奇跡講座をやっている多くの人が「肉体」と口にしていますが、少し笑ってしまいます。 奇跡講座で使われている「肉体」は物理的な肉体を指し示してはいますが、それだけにとどまりません。 むしろ物理的な肉体の意味よりもそれを象徴として使っている場合がほとんどです。 では何を象徴としているのでしょうか。 もっと深い意味があります。 それがわかれば安易に「肉体」と口にすることはなくなります。 次回はそれもお話しします。 「純粋意図」は「幻想」を見分ける作業でもあります。 私たちは意識することなくそのほとんどを「幻想」から行動しています。 まずはそのことに気づく必要があります。 そうすると、それが幻想、すなわち自我からのものであることがわかります。 まずはこのことに気づくことが大事で、それができているので二重丸です。 気づけば即座に訂正できるものもあります。 すぐには訂正出来ないことも多くあります。 「私がやりたいことってなんだろう」 そもそも自分は本当はどうしたいのかを確認することは非常に重要なことです。 何の制約もなければほんとうはどうしたいのか。 本当の自分とのアクセスラインを復活させ太くするためにも必要な作業です。 聖霊とのアクセスを取り戻すためにも必要なものです。 今はこのやり方で問題ありません。 自我との同一化を緩めていく作業です。 これまでそうして来なかったので時間がかかって当然です。 もちろんやっていくうちに細かい疑問が生じると思います。 こうやって実践することが大事です。 実践して理解する。 とくに目に見えない何かが間違いなく働いていることを体得する。 これが当面の目標です。
みっちー (水曜日, 27 10月 2021 16:03)
KENさん、こんにちは!経過報告です。 前回のクラス以降、死というものに直面する機会が何度かあり、その都度、自分を肉体として思っているなあと自覚させられました。 (過去何度も繰り返しぶち当たっている壁です。)そして肉体の死に対する恐怖と同時に憧れのようなものも浮上してきて…、 つまり、やはり楽になりたいと思っているようです。 とりあえず、そういう自分も肯定して…。 次に「純粋意図」についてですが、 仕事上では、やらなければならないことだらけです。やるのが嫌なこと、苦手な種類の業務も。 やらないと怒られるし他の人に迷惑がかかるので、やるのが当然と思ってやっています。「そうでない意図」と分かっても、どうしようもないです。 しかし、「怒られないように上手くやらなけらば」と思いながら仕事をすることも多いので、「怒られないように」やるのではなく、上司が言ってくる会社的な目的も一旦置いておいて、 この仕事を通して私がやりたいことってなんだろうと、考えてやってみることにしよう、と思いました。 「純粋意図」を選ぶために、こんな感じの方向性で合ってますでしょうか?
KEN(管理人) (火曜日, 19 10月 2021 17:36)
みっちーさん、お疲れさまでした! 今回やったのは、おそらくほぼ全員に必要なワークだと思います。 (それくらい赦しにまともに取り組めている人は少ない、というかほとんどいません。) フォローアップクラスでは2つの重要なテーマを行いました。 1つずつもっと時間をかけてもいいテーマでしたが、よくついてきてくれました。 自宅でも復習できるように実施した内容を3つに分けて概要アップしたので参考にしてください。 https://acim.jimdofree.com/オンライン学習教材/ 意識してこなかったこれらについて、習慣化が必要です。 赦しを行うにはこのような心の訓練を要します。 あなたは奇跡志向の考えに慣れていない。 しかし、訓練することでそのように考えられるようになる。 奇跡を行う者たちはみな、その種の訓練を必要とする。 奇跡講座テキスト 第2章 七 原因と結果 1. より
みっちー (月曜日, 18 10月 2021 22:11)
KENさん、今日はフォローアップクラス2回目ありがとうございました。 コースを何となく理解したつもりで、日々赦しをする毎日を送らなくては、とこれまで思っていましたが、 全然そこまで至っておらず、その前の段階の、ベースの大切なところを教えていただくという貴重な回でした。 ここを経ないと、やみくもに自学自習しても上手くいかないのは、それはそうだろうなと、頭での理解ですが思いました。 この学びにしても、自分を愛することにしても、背後にある目的は純粋意図なのかどうなのか。 ここは、苦しみから逃れたくて精神的探求をするようになった私としては、ドキッとする問いでして、 実践しながら再度確認する必要がありそうです。 とにかく、やってみます。また報告させてください。 ありがとうございました。
みっちー (日曜日, 17 10月 2021 17:46)
KENさん、 ありがとうございます。 考え過ぎ?と思いましたが、みなさんそうなんですか! 楽しみにしています。よろしくお願いいたします。
KEN(管理人) (日曜日, 17 10月 2021 16:26)
みっちーさん、問いかけありがとうございます。 「自分で自分を愛する」。 みなさんここで分からなくなります。 私も当時そうでした。 大丈夫です。 今回はそのための新しいメソッドを用意しています。 キーワードは「無条件」です。 愛でないものはその逆「条件付き」です。 今回はそもそも論から入ります。 ここは超重要なので続きはフォローアップでやりましょう。 お楽しみに。
みっちー (日曜日, 17 10月 2021 15:26)
こんにちは。 自分なりに幻想を見ていくと、行き着くところはいつも、自分を信じ愛することの必要性です。思った以上に自分を愛せていないのかもしれません。 でもそこで、自分を愛するって?となってしまいました。 「本当はどうしたいの?」と問うて、自分の中に答えを聞いてあげる、ということでしたが、 「自分自身を愛する」というのは、今さらなんですが、何が何を愛するんでしょう? 神の子が、自我を選んだ心をも愛するということでしょうか? その辺りも含めて、フォローアップクラスよろしくお願いいたします。
KEN(管理人) (火曜日, 12 10月 2021 18:46)
みっちーさん ストア手続きありがとうございます。 確認できています。 最初の取り組みは純粋意図の発掘です。 これは自我をより分け愛を見つける作業です。 ではフォローアップクラスでお会いしましょう。
KEN(管理人) (月曜日, 04 10月 2021 20:18)
みっちーさん、こちらこそありがとうございます。 オンライン学習コースでの学習で基本理解がされており、ご自身でも手順に沿って幻想直視に取り組まれていらっしゃいました。 行き詰ったところで事前にメールでの相談もいただき、熱心さが伝わりました。 アドバイスさせていただいた上で今回フォローアップクラスに参加頂きました。 基本理解のフォローに時間が少しで済みましたので、延長して幻想直視コースで行うセッションの導入部分をさせて頂きました。 真摯に取り組んで頂き、どのように幻想に向き合っていけばいいのかを理解して頂けたと思います。 これまで自分に厳しく接してきたという方は多いと思います。 KENもそうでしたし、みっちーさん同じだと思います。 もう充分すぎるほど自分に厳しくしてきました。 今度は自分にやさしくする選択をしてもいい時期かもしれません。 その理由を含めフォローアップでお話しさせていただきました。 充分受け止めていただけたようで安心しました。 また少しご自身で取り組んでみていただいて、必要であればフォローアップ、あるいは幻想直視へお進みください。 サイトの印象はみなさんにご心配おかけしています、ご指摘ありがとうございます。 わからない中でも飛び込んでいただけたみっちーさんの勇気に感謝です。 今回このように率直な感想をいただき、当方としても大変ありがたく思います。 もし疑問点など出てきましたらフォローアップクラスを引き続きご利用ください。 何かありましたらまたいつでもお声がけください、お待ちしています!
みっちー (月曜日, 04 10月 2021 15:33)
この度はフォローアップクラスありがとうございました。 これまで2年ほど奇跡講座に細々と取り組んできましたが、内容の理解も実践も、少し進んだかのように見えては止まり、そのうち内容を忘れ、また思い出して取り組んだり…、という状態でした。 「赦し準備コース」の教材は大変わかりやすく、頭の中が整理された上でのフォローアップクラスで、大変ありがたかったです。 KENさんのHPがとても整然とされているが故に、少し厳しくて怖い(私の勝手な)イメージがありましたが(すみません!)、フォローアップクラスは、そのイメージを覆す優しさに溢れた時間でした。 一緒に丁寧に私のこだわりを一つ一つ見ていってくださり、「聖霊とともにみる」とはこういうことか!と思うほどでした。 それにしても他人にされて嫌なことを「本当の自分」にしている、とわかったのはショックでした。 自分に「どうしたいの?」と問うところから始めます。 貴重な学びの時間を、本当にありがとうございました。
KEN(管理人) (月曜日, 06 9月 2021 17:40)
2021年秋のセッションが4つの赦し支援コースとして再開しました。 今回は赦し実践の前段階のサポートにも力を入れています。
KEN(管理人) (水曜日, 17 3月 2021 14:35)
確認が遅くなり書き込みが今になりました。 学習教材用PASSの備考欄へのメッセージありがとうございます。 学びの助けになっているとのコメントを頂きました。 またぽちぽち記事を上げていこうと思います。 質問やリクエストがあれば優先的に検討しますのでみなさま何かありましたらお気軽にどうぞ。
KEN(管理人) (月曜日, 16 11月 2020 03:03)
洋(ヒロ)さんへ 苦しい中、信頼して取り組んでくれていたんですね。 「自分と闘わない」 自分に味方する、やさしくする。攻撃しない、責めない。 自分を愛する。 これがほんとうに難しい。 多くの人もここからだと思います。 KEN自身もそうでした。 大きな一歩ですね。 自分自身と和解してはじめて前進することができます。 洋(ヒロ)さんの書き込みは、多くの方の勇気と力になると思います。 こちらこそありがとうございます。
洋(ヒロ) (木曜日, 12 11月 2020 10:31)
KEN様 セッションをしていただいてから、随分と時間が経ってしまい申し訳ありません。 あれからも辛い時を過ごしていました。 歩いていて風が吹くとその風さえも私の心に突き刺さり責めるようでした。 ドラマを見ても登場している人のセリフの一つひとつがまるで私を責めているようでした。 何をしても、何を考えても、全部が責めることにしかなりませんでした。 こんなにまでも自分を責めることができるのかと、まだ責めるのかと思う日々でした。 「そんなに責めたいんだね。それでいい。」 「どんなに責めてもいいよ。」 恐怖、怒り、悲しみ、不安、孤独、絶望、無力感。 どんな考え、どんな思い、どんな感情であっても、 それら一つひとつを「いいよ」と決して否定せず認めていきました。 時にはそれは自我を認め迎合しているのではないかと思うこともありました。 しかしこうすることだけが、 その時の私が自分にしてあげられる唯一の優しさだったのだと思います。 感情は認めてあげると静かになっていきます。 それが私にわずかに穏やかさを与えてくれました。 「自分と闘ってはならない」 その時読んだテキストの中にあった一言です。 どんな自分をも、ただ赦して赦して赦していく中で、 いつしか赦しているのは私ではなかったと教えられていきました。 とても大きな決して変化することのない、 原因も結果も理由もない、ただ包み込んでそこにあるもの。 すでに赦しているもの。 それに触れた時、安らぎと開放が静かに私に訪れました。 聖霊はどんな私であっても穏やかなまなざしで共にいてくれていたのです。 あの責めていた自分こそが、愛を求める叫びだったのでしょう。 「自分と闘ってはならない」 この一言は今も私の心に残っています。 これからも道しるべのように行く道を照らしてくれると思っています。
KEN(管理人) (水曜日, 29 7月 2020 11:23)
めぐさん、どういたしまして! 今回も濃厚なセッションでした、よくついて来て下さいました。 毎回深く深く幻想を直視しています。 セッションを通して、赦しとは、幻想直視のやり方、奇跡体験とやってきました。 贖罪まではまた少し関門がありますが(自分を愛する、自分の声に耳を傾け必要以上に自己否定を重ねない/自分の人生の責任を持つ覚悟)、これもまもなく達成するでしょう。 よかったら『奇跡講座』のテキストを読んでみてください。 劇的に理解できるようになっていると思います。 一部以下に抜粋します。 あなたがもっている問題で、聖霊があなたに奇跡を差し出すことで、解決できない問題はない 奇跡講座テキスト 第14章 十一 真理の識別法 9. あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである 奇跡講座テキスト 第16章 四 愛の幻想と愛の実相 6. その結果を取り消す方法は、その源が、あなたの真の本質にそぐわない不自然なものだと認識することである 奇跡講座テキスト 第11章 五 自我の「力動論」 5. 幻覚は、その正体が認識されたときには消え去る。 これが癒しであり、治療法である 奇跡講座テキスト 第20章 八 無罪性の心眼 8. 恐れを直視すれば、恐れは少しずつ見えなくなり、恐れが隠していたものが次第に鮮明に見えてくる 奇跡講座テキスト 第14章 七 知覚を聖霊と共有する 2. 必要なことは、ありのままに見ることだけである。 解決するのに、これ以外の方法があるだろうか。 奇跡講座テキスト 第27章 七 夢を見ている者 2. 幻覚は、一つの目的に役立っており、その目的が保持されなくなったときには、それらも消え去る。 問うべきは、常に、それらが役立っている目的を、自分が望んでいるかどうかである 奇跡講座テキスト 第20章 八 無罪性の心眼 8. その前にまず、あなたは、自分が過去に何を表象させてきたのか、そしてなぜそうしたのかを、充分に理解しなければならない 奇跡講座テキスト 第17章 三 過去からの影 7. 聖なる瞬間は、神聖であろうとするあなたの決意がもたらす結果である。 それは答えである。 それを来させたいという欲求と意欲が、その訪れに先行する 奇跡講座テキスト 第18章 四 ささやかな意欲 1. 聖なる瞬間とは、尋ねられた質問の中に含意されていない答えが聞こえるところまで、充分に心が静かになっている時間である 奇跡講座テキスト 第27章 四 静かな答え 6. 心は、遅延は不必要な苦痛を増すだけだと理解し、次第に遅延を許容できなくなる。 その結果、以前ならごく些細な不快感の侵入と見なしたはずの事柄に対しても、心はますます敏感になっていく 奇跡講座テキスト 第2章 三 神の祭壇 4. 私たちの任務は、すべての妨げをまっすぐに見つめ、それを厳密にありのままに見るという必要不可欠なプロセスを続けていくことだけであり、しかもできるだけ速やかに続けていくことである 奇跡講座テキスト 第15章 九 聖なる瞬間と神の魅力 2.
めぐ (水曜日, 29 7月 2020 01:35)
KENさん、今日も深いセッションをありがとうございました! 先日の掲示板に課題をたくさん書かせていただいたのですが、結局、昨日今日出てきたざわざわについて幻想直視をさせていただきました。 「彼から愛されていないと感じて苦しい」 という現実。 今回は私の人生の核になる幻想に届くようなセッションでした。 「愛されたい」 という幻想です。 そしてもう一つ大きな課題だったのが、 「愛がほしいのが彼からだけである」 という幻想です。 私の幻想の根本には、いつも母の姿があって、今回も御多分にもれず、「母の愛がほしかった私」を再現しているような現実でした(;´∀`) 「周りの愛に気が付けない」と彼のことを言った私もおんなじで、父や兄弟の愛に私自身が気が付いていなかった!!! セッション後に気づいたことがあります。 「被害者になりつづけることのメリット」についてです。 ⇒加害者に罪滅ぼしをさせるため ⇒自分の人生を自分のせいにしなくて済む という彼にとってのメリットをセッション中には出したのですが、その後自分にあてはめて考えてみると、私は被害者になりつづけることで、自分に罰を与えていたということに気が付きました。 ⇒加害者の母は苦しんでいる。 母が苦しんでいるのは私のせいだ(子供特有の論理展開だと思います) 母を苦しめている私は当然もっと苦しまなければならない。 つまり罪滅ぼし。 ごめんなさい、ごめんなさい、という気持ちで被害者になっていました。 彼とはベクトルが逆でした。 彼⇒悪者は母。母が罰を受ける。 自分の人生を狂わせたのは母。 私⇒悪者は私。私が罰を受ける。 母の人生を狂わせたのは私。 私の人生は??? 母の人生が狂ったままで、私は幸せになってはいけない。 結局自分の人生を母に委ねていたということか。。。(;´∀`) そして自分を愛するが私にとって永遠の課題です。 自分が愛せないということではなくて、 「自分が大好きだし結構愛しているアピールを自分にやってるのにまだなにか足りないの!?!?」 というところです(;´Д`) でも、この幻想直視の作業一つ一つが、「自分を愛すること」なんだなあと思います。 この一週間で、彼への嫉妬と執着が劇的になくなってます! 5年前に奇跡のコースに出会いたかったです(笑) ほんとうに何度も何度も同じシチュエーションが繰り返されて、そのたびに打ちのめされて、5年間のうち2年くらいは食事もろくに取れないくらいの状態でした。 彼とのことだけじゃなくて、ざわざわが出てくるたびに幻想と向き合ってます(*^^*) そのたびに何かしら変化するので、なかなか楽しいです。 また行き詰ったら駆け込みさせてください!! 本当にありがとうございました。
KEN(管理人) (火曜日, 28 7月 2020 09:58)
めぐさん、ありがとうございます! 追加で報告を戴いていたのですがすてきな内容でしたので書き込みをお願いしました。 手に取るような丁寧かつ詳細な報告をありがとうございます。 前回文字通り光の体験をされたので4章「経験から学んだ者であれば、誰もこれ以上の説得を必要としない」(T-4.Ⅵ.3)に来ましたね。 この方は、早くから深い自己対話の重要性を理解していて、ご自身でも意識して赦しに取り組まれています。 幻想直視は自己対話の習慣がある人でも一人で取り組むのは難しいものです。 それでも取り組む。すばらしいです。 『奇跡講座』ではこの取り組みの部分はほとんど具体的な記述がありません。 「幻想を直視する」。この一言に尽きます。 赦しは内に向かわずしては行えません。 徹底的な内省、自己対話が必要です。避けては通れません。 彼女の取り組み姿勢が参考になれば幸いです。 引き続き取り組んでいきましょう。
めぐ (月曜日, 27 7月 2020 16:01)
KENさん、先日はセッションをありがとうございました!! セッション後すばらしい変化で、「彼への執着」が劇的に少なくなりました。 その後も自分で赦しを実践して、 自分でなんとか幻想直視をと試みてみましたが、なかなか難しいです(;´∀`) 実践したことをこちらでご報告させていただきます! ★課題1★ 嫉妬してしまう!! 【現象】 彼がTwitterで他の女の子にいいねしたりコメントしたり、ほかの女の子と話をしてたりするのがむかむかする。 【どうなりたい】 さすがに自分でも一歩間違えるとストーカーになってしまうくらいの嫉妬だと思うので、気にならないようにしたい。 【どうしてそんなことしてしまうの?】 前回のセッションで、「どうして彼じゃないとだめなのか?」という質問で、「自尊心を満たしてくれる相手」という答えがでてきましたが、さらに掘り下げてみると「愛情を私が一人占めできる相手である」という答えがでてきました。 彼はあまり友達も多くなく、ご家族とは縁を切っていて、私とだけ密なやり取りをしている、という関係があって、その中で「彼の愛情を独り占めできる」というエゴにとっての利益があったのだと思います。 エゴは「愛情を独り占めしたい」と思っていました! だから、他の女の子の存在は、独り占めできなくなるというエゴの恐怖だったんです。 【なぜ独り占めしなきゃならないのか?】 「彼の愛が信じられない」 ↓↓ 「私は私の愛が信じられない」ということ?? =結果彼の愛を試す、当てつけをするというエゴの戦略 「彼が他人と親しくすると私から離れる」 ↓↓ 「私は他人より劣っている」⇒劣等感?? あと、「私は十分に愛されていない」という幻想が大きい気がします。 ★課題2★ 彼を諦められない 【気づいたこと】 ・「彼と別れる=彼に振られる」ということはプライドが許さない。 ・ほかの人に笑われると思ってしまう。 ↑ 実際に誰にどのように笑われるのか、という具体的なものはなにもないと気付きました。 【なぜそんな風に思ってしまうのか??】 世間体をめちゃめちゃ気にする親だった。 (でも、自分では「世間体を気にするなんてバカ」と思っていた!!) ★課題3★ 彼の知り合いに紹介されたい。 彼の行くところに一緒に行きたい。 【これによってエゴが得られるもと】 その人たちの尊敬、羨望を受けたいと思っている。 ↓ うらやましがられたい。 私は価値がある存在だと認められたい!? ということ?? 前回のセッションで「前にいろんなワークをやってすっかり克服しました!」と豪語した無価値観きちゃいました(苦笑) 【どうして私は人からの評価でしか自分の価値を決められないのか?】 しかも! 他人(彼)を評価している人(彼の友人知人)からの評価!! ↓ 気づいたこと。母のこと。 自分の人形である私を通して、私が優秀であることで、母自身の価値を高めていた。 私はあんなに嫌だった母親のコピーだった!!(;゚Д゚) (現在の母はすっかり良い方向に変わっています) こんな感じで掘り下げをしてみたんですが、 ・劣等感がある ・愛が足りないと思っている ・世間体を気にする ・母親の嫌な部分を丸コピーしている というところかなあとたどり着いて、 次はどうしたらいいんだっけ???? と、止まってしまいました(;´Д`) なんとなくもう少しな気もするし、なんだか外堀ばかり掘って肝心なところが見えてない気もして・・・ でも、この作業は思いもよらなかった自分が出てきてとても楽しいです(*^^*)
KEN(管理人) (木曜日, 23 7月 2020 15:01)
コメント遅くなりました。 前後しましたが、めぐさんこちらこそありがとうございます。 2回目にして奇跡体験ですね! 即時の感じ方の変化が現れているので間違いないと思います。 もちろんこれですべてが解消されたわけではないとは思いますが、少なくとも1つは赦せていると思います。 立ち会えて光栄です。おめでとうございます。 結果彼からの自己虐待に耐えるほどの強い心を得るという誤った選択をしたがっている自分が居ることに気づかれて、その後するすると解けるように無事本来の自分に戻ることができたようでなによりです。 早くからご自身で自己の無価値観に気づいて取り組まれてきた方です。 自己内省の習慣がしっかりとあり、この結果に早くたどり着いたのだと思います。 次の課題も出てきたとのこと、きっとご自身でも前進していけると思います。 必要ならまたお手伝いしますのでいつでもどうぞ。
KEN(管理人) (木曜日, 23 7月 2020 15:00)
連日のセッションでコメントが遅くなりました。 あこさん、こちらこそありがとうございます。 コース歴は浅いということですが、スピリチュアルの基礎をよく理解されていらっしゃる方でコースの全般的な説明も、すんなりと理解して頂けました。 赦しの実践として見ていったところ、自分で自分のことをどう思っているかが、一つの鍵として出てきたと思います。 自己肯定感の育成はすべての赦しの基礎となりますので、引き続き意識的に大事にされてください。 その上で、実際にテーマとなっているものに対して真に何がイヤなのかを特定していくのですが、途中となりました。 やり方のポイントとしては、同じく切り分けながら特定していきます。 ご自身でもこの後向き合われて行かれるということですので、もし行き詰りましたらまたお手伝いできましたらと思います。 一般的に言えることですが、赦しを実践するためには相手ではなく自分の問題として赦したいと思うことが必要です。 他の方もそうですが、相手への非難を取り下げられて初めて赦しを行うことができます。 落ち着いてゆっくり丁寧に見ていくことが大事になっていきます。 どうしたいのかを自分自身と相談しながら取り組める方です。 取り組むべき課題が絞り込めれば次の展開に入れると思います。
あこ (水曜日, 22 7月 2020 09:52)
KENさん先日は個人セッションありがとうございました。 長時間にもかかわらずじっくり掘り下げて頂いて感謝です。 最初の導入部分がすごくわかりやすくて、コースを本で読んでいるだけでは素通りしてしまうところを説明してくださって理解がとても進みました。 また、たくさんの質問によって自分の勘違いが解き明かされていく過程はとても面白かったです。 引き続き自分の内側と対話していきたいと思います。
めぐ (月曜日, 20 7月 2020 22:13)
今日は2回目のセッションをありがとうございました! 今回のセッションでは本来の自分とズレている見方をしている部分が明らかになって、ボロボロとエゴの計画が削げ落ちて行った、という感じでした。 セッション前と後では、彼に対する考え方がガラッと変わりました。 彼にないがしろにされている現実があって、友達からも彼の私に対する態度はひどい、と言われていて、実際自分でもあり得ないと思っていたにもかかわらず、好きであることをやめられない。 そんな状態が2年以上続いていて、今回藁にも縋る思いでセッションを受けました。 セッションを受けて、ひどい態度を取る彼を好きでい続けてしまう原因にたどり着くことで、ひどい態度を取られたときの彼への感情が本当にフラットなものになりました。 執着がするっととれた、という感じです! 「本来は欠けていない、すでに十分ある」 ということを、いろいろな本を読んで知識としては十分に持っていましたが、それを腑に落とすことができないでいました。 でも、その見方に気づくだけで、「私は完璧、欠けてない」みたいなアファメーションはいらないんですね!(奇跡講座をちゃんと理解してなくてすみません) というか、今も、「欠けていない」ということがどういうことなのか実はよく分かっていないんですが、少なくとも、欠けていない自分ならこう考えるだろうなという風景を見ることができています! セッションの後に、さらに内観をして気づいたことがあります。 セッション中にお話ししましたが「母の愚痴を聞き続けた」ことで、私は母を救ったという成功体験があって、でもまだ自尊心が満たされていない・・・⇒もう一度自尊心を満たしてくれそうな人を探した⇒彼 というエゴの戦略だったのかも!?!? と思いました。 でも外側からは永遠に自尊心は埋まらない・・・というのを、この先一生続けることになっていたのかと思うと、今回気が付けて本当に良かったです。 さらに言うと、母が自分らしく生きられるようになったのは、私が愚痴を聞いたからではなく、自分が変わったからですね(;´∀`) そしてもう一つ、課題もでてきました。 恋愛をすると相手に過干渉してしまう、という課題です。 これは母から受けた過干渉に原因があるかも、と考えていて自分で取り組んでみようと思います。 行き詰ったらまたお願いしたいです! 今回これだけ深く、的確に原因にたどり着けたのは、KENさんの深い洞察力と経験のおかげだと思っています。 ほんとうにありがとうございます。
KEN(管理人) (日曜日, 19 7月 2020 09:46)
めぐさん、いえいえ貴重なご意見ありがとうございます。 前回セッションからご自身でも内面に向き合われてさらに内容が進んでいますね! まだ赦しを開始したばかりということで、慣れないところもあるとは思いますが、よく食らいついて取り組んでいらっしゃいます。 文脈ではいろいろと絡み合っている印象なので、次回セッションでまた解いていって核心部分を見つけ出せたらと思います。 ひとまず基本に立ち返りましょう。 動機の確認:「この気持ちをなんとかしたい」で取り組むのではなく、本来の自分に戻したい、そのために本来の自分とズレている見方をしている部分がどこにあるのかを探したいと思えている。 相手は役割。(こちらの自我(罪)のありかをあぶりだしてくれる役割。) 相手が問題なのではなく自分の心の中に問題がある。 自分に正直になる: そもそも「赦したいか」の確認。 ここでは正直になることが何より大事。 自分と戦ってもいいことないです。 「もう赦そう」と思えた時が吉日です。 「赦せない」「赦したくない」でも問題ないです。 赦さないといけないものなんて何もないです。 ただ赦したい自分が居るかどうかだけ。 この場合、赦せない、赦したくない理由に向き合っていきます。 あとはまたセッションでやりましょう。
めぐ (日曜日, 19 7月 2020 01:10)
KENさん、先日は長時間にわたって内容の濃いセッションをありがとうございました! コース初心者でとりあえず赦しをしてみている、という状態の私でしたが、丁寧に導いていただきました(*^^*) セッションの後に何度も内観を繰り返して、私のもやもやの原因が、 ・彼から愛されていない ・彼からないがしろにされている というところだと改めて感じています。 そして、それにも関わらず「愛してくれず、自分をないがしろにする相手」が好きである、という執着です。 そしてこれは、今まで何度も何度も人を変えながら私の人生で繰り広げられてきたドラマでもあります。いい加減終わらせたいです(ノД`)・゜・。 私の気持ちとやる気が、彼の行動や言動で左右されるのはおかしいと思うのです。 正直それだけの価値がある相手とも思えません。 でも赦しを始めてから、彼に対する執着が徐々になくなってきているとも感じています。 時々エゴが選択していた間違った思考を、聖霊の見方で見ることができている、と感じることがあります。 そんなときはすごく楽です。 同時に感じるのが、エゴの力で聖霊の見方に持っていくことができない、ということです。 エゴがどれだけ「ないがしろにされること」が苦しみの原因ではない、またないがしろにするような相手は自分にはふさわしくない、と言い聞かせても、結局エゴの苦しみの中で堂々巡りをするだけでした。 聖霊に委ねて初めて、なんか知らんけど見え方が変わる、という感じです。 それも、いつ、どのように見え方が変わるかをコントロールすることもできない。 とりとめのない感想(ですらないかもですすみません)になってしまいました(;'∀') セッションを受けてから、自分の声をたくさんたくさん聴くようにして、今書いていたようなことをいろいろと気づきました! またセッションよろしくお願いします!!
KEN(管理人) (木曜日, 02 7月 2020 11:45)
よっしーさん、どういたしまして。 以下長文になりますがコメントを返します。 よっしーさんは、神の教師の特徴(マニュアル編)に必要な素養である正直さがずば抜けています。 自分の正直な思いから逃げない、自分自身に正直になる、がしっかりできている印象です。 常に自己対話も意識して取り組んでいらっしゃいます。 聖霊とのコミュニケーションは自己対話からもたらされますから(聖霊=真の自己)、赦しの実践にあたっては自分への問いかけが特に重要になります。 今回のセッションではテーマ自体に意識していないと分かりにくい自己批判の存在がありました。 示唆しただけですぐに自己批判から抜け出せたようですので、理解が早いです。 多くの方が陥りやすいのですが、自分の至らない現状、ダメだと感じていることろを批判(自己批判/裁き)しながら赦しはおこなえません。 まずはそれでもいい、現状は難しいし出来ないのは当たり前であっていいんだと許可ができてはじめて赦しに取り組めます。 よっしーさんは、今この世界への「信頼」を育てている最中だと思います。 神の教師の特徴(マニュアル編)で、「信頼」というものがあります。 この「信頼」は他9つある素養のすべてを含むものです。(それくらい上位にあって簡単ではないです。) 世界はそれ自体が作り上げた法則によって支配されてはいないと学んだ結果、この世界を信頼しているというものです。 「あらゆるものごとや出来事や出会いの状況が助けになるということを理解するには、多大な学びが必要である」(P.53) 赦しの一つひとつがその積み重ねになります。 マニュアル編の 四.神の教師たちの特徴はどのようなものか あたりが参考になるかもしれません。 (他、セッション内で出た関連引用) ■獲得について ・逆転のプロセス、すなわち取り消しのプロセスにおける最初のステップは、「獲得する」という概念を取り消すことである 奇跡講座テキスト 第6章 五 聖霊のレッスン B 平安をもつためには、平安を学べるように平安を教えなさい。 3.より ・自我は、ただ何かを獲得するだけのために、関係を築く。 与える側である相手を罪悪感を通して、自分に縛りつけておこうとする 奇跡講座テキスト 第15章 七 不必要な犠牲 2.より ■相手をキリストと見るについて ・私を見るように、あなたの兄弟を見なさい 奇跡講座テキスト 第19章 四 平安への障害 B. 第二の障害 ― 「肉体は、それが提供するもののゆえに価値がある」という信念 6.より
よっしー (木曜日, 02 7月 2020 06:53)
先日はセッションありがとうございました(^^) 自分が凄く特定の人に執着しているのが分かりました。 あと、責任を取るのが嫌なんだなと正直な思いにも気がつきました。 自 獲得衝動ではなく、本当は私は、どうしたいんだろうっていう問いを、小さな身近な事から聞いていきます。 それが自分を愛する事に繋がるから。 そして、大きな決断も獲得衝動ではない本当の声に耳を澄ませます。 自分の許可なく勝手に決められるという現実の中で、本当は一緒に話し合って決めたかったという願いがあった事を認識しました。 そしたら昨日、また、勝手に決められるという現実がきましたが、全く動揺しないで心が揺れなくて平安のままでした。 自分が嫌だなぁと感じている事をどっちでも大丈夫よねっていうところに持っていけたら、動揺する事が減っていくなと感じました。 長い時間のセッションありがとうございました(^^)
KEN(管理人) (水曜日, 04 3月 2020 18:37)
コメント遅くなりました。 前後しましたが洋さんありがとうございます。 「自分の声を聞いてあげる」この重要性を理解していただけて嬉しいです。 さっそくご自身の内側の声を受け止められたようで素晴らしいです。 自分の声を聞くことは自分を大切にすることです。 愛することです。 神が大切に愛されている神の子である洋さんを洋さん自身が大切にし、愛したということです。 神の味方になった、神陣営に加わったということです。 多くの人がいまだ神と敵対しています。 自分をまだ大切にできていない、愛せていない、声を聞けていない、聞くどころか拒絶し命令している。 自分と敵対している。 この状態ではいくらコースに取り組もうとしてもうまくいきません。 自分を愛する、自分の声に耳を傾ける。 神、聖霊の味方として加わるということです。 すべてはここから始まります。 ある意味もっとも難しくて重要なこの神の味方につくことが、洋さんは今回のことでできたと思います。 定着するまではしばらく意識的に取り組む必要がありますが、すでに効果も感じられているようですので大丈夫でしょう。 また疑問があるようでしたらいつでもご相談ください。
KEN(管理人) (水曜日, 04 3月 2020 18:08)
コメント遅くなりました。 よっしーさんありがとうございます。 今回も真摯に内面に向き合い、自分に正直になってよく直視されていると思います。 出来事がどんなことであれ、影響を受けた、心にざわつきを覚えた、ひっかかったのであれば、その奥になにかが潜んでいます。 それを直視し解除する、これが赦しです。 毎回セッションを通してこれまでにあった出来事を振り返り、そこにどんな闇が潜んでいるのか、それを直視し、解除する。 この重要性をよく理解し取り組んでいただけていると思います。 これまでのセッションによりどのように取り組めばいいのか大まかな流れは理解できていると思いますので、ぜひご自身でも取り組んでみてください。 引き続き支援しますので、またお声かけください。
KEN(管理人) (月曜日, 02 3月 2020 18:51)
洋さん、よっしーさん書き込みありがとうございます。 明日にはコメントできると思います。 遅くなっており申し訳ありません。
よっしー (日曜日, 01 3月 2020 11:25)
ケンさん、先日はセッションをありがとうございました(^^) 感染症の話が、実は、母への被害者意識に繋がっていたとは! 面白いなぁと感じました。 闇を直視する、嫌だと感じている事を見つめていく、心の声を聞いてあげる、内観を日々の習慣に出来るように、実践していきますね。 自分でできない時は、またセッションお願いしますね。 ありがとうございました(^^)
洋 (金曜日, 28 2月 2020 18:35)
先日はセッションをありがとうございました。 コースを学びながらも、赦しとは、癒しとはということに対して、曖昧なままであったことを教えていただいたと思います。 「自分の声を聞いてあげる」このことの大切さを、日々の中で意識するようにしています。 これは実際にやってみて初めて理解できることですね。 対人関係などで、ムカッときた時など、私はどうして欲しかったのだろうかと、自分自身に聞いてあげてみます。 そうすると「もっと優しく対応して」と内側からの声がありました。 これが私が自分自身に願っていたことなのですね。 そうすると相手に対しての感情も、自分自身に対しても穏やかに接することができるようになっていきます。 自分を信頼している神があること。聖霊があること。 このことを忘れずに過ごしたいと思います。
KEN(管理人) (水曜日, 29 1月 2020 17:55)
satokoさん、こちらこそありがとうございます。 スピリチュアルの知識だけにとどまらず、実際の体験へ結びつけたいとのことで率直にいろいろと質問を頂きました。 初回から内面へのアプローチでしたが、真摯に内に向き合われていました。 すでにポイントは理解して頂けているようですので、慣れるまでには多少試行錯誤が必要ですが、ご自身でも取り組んでいけると思います。 もし行き詰るようなことがありましたら、メールして頂けましたらサポートいたします。 また何かありましたら、ご連絡お待ちしております。
satoko (水曜日, 29 1月 2020 12:08)
先程はありがとうございました! 長い時間かけて、 わたしの勘違いを解体していただき、 赦しのプロセスが少し掴めた気がします。 出来事によって、ざわつきが起こる そのざわつきこそが 勘違いであるという思考の逆転…。 簡単な道のりではないかもしれませんが とてもやりがいのある 本当の救いの道であると思います。 サポートありがとうございました(*˘︶˘*).。.:*♡
KEN(管理人) (土曜日, 11 1月 2020 14:14)
よっしーさん、貴重な感想ありがとうございます。 コースで言えば、汝自身を知れ、ささやかな意欲、赦しの夢をまさに辿っていった結果が現われていますね。 正しく幻想解除に至っていると思います。 コースは難解ですが、実践してみれば意外とできるものです。 まだ始まったばかりですが、この考え方や取り組み方に慣れればすぐに一人でも実践できるようになると思いますので、しばらくは意識しながらやっていけるといいと思います。
よっしー (金曜日, 10 1月 2020 22:58)
kenさんのセッションを2回受けました。 1回目は正直、AさんとBさんを対比するの面倒だなと思いましたが、2回目のセッションを受けた後の変化が面白かったです! 苦手で私に冷たいように感じていた先輩との距離が縮まり、親しげに話しかけてくれたり、先輩からの愛を感じるようになったのがビックリです! 人から嫌われないように、不機嫌になったり怒鳴ったりする事を禁止していた自分を観ていき、自分が本当に愛という存在なら、冷たくされたりしても気にならなくなるっていう言葉が心にしっかりと入ってきました。 そして、今日は苦手な後輩との仕事だったけど、前より苦手意識が減って反応も少なく優しくする事が出来て心が平和でした。 大切にされたい、理解したい、という自己理解が赦しに繋がってるんだなぁと実感出来ました! まだ一人だと幻想の直視は出来ないからまたセッション受けたいと思っています。
KEN(管理人) (水曜日, 25 12月 2019 19:39)
問い合わせの運用を変更しました。 ご意見、ご質問、メッセージ等々は掲示板にて対応しています。 お問い合わせはこちらの掲示板へお願いします。
KEN(管理人) (火曜日, 24 12月 2019 01:28)
これより掲示板の運用を開始します。 メールボックスにサイト読者の方から心のこもった応援メッセージもいただき感謝しております。 こちらこそよろしくお願いします。 メリークリスマス
2019.12.24 掲示板の運用開始。
KEN(管理人) (火曜日, 14 4月 2026 09:53)
いまだ考察中ですが現時点での備忘録として。
「本気で生きる」は、「意図してはできない」という整理でした。
「本気で生きる」すなわち「本気で動く」、つまり「本気でなんとかしたい」ことがある、ということ。
「意欲」の問題ですね。(コースでもよく出て来るワードです)
この「意欲」、どういうときに強く現れるかというと、
「自分が地獄に居ると感じるとき」(脱出するためだったら何だってやろうとする)ですね。
ただ「地獄に居ると感じる」のは、人それぞれです。
客観的に見て、とてつもない状況に居るのにそう感じない人もいるし、ささいなことでも「地獄」と感じる人もいる。
つまり「感受性の問題」は一つあるのかな?、と。
そして「自分の人生」を本気で考えるようになるきっかけは、もちろん人それぞれですが、よくあるのが、身近な人の死、911や311などの震災を肌で感じた時などが挙がるのかもしれません。
まだまだ考察の余地がありそうです。
いわた (月曜日, 13 4月 2026 09:44)
お世話になっています
#248 の御返事ありがとうございます
「本当のところ、自分はどうしたいのか」という問いかけ、深く響きました。
正直なところ、私のなかでは「興味があって読みたい」という気持ちと、「文脈が難しくて立ち止まって本を閉じてしまう」という感覚がずっとループしています。また「読みたい」と戻ってしまうのは、やはりどこかで心が求めているからなのだと、考えています。
第1章Ⅲ.1の解説をいただき、本当にありがとうございます。
「キリスト(聖霊)の存在が必須であること」「最終地点で控えてくれていること」という視点で読むと、難解だった一文が、解りやすいです。
解説を読んで「あぁ、なるほど」と、今の私なりの理解ができている感覚です。
*まずは、自分の本心が「今どうしたいか」を置いてけぼりにせず、教えていただいた自我の声の見分け方を意識しながら、自分のペースで向き合ってみようと思います。
いつもフィードバックありがとうございます
KEN(管理人) (月曜日, 13 4月 2026 07:34)
連日関連投稿が続きますが、
どうすれば人は「そのように生きれる」ようになるのか?
人は「本気で生きる」と決めて生きられるものなのか?
人が「そのように生きる」かどうか「決められる」ようなものではないと思います。
勝手にそう「決まる」ような性質のものです。
なぜか「そう生きる」と決まってしまう。
つまり「意図してはできない」。
できる人はなぜかそできるし、まだできていない人はその時点ではどうやっても出来ない。
つまりあるとき「そうなっている」、です。
人の意志では出来ない。
私自身も「そのように生きよう」と自分で「決めて」生きたわけではありませんでした。
勝手にそういう生き方になってしまっていました。
つまり「小学生のことろはなぜか足が速かった」みたいな部類。
「高校生になって急に勉強に目覚めた」部類。
なぜそうなったかの理由はいくらでも後付けできるが、実際のところはどれも「結果的にそうなった」部類。
誰でも「今もっとも最適な場所に居る」。
それが受け入れられる人は受け入れられるし、そうでない人は今はまだそれが出来ない。
つまり結局は仏教でいう「縁」ということになりそうです。
後付けですが、「本気で生きる」と決まっている人たちがどういう人たちかは・・・
キーワードは「主体性」「自己信頼(自信)」「逆境(突き放し、放置、助けない、過保護にしない、本人に取り組ませる、間違ってもいいから本人にさせる)」
幼少期に関わっていたまわりの環境、つまりもっとも影響を与える人(親など)がそういう関わりをしてくれたのが大きい、のか
もしそうなら社会全体がそのような関わりをもつ機能に変わっていくことで「本気で生きる」人がもっと輩出されるようになっていくだろうし・・・何よりこの自分がそのように関われる人になればいい。影響を与える存在に。
KEN(管理人) (日曜日, 12 4月 2026 09:59)
前回投稿では、『奇跡講座』を何度も読めるようになるかどうかは分かりませんが、大事なことは「自分自身の本心がどう言っているかに耳を傾け、それに沿う」でした。
1日経って「自分自身、強烈に本心に耳を傾けられるようになった理由を1つ挙げよ」を考えていました。
結論としては、「一度死んだ」です。
これは積極的に「死にに行く」わけではなく、結果的に「死を覚悟した」です。
自分自身の取り組みとしては、「必死で生きた」その結果です。
今風に言えば「燃え尽きた」。
ある意味人生を賭けて、「それしか生きるすべがない、それが出来ない人生はあり得ない、生きている意味がない」と完全に思い込んで生きてしまった結果です。
今のように内面に深く向き合えるような状況でもなく、ただ単に無条件に(ここではまったく吟味されることがないという意味での「無条件に」)無意識レベルで「そうするものだ」という勝手な思い込みのもとに、これまた無意識に「全身全霊」で取り組んだ結果です。
私の「それ」とは「偉くなる」ことです。「人よりも偉くなる」。雑に言えば「権力者」でありその先に見ているものは「カネ」であり「金銭的豊かさ」です。とても世俗的ですね。
「生活に何不自由なくラクに生きたい」、それは突き詰めれば「生存の恐怖」です。
つまり「切迫した恐怖」に冒されて生きてきた。
この恐怖から逃れるためによく吟味されずに、無意識レベルで「全身全霊」で取り組んだ。
その結果、「どうやっても絶対に無理だ」と悟った瞬間です。
つまり「生きている意味がない」に至った瞬間。
それが「死を覚悟した」です。
この整理でいけば、結局のところどうであろうと(自我からであろうと)結論は「本気で生きる」になってしまいますが。(「本気で生きていない」つまり「本気で生きようという意志がないから」という結論になってしまいますね。 この言葉はまさに『神との対話』という本の中に出てきます、13章「なぜなら、あなたには生きようという意志がないからだ」。 12章には「なまはんかな気持ちでなく、実際に、思いきり選びなさい」つまり徹底的に生きよ、と。 では、どうすれば人はそのように生きれるようになるのか?そう生きれる人とそうでない人との違い・・・今のところは分かりません。この分野は自分の中ではまだ十分に吟味できていません。今後の課題です。)
これらは今振り返っての分析です。
もちろん当時はまったく言語化されてもいなく完全な無意識駆動です。
KEN(管理人) (土曜日, 11 4月 2026 10:30)
第一章Ⅲ.1「私は贖罪の過程を任されているが、その過程は私が始めることを引き受けたものである。」の箇所ですね。
ここでの「私」とはキリストを指します。
段落の後半を見ていけば、キリストであることがわかると思います。
「贖罪の過程つまり赦しは、私キリスト(キリストの心が聖霊なので聖霊を含む)が居ないと出来ない。 キリスト(聖霊)が居ないとそもそも不可能。 つまりキリスト(聖霊)の存在が必須。 天上界においてキリストに赦しは任されている。 私キリストが責任をもってそれを行うことを引き受けているのだから安心しなさい。」という意味になります。
私が何度も読み進められているのは、自分の心が求めているからです。
「なぜかわからないけれどもそうしたい」自分がいるだけです。
こういうことは実際のところ全員の心にもあるのかもしれませんし、そうでないかもしれません。
人によるのかもしれません。
また、時期やタイミングもあるのでしょう。
私の場合は生まれる前からそのような傾向が設定されていたのかもしれません。
私にとっては「趣味」のようなものです。
「趣味」とは言っても暇つぶしの要素はありません。
やるなと言われても、お金を払ってでも、無い時間を作ってでも「そうしたい(読みたい)もの」なんです。
アドバイスとしては、「そうしたければやる(読む)」、「そうでなければやらない(読まない)」でいいと思います。
つまり、「自分自身の本心がどう言っているか」に耳を傾け、それに沿うだけです。
もし「読みたい」と言っているなら読みます。
「どうもまだ読みたいとは言っていないようだ」「むしろ他のことを優先してしたいことがある」と言っているなら、それに従うだけです。
やりたいことをやりましょう。 やらせてあげましょう。
「自分自身の本心がどう言っているかに耳を傾ける方法」はセッションで教えている通りです。
ポイントは「自我からの声を選り分け排除して本心からの声を拾いやすくする」ことです。
1.自我の主要戦略である「獲得思考」からの発想かどうかを見分け排除
2.それでも本心からの声を見つけにくければ、本心は愛つまり「無条件」なので、無条件ならほんとうはどうしたいのかを確認する (「そうしなければならない」などの条件が付いていないか、あまりにも当然の前提になりすぎて、条件付けがあるのに気付いていない場合があるので、プロに見てもらうことが必要な場合もあります)
私は贖罪の過程を任されているが、その過程は私が始めることを引き受けたものである。 あなたが私の兄弟たちの誰かに奇跡を差し出すとき、あなたはそれをあなた自身と私に差し出している。「あなた自身」が「私」よりも前にくる理由は、私は、私自身の贖罪のために奇跡を必要としてはいないが、あなたが一時的に失敗した場合に備えて最終地点に控えているからである。 贖罪における私の役割は、あなたが他の方法では訂正できないような一切の誤りを無効にすることである。 あなたが自分の本来の状態についての認識を取り戻したとき、あなた自身が自然に贖罪の一部となる。 あなた自身の中にも他の人の中にも誤りを受け入れようとしない私の意志をあなたも共有するにつれて、あなたはその誤りを正すための大いなる聖戦に必ず参加することになる。 私の声を聞き、誤りを取り消すことを学び、それを正すために行動する。
奇跡講座テキスト 第1章 三 贖罪と奇跡 1.
いわた (金曜日, 10 4月 2026 23:39)
いつもお世話になっております。
質問させて下さい
テキストを読み進めていますが、一語一句が難解だなとかんじてます。
例えば第一章Ⅲ.1の「私は贖罪の過程を任されているが…………」という箇所。
これは、「私は初めから罪がなかった、咎められる原因は無かったという事を今後受け入れていく」という意味と解釈してますが どうなんでしょうか�?
また、この「私」とは読み手の私なのか、神やイエスのことなのか…と考え出すと読み進められなくなります。
Kenさんはどのように何度も読み進めていかれたのですか?
アドバイスいただけると嬉しいです。
いわた (木曜日, 19 3月 2026 22:34)
先日のセッションの感想とお礼です
特に悩みがあって申し込んだわけではなかったのですが、
とても濃い時間で、セッション後も自分の中で何かが変化し続けている感覚があります。
普段は一人でコースを日々実践していますが、一人でコツコツするよりも
セッションを受け、深度と密度が違うと感じましたし、テキストの解説についても一緒に読んで頂いた事で理解が進んだと思います。
お話頂いた、「恐れか愛か」という視点を、改めて今日の日常の中で実際に使ってみたところ、本当に「恐れ」が多いことに気づきました。
基本的なことではありますが、「立ち止まって→観る」ということを丁寧に行うこと!これまでは大枠のところでしか捉えていなかったのですが、
それを細部で観ていくことで、不思議と平安に入れ替わっていく感覚をかんじました。
構造仕組みの全体像を伝えていただけたことで、
これまでバラバラに感じていた部分的な理解が、ひとつに繋がったんでしょうね。
静かだけれど、確かな変化が内側で起きていることを感じています。
この感覚をこれからも大切にしていきたいと思います。
本当にありがとうございました。
いわた (金曜日, 13 3月 2026 22:26)
フィードバックありがとうございますkenさん感謝です
あの瞬間のことを「聖なる瞬間【赦し】」というのですね!
>「心地の良い体験」は赦しの夢です受け入れているという心境が自然に自分の中に”起こった”はずです。そしてこれは、意図して受け入れようとしたわけではないはずです
┗そうなんです
瞬間ですが何処か呆れていました(降参でしょうね).と同時に執着しない(見方を変えたいたのでしょうね)軽い愛おしさがありました
以下も学びになります
⇩
一度刻み込まれたこの"感覚"は薄らぐことはあっても忘れることはないはずです。少なくとも今の心境がそのときの心境と同じなのか違うのかは分かるようになっています。そして赦しの実践にはそれが重要なんです。
┗既に感覚は過去の体験になっています
┗現在エゴにどっぷり入り込んでいるのを感じています
肉体.感情.思考と同一化してて抜けられない不快感
┗「心地の良い体験」は赦しの夢=はい!今は理解しきっているとは言えないですが、そういうことなのでしょうね..............
明渡し................薄っすら意味が分かるような分からないような.......。
*幻想直視を引き続き継続していきます
KEN(管理人) (土曜日, 07 3月 2026 09:21)
すばらしいシェアありがとうございます。
トリガーの振り返りについて
>「その日は夫が子どもみたいに、はしゃいでいました。夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を私が受け入れている心境になっていたのがトリガーだったのかも知れませんこの時自分のあり方は意図してません無意識でした」
”夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を私が受け入れている心境になっていた”
旦那さんに対する【アホっぽい~】にダメだという裁きが一切なかったはずです。【アホっぽい~】という感想と共にそれを”受け入れている”心境が生じていたはずです。受け入れているという心境が自然に自分の中に”起こった”はずです。そしてこれは、意図して受け入れようとしたわけではないはずです。
これが起こった瞬間のことを奇跡講座では「聖なる瞬間」と呼びます。
そしてこれがまさに赦しです(今回の場合は幻想直視を意図することもなく、一瞬で赦しが終わったパターンです)。「心地の良い体験」は赦しの夢です。
この心境になった"感覚"は重要なので記憶にとどめておいてください。
この体験があるのとないのとではこのあとの赦しの実践に大きく影響してきます。
(とはいえ一度刻み込まれたこの"感覚"は薄らぐことはあっても忘れることはないはずです。少なくとも今の心境がそのときの心境と同じなのか違うのかは分かるようになっています。そして赦しの実践にはそれが重要なんです。)
意図せず無意識だったということですが、少なくとも「受け入れたい」という思い(意図/意欲)はどこかにあったはずです。「受け入れない」「受け入れたくない」ではなく。つまりささやかな意欲はあった。
受け入れたい/裁きたくない/赦したい/それでいいはず・・・そんなささやかな思い/意図があればいつかその思いが満ちたとき、赦しの体験は誰にでも訪れます。
「ごく自然に受け入れる心境になった」。赦しはこれがいつ起きるかだけの話なんです。とはいえ、これは自分の意図の範疇ではないので、通常私たちにはコントロールできません。だとすると、「ただ待つだけなのか?神のみぞ知る?」赦しが必要なシーンは数多くあるのに・・・。いいえ、意図してやる方法はあります。これを「意図して行う」ことをやっているのが私たちが使用しているメソッドです。奇跡講座では幻想直視と呼んでいます。つまりコントロールしたいという欲をよく見て解除する方法です。
私たちが奇跡講座を学んでいるのはこのためです。
そしてこの方法は、ささやかな意欲ではなく、十全な意欲が必要です。
いわた (木曜日, 05 3月 2026 14:57)
さっきの追記です。
あの3/2の体験、先生のフィードバックを読んだ直後に起きたので、たぶんエネルギーが共鳴したんだと思います。
共鳴したことが単純に嬉しかったのでそれだけ伝えたくなりました。
分かち合えて感謝です!
いわた (木曜日, 05 3月 2026 14:38)
お世話になります
いつもありがとうございますフィードバックに感謝です
kenさんから頂いた
下記のお言葉とリンクする体験があたのでシェアさせてください
【前略】
常にそばにいるこの自分自身は神に守られたつまり背後に神の気配を感じる聖なる自己だということがわかってきます。 つまりそれがあなたの内なるキリストであり聖霊です。 聖霊にゆだねるとは「この自分自身がどう言っているんだろう」と耳を傾けている/耳をそばだてている状態のことを指します。 神なる回答を何度も受け取るたびに、内なる自己との絆が盤石化していきます。 これが絶対的な信へとつながります
-----------------------------
3/2の夜 以下のような体験をしました
身体が自動に動いていてて、私はただ.そこにいて
運ばれている【くつろいでいる】だけ
それは心地の良い体験でした。
そこには③つの視点がありました
① 身体としての私(外的な情報と内的な空間の感覚)
② 外部の状況に思考で意味付けをしている私
③ それらを静かに眺めている私(自動で起きる内外の状況を見ている私)
この感覚は現在、意図的な再現はできず、記憶も薄らいでいます。言葉にしようとすると、実感が遠のく感覚もあります
トリガーが何だったのかを振り返りました
その日は夫が子どもみたいに、はしゃいでいました。
夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を
私が受け入れている心境になっていたのがトリガーだったのかも知れません
この時自分のあり方は意図してません無意識でした
この体験を追わないように意図します
「自分の在り方次第でそれは在る」と感じました
一時はその「在り方」を意図的に選択しようとも思いましたが、それは「今の自分を否定する」ことになりかねない、という危うさにも気づきました
引き続き心の訓練をしていきます
KEN(管理人) (月曜日, 02 3月 2026 08:38)
>「虚無とまでは行きませんが孤独な感覚あります」
「孤独な感覚」に違和感がなければまったく問題ないですよ。仮に「虚無」でもそれは同じです。
どんな感覚でも自分自身が許可を出せていればまったくもって「あっていい感覚」です。
「許可」が出せないものがあればそれを見に行けばいいことです。
「その感覚」を自分はどう感じていてどうしたいのか、違和感があるのか疑念があるのか、あるいはそのままでいいのかを自分自身に聞いてみてください。
というかもうすでにされていますね!
すぐに結論が出ない、よく分からない場合もよくあります。そんなときは、「その感覚」をそのままにしばらく過ごして見て様子を待ちましょう。そのうえで何か変化や印象の変化などがあればその時また見てみましょう。
おそらく、自分自身に聞く/耳を傾ける感覚がもっと定着してくれば、常に自分自身がそばにいることが理解でき、実はまったく孤独ではなかったことに気づくはずです。 常にそばにいるこの自分自身は神に守られたつまり背後に神の気配を感じる聖なる自己だということがわかってきます。 つまりそれがあなたの内なるキリストであり聖霊です。 聖霊にゆだねるとは「この自分自身がどう言っているんだろう」と耳を傾けている/耳をそばだてている状態のことを指します。 神なる回答を何度も受け取るたびに、内なる自己との絆が盤石化していきます。 これが絶対的な信へとつながります。
いわた (日曜日, 01 3月 2026 19:48)
レッスン276の学びと近況
Kenさんお世話になっております
本日はレッスン276を読み進めていたのですが、今の私にとって非常に響くテーマでしたので、今の感覚を投稿します
「私が語るようにと神の言葉が与えられる」
レッスンで言う「言葉」とは、音声としての言葉ではなく、言葉になる前の「意識」そのものだと受け取っています。その意識を神聖なものとして受け入れるか、それとも否定して(エゴの)恐れや防衛に走るのか。兄弟たちも皆、同じなんだと.いう事なのでしょう
何を選ぶかは自由で、エゴでも神聖でもない場所から、あえて「神聖さを選ぶ」ということを、このレッスンは伝えてくれているように思いました。
今の自分は、神聖でも悪でもない、そのどちらでもあり、同時にどちらでもないような境地にいます。
孤独で、冷めているような感覚があります。
それでも肉体がある人として感情を持ったり、目標を持ったりして過ごしていますが、日常の中で頻繁に、以前からの「反応する癖」が出てくるのも感じています。
「意味はない」とふふふと笑いながら、つい反応で意味をつけてしまう自分もいますが、時折それすらも「意味は自分でつけているだけだった」と、一歩引いています。
未来への不安や、過去のお土産のような思い出を抱えながら、空虚感に似た「何か」の中にいる........そんな状態です。
以前は前のめりでコースを読んでいましたが、今は「選んでもいいし、選ばなくてもいい。でも、どうせならこれを使おうかな」という視点でコースと向き合ってます。
また何か気づきがありましたら、投稿したです
虚無とまでは行きませんが孤独な感覚あります
何か軌道修正したほうが良さそうという事を、思われましたらフィードバックいただけるとありがたいです
いつもありがとうございます。
いわた (金曜日, 20 2月 2026 21:20)
応援励ましの言葉として受け取ってます
ありがとうございます
おぞましいほどの思いが自分の中に潜んでいました
今後についてまたシェアさせて下さい
KEN(管理人) (月曜日, 16 2月 2026 19:50)
ここから本当のレッスンになるということですが、うまくいくところもあるでしょうしそうでないところもあるでしょう。
いわたさんは「自我」でなく「ほんとうの自分」のほうに信が置けるようになってきていますから、ナチュラルに「どうしたいか」に耳を傾けて進めていけると思います。
仮に違っていたとしても充分違和感を感じ取れるほど敏感になっていますから、その都度自分自身に聞いて修正していくこともできるでしょう。
またシェアお待ちしています!
いわた (月曜日, 16 2月 2026 00:22)
お世話になります
今の感覚を忘れないように忘備録です
もし間違った認識していたらご享受ねがいます
今までは、「この苦しい人生から何とかして逃げたい、救われたい」っていう思いを、実は心の奥にずっと隠し持ってたんです。それは小さなトゲっていうより、もう自分の一部になっちゃってる「大きな山」みたいな執着で、大きすぎて気づけなかった。でも、その「助かりたい」っていう必死さこそが、エゴの力みだったんだと思います。
今は、「もう、どっちでもいいなぁ」っていう、静かでフラットな場所にいます。 苦しいドラマが起きようが、キラキラした幸せが来ようが、どっちもただ現れては消えるバリエーションに過ぎない。そう思えたら執着していた「自分を正さなきゃ」っていう焦りが、スッと消えていきました。
実在そのものは、上にどんな物語が乗っかっても、傷つくことも揺らぐこともない。この場所から本当の意味で「コースという手法を使い天国を選ぶ」という準備ができた気がします。
今の私にとっての「赦し」は、何かを必死に修正する作業じゃなくて、起きてくることをそのまま眺める「あいだの視点」です。絶対的な安心感の中にいながら、「せっかく人間やってるんだから、心地いい方を選ぼうかな」くらいのノリです。
救われるためにコースを握りしめるのは、もうおしまい。 最初から救われている中で、天国を選んで、コースを分かち合っていく。 ここからが私の本当のレッスンになりそうです。
いつもお導きありがとうございます!
いわた (日曜日, 15 2月 2026 11:13)
返信頂き ”ふ”と気づいたことがあったのでシェアさせてください
「よしやろう!取り組もう!」と頑張ること自体が「今の自分は駄目だ!」という自己否定があったことに気が付きました。
今の自分を拒絶しているうちは、結局ずっと思考の中にいるだけ。
「自分はまだだ」というエゴの解釈を手放し、ただ事実の中にいることの大切さが、腑に落ちた感覚があります。
kenさんの暖かく優しい感覚に深い安堵を感じました
ありがとうございます
KEN(管理人) (日曜日, 15 2月 2026 09:10)
追記)
最後の文の終わりはこのほうがいいですね。
旧「(なぜならそれは自分で決めることだからです)」
新「(なぜならそれは自分で決めていいことだからです)」
KEN(管理人) (土曜日, 14 2月 2026 21:30)
1)「実在しないものに傷つけられたと感じて動揺しています」
この“傷つけられた”というのは、つまり「そうなって欲しくなかった」を指していると思います。
ですので、「なぜそうなって欲しくなかったのか、なぜそうでないほうがこの自分にとっていいと判断しているのか?」を見にいってください。
2)「【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】が自分の状態.状況変化で、わかるときと 飲み込めないときがあります」
「飲み込めないときがある」という表現からすると、もしかすると頑張ってそう思おうとしているのかもしれません。
これは信念であり信仰です。
奇跡講座で言うところの「信を置けるか」です。
信を置ける状態になるまでは、揺れ動くこともあるでしょう。
それまでは「どうやら【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】らしいのだが、今はまだそのようにちゃんとは思えない」で問題ありません。
つまり、今はまだ「そう思いたくない」ということになります。
それで大丈夫です。
自分に正直なほうがここでは大事です。
自分と闘っても意味はないですから。
自分の状況が変わって「そう思いたい」と思えるようになってから(信を置けるようになってから)で大丈夫です。「よしやろう」と思えるようになってからで大丈夫だということです。
「よしやろう」と思えていないのに無理して取り組もうとしているのなら、頑張って取り組んでいることになっているでしょうし、「頑張る」というのは心が割れていることになりますし、不自然なことをやっているということになります。そこには「早く解決したい」焦りが見え隠れします。そういうときは「現状がいやだ」と幻想を現実だと見てしまっているということになります。
それで問題はありませんが、赦しは進みませんので膠着状態は続くことになります。
解決しない状態が続くことで「ほんとうにもう嫌だ!本気で赦す」と決するときまでいくらでもグズグズして構わないということです。(なぜならそれは自分で決めることだからです)
いわた (土曜日, 14 2月 2026 10:38)
以下の 言葉が、気になりました多分、今.必要な事柄なんだと思った自分がいます
【kenさんの書き出し一部抜粋】
何であれこの世界の中にあるもので、良きもので価値があり獲得するための努力に値するとあなたが信じているものは、あなたを傷つけることができ、実際に傷つけるだろう。 それ自体に傷つける力があるからではなく、それが幻想にすぎないことをあなたが否定し、それを実在のものにしてしまったからに他ならない。 それはあなたにとっては実在している。 無ではない。 そしてその知覚された実在性を通して、病んだ幻想の世界全体が入り込んでいる。」
-- --- -- --- --- ---- ---
【自分ごとですが】
実在しないものに傷つけられたと感じて動揺しています
意味がない幻想を自ら実在させてた事に気づきましたが
実在を与えてべったり同一化していて、なかなか腑に落ちない。
次から次に言い訳が出てきてさらに幻想物語が膨らんでいく
最後には自己否定自己嫌悪に陥って素直になりたい清らかになりたいと願えばどんどん罪悪感へ。
自力でできると考えているのでしょうね...........
聖霊に明け渡します
kenさんのユーチューブ動画の
【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】が
自分の状態.状況変化で、わかるときと 飲み込めないときがあります
KEN(管理人) (火曜日, 10 2月 2026 10:03)
追記1の2)
“獲得思考”(「獲得する」概念)について
T-4.Ⅱ.7.「自我は決して豊かさから与えることはしないが、それは、自分自身が豊かさの代替として作り出されたものだからである。 だからこそ、「獲得する」という概念が、自我の思考体系の中に生じたのである。 欲望は「獲得」のメカニズムであり、自我が自分を確認する必要を表現するものである。 同様のことを、肉体の欲望についても言うことができ、いわゆる「自我の高尚な必要」についても言うことができる。 肉体の欲望の起源は、物理的なものではない。 自我は肉体を自らの家と見なし、肉体を通して自らを満足させようとする。 しかし、それが可能だという考えは、心による決断であり、心は、何が本当に可能なのかについて完全に混乱をきたしている。」
T--26.Ⅵ.1.「何であれこの世界の中にあるもので、良きもので価値があり獲得するための努力に値するとあなたが信じているものは、あなたを傷つけることができ、実際に傷つけるだろう。 それ自体に傷つける力があるからではなく、それが幻想にすぎないことをあなたが否定し、それを実在のものにしてしまったからに他ならない。 それはあなたにとっては実在している。 無ではない。 そしてその知覚された実在性を通して、病んだ幻想の世界全体が入り込んでいる。」
T-4.Ⅲ.4.「愛は、真にそれを欲する心ならどの心の中へでも即座に入ってくるが、そのとき心はそれを真に欲していなければならない。 ということは、心が両面感情をもたずにそれを欲するという意味であり、この種の欲し方には、自我の「獲得しようとする衝動」が皆無である。」
KEN(管理人) (日曜日, 08 2月 2026 21:05)
追記2)
“他の赦しに取り組んでいた問題も「芋づる式」に、解決します。”
恐らくこのことをよく示しているテキストの箇所が以下です。
T-27.Ⅴ.9.「 あなたの数多くの異なった問題も、そのうちのどの一つでも片づいたときにはすべて解決されるということが、明らかになるだろう。」
KEN(管理人) (日曜日, 08 2月 2026 21:04)
追記1)
“「趣味」なようなもの。”
こう表現しましたが、この「趣味」には“暇つぶし”としての要素はありません。 “幸せになるために何かをやる”といった獲得思考がないことが重要です。 「ただやりたいからやる」です。 結果はどうであれただやりたいからやる、です。 悲しいかな、自我は結果を得るために何かをやります。 自我にとっては結果が重要なのです。 ですが禅も奇跡講座も(あるいはどんなことでも)自我からは取り組めません。 (もちろん取り組むことはできますが、意味をなしません)
いわた (火曜日, 27 1月 2026 09:41)
回答ありがとうございます
「ひとつのエゴを解体すると
「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。」
⬆
はい。
これまで以上に敏感になってます
お陰様で心も身体も脱力する感覚を深めました
Kenさんのいう「芋づる式」は、オセロが一気に引っくり返る という意味なんですね
(根が同じものならそれらも解決する)
⑅⃛ 頭の片隅に学習として入れておきます
奇跡講座、引き続き取り組んでいきます
いつもありがとうございます
KEN(管理人) (火曜日, 27 1月 2026 07:08)
いわたさんの「芋ずる式にエゴが出てくる」について
「ひとつのエゴを解体すると
「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。」
私の言っていた「芋づる式」は、「オセロが一気に引っくり返るように」のほうが正確です。
赦しに取り組み始めると、多くの赦すべき問題(つまり嫌だと思っていること)を抱えていることに気づき、目を向け始めることになります。
そのうち一つでも完了したとき、他の赦しに取り組んでいた問題も「芋づる式」に、解決します。
「オセロが引っくり返るように」いくつかの問題は一気に解決します。
おそらく“問題の根”がいっしょだったのでしょう。
もちろん一つ赦せばすべての問題が解決するわけではありませんが、多くの問題は関連しているようです。
いわたさんの言われているものは、数多くある赦すべき問題に対してこれまで以上に敏感に気づき始めたことを指しているのだと思われます。
新たに浮上してくるものもあり、赦すべきものはたくさんありますから。
KEN(管理人) (火曜日, 27 1月 2026 07:03)
崎枝さん、真摯で率直な書き込み、ありがとうございます。
お久しぶりです。
じっくり読ませていただきました。
「「自分を愛する」と言われると、ほぼほとんどの人は
愛せない自分を責めてしまうと思います。
私的には「自分を攻撃しない」方がしっくりきます。」
ほんとそうですね。
「自分を攻撃しない」
その方がしっくりきます。
「自分を愛することが起・こ・る」以外に方法もないのが難しいところです。
続きの追記では禅について触れられていました。
禅も「座ることが起・こ・る」で始まるようです。
座ろうとした時点ではまだ禅ではない。
「正しくあろうとする私」
そうですね。
正しければ幸せだなんて誰が言ったんでしょうね。
なんだっていいと思います。
「趣味」なようなものです。
奇跡講座でも禅でも他の何かでも何でもいいと思います、オウムでも統一教会でもサッカーでもお料理でも。
幸せになろうとしてやらなければ。
今の私たちは「得るために」何かをやろうとします。
そのレベルでの私たちでは不可能なようです。
それを“自我”と呼んだりもします。
いわた (土曜日, 24 1月 2026 23:52)
お世話になります
いわたです
以前セッションしてもらったときの 言ってた言葉の意味が少し分かりました「芋ずる式にエゴが出てくる」と聞いたのを覚えてます
ひとつのエゴを解体すると
「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。
芋ずる式�����こーゆー意味なのかなーって
思いました。
読んで頂きありがとうございます
┏○ペコ
崎枝 (土曜日, 24 1月 2026)
追記です。
ふと思ったことを書きます。
前投稿内で使用した
「捕まえる」というニュアンスの中に
「私」の意志を感じる新しい「見る者」の香りがするなぁと読み返して思いました。
前から思っていた個人的な意見です。
奇跡講座には必ず:
• 選ぶ私
• 気づく私
• 赦す私
が機能として残る。
それがあるから、
• 実践できる
• 救われる
• 生きやすくなる
でも同時に、
「正しくあろうとする私」
が最後まで温存される
全て捨てろと最後に言ってますけどね。
奇跡講座の落とし穴はこの
「正しく理解している正しい私」
が暴走しがちになることと思っています。
最近「道元入門」という本を読みました。
ここを、禅は一切許さない。
禅は現実的で癒しがない。シビアだ。
禅はこう言う。
正しい位置?
それがもう分離だよ
見てる?
それがもう迷いだよ
何もしない?
それを選んだ時点で迷いだ
私にとってはとても興味深かった。
今の私は優劣ではなくこう思います。
人として生きやすくなる
→ 奇跡講座は最強
構造的に一切逃げ場を残さない
→ 禅は最終兵器
どちらがいいとかの優劣ではありません。非常に興味深い。
禅の不立文字
只管打坐
私たちの先人は凄いなと思います。
何度もスミマセン
崎枝 (金曜日, 23 1月 2026 20:32)
ご無沙汰しています。
以前何度かセッションを受けさせていただいた者です。
当時、私は
「聖霊を選べない」「知的には理解しているのに手放せない」
というところで完全に行き詰まっていました。
そのときにKENさんから
「自分を愛することが、赦しの前提条件」
「なんとかしようともがいてきた自分の本当の望みを聞いてあげてほしい」
と言われ、正直に言うと、その時の私はその意味を理解できませんでした。
今更そんな自己啓発のようなことを言われて、戸惑い、意図が全くわからなかったのでとりあえずその後も奇跡講座を真面目に学び続け、
「わかったと思っては落ちる」を何年も繰り返しました。
あるとき、
「学べば楽になると思っているのは誰だろう?」
「理解すれば迷いが終わると思っているのは誰だろう?」
とふと立ち止まった瞬間がありました。
自我を手放すために学んでいる、
でもそれをやっているのも自我。
「私が学んでいる限り、迷いは終わらないのでは?」
そう気づいたとき、本当に動けなくなりました。
今は
聖霊を選ぼう!
選べない。なぜ?
手放そう!
手放せない!!
こんな迷いが起きるたびにそれをどうにかしようとせず、ただその「迷う心」を捉える、ということをしています。
それでも現象は淡々と起き続けていて
世界は「私を通した現象」でしかないんだなと
世界に対する重さだけが少し薄れるように感じています。
最近になって、
以前KENさんがおっしゃっていた
「自分を愛することが赦しの前提条件」という言葉を
あらためて思い出しました。
私なりに振り返ると、
それは「自分を肯定する」「ポジティブになる」ということではなく、
自分の中にある認めたくない思い――
怒り、嫉妬、承認欲求、優位に立ちたい気持ち、逃げたい気持ち――
それらを否定せず、存在を許した経験だったのかもしれません。これがじぶんを愛することなのかな?と思っています。
迷う心を自由に言いたいことを言わせて、心自体を止めるのではなくて、ジタバタ迷う心を捕まえる(止観のイメージ)と何か柔らかいものが現れて、安心した感覚がありました。
正しい理想の自分を保っていたときに感じていた想像の神とはまったく質が違うものでした。
もしかしたら、
「否定されている心は捕まえられないのかな?」
心は迷う
その心を自由にさせると
返って心が逃げなくなるのかもしれません。
これは私の勝手な解釈で、妄想かもしれませんけど…
ただもしKENさんの本意が私の気づきと通じ合うところがあるのならば……
「自分を愛する」と言われると、ほぼほとんどの人は
愛せない自分を責めてしまうと思います。
私的には「自分を攻撃しない」方がしっくりきます。
ただ、あのときいただいた言葉が、
時間をかけて今ここで静かに響いていることを
お伝えしたくて連絡しました。
読んでいただき、ありがとうございました。
KEN(管理人) (月曜日, 19 1月 2026 23:03)
虚無感について質問がありましたのでこちらに回答します。
私もかつて虚無というか人生に絶望しました。
文字通り人生に夢も希望も無くなり、もう死のうと決心しています。
その後の展開は個人的なのであまり参考になりません。
既定路線です。
今は虚無感を体験する必要があるからそうなっているのでしょう。
自分に向き合う強さが最も失われているときです。
ですので、ほとんどやれることはないです。
つまり、何をしてもいいし、何をしなくてもいい、何ができなくてもいいし、何もできなくてもいい。まったくできなくてもいい。まったく何もできないものです。もちろん足掻いてもいいです。
それが極まったとき内側から何かに思い至ります。
いわた (日曜日, 18 1月 2026 14:42)
#220読みました
わかりやすい内容をありがとうございます
身に染みてます
「幸せになりたい」
「特別になりたい」
「もっと上手くやりたい」
「不安を回避したい」
等
たくさんの思いを抱えている自分に気が付きました。
それでもまだ諦められない自分を見てます。
今この機会に居ることを感謝します。
KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:52)
いわたさんの「真理の考察」に関する書き込みへの返信
【真理の考察:実在するのは平安のみである】
これは単純で、「恐れ」は実在ではない。存在しない。幻想である。以上
『奇跡講座』の基本中の基本概念です。
ですので、『実在するのは平安のみである』完璧な洞察です!
KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:47)
いわたさんのレッスン253に関する書き込みへの返信
『奇跡講座』は「本来の自分に戻る道」なので、レッスン253は「本来の自分はこのように世界を見ており、本来の自分に戻りたいのなら同じように見なければならない。」つまり「あなたの覚悟を見ている」レッスンです。奇跡講座の言葉を使うなら「信」が置けているか。
レッスン253「1. 私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。 この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。 私の身に起こることは、私が望んでいることである。 生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。 このことを、私は受け入れなければならない。」
なので、「こんなことは私が招いたものではない! なんてひどいことが起こったんだ。 運が悪すぎる。。 こんなことは私は望んでいない! どうして望んでいる通りにならないんだ。 最悪だ。。」なんてことを思っているとしたら、奇跡講座を一からやり直す必要がある、というレッスンです。とはいえワークブック編なので、まさにこれを学ばせるレッスンですね。
続くレッスン311、312も同じです。
レッスン311「私はあらゆるものごとを、自分が望む通りのものとして判断する。」
レッスン312「私はあらゆるものごとを、自分が望む通りのものとして見る。」
いずれも簡単に言えば、「それでいい、(そうであっても、そうでなくてもまた)それでいい。 外の世界はそのままで完全完璧。」を言っています。
ですので、赦しに取り組む私たちはこれらを前提としているので、「もしそう思えないのだとしたら、なぜこの自分はそう思えないのか。 思いたくないのか。 それをよく見る必要がある。」です。
KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:44)
以下のブログ記事にコメントを頂きましたので、こちらに書き込みます。
『AIに聞いてみた:赦しが不可能な理由「もっと衝撃な事実とは何か?」』
https://acim.jimdofree.com/i-asked-ai#commentEntry226835488
――――――――
雀さん書き込みありがとうございます。
今回はアニメ映画「ひゃくえむ」からの洞察。
映画を観てからコメントと思ったものの、まだ先になりそうなので書き込みます。
「非二元が起きる直前の人間のリアルを描いたアニメ」とのことで、次観る映画になりました。
世間の情景を深い洞察力で読み解く雀さんのコメント、いつも脱帽です。
相当赦しを実践されているように見受けられます。
奇跡体験もいくつもされているのでしょう。
>赦しの一歩手前、とは何か
>奇跡講座的に言うと:
> 赦し=幻想だと完全に見抜く
> その前段階=幻想に“乗らない”
まだ観ていないので何とも言えないのですが、その前の前の段階=幻想に"気づく"も描かれていそうですね。
いつも貴重な意見ありがとうございます。
いわた (水曜日, 14 1月 2026 15:16)
度々投稿失礼します
Kenさんの今日の教えを拝見しての感じたこと
【真理の考察:実在するのは平安のみである】
もしかしたら、こういうことでは?(とインスピレーション)
恐れや恐怖という感情の中に、人の意識は留まり続けることができない。 私たちは、平安の中でしか留まることができない。
苦しみや恐怖の中にずっと留まれないのと同様に、一方で「世俗的な快楽」や「楽しさ」、あるいは誰かに対する「優越感」といった感情もまた、そこに永続的に留まることはできない。
「ずっと留まれないもの」は、実在しない。
「本当に実在しているのは、平安だけである」と言えるのではないだろうか。
たとえ三次元の世界でどんなに辛い状況にあったとしても、自らの意識が永遠に留まれる平安であるならば、それこそが「実在」に繋がっている証拠?!
一過性の感情の波に一喜一憂するのではなく、ただ唯一、意識が永続して留まれる「平安」こそが真実。
-------------------
この投稿には承認欲求が入っています・笑
いわた (水曜日, 14 1月 2026 15:00)
今ほどKENさんの【今日の教え】を拝見してきました
冒頭から
------時間のことは、気にかけずにいなさい。------
を読んで笑ってしまった
先程の掲示板投稿で私はレッスンを読み解くのに時間かかりすぎた自己否定感があったので 爆笑しちゃいました
いわた (水曜日, 14 1月 2026 14:56)
今年初の掲示板投稿です
今年もどうぞよろしくお願いします
以下を私なりにAIと読み解いてみました
レッスン253は長くない文章ですが読み解きにかなりの時間がかかりました
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レッスン253 私の自己(純粋意識)は宇宙の支配者である
①私自身(純粋意識)から招かれずに 私(三次元人間世界)の元に来るものはない。 この世界においてさえ、私(三次元人間世界)の運命を支配するのは私(純粋意識)である。 私(三次元人間世界)の身に起こることは、私(純粋意識)が望んでいることである。 生じないものは、私(純粋意識)がそれが起こることを望まないものである。 そのことを私(三次元人間世界)は受け入れなければならない。 なぜならそうすることにより 私(三次元人間世界)はこの世界を超えて天国の中の私(純粋意識)の被造物 すなわち 私(純粋意識)の意志から生まれた子供達へと導かれるからである そこには私(純粋意識)の神聖なる自己が私が創造した彼らと私(純粋意識)を想像した神と共に住んでいる
②あなた(大いなる源.神)は大いなる自己(大いなる源.神+純粋意識)であり ご自身(大いなる源.神)のために子(純粋意識)を創造されました その子(純粋意識)はあなた(大いなる源.神)と同じように想像しあなた(大いなる源.神)と一つのもの宇宙を支配する私(純粋意識)の自己は私自身(純粋意識)の意思と完璧に一致しているあなた(大いなる源.神)の意志に他なりません その 私(純粋意識)の意志はそれ(大いなる源.神)自体へと 延長されるようにとただあなた(大いなる源.神)の意志に喜んで 賛同するのみです
//------------------------------------------//
自己解釈ですが
①は純粋意識の私が人間の私へ向けて
②は純粋意識の私が大いなる源神へ向けて
と解釈しました
//------------------------------------------//
罪:ここで言う罪とは現状に抗うこと受け入れれないこと
平安を求めるのであれば喜んで宇宙の支配者である愛ベースの自己を観ることなのでしょうね
//------------------------------------------//
流れるように読みたいと思いました
引き続き深めていきたいと思います
上記について補足等あればご教授ねがいます
いわた (日曜日, 28 12月 2025 09:31)
ありがとうございます
引き続き深めていきます
KEN(管理人) (日曜日, 28 12月 2025 08:12)
>「私の、防御は一切発動しない 体験」
“それでいい、(そうであっても、そうでなくてもまた)それでいい”
外の世界はそのままで完璧。
場合によっては今回のように「罵声」であるかもしれない。
それでもまったく問題はない。自分の心の中が平和であるなら。
もし感情的になんらかの反応が自分の中に見つかるなら、赦しのテーマ。
おそらく今回は、感情的反応は皆無なので赦しは完了している。
相手の罵声に対して反応することなく、ただ受け止めることが相手に対してできる(というかごく自然に出て来る)愛の表現だったということ。
「彼らにはいくらでも好きなように、憎々しく狂暴にさせておきなさい。 これが自分の夢だということを、あなたが認識しそこなったのでない限り、彼らはあなたにどんな結果ももたらし得ない。」T-27.Ⅷ.10.
そしてこれが「引き寄せの法則」で言うところの『許容し可能にする術』である。
いわた (金曜日, 26 12月 2025 16:15)
〜追記を読んで〜
(ありがとうございます)
攻撃はせず、愛する
赦しとは訂正することであり裁くことでは無い。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
先日
身内から罵声罵倒の言葉を浴びせられた。
あなたなんて
大っ嫌い!
ムカつく!
全部あなたのせいだ!
と、言われました�
私は愛を求めている叫びだと察知しました。そこには怒りも裁きもありません。愛を求めていんんだな、(罵声として であっても)よく言葉にしてくれたね。苦しい沈黙を、破壊してよく連絡してくれたね【⠀おかえり 】と 思う気持ちになりました。
相手の本当の声(言葉にはしてない)を、聴く時 攻撃は愛の叫びに聴こえ 私の、防御は一切発動しない 体験を、しました。
その後に
相手へ
【⠀もう、その役目(辛く苦しく不安で怯える)はやらなくていいんだよ 】と 心から祈りました。
お読みいただきありがとうございます
KEN(管理人) (月曜日, 22 12月 2025 09:25)
(追記)
「癒しのためにただ一つ要求されることは、恐れの不在である。 恐れている者たちは癒されてはいないし、癒すこともできない。 これは、癒すためには、あなたの心から葛藤が永遠に消え去っていなければならないという意味ではない。 もしそうであったなら、癒しの必要はなかっただろう。 しかしそれは、ほんの一瞬であれ、あなたが攻撃せずに愛するということを意味してはいる。」(T-27.Ⅴ.2.)
「慈愛は、今すぐに達成できるという限られた意味において、正しい心の状態にとって必要不可欠なものである。」(T-2.Ⅴ.9.)
「奇跡志向の赦しとは、訂正に他ならない。 それには裁きの要素はまったくない。」(T-2.Ⅴ.A.16.)
KEN(管理人) (土曜日, 20 12月 2025 10:13)
メールで頂いていたものをこちらに転載していただきました。いわたさん、いつも素晴らしい報告ありがとうございます。
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セッションで、奇跡講座(コース)を理解すると神との対話(神対)は実はすごい内容なんですよという話をしました。
両教えをシンクロさせて理解されているのが、内容からうかがえます。
併読することで難解な教えがより確実な理解に昇華されている印象を受けます。
バッチリです。
内省と気づきの部分も、すばらしく驚きを覚えます。
エゴの言い分を否定せずよく聞いてあげる必要があります。
エゴを否定したままだと耳を傾けられません。
否定せず素朴に(ニュートラルに)接することがカギ。
エゴも自分の心(心に抱く信念)の一部。
否定せず心を開いて接することでエゴも真実を語り始めます。
ご自身でちゃんと気づかれている、感動しました。
セッションで伝えていたことが、正確に伝わっています。
ご自身の中で照らし合わせて一つひとつ理解の歩みを進めているのがよく分かるシェア内容、ありがとうございます。
また進展がありましたらシェアお待ちしています。
いわた (金曜日, 19 12月 2025 21:30)
自分にとって 大きな気付きがありました。
234 父よ、今日再び、私はあなたの子です
(レッスン234ですが神対の影響受けているので少しズレています)
愛の対局は恐れです。愛を知るために恐れがある。 つまり、愛を知るための道具として恐れがあるのであれば、恐れそのものは幻想でしかありません。 恐れは愛を知るためだけにあるのだから、ただそれを見ればいい。 恐れやエゴを否定しなくてもいいし、追いやらなくてもいい。
源は愛であり、私たちは自由な人間としての表現者です。魂が軽やかに喜ぶことをすればいい。 恐れを見る際、無理に喜ぶ必要も、積極的に迎え入れる必要もなく、ただ見ればいい。
私は常に恐れを抱いていました。不安、心配、自己否定、他者否定。 つまり、これら「反対側」を体験することで、真実を認知したいという自分がいるのでしょう。 もう、恐れは見ました。今日もまた見るでしょう。 ただ見なさい、眺めなさい。恐れを恐れて正当化したり、隠したりしないように。
時間は、本来の自分ではないものを経験し、それを認識することで「本来の自分」を知るためのツールです。愛を思い出すために、この時間が与えられているのだと感じています。
二元性を受け入れます。それは愛(自分自身)を知るための贈り物でしょう。 はじめから恐れは幻想でした。恐れの反対側(真実)にあることに気がつくこと。 厳密に言えば、反対側へ行くのではなく、恐れと愛の二極性を同時に知り、エゴの機能を理解した上で、愛(軽やかな自分)に戻ることなのだと認識しました。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
(ここからは、内省と気づき)
私、勘違いしていました。 エゴは悪いものだと思って、エゴが出てきたらすぐさま蓋をしていた。
エゴを見ることをせず、懺悔もしなかった。 聖霊に差し出さず、解体もできていなかった。
私の「黒いエゴ」だと思っていた部分は、麻痺していました。 実際は黒くもなんともなく、ただのエゴです。
純粋だと思っていた私が、エゴを踏みつけて蹴飛ばし、いなかったことにして「自分は純粋だ」と言い聞かせていた。 本当に(エゴに対して)ごめんなさい。 ※この「ごめんね」は、重苦しい罪悪感ではなく、慈悲深い温かな気持ちです。
エゴは私を導くために存在していた、とも捉えることができます。 エゴを閉じ込めてごめんね。これからはエゴも見るよ。 エゴの中に、私の本心も一緒に隠してしまったような気がしています。
お読み頂きありがとうございます
引き続き学習していきます
いわた (金曜日, 12 12月 2025 09:35)
理解し難いと感じていた内容が、今は潤滑油を垂らしたかのように不思議と読めるようになってます。
【自我と同一化している今の自分】と言い換えると自我を赦し俯瞰して見れるように感じました。
ありがとうございました
(感謝)
引き続き深めていきます。
KEN(管理人) (木曜日, 11 12月 2025 12:37)
L226 1.
「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。 これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。 もし私が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私にとって価値あるものであり続ける。 しかし、もし世界を見ながら、その中に価値を見ず、自分のものとしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去ってゆく。 それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。」
一部、私【自我の私】(自我と同一化している今の私)と読み替えてみてください。
↓
「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。 これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。 もし私【自我の私】が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私【自我の私】にとって価値あるものであり続ける。 しかし、もし世界を見ながら、その中に【自我の私が価値ありと見なしていたものの中に、つまり偶像に】価値を見ず、自分のものとしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去ってゆく。 それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。」
要約)自我として今まで通り世界を見るなら、自我にとって価値のある世界を見る(引き続き今と同じ争いの世界を見る)。 だが、自我を超えて見るのであれば(偶像や魔術からの誘惑を一切拒絶するなら/キリストの心眼で見るなら)、自我の眼(奇跡講座ではこれを「肉体の眼」と呼ぶ)で見ていた世界は私から消え去る。
いわた (木曜日, 11 12月 2025 09:17)
返答ありがとうございます
*KENさんの要約参考になりました
私が腑に落ちなかった点(本から抜粋)は以下です
⇨......................その中に価値を見ず 自分のものとしておきたいものや ゴール として追求したいものを何一つ 見なければ 世界が私から去ってゆく それは私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。
↑
この部分何度読んでも 何を指しているのか理解しかねます
KEN(管理人) (水曜日, 10 12月 2025 18:54)
いわたさんへ
セッションの感想、そしてセッション後の気づきのシェアありがとうございます。
さてワークブック226についてです。
適切に理解されているように見て取れます。
世界の展開はそのままある。
自分の中のエゴの視点を通して世界を見るため、同じ世界を見てもエゴの視点を通した印象を受け取る。
自分の中のエゴが解消されていれば、エゴの視点のない価値観を通して世界を見るため、同じ世界を見ているにもかかわらずエゴの視点のない価値観を通した印象を世界から受け取る。
見ている世界は同じものでありなんら違いはない。(もちろん聖霊による最適なレッスンの提供上、変化し違う世界が展開する場合もある。ex.病気が治る、など)
自分の中のエゴが完全に解消されてしまえば、そもそも目に映る世界自体が消滅する(らしい)
どのあたりに腑に落ちなかったのか教えてください。
いわた (水曜日, 10 12月 2025 15:13)
お世話になります
質問です
ワークブック/レッスン226の理解が解りかねます
()書きの部分は私の解釈です
レッスン226
「私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。」
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もし私がそう選ぶならこの世界を 完全に立ち去ることができる これを可能にするのは死ではなく 世界の目的について心を(分離のエゴ視点から分離していないキリスト視点に)変えることである
もし私が今見ている通りに世界を価値あるものと信じるなら世界は私にとって価値あるもの(エゴにとって価値がある世界観)であり続ける。しかし もし 世界(エゴの世界観)を見ながら
その中に価値を見ず 自分のものとしておきたいものや ゴール として追求したいものを何一つ 見なければ 世界(エゴの世界観)が私から去ってゆく それは私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったから(赦しの視点でいた)である。
--------------
--------------
自分なりにですが、
・端的に解釈すると、エゴの視点でこの世界を見ているとエゴの偽りの幸せの価値観で世界は在り続ける。
がしかし、エゴの偽りの幸せの価値観で世界を見なければ、または世界にエゴの偽りの幸せの価値観を要求しなければその世界観は私の前には現れない
と解釈をしましたが、イマイチ腑に落ちませんでした。
いわた (水曜日, 10 12月 2025 13:18)
☆ セッション後の内省☆
セッション後、以下の重要な気づきがありました。
長年、「世界から存在否定されている」という根本的な誤解をベースに生きてきました。
*これは自分にとって根本的大きなモノ(エゴ)だったと認識しています
その誤解ゆえに、人にやさしくする 相手を優先するなど、あらゆる努力を…「世界に受け入れられるための証明作業」にしていたのでしょうね。
実は幼少期家庭に居場所が無いと感じていて「存在否定さている!」という誤った解釈が背景にあり、私はこの「存在否定されている」というトラウマを生きる活力(エゴからのエンジン)として利用していたと気づきました。
• 投影の撤回: 虐待やネグレクトは、ただ起きただけであり、それに意味(加害者/被害者)をつけたのは、私自身の勝手な解釈と投影でした。
• 私は肉体ではない。私を傷つけられるものはなく、この傷は私が私につけたものです。加害者だと決めつけていた親や家族も、加害者ではありません。意味はないのだから。
私はこの自己否定のゲームと、意味づけの誤りを認めます。
堂々と親と家族を赦し(投影を撤回し)ます。
☆聖霊の視点を選択します。濁りがない愛の視点から見る☆
• 私は世界に対して何も証明する必要はありません。 世界に愛を働きかける義務もない。
• 「世界が私を拒絶している」という思い込みは、誤りだったと認めます。
• 純粋な愛は常に注がれている。私は、ただその純粋さを受け取って良い。
安心して良いのですね。私がエゴの働きかけをやめたところから、愛の延長は自然に始まります。
Sessionありがとうございました
引き続きコースを学習していきます
いわた (金曜日, 05 12月 2025 18:20)
お世話になっております
昨日はsessionありがとうごさいました。
奇跡講座について分かり易く丁寧に教えて頂き本当にありがたい!
これからも、引き続き学んでいきます。
YouTubeも拝見しました。
分かっているつもりでも
Kenさんからの学びは大変身に染みます。