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コメント: 138
  • #138

    Rumi (水曜日, 08 5月 2024 12:17)

    お返事ありがとうございます。

    そうですね。私はコースを取り組む準備段階だったんですね。

    この後どうするかは自分次第。

    ありがとうございました。

  • #137

    KEN(管理人) (火曜日, 07 5月 2024 23:35)

    Rumiさん、はじめまして。
    管理人のKENです。

    「コースの理解を独学でやるのは難しい」これについて何か意見があればとのことでした。

    多くの人にとって確かに難しいと思います。
    難しく感じるのは意志の力で取り組もうとしているからです。

    準備が整った人にとっては、気がついたら「独学でやっている」です。
    彼らにとって難しい難しくないは関係なくなります。
    これは奇跡講座でよく出てきますが「意欲」の問題です。
    彼らはもはや意志ではやっていません。そうせざるを得ない内側から湧き起こる要請に突き動かされてごく自然にやっています。
    そんな「意欲」が彼らにはあります。

    では難しいと感じる私たちはどうしたら。その答えも載せておきます。
    「今の自分はどっちへ行きたいのか」ちゃんと聞く、耳を傾ける、ということです。
    「自分と繋がる」と言ってもいい。
    つまり「自分についていく」ことです。
    「あなたがあなた自身についていく」ことです。
    「自分と調和する」です。
    「ハートで生きる」とも言います。

    そしてもっと経験に耳を傾ける、です。
    「学習した知識でもって判断する」ことに偏重しすぎています。
    経験体験してきたことよりも経験せず知ってもいない知識を優先しすぎている。

    このように、コースに取り組むよりも前にもっとやることがあります。
    奇跡講座でいう「準備が整う」に向けた取り組みです。

    とはいえ「グループでの悩み」や「独学は難しい」も、「職場や家庭での困難」もこれらすべての「体験」は、「準備が整う」ために確実に貢献しています。
    「準備が整う」その日が来ればそれが分かると思います。

  • #136

    Rumi (火曜日, 07 5月 2024 11:51)

    はじめてコメントさせていただきます。

    #131の中で「他人」の記述つまりコースにおいての「兄弟」の記述がありました。

    > 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。

    ↑を心において他人と付き合うという事が人生と心に置いて生活すると理解しますが同時に色々思う所があります。

    コースグループ等で「兄弟と一緒に目覚める。だからグループ内での会話は助けになる」

    と仰るティーチャーが多いと思います。

    一体感とか分かち合う喜びも多く、自分の内面を理解し合う事で深く絆を感じモチベーションにもなる…と同時に関係が深まると投影により悩まされる…
    これではただの「特別な関係」でしかないのではないかと思います。

    お互いが分かり合えて嬉しい!というのは正しく自我の動きで、自我は認められたいので人生においていろんな形で「特別な関係」を探し続け落胆します。

    うんざりとわかっていてもやめられない。

    コース学習者でさえやります。

    < 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。

    ↑を完全に定着した上でのグループ学習は有意義と思いますが、自他の区別をしている状態だと通常の特別な関係に悩まされるのでは?と思います。

    他人との関係においての喜びも実相の反映として享受し嫌な感情は「赦し」のレッスンとして他人と接するのは未熟な心ではなかなか難しいです。

    やはり自学がベースなのかなと思いますが、コースの理解を独学でやるのは難しい。

    だからKENさんのような方がおられるのはありがたいのですが、この点においてもし何か思うところがあればご意見いただけたらと思います。

  • #135

    まつ (日曜日, 28 4月 2024 08:02)

    KENさんのブログを読んでセッションを受けて変われました。
    今まで読んだり聞いたりした事でも実際にセッションを受けて、今まで気にしていたのはなんだったのかと生まれ変わった気がします。
    本当にありがとうございます。

  • #134

    aki (水曜日, 31 1月 2024 15:41)

    セッションありがとうございました。
    奇跡講座をどのように学んでいったらいいのか何をしたらいいのか分からずにいました。
    相談できた事に感謝でいっぱいです。とても安心できました。
    学べる事が嬉しいです。
    これからは自分に寄り添えるよう、幸せから選択できるよにいきたいです。
    これからもよろしくお願いします。

  • #133

    はちみつ (金曜日, 15 12月 2023 08:26)

    セッションを受けて、最近起きた自分のトラブルについて考え、自分の中で出た答えをKENさんに聞いていただいた。するとどうやら赦しができている様だった。
    赦しができていると聞いたときはポカンとした感じだったが、お腹の奥のずっと奥の方から『神様が居るのだ』という確信が込み上げてきて涙が出た。
    KENさんに確認しなければ気づけないほど、赦しはとても自然に行われていた様だ。
    赦しは確かに、精霊さんに委ねた瞬間自動的に起こっている様である。

  • #132

    eve (日曜日, 05 11月 2023 17:47)

    KENさま、お考えをありがとうございます。
    お返事をいただけて本当に嬉しかったです!ありがとうございます。
    今日は普段はしない、義母と主人の農作業の手伝いをしました。
    義母も主人も本質はキリストなので、一つに結びつこうという思いで、自分を愛するために奉仕作業を選びました。
    昨晩は作業を手伝おうとしている私はこの世界に価値を見いだそうとしているんじゃないか、間違っているんじゃないか、そんなことよりコースの勉強をしたほうがいいという思いが出ました。
    でもその声自体が一つにつながることへのエゴの抵抗の声じゃないかと混乱して、どう行動したらいいかわからなくなり、とりとめもなくご質問をしてしまいました。うまく自分の思いを表現できずに書いてしまい、すみませんでした。

    今はそんなときは、自己対話が必要だと気づくことができました。
    KENさまに自分の心への向き合うことの大事さを優しく教えていただき、もっと自分の心に正直になろうと思えました。赦しと自己対話、キリストへの信頼をもっと深めていこうと思います。
    KEN先生さまには、本当に心から感謝の気持ちでいっぱいです。
    私の心はこの世界にいないのかもしれませんが、神の子にふさわしく、赦しを通していただいた愛をKENさまのように、たくさんまわりに表現していきたいと思います。ありがとうございました。

  • #131

    KEN(管理人) (日曜日, 05 11月 2023 12:48)

    >コースの教えは、この世界は無価値な夢だと認めていく道なのだと自分なりに理解しています。

    コースの教えは、(すごくざっくり言えば)この世界で起きる出来事を通して自分の嫌な感情を見つけ出し、それを本来の状態に戻していく道だと理解しています。 つまりこれが赦しの説明です。


    >その夢の中での行動面に関してなのですが、世界も相手も、すべて自分でキリスト、相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道なのではと感じています。

     「>世界も相手も、すべて自分」・・・それはそうなのですが、これだけでは活用しづらいので、一足飛びにいくのはやめて今は脇に置いておきましょう。

     「>相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して」・・・これもそれはそうなのですが、どちらかと言うと、自分が癒されると、その瞬間同時に相手も癒される、がいいかと思います。

     「>精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道」・・・これがどのレベルのものを指しているのかわからないのですが、「>相手に奉仕」が特に気になります。
     相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。


    >怖れがなければ奉仕をしたい、でも、奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのではないだろうか?という声もあります。

     「>奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのでは」・・・この世界を実在としたくない、転じてこの世界は実在してはならない、存在してはいけない、だから消滅させなければならない、となっているとしたら「すでにこの世界はそんな世界として実在している」ことが前提に話が展開していることになります。


    >私の意思は神の意志なので、神のような考えをしたいのです。

     「>私の意思は神の意志」・・・そうです。 つまり私たちが何を意思しようとなんでもOKです。 それが神の意志です。 「これをするな、あれをせよ」は、ありません。 なのでしたいことをしましょう。

     「>神のような考えをしたい」のであれば、自分の中に答えさせてあげてください。 KENや教典、外からの答えは意味がありません。 「なんでもしていいならどうしたいのか。何がしたいのか。もちろん何の罰則も制限もないとして。」


    全体的に、頭でっかちになって難しく考えてしまっている印象をお見受けします。 べつに赦したくなければ赦さなくったっていいんです。 赦すことがいいことでもありません。 赦さないことが悪でもありません。 なんでもいいんです。 したいことをしましょう。 自分がどうしたいかが大事ですから。


  • #130

    eve (土曜日, 04 11月 2023 21:55)

    KENさま、いつもありがとうございます。
    コースの教えは、この世界は無価値な夢だと認めていく道なのだと
    自分なりに理解しています。
    その夢の中での行動面に関してなのですが、世界も相手も、すべて自分でキリスト、相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道なのではと感じています。
    私の心の中で、それは違う、そんな暇があるならテキストを読むなりコースの勉強をしたがいいという声があります。兄弟と結びつくことで、解放されることへの怖れ声なのだと思います。
    怖れがなければ奉仕をしたい、でも、奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのではないだろうか?という声もあります。
    私の意思は神の意志なので、神のような考えをしたいのです。
    KENさまのお考えを教えていただけたらありがたいです。

  • #129

    eve (木曜日, 02 11月 2023 16:07)

    KENさま、とてもわかりやすいご回答をありがとうございます。

    実相を知るということは「自我を見ない」ということである。

    KENさまのご指導のおかげで、真の赦しにより自分の誤りが訂正され(白紙に戻され)、相手にも自分にも罪である自我はどこにも見当たらない状態に戻ることだと理解することができました。ありがとうございます。

    「相手もしくは自分のエゴが存在していると気づいた、でも、そもそもその見方がおかしい自分がいる、相手は間違っていない、間違っているのはこの自分だ、自分のどこが間違っているのか(勘違いしているのか)その誤った知覚、認識、信念をこの相手との関係性を示す出来事を辿ることによって真剣に見つけよう」が正解です、とご指導いただけたことにより、個人の非実在性への認識と自我の誤りを見ていく重要性を改めて感じることができました。

    「罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うのではない。 罪は存在していなかったと見るのである。 その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。 赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。 そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。」
    答えをありがとうございます!この文章は毎日読んで、しっかり認識していこうと思います。
    自分の目的(神の平安、神の子)を意識して自分の誤りに気づかせていただけることに日々感謝をしながら無罪の神の子を選択していきたいと思います。
    エゴの誘惑で弱気になることもありますが、KENさまの聖性あふれるご指導に感謝感激し、ブログに救われ勇気をいただいて前進できております。
    心から深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。

  • #128

    KEN(管理人) (木曜日, 02 11月 2023)

    eveさんへ
    こちらこそ熱心な学習者に感謝します。
    ワークブックにある『自我とは何か』の部分についてですね。

    >「実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」

    この「自我を見ない」についてさまざまに誤解されてきました。

    看過ですが、無視とは違います。

    (ここで言う無視とは気づいているのに気づいていないようにふるまう、見なかったことにする、あるいは無かったことにするという意味で使っています。 テキストには「無視」という用語が使われている箇所がありますが、無視の意味が違います。ややこしいですね)


    看過とは見過ごすことであり、「誤りを超えたところを見る」です。
    つまりこれが、赦すことです。

     「赦すことは見過ごすことである。 それならば、誤りを超えたところを見なさい。」(T-9.Ⅳ.1.)
     https://acim.jimdofree.com/acim-text-09-04-01-1


    >これは相手と自分のエゴは存在しないと無視(看過、赦し)し、その先にある光だけを見る心眼を言ってあると解釈していいのでしょうか?
    >実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので、ここで言われる「見ない」とは、どう解釈したらいいかわかりません。

    「>実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので」・・・もちろんそうです。


    ここでの論点は、姿勢の問題です。 心構えの問題です。
    基本中の基本です。

     「実在すると自分で信じている罪を赦すことができる者はいない」(T-27.Ⅱ.2.)
     「本人にとって真理と思えるものを看過して赦そうとするのではない」(同)
     「赦しは最初に罪を確立して、その後にそれを赦すことはしない」(同)
     https://acim.jimdofree.com/acim-text-27-02-02


    そして以下が答えです。

     「罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うのではない。 罪は存在していなかったと見るのである。 その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。 赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。 そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。」(ワークブック 第2部 1.赦しとは何か 1.)


    つまり、赦しには

    (1) 相手に問題があると見てそれを見ないでいたり無視するのではなく、「相手には問題がない(罪がない)と見て、問題があるのはこの自分であり、でも、この自分にも罪はないのだから、あるのは自分の中にある誤り(勘違い)だけであり、この誤った部分はどこなのかを知りたい」という理解であり姿勢です。

    (2) その上で、その誤り(勘違い)を解くために「その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していく」です。


    結論としては、

    「相手もしくは自分のエゴが存在しているとすでに思ってしまっている自分がいるのに、そんなのは存在しないと「無視」し、障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくこともしない」では二重に誤解しているということになります。

    ですので、

    「相手もしくは自分のエゴが存在していると気づいた、でも、そもそもその見方がおかしい自分がいる、相手は間違っていない、間違っているのはこの自分だ、自分のどこが間違っているのか(勘違いしているのか)その誤った知覚、認識、信念をこの相手との関係性を示す出来事を辿ることによって真剣に見つけよう」が正解です。


    そして、看過しきったとき(赦しが完了したとき)、自分の誤りが訂正され(白紙に戻され)、相手にも自分にももはや罪である自我はどこにも見当たらない、すなわち「自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」となり、これが「実相を知る」ということです。

  • #127

    eve (木曜日, 02 11月 2023 10:01)

    いつも素晴らしいブログをありがとうございます。
    ワークブックパートⅡ12、自我とは何か 4
    「実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」
    とあります。
    これは相手と自分のエゴは存在しないと無視(看過、赦し)し、その先にある光だけを見る心眼を言ってあると解釈していいのでしょうか?
    実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので、ここで言われる「見ない」とは、どう解釈したらいいかわかりません。KENさま、どうかご教授いただけませんでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。

  • #126

    eve (土曜日, 14 10月 2023 01:30)

    KENさま、愛のこもったわかりやすいご回答をありがとうございます!
    これからは、解放されたくないという自分の気持ちに気づいたときは
    しっかり認識して精霊に頼っていこうと思います。
    KENさまからいただいたたくさんの愛に感謝して
    日々精進していきます!本当にありがとうございました!

  • #125

    KEN(管理人) (金曜日, 13 10月 2023 18:46)

    お役に立てたのなら何よりです。
    少し追記します。

    1) >「意欲を持って、手放すと決意することでいいのでしょうか?」の部分について、

    意欲や決意は「する」ものではなく、意欲や決意は「起きる」ものとし、この部分は努力でなんとかできるものではないと記述しました。

    意欲は、人によってももちろん強弱があります。

    ときには、意欲が出ないときもあるでしょう。
    私にもあります。誰にでもあると思います。


    奇跡講座には次の記述があります。

     「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。」(T-16.Ⅵ.12:5)


    これは、意欲が持てないときは、つまりやる気がないときは、このようにすることでやる気が強化されることを示しています。

    1) 「なんだか今、やる気がない」という状態にあることに気づく
    2) 「なぜこの自分はこんなにやる気が起きないのだろうか?」と自問する、その理由に気づき、認識する
     そうすれば、聖霊の意欲が与えられる、つまりやる気が強化されるということです。


    とはいっても、これに取り組むこと自体、そもそもやる気がないと始まりませんので、どうどうめぐりですが。。

    こちらこそありがとうございます。

  • #124

    eve (金曜日, 13 10月 2023 17:47)

    KENさま、
    私の質問の意図に沿った丁寧でわかりやすいご回答をありがとうございます。
    自分の勘違いに気づくことができ、よく理解できました。
    意欲への激励のお優しさも、とてもありがたいです。実践へのやる気がでます。
    真摯に本来の自分に向き合い、自分の感情に目を光らせて動揺を常に監視、赦しを実践していこうと思います。また、多大なるKENさまの貴重なご理解をブログを通して共有させていただけることにも心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

  • #123

    KEN(管理人) (金曜日, 13 10月 2023 14:25)

    eveさま、以前にも記事にコメントを残してくれていましたよね。
    あらためてお礼申し上げます、ありがとうございます。

    さて、ご質問の件です。

    >「テキスト6章第三のステップ、C神と神の国を守るために警戒するために、精霊を教師にし自我の考えを侵入させないよう考えの一つひとつを精霊の光で判断するよう書かれてありました。」

    該当するテキストは以下になりますね。

     「聖霊はあなたの心の中で、誤ったものから真実のものを選り分け、あなたが心の中に入らせる考えの一つひとつを、神がそこに置いたものの光に照らして判断するように教える。」(T-6-5.C-1:2)


    ご質問は、実践に関してでした。

    >「これを実践するにあたり、意欲を持ち、心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放すと決意することでよろしいのでしょうか?」


    おおざっぱにはこれでいいのですが、実践に関してのご質問でしたので、もう少し丁寧に見ていきます。

    1) >「意欲を持って、手放すと決意することでいいのでしょうか?」の部分です。
    意欲や決意はするものではありません。
    意欲や決意は起きるものです。そのような思いに至る、生じると言ったほうがいいかもしれません。
    この部分は努力でなんとかできるものではありません。

    eveさんは実践に足を踏み入れていますから、意欲と決意はすでにあってのことだと思います。
    ですので、この部分を気にしても仕方ありませんので、次に行きます。


    2) >「心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放す」の部分。
    心に浮かんでくる考えを意識して認識するのではありません。
    ここは警戒の話です。(第六章 愛のレッスン Ⅴ.聖霊のレッスン C. 神と神の国を守るためだけに警戒していなさい。)

    聖霊が常にあなたの思考を監視してくれていますので、あなたの思考が聖霊のそれと合わない場合は通知してくれます。
    つまり「感情が動揺する」という方法によってです。
    ですので、私たちがここで実践としてやることは、「感情に目を光らせて動揺していないかを常に監視する」というものです。
    聖霊からの通知を見逃さないようにする、ということです。

    動揺したのであれば、それは何を誤認したのか、それを聖霊の光に当てて見ていく、これは誤った自我の考えを手放していくという意味であり、つまり赦しを実践する、ということです。


    ご質問の意図を誤認しての回答の場合もありますので、その場合はあらためてご質問ください。
    質問に感謝します。
    みなさまからの多くの質問をお待ちしています。

  • #122

    eve (木曜日, 12 10月 2023 16:04)

    KENさま、いつも素晴らしいブログをありがとうございます。
    奇跡講座の理解に本当に助かっております。
    可能であればどうかご質問させてください。
    テキスト6章第三のステップ、C神と神の国を守るために警戒するために、精霊を教師にし自我の考えを侵入させないよう考えの一つひとつを精霊の光で判断するよう書かれてありました。これを実践するにあたり、意欲を持ち、心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放すと決意することでよろしいのでしょうか?

  • #121

    迷い人 (水曜日, 27 9月 2023 06:05)

    管理人様

    先日は個人セッションありがとうございました。
    様々な気づきを頂きました。
    自分だけで考える限界というものを感じ、人に相談することの重要性を改めて知ることができました。

    ただ、やはり自分の自我、手放したくない気持ちは強烈で、神への反抗心、消滅願望は根強く残っております。

    しばらく管理人様にアドバイス頂いたことを考えてみたいと思います。

    掲示板質問にも丁寧にご回答頂き、本当にありがとうございました。

  • #120

    毛利貴子 (火曜日, 12 9月 2023 13:36)

    長時間のセッション、本当にありがとうございました!!
    常に自分がどうしたいのか、何のためにやるのか、本心に尋ねていこうと思います。心が反応しているときは贖罪(赦し)が必要なときだということ、全ての問題に見えることは贖罪(赦し)ができていないこと、自分を愛そうとする心の姿勢が赦しへと向かわせることなど、セッションでなければ理解できなかったと思います。あれほど難しく見えていた奇跡講座が誰にでも受け入れられる単純な真理に思えてきました。受講させていただけて本当によかった!心から感謝の思いでいっぱいです。KEN先生の心温まるご指導に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。とても幸せです!!

  • #119

    山先初江 (水曜日, 06 9月 2023 11:44)

    奇跡講座(以下コース)に出会って10年くらい経ちました。コースに関して願い事が叶う、とか、災いから守ってくれる、という解釈はしませんでした。何か見たくないものを見た時に、唱える言葉をテキストの中から探し、少なくとも6年間はその言葉を思い出せれば、それを呪文の様に唱えていました。そうしている間に目醒め迄の時間が短縮されると思っていたのですが、そのやり方は見当違いだったと気付くことができました。結局見聞きしたくないモノに蓋をして誤魔化していただけなのだ、と。セッションを受けて改めてスタート地点に立った感じです。

  • #118

    迷い人 (火曜日, 22 8月 2023 08:30)

    管理人様

    御返答ありがとうございます。
    立て続けにご質問し申し訳ありませんでした。

    質問を重ねていくなかで、赦しのレッスン、幻想直視をするための準備をするための導きに感じております。

    今抱えている問題(赦しのレッスン)を整理し、セッションを申し込みさせて頂きたいと思います。

    質問はまたございましたらさせて頂きたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。

  • #117

    KEN(管理人) (月曜日, 21 8月 2023 12:10)

    ご質問の「投影されたものを知覚する」についての補足追記です。

    「投影されたものを知覚する」は、
    まず投影は、自分の内にあるもの(罪=差異、つまり自分の勘違いであり誤り)を見ないようにするために外側の何かや人のせいにすることでした。
    そもそも投影が生じたのは、自分の中にある差異を「知覚した」ことからでした。 (←ここを赦しで訂正したいのですが無意識下の判断なため直接の訂正はできず、認識すらできない部分です。)

    差異(罪)による自分の中の嫌な感情(罪悪感)を「知覚した」ことでそれを自我の戦略により外側の世界へ投影します。
    つまり、自分の内側にある問題を外側の問題としてすり替えて原因を外側に見ることで、まるで外側にある出来事が嫌な感情の原因であるかのように「知覚」します。

    この外側の出来事で生じたかに見える嫌な感情は、内側に知覚したものとまったく同じ感情です。

    結論としては、他の人との関わりや出来事を通して知覚した嫌な感情は、自分自身の中の誤認識、罪、つまり自分自身の勘違いが原因だということです。

    ですので、赦しは外側を見て感じた嫌な気持ちを人のせいにするのではなく、自分の問題だとして取り組むことを指します。

    そしてこれは、外側によって知覚した嫌な感情をたどることによって、無意識下で下した自分の誤認識による罪を見つけ訂正するための足掛かりにする、ということになります。

    以上です。

  • #116

    KEN(管理人) (土曜日, 19 8月 2023 18:22)

    戻りました。回答しますね。
    まずは投影と知覚について、です。

    投影とは、自分の中の罪悪感を解消するために、外側つまり他者のせいにすることを言います。 自分の問題を人のせいにして自分の問題に向き合わないようにする戦略です。これは自我による自我を存続させるための戦略です。
    (罪悪感は、自分が自分の実相(ほんとうの自分)を見誤ったことで作り出された差異による罪から生じます。)

    知覚は、起きる出来事に対する私たちの「いい、悪い」といった解釈です。 常に二元的です。
    この解釈は自分の中にある想念を元に判断されます。
    自我の誤った想念と本来の正しい想念とで、同じものを見てもまるで違った解釈、つまり正反対の知覚が生じます。


    そして、投影も知覚も別のレベルの意味があります。(これが少々混乱させる原因かもしれません。)

    この物理的世界は幻想であり、そもそも存在しません。無です。
    ありのままの自分を自身が誤認識した瞬間にこの世界が生じます。
    誤認識、すなわち赦すべきことがら(罪)に合わせて最適な物理環境が展開されます。
    (つまり、1つでも赦すべきものがあれば世界は生成され、無くなれば用済みとなり消滅します。)

    ですので、誤認識つまり心の中に生じた罪を解消するためにその罪を解消するのに最適な世界が展開する、ということになります。
    ここを指して、この世界は心の反映、あるいは、この世界で赦しに使われるために生じる出来事(つまり嫌な出来事)のことを『罪の投影』と言うことがあります。


    また、あるがままの自分を誤って認識したことにより差異を『知覚する』ことで罪が生じました。この場合の「知覚」は「認識」程度の意味です。(テキストでは「知覚」を「認識」という意味で使われていることが多いです)
    誤認識がもともとの智識という一元の世界から二元の世界(つまりこの物理的世界)を生じさせます。 この二元の世界をひっくるめて『知覚の世界』と呼んだりします。
    つまり、本来の自分を誤った卑小な自分と勘違いすることで差異を認識(知覚)した、それを自分以外の外側で何とかするために投影、となります。


    ですので、ご質問の回答は、
    「自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される」は、
    自分の内にある差異の認識(=差異を知覚)=罪であり、この罪から罪悪感が生じ、罪悪感を何とかするために罪が外側へ投影(他人のせいに)される、です。

    「投影されたものを知覚する」は、
    まず投影は、自分の内にあるもの(罪=差異、つまり自分の勘違いであり誤り)を見ないようにするために外側の何かや人のせいにすることでした。
    そもそも投影が生じたのは、自分の中にある差異を「知覚した」ことからでした。
    差異(罪)による自分の中の嫌な感情(罪悪感)を「知覚した」ことでそれを自我の戦略により外側の世界へ投影することで、結果、外側の出来事を見てまったく同じ嫌な感情を「知覚する」ことになります。

    結論としては、他の人との関わりや出来事を通して知覚した嫌な感情は、自分自身の中の誤認識、罪、つまり自分自身の勘違いが原因だということです。

    ですので、赦しは外側を見て感じた嫌な気持ちを人のせいにするのではなく、自分の問題だとして取り組むことを指します。


    次に、もう一つの質問への回答です。
    「「偶然はない」というのは幻想世界で遭遇する出来事すべては聖霊が用意するものであり、なにひとつ偶然はなく、いわゆる「不慮の事態」と呼ばれるものも必然であり、敢えて自我的なポジティブな言い回しをすれば、自分の目覚めに不必要な「不幸」なるものには一切遭遇しない。」このような理解でよろしいでしょうか?

    まったくその通りです。
    ただし、そのすべてが「偶然ではなかったんだ」とすんなり理解できるほど簡単なものばかりではありません。 その時点ではどう考えても必然とは思えない出来事もたくさん遭遇します。ですが、私たちがそう理解できないだけで聖霊のレベルでは必然であると考えます。(ずいぶん後から必然だったということが分かるものもあります。) そういう意味ではほとんど「信仰」のレベルですが、そう信じられなくても構わず、とりあえず「気にしない」か「そうかもしれない」程度で取り組めばいいと思います。


    他にあればまたご質問ください。

  • #115

    迷い人 (金曜日, 11 8月 2023 09:19)

    管理人様

    お返事本当に遅くなり申し訳ありません。

    >憎悪や酷いものがやって来るのではなく、やって来ているものに対してそのように感じているだけで、内なる平安があれば、憎悪や酷いものとは感じない、ということです。

    ハッとさせられました。奇跡講座の基本理論は理解したつもりでも、過去の信念に何度も戻ってしまっている自分に気づけました。ありがとうございます。

    >内なる平安があれば、つまり赦しが完了し、赦すことが無くなれば、完全贖罪の到達となれば、もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります。

    ありがとうございます。

    「もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります」

    これがまさに私が若い時からずっと追い求めたものです。
    改めて奇跡講座にこそ自分がずっと探し求めた答えがあると確信できます。

    >自分の内にないものは投影されません。それはその通りです。(出来事には遭遇するかもしれませんが、それに自我が投影されない、ということです。)

    すごく納得いくご説明ありがとうございます。
    これまでモヤモヤしていたところがスッキリしました。

    出来事そのものには意味がない(ニュートラル)であり、その出来事に遭遇することもあるだろうが、自分の内にあるものに基づいた投影(知覚、解釈)はされない、ということですね。

    あ、違いますね。
    「投影(知覚、解釈)」ではないですね。
    またモヤモヤしてしまいましたが、投影と知覚の解釈が未だにスッキリしていないかもしれません。

    自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される

    のか

    投影されたものを知覚する

    のか

    ふたつとも違うのか

    かなり基本的な部分かもしれませんが、投影と知覚について改めて教えて頂けないでしょうか。

    >この「脅かされる」体験を生み出すための最適な環境を常に聖霊が用意しています。
    これが「偶然はない」と言われる所存です。

    上記は

    「偶然はない」というのは幻想世界で遭遇する出来事すべては聖霊が用意するものであり、なにひとつ偶然はなく、いわゆる「不慮の事態」と呼ばれるものも必然であり、敢えて自我的なポジティブな言い回しをすれば、自分の目覚めに不必要な「不幸」なるものには一切遭遇しない。

    このような理解でよろしいでしょうか?

    質問が多岐に渡りすいません。
    また宜しければご回答頂ければ幸いです。
    よろしくお願い致します。

  • #114

    迷い人 (火曜日, 08 8月 2023 07:54)

    管理人様、連日のご質問に丁寧にご回答頂き本当にありがとうございます。

    再度、精読させて頂き、なにかありましたらコメントさせて頂きます。

    本当にありがとうございます。
    ご縁に感謝致します。

  • #113

    KEN(管理人) (日曜日, 06 8月 2023 20:42)

    迷い人さんへ、
    遅くなりました。では質問2つですね。


    >1、この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか、を悩むときがあります。肉眼に映るものは自我の作り出したものであり、特別な関係であり、一切は自我の策略で騙されるものか、そのように考えると虚しく、気が滅入ることにもなります。

    確かに究極的には、肉眼に映るもの、つまりこの物理的世界は自我の作り出したものです。 完全に贖罪が終われば消滅します。(するようです。)

    究極的には、、ということであり、その手前の状態では、特別な関係(非神聖な関係)と特別でない関係(神聖な関係)があるように、神聖な関係としてこの世界を体験すればいい、となります。

    この世界をそのまま経験することになんら問題なく、この状況を何とかしたい、変えたいと感じなければ、つまり「嫌だ(脅かされた)」と感じなければ、そこには問題はないということです。

    経験の中でもし「嫌だ(脅かされた)」と感じるものがあるのであれば、そのとき、赦しを発動させればいいのです。(しかも赦したいと思ったとき。赦したいと思っていなければ発動しても機能しません)

    ですので、この世界がみせるものを「美しいものを美しいと感じて良く、楽しいことを楽しいと感じてよく、人の優しさに感動、感謝してよい」のです。



    >気が滅入る、は、平安とは異なりますからこれは聖霊の見方ではないということでしょうか?

    おっしゃる通りです。 聖霊の見方ではありません。



    >第一義的なもの、真なる幸福は内なる平安であり、それ以外は幸せに似たものであり、永続性なく、いつでも憎悪や醜いものに変わる。

    再度確認しておきますが、憎悪や酷いものがやって来るのではなく、やって来ているものに対してそのように感じているだけで、内なる平安があれば、憎悪や酷いものとは感じない、ということです。

    内なる平安があれば、つまり赦しが完了し、赦すことが無くなれば、完全贖罪の到達となれば、もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります。 まだ赦す必要のあるところがあれば、憎悪や醜いものとして感じられます。



    >これをきちんと理解した上で、五感で幸せに似たものに喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構わないのでしょうか?もしくはそのように感じることは幻想を強化、自我の選択になるのでしょうか?

    喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構いません。
    気を付けることがあるとすれば、その感じたことを再現しようと捉われることです。
    それは執着、つまりその状態が手に入らないと「嫌だ」という自我の策略になります。



    >これに関する奇跡講座の該当箇所、管理人様のご見解がありましたら教えて頂ければと思います。

    今回の質問自体が奇跡講座のあらゆる個所に及ぶため、シンプルにまとまってここに書かれていると今すぐ指摘することができません。 また、いくつもの箇所を総合するとこのようになる、といったものも含まれます。 それでも「ここについての該当箇所を知りたい」という場合は、直接記述がある場合とそうでない場合がありますので、その都度聞いてもらえれば回答する、ということになります。



    >2、自分の肉眼でみるものはすべて自分(この場合の「自分」は分離した迷い人)の内なる思考の投影であり、逆に言えば自分の内にないものは投影されない、人生で遭遇はしない、という理解になるのでしょうか?

    「自分の肉眼でみるもの【を通して感じるもの(知覚するもの)】はすべて」としてください。 この世界はすべて関係性を生じさせるために存在します。単独では意味はありません。

    自分の内にないものは投影されません。それはその通りです。(出来事には遭遇するかもしれませんが、それに自我が投影されない、ということです。)



    >過去世含め自分の内にないものは人生に投影されないのか

    はい、されません。自分の内にあるものが投影されます。 赦しによって取り除かれればそれ以降は自我は投影されなくなります。


    >『形』は関係ないため、個としての自分の過去世含めた過去の行為や思考に関係なく、無差別に原初のひとつの自我の投影が様々な形態で個々人の人生にも生じるのか

    「無差別に原初のひとつの自我の投影」は、おそらく次のことでしょう。
    自分自身の実相を誤認するという「原初の誤り」から「多数の自我」が生じます。
    それが様々な形態で個々人の人生に投影されることで「脅かされる」体験として経験されます。
    この「脅かされる」体験を生み出すための最適な環境を常に聖霊が用意しています。
    これが「偶然はない」と言われる所存です。

  • #112

    迷い人 (日曜日, 06 8月 2023 08:05)

    管理人様     

    お言葉に甘え、また新たに2つご質問させてください。

    1、この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか、を悩むときがあります。

    肉眼に映るものは自我の作り出したものであり、特別な関係であり、一切は自我の策略で騙されるものか、そのように考えると虚しく、気が滅入ることにもなります。

    気が滅入る、は、平安とは異なりますからこれは聖霊の見方ではないということでしょうか?

    第一義的なもの、真なる幸福は内なる平安であり、それ以外は幸せに似たものであり、永続性なく、いつでも憎悪や醜いものに変わる。

    これをきちんと理解した上で、五感で幸せに似たものに喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構わないのでしょうか?

    もしくはそのように感じることは幻想を強化、自我の選択になるのでしょうか?

    このあたりをどのように解釈したらよいのか、なんとなくしっくりせず、これに関する奇跡講座の該当箇所、管理人様のご見解がありましたら教えて頂ければと思います。

    2、自分の肉眼でみるものはすべて自分(この場合の「自分」は分離した迷い人)の内なる思考の投影であり、逆に言えば自分の内にないものは投影されない、人生で遭遇はしない、という理解になるのでしょうか?

    奇跡講座の赦しと異なるかもしれませんが、自分の赦しのやり方のひとつとして、相手に怒りを感じたときに、過去に自分も相手がしたことと同じことをしていないか、自分にも同じ考えやクセがないか、を考えるようにしています。

    そして思い当たることがあれば、ああこれはまさに自分の投影だと思うことができ、赦しが容易にできます。

    「神の使者」の著者も同じようなことを述べており、思い当たらないことは過去世で自分がしたことでそれを含めればすべてが自分の投影なのだ、というような趣旨の文章が彼の他の書籍にあったように記憶してます(「神の使者」の著者はJACIMでも功績は認めながらも、逸脱した部分もあると述べていますからそこは参考にすべきではないかもしれません)。

    まとめますと、

    過去世含め自分の内にないものは人生に投影されないのか

    もしくは

    『形』は関係ないため、個としての自分の過去世含めた過去の行為や思考に関係なく、無差別に原初のひとつの自我の投影が様々な形態で個々人の人生にも生じるのか

    これは奇跡講座的にはどちらの解釈になるのでしょうか?

  • #111

    迷い人 (金曜日, 04 8月 2023 07:22)

    管理人様

    >ですが、厳密にはこれも言葉の奥の意図を確認しないと正確には判断できません。
    >なので、自分がどう感じているか、それは、自分に聞くしかない、ということです。

    本当におっしゃる通りに思います。本当の奥の奥の自分の本心はなにか?をもう少し見つめる時間を取ろうと思います。

    >迷い人さん、いつもありがとうございます。
    赦しに関心があればどれも思い当たることのある質問です。

    こちらこそ本当にありがとうございます。一人では思いつかないヒントや答えを沢山頂き本当に感謝しております。

    >質問お待ちしています。

    ありがとうございます。
    もうひとつ最近思うものがあり、また近々ご質問させてください。セッションも予定が決まり次第、また申し込みさせて頂きたいと思いますのでその節は宜しくお願い致します。

  • #110

    KEN(管理人) (木曜日, 03 8月 2023 12:44)

    新たな質問ですね。
    回答の前に、

    >両親の愛情を他者に求め、むしろ普通以上に人間を無意識に信じようとし、その過度の期待は常に得られず人間に失望する、を繰り返していたのだと気づきました。

    素晴らしい洞察ですね!


    では、質問は2つなので順次見ていきます。

    Q1.はじめから他者に期待しない、なにがあっても「そもそも人間などそんなものだし期待しない」という考えにしました。・・・
    他者をみて、裁かずに、「自我の他者はそんなものだ」で留まってます。・・・
    これもまた自我の思考体系になるのでしょうか?


    A1.「期待しない」は聖霊の見方です。
    自我は常に「期待」によって何かを獲得しようともくろみます。
    ただし、厳密には言葉だけでは判断できず、実際には「獲得」が目的かどうかが判断のポイントとなります。
    「期待しています」にも、そこに獲得の意志がない場合もあり、それは聖霊の見方となりますし、その逆もしかりです。

    また、「自我の他者はそんなものだ」これは、そのまえに「裁かずに」と書かれていますが、一般的には「自我の他者はそんなものだ」自体は裁きです。他者に対するジャッジです。
    ですが、厳密にはこれも言葉の奥の意図を確認しないと正確には判断できません。
    今回の迷い人さんの場合は、「その結果、非常に対人関係が楽になりました。」とあるので、おそらく裁きの意味合いはなく自我ではないと見ていいと思います。
    まあ、「楽で問題がなければ」自我であろうと、そうでなかろうとどっちでもいいでしょう。(むしろ自我か聖霊かを気にするところに問題があるかもしれません)


    Q2.もし自我の選択だったとしても、いまの自分はそれがしたいのだから、他者や世界に期待しないという信念を自分がいやになるまでやっていけばよい(やっていくしかない)ということになるのでしょうか?

    「いまの自分はそれがしたいのだから」それ以外にやりようがないですよね。
    それでいいと思います、、というか、そもそも私がいいとか悪いとか言えるものでもありません(笑)

    原理原則は、人が考えを変えるのは「そう考えている自分では幸せでない」ときだけです。
    そして、「そう考えている自分は今幸せかどうか」は「自分」しか知りません。
    なので、自分がどう感じているか、それは、自分に聞くしかない、ということです。

    (逆に言えば、まだそこまでは不幸だと思えていないから、つまり嫌だと思っていないから、考えを変えない、となります。)



    迷い人さん、いつもありがとうございます。
    赦しに関心があればどれも思い当たることのある質問です。
    常に掲示板はオープンですが、迷い人さんのように質問してくださる方は少ないです。
    質問お待ちしています。

  • #109

    迷い人 (木曜日, 03 8月 2023 08:21)

    管理人様

    先日はありがとうございました。新規でご質問させて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

    「赦し」と「期待しないこと」についてです。

    私は両親を幼少期に亡くし、医学的には愛着障害に属します。加え、人生で様々な裏切りに遭遇し、人間は信じるに値しない、愛など利用に過ぎないと思っていました。

    しかし最近、実は逆で幼少期に受けられなかった両親の愛情を他者に求め、むしろ普通以上に人間を無意識に信じようとし、その過度の期待は常に得られず人間に失望する、を繰り返していたのだと気づきました。「あなたは人を信用しすぎるんだよ。」「会社の人間関係なんかそんなもんだよ」とも言われたことがあります。

    前置きが長くなりましたが、そのため最近でははじめから他者に期待しない、なにがあっても「そもそも人間などそんなものだし期待しない」という考えにしました。その結果、非常に対人関係が楽になりました。

    この考えは自我の他者に対する見方であればその通りに思いますが、赦し、聖霊の選択は、肉眼でみえるその他者の裏切りなどを超えて相手の聖性をみることになると思います。

    ただ、それはできず、自我の他者をみて、裁かずに、「自我の他者はそんなものだ」で留まってます。

    これもまた自我の思考体系になるのでしょうか?裁いてはおらず、囚われず、深刻にも考えてはいないです。ただ、それならば聖霊の見方、相手の聖性を見ようとするはずだ、と言われれば違うのかもしれません、、、

    前回教えて頂いたようにそれがもし自我の選択だったとしても、いまの自分はそれがしたいのだから、他者や世界に期待しないという信念を自分がいやになるまでやっていけばよい(やっていくしかない)ということになるのでしょうか?

    質問以外にも全文から感じたことへのアドバイスなどございましたら頂けますと幸いです。

    宜しくお願い致します。

  • #108

    迷い人 (日曜日, 30 7月 2023 06:59)

    管理人様

    ご返信ありがとうございました。
    返答がいつも遅くなりすいません。

    色々とすっきり致しました。
    本当にありがとうございました。

    セッション、また検討の上、申し込ませて頂きます。

    たくさんの学びを本当にありがとうございました。

  • #107

    KEN(管理人) (金曜日, 28 7月 2023 10:46)

    >「嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ない」が腑に落ちないちない

    罪がある人は罪に対処するために状況を変更しようとします。
    無罪であれば、今置かれている状況のままでなんら問題と感じていないため、何かを変える必要を感じません。
    園長の「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない印象からは、この件に関して関わりたくない、さっさと終わらせたい、ではないかと思います。

    他者が関わってくるこの状況を関わりのない状況に変えたい。
    関わられているこの状況が『嫌』だから。

    もし『嫌』でなければ(『脅かされている』と感じていなければ)、むしろ真摯に対応しているでしょう。



    >テキスト(ワークブック?)の該当箇所を教えていただけますでしょうか。

    T-12.Ⅰ.1:6(T-12.Ⅰ.1.-10.)



    >正直な回答は「YES」です。

    平安から遠ざかるのが嫌だから赦す、では、『嫌』(脅かされている状態)つまり自我からの選択だということです。
    条件付きの赦しは自我、愛は無条件です。
    条件がなければ、何の制約もなければ、無条件であれば、迷い人さんの回答は「赦さない」でした。
    意志の力は強力です。
    神よりも強い(あなたには逆らえない)と奇跡講座にはあります。
    赦しは、奇跡志向の衝動(両面感情を伴わない獲得衝動が皆無な思い)から行なわれるものです。



    >わたしとしては「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先すべきに思っていますが、それは自我になるのでしょうか?

    「べき」は、明らかに自我です。
    自分をないがしろにしてしまっています。
    真のあなたは神や聖霊と同じく「実在するもの」です。
    この「実在するもの」に耳を傾けずに世間一般論である「べき」に委ねてしまうのであれば、私たちにできることは何もありません。



    >抑圧して本心に逆らって無理くり行うことが問題というか自我という理解でよいでしょうか?

    はい、おしゃる通り自我です。
    ですが、(奇跡志向の衝動は今の私たちが起こそうと思っても起こせるものではありませんので、)奇跡志向の衝動が生じない今は、自我に従い無理くり行うしかありません。 あるいは混乱するしかありません。(自我に従いたくない!も、嫌なものを避けようとする衝動のため自我)
    それが成功するかもしれませんし、成功しないかもしれません。 いずれにしても経験をもってはっきりそっちの道ではないと十二分に実感することで、もはや自我は信頼できないと分かり、自我との関係に亀裂が入る瞬間を迎えます。
    このときが奇跡講座で言うカリキュラムの変更(方向転換)です。



    >※セッションにつきまして

    急ぐことでもありませんので、必要だと感じたときにいつでもお申込みください。


    いつも迷い人さんの真摯な質問に感謝しています。 それに答えることのできる喜びも感じています。

  • #106

    迷い人 (金曜日, 28 7月 2023)

    管理人様

    ご返信ありがとうございました。
    大変理解が深まりました。
    ありがとうございます。

    一部不明点を以下に記載させて頂きます。

    >園長は罪悪感が無いのではなく、罪悪感があるからこそ嫌な気持ちになり、このような言動をとったと見ます。 嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ないと思います。

    「嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ない」が腑に落ちないのですが、本当は罪悪感があるがわざと強がっている、というような意味に捉えればでしょうか?

    >また、基本的に奇跡講座は他者の罪の分析には意味がない(むしろ危険)と言っています。自分の罪こそが焦点です。

    ありこれはどこかで聞いたことがあります。
    手帳に自戒の言葉として書き留めておきたいと思いますので、もしお分かりであれば
    テキスト(ワークブック?)の該当箇所を教えていただけますでしょうか。

    >「平安から遠ざかることが一切なければ」赦さないのですか?
    >脅かされなければ何かを選択しないのでしょうか?

    正直な回答は「YES」です。

    >どんなことでも「自分がどうしたい」を尊重せず、「何が正しい・正しくない」で選択しようとします。
    >そういう生き方を十二分に行った先に、「もういやだ!」と本気になれます。
    「正しい・正しくない、そんなの関係ねー!」とようやく本心を吐露できるようになります。

    わたしとしては「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを
    優先すべきに思っていますが、それは自我になるのでしょうか?

    「自分がどうしたい」を尊重せず「何が正しい・正しくない」で選択すると抑圧になる、とい
    うことでしょうか?

    この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。

    >この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。
    >「どうしたいか」、意志の問題です。

    ひとつ前の質問と同じで抑圧して本心に逆らって無理くり行うことが問題というか自我という
    理解でよいでしょうか?

    >自我からの選択は選択ではなく、無です。

    『「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先』が自我
    の選択になってしまうというのが理解できないでおります。

    徹底的にそれが自我であろうが自分の本心に正直な選択をし、それで自分自身で「ああもうこの
    考えでは苦しい、いやだ!」そう思うまでは真の意志での聖霊の選択ではない、という理解でよろしいでしょうか?

    私は意志というものを「〜したい」という気持ちを抑制し、「正しい=聖霊の思考」を選ぶことと思っていました。

    ※セッションにつきまして

    7/20(木)までで9/4(月)より再開、とありました。まだ9月平日の会社を休める日が不明確なため申し込みは確定後にさせて頂きます。

    宜しくお願い致します。

  • #105

    迷い人 (木曜日, 27 7月 2023 09:15)

    管理人様

    また早々にご返信頂き本当にありがとうございます。

    >以上、お答えできずにいる部分もあるかもしれませんが、基本的な回答としてご理解頂けましたらと思います。
    また疑問がありましたら追記ください。
    セッションでも対応しております。

    ありがとうございます。
    精読させて頂き、セッション含め返答させて頂きます。

    取り急ぎお礼まで。

  • #104

    KEN(管理人) (水曜日, 26 7月 2023 16:42)

    >罪を犯した場合は「実相とのずれ」が生じ、「嫌な気持ち」として現れる。その「嫌な気持ち」については真の想念ではなく、幻想直視を行い、それにより幻想世界の行動としても必要であれば「反省、謝罪、懺悔」の行動が自然に表現されていく。
    >このように理解を致しました。合っておりますでしょうか?

    少し気になる点があります。
    次の部分です。
     >罪を犯した場合は

    この部分を、次のように理解があれば問題ないのですが。
     >罪を犯しているので

    なぜこの箇所を指摘したか、ですが、
    文章の流れを読むと迷い人さんがここで言われている「罪」というものを、この世界で一般的に使われている「罪」として理解しているのではないか、と感じたからです。

    奇跡講座での「罪」は、実相の自分と今の自分とのずれのことです。
    私たちはすでに「ずれ」ていますので、この世界で嫌な気持ちを体験します。
    つまりすでに「罪」があるので、外の世界を見て嫌な気持ちになる、ということです。
    奇跡講座は、この「ずれ」すなわち「罪」に気づいて訂正しましょう、という教えです。
    これが赦しです。



    >それはまったくの無反省かもしれません
    >これはあり得るのでしょうか?

    無反省があり得るかどうかはわかりません。
    これは、実際に赦しによる贖罪、つまり「ずれ」の解消がなされたとき、直感的に(インスピレーションとして)何をすべきかを知るというものです。 ですので、可能性として無反省も排除しなかっただけです。 実際問題としては無反省はないかもしれませんが、今の時点ではそれは誰にも分かりません。 いわゆる神のみぞ知る、というやつですね。



    >自分としてはその「実相とのずれ」による「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、導かれるものと思っております。ここに自分の凝りといいますか、なにか強烈な信念があるのだと感じます。

    ここも気になります。
    >「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、

    「嫌な気持ち」の解消のために赦しをやるのではありません。
    また、その方法が「反省、謝罪、懺悔」の行動であることもありません。
    方法は「赦し」です。
    赦しは「反省、謝罪、懺悔」の行動ではありません。
    赦した結果、なんらかの行動が現れる、あるいは現れないということです。



    >少し前になりますが、ニュースで幼稚園バスの園児閉じ込め事件 (中略) その園長はまったく申し訳なかったという態度や言動はなく、「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない感じでした。

    この文章を見ても「罪悪感」の捉え方が奇跡講座のそれではなく、一般的な「罪悪感」の理解を迷い人さんがされているように感じます。
    園長は罪悪感が無いのではなく、罪悪感があるからこそ嫌な気持ちになり、このような言動をとったと見ます。 嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ないと思います。
    また、基本的に奇跡講座は他者の罪の分析には意味がない(むしろ危険)と言っています。 自分の罪こそが焦点です。



    >●Q3につきまして
    >ご回答いただきました内容については私も理解しているつもりでおります。
    >そのうえで、なぜ「病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。」なのか?なぜ「老い」は回避されないのか?が疑問としてございます。

    前回も申しました通り、自分の心の平安は「外の世界は関係ない」です。
    外の世界がどうであろうと私たちは神の平安をすでに受け継いで保持しています。
    奇跡講座では「世界は無い(存在しない)」とも宣言しています。
    もちろんこの幻想世界に実相世界が反映されることはすばらしいことです。
    ですが、反映していなくても赦しが完了しれば(すなわち贖罪すれば)すでに心の平安はそこにあります。
    心の平安があるからこそ、もはや反映していようとしていなかろうとどちらでもいいのです。
    実相世界の反映を気にするのは自我だけです。




    >わたしとしては正直な気持ち、意志としては怒りを示したいと思っています。

    ご自身でお気づきになられています。
    自我は、「平安から遠ざかるの・な・ら・ば」赦しを行いたい、いや行うべきだ、とよく言います。
    「平安から遠ざかることが一切なければ」赦さないのですか?
    脅かされなければ何かを選択しないのでしょうか?
    もしそうなら自我にからめとられています。
    どんなことでも「自分がどうしたい」を尊重せず、「何が正しい・正しくない」で選択しようとします。
    自我の人を咎めているのではありません。 自我とはそういうものです。 仕方がないのです。 今はそれ以外の選択肢がないのですから。
    そういう生き方を十二分に行った先に、「もういやだ!」と本気になれます。
    「正しい・正しくない、そんなの関係ねー!」とようやく本心を吐露できるようになります。




    >長期的にはどうすればよろしいのでしょうか?「抑圧するから意志に従い怒りを示す」ことをずっと続けていてはいつまでも平安にたどり着けないのもまた事実で、それも困ると思う自分も事実おります。

    迷い人さんはいいところまで来ていると思います。
    心の奥深くでどこかでこのまま怒りを示し続けてもうまくいかないと感じています。
    この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。
    それまでは悩み悶々とした揺れ動く日々を過ごすことは避けられません。
    「長期的にはどうすれば」ですが、「どうすれば」はありません。
    つまり方法はありません。
    「どうしたいか」、意志の問題です。

    真の意志によって赦しが選択されるとき、これが奇跡講座の序文にある「いつ受講するかだけがあなたの自由」の意味です。
    それまでは選択できません。
    自我からの選択は選択ではなく、無です。




    以上、お答えできずにいる部分もあるかもしれませんが、基本的な回答としてご理解頂けましたらと思います。
    また疑問がありましたら追記ください。
    セッションでも対応しております。


  • #103

    迷い人 (水曜日, 26 7月 2023 08:04)

    管理人様

    大変遅くなりました。

    改めてご回答本当にありがとうございました。

    ●追加質問へのご回答につきまして

    >実相と一致していれば(心が癒されていれば)黄金律に則って適切な行動が生じます
    >適切な行動を取るには、まず実相とのずれを癒す必要があります。
    >実相とのずれは「嫌な気持ち」として現れます。

    ありがとうございます。

    誤解釈かもしれませんが、自分としては、

    罪を犯した場合は「実相とのずれ」が生じ、「嫌な気持ち」として現れる。その「嫌な気持ち」については真の想念ではなく、幻想直視を行い、それにより幻想世界の行動としても必要であれば「反省、謝罪、懺悔」の行動が自然に表現されていく。

    このように理解を致しました。合っておりますでしょうか?

    もし合っておりましたら、ここまでは非常に納得がいきます。

    ただ、

    >それはまったくの無反省かもしれません

    これはあり得るのでしょうか?ここがどうしてもひっかかります。自分は「反省、謝罪、懺悔は必要である。不要なケース、無反省でよいケースなどない」と強く思っているが故だと思います。

    自分としてはその「実相とのずれ」による「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、導かれるものと思っております。ここに自分の凝りといいますか、なにか強烈な信念があるのだと感じます。

    少し前になりますが、ニュースで幼稚園バスの園児閉じ込め事件がありました。そのときの会見による園長の態度に驚愕したのを覚えております。その園長はまったく申し訳なかったという態度や言動はなく、「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない感じでした。

    ここで思ったのは、しかし奇跡講座では罪悪感は自我であり、罪悪感を感じて泣いて反省しているようにみえる保育士の方々が自我の思考であり、幻想を深刻に捉え罪悪感を感じている。対し、園長は罪悪感なく、深刻にもなっていない。園長は聖霊の思考を選択しているのか?いや、違う、、、

    とわけがわからなくなったことがあります。このときに「やはり人間として反省、謝罪、懺悔は不可欠」と強く思ったのかもしれません。

    わたしとしては罪悪感をいつまでも持ち続けるのは間違い、しかしながらその対極として、まったく罪悪感なく無反省も同じく間違いと思っています。しかしながら奇跡講座で「まったく罪悪感なく無反省も同じく間違い」とは述べていないように思い、また迷い人になっているのだと思います。

    このあたり、なんらかアドバイス頂けますと幸いです。

    ●Q3につきまして
    ご回答いただきました内容については私も理解しているつもりでおります。

    そのうえで、なぜ「病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。」なのか?なぜ「老い」は回避されないのか?が疑問としてございます。

    神に創造されたままの私としての自覚が深まれば、それが幻想世界にも反映され、老いも含め、神にふさわしくないものは一切が投影されず、代わりに神に創造されたままの姿で、老いず、病も消滅する。これが法則として100%生じるのではないか?なぜ病にのみ限定され、かつ、その病ですらも治癒する場合もそうならない場合もあるのか?が疑問にございます。

    もちろん、幻想世界での健康や若さなど形自体は奇跡講座ではまったく重視しておらず、それと関係なしに内なる平安にフォーカスしており、そこは私もとても賛同しております。ただ、自分は完璧主義というか、思想的な矛盾が気持ち悪く感じてしまうためご質問させて頂きました。

    ここまで書いていて思いましたが、私は決して奇跡講座にケチをつけたい、なにか思想的な弱点をみつけ崩したいというわけではありませんので誤解なさらないでください(正確には私の自我がなんとか奇跡講座から切り離したいと躍起になっているということかもしれませんが、、、)

    ●Q2につきまして

    >はっきりさせておきたいのですが、迷い人さん自身がどうしたいか、つまり迷い人さんの意志が最重要です。 怒りを示したければ示すしか選択肢はありません。 自分自身が怒りを示したいのに、示さなければ自分と闘うことになります。
    >繰り替えしになりますが、迷い人さん自身がどうしたいか、が最優先です。 「聖霊のレッスンがいいから」という理由で選んでもそれは自我からの選択です。 「いい・悪い」で選択するものではありません。 そうしたいかどうか、意志の問題です。


    これは無理に教えに沿って行うことは抑圧するだけだからということでしょうか?

    わたしとしては正直な気持ち、意志としては怒りを示したいと思っています。

    しかしそれが自我の選択であり、平安から遠ざかるのならば、その意志を止めて、怒りを示さないようにしたい、(ここまで書いて思いましたが、「したい」とは思っていない自分がいます。平安よりもとにかく怒りを示したいのですね、、、、)。

    この場合、やはり、無理くりに怒りを抑圧し、聖霊の選択(怒りを示さない)をしたとしても、それはおっしゃるように結局は自我の選択になる、ということでしょうか?

    もしこれまで私が述べてきたことが正しいとするならば、長期的にはどうすればよろしいのでしょうか?「抑圧するから意志に従い怒りを示す」ことをずっと続けていてはいつまでも平安にたどり着けないのもまた事実で、それも困ると思う自分も事実おります。

    長文になり申し訳ございません。

    何卒宜しくお願い致します。

    (別件)
    セッションも行っておられることを知りました。

    他にもご相談したいこともあり、別途、是非申し込みさせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。

    本当に長くなりました。
    何卒宜しくお願い致します。

  • #102

    迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 17:49)

    管理人様

    またまた早々にご回答ありがとうございます。本日、まだ仕事が遅くなりますので、明日以降、きちんとした返信をさせて頂きます。

    取り急ぎお礼まで。
    本当にありがとうございます。

  • #101

    KEN(管理人) (月曜日, 24 7月 2023 13:08)

    迷い人さんへ、真摯な質問ありがとうございます。

    追加の質問ですね。お答えします。


    Q.罪(と見えるもの)を幻想世界で犯した(ようにみえる)場合、反省、謝罪、懺悔は必要ないのでしょうか?
    (中略) 形は意味はないのであれば、せめて心の中ででも「申し訳なかった」という考えを持つことは大事なことに思います。もちろんいつまでも繰り返し繰り返し申し訳ないと思い続けるのは自分への攻撃であり、自我の策略に思います。
    しかし、全くの無反省、申し訳ないという気持ちすら持たなくてよいのか、がわかりません。


    A.まず奇跡講座以前として、反省、謝罪、懺悔は自分がどうしたいかですし、しろとかするなとか言われなくてもしているものです。 自分自身に聞いてしたいことをしましょう。

    奇跡講座でいけば、実相と一致していれば(心が癒されていれば)黄金律に則って適切な行動が生じます。 実相と一致していなければ何をやっても不適切な行動となります。

    適切な行動を取るには、まず実相とのずれを癒す必要があります。
    つまり赦す必要があります。

    実相とのずれは「嫌な気持ち」として現れます。
    罪と見えるものを幻想世界で犯したように見える出来事を通して何がいちばん嫌なのかを特定する必要があります。
    すでにご存じと思いますが、嫌という気持ちは幻想です。
    癒されている心には嫌と言う気持ち(脅かされる思い)はありません。
    ですので、嫌という気持ちは何かしら勘違いをしている、ということです。
    この勘違いを解く必要があります。
    つまり幻想直視を行う、ということです。
    幻想が解ければ適切な行動ができます。
    それはまったくの無反省かもしれませんし、申し訳ないという思いから何らかの行動がでるかもしれません。そのときの行動はつねに適切なものとなります。


  • #100

    迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 12:33)

    管理人様

    すいません、一番お聞きしたかったことが抜けていましたので、返信より先に追加で書かせてください。

    罪(と見えるもの)を幻想世界で犯した(ようにみえる)場合、反省、謝罪、懺悔は必要ないのでしょうか?

    ワープニックさんの本を読み、幻想だから何をしても良いわけではない、ということは理解することができました。

    ただ、反省、謝罪、懺悔は必要ないのだろうか?と悩んでしまいます。

    形は意味はないのであれば、せめて心の中ででも「申し訳なかった」という考えを持つことは大事なことに思います。もちろんいつまでも繰り返し繰り返し申し訳ないと思い続けるのは自分への攻撃であり、自我の策略に思います。
    しかし、全くの無反省、申し訳ないという気持ちすら持たなくてよいのか、がわかりません。奇跡講座でそれについてどう述べられてるか、お分かりであれば教えて頂けると幸いです。

    宜しくお願い致します。

  • #99

    迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 12:07)

    管理人様

    早々にご回答ありがとうございます。また別途返信させて頂きます。どうもありがとうございます。

  • #98

    KEN(管理人) (月曜日, 24 7月 2023 11:21)

    迷い人さん、お久しぶりですね。
    学習を継続されているとのこと、嬉しく思います。

    さっそく疑問にお答えします。


    Q1.赤ちゃんには目覚めの機会すらないのは何故でしょうか。

    A.赤ちゃんにとっては関わる人たちを目覚めさせるという役割を持ってこの地上にやってきました。 その赤ちゃんにとってはそれで充分だったのでしょう。 (それで目覚めるかどうかは関わる人たち各人の選択となります。 赤ちゃんはあくまで機会の提供としての役目です)


    Q1-.聖霊か自我かの選択は、結局は思考ができる年齢からですか。

    A.はい、迷い人さんのおっしゃる通りです。 しかし、選択は自我と同一化している今の私たちには出来ません。 ワプニックさんも言及していますが、まずは健全な自我を育て、この私たちが考えている幸せのやり方では幸せになれないとはっきり自覚できたとき、すなわち自我を信じる自己アイデンティティが崩壊したとき、そのとき初めて真の選択が可能となります。 それまでは自我を信じる力が強すぎて聖霊の思考を選択することが私たちにはできません。 自我から選択しようとしてしまうからです。



    Q2.怒りは自我の選択に思います。

    A.はいそうです。


    Q2-.人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか?

    A.はっきりさせておきたいのですが、迷い人さん自身がどうしたいか、つまり迷い人さんの意志が最重要です。 怒りを示したければ示すしか選択肢はありません。 自分自身が怒りを示したいのに、示さなければ自分と闘うことになります。


    Q2--.舐められても自我の投影だとして、相手の聖性をみるレッスンと捉えればよいでしょうか?単に幻想世界でよい人間関係を構築するためならば怒りを示したほうがうまくいきますが、それは自我の考え、特別な関係にあたるのでしょうか。

    A.はい。自我の考え、特別な関係にあたります。

     繰り替えしになりますが、迷い人さん自身がどうしたいか、が最優先です。 「聖霊のレッスンがいいから」という理由で選んでもそれは自我からの選択です。 「いい・悪い」で選択するものではありません。 そうしたいかどうか、意志の問題です。



    Q3.神の創造されたままの私を自覚すれば、その反映として病気はなおる。あくまでもオマケ的な位置づけですが、奇跡講座では病気は反映として治るとされてます。
    それならば、老いや様々な悲惨な状況も反映として癒やされる、幻想世界でも老いず、悲惨な状況は投影されないはずですが、敢えて病気のみはなおると限定されているのは何故でしょうか。

    A.病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。
     癒されるのは病気ではなく、実相からずれた心が癒されるのです。
     奇跡講座では外の世界とあなたの幸せ(心の平安)とは一切関係がないと言います。
     外の世界がどうであれ、たとえ老いていようと悲惨に見える状況であろうとあなた自身の心の平安とは一切関係がありません。
     つまり心が癒されていれば、平安であれば、老いも悲惨な状況も一切気にならない、ということです。
     老いも悲惨に見える状況も、嫌なもの、悲惨なものと見ているのは(そう決めつけているのは)今のあなたです。
     私たちはそのようには見ません。 ただ老いがある、そういった状況がある、ただそれだけです。

  • #97

    迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 08:19)

    すいません、一部補足と訂正です。

    >1、赤ちゃんは自己概念AにもBにもCにも属しておらず、聖霊の選択も、自我の選択もしていないように思います。赤ちゃんのまま亡くなる場合もありますが、目覚めの機会すらないのは何故なのか?と思ってしまいます

    聖霊か自我かの選択は、結局は思考ができる年齢からであり、それは脳が行っていることを意味すると思います。結局は脳なのか?脳は自我が作り出した幻想ではないのか?とわからなくなります。

    >2、怒りは自我の選択に思いますが、人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか?

    甘んじて受ける、というより、舐められても自我の投影だとして、相手の聖性をみるレッスンと捉えればよいでしょうか?単に幻想世界でよい人間関係を構築するためならば怒りを示したほうがうまくいきますが、それは自我の考え、特別な関係にあたるのでしょうか。

  • #96

    迷い人 (月曜日, 24 7月 2023 08:10)

    管理人様

    ご無沙汰しております。
    以前は真摯にご回答くださりありがとうございました。

    なんとか以前の疑念は克服し、またワークブックを中心に学んでおります。

    新しく疑問が生じたため、ご回答くだされば幸いです。

    1、赤ちゃんは自己概念AにもBにもCにも属しておらず、聖霊の選択も、自我の選択もしていないように思います。赤ちゃんのまま亡くなる場合もありますが、目覚めの機会すらないのは何故なのか?と思ってしまいます

    2、怒りは自我の選択に思いますが、人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか?

    3、神の創造されたままの私を自覚すれば、その反映として病気はなおる。あくまでもオマケ的な位置づけですが、奇跡講座では病気は反映として治るとされてます。
    それならば、老いや様々な悲惨な状況も反映として癒やされる、幻想世界でも老いず、悲惨な状況は投影されないはずですが、敢えて病気のみはなおると限定されているのは何故でしょうか。

    すいません、宜しくお願い致します。

  • #95

    KEN(管理人) (土曜日, 15 7月 2023 14:04)

    みっちーさん、こちらこそありがとうございます。

    記事ではうまく表現できず何度もブログに上げては下げてきた「私が支援メニューの提供を全停止した理由と再開について」、この半年でようやく言語化できるに至った内容のシェアを中心にセッションをさせていただきました。 (記事のブログ再掲は無or未定)

    みっちーさんの文章からKENが伝え語ったことを明晰に受け取って下さっているのがよく伝わってきます。 理解力の高さに感銘を受けました。 ほんとうにありがとうございます。
    KEN自身、とても大きなブレイクスルーになりました。
    重大な謎が解けた、そんな半年です。
    これまで提供してきた内容に違いはないものの、大きく地に足が着いた、そんな印象と言えばいいでしょうか。

    奇跡講座は難解だと言われています。 私から言えばとてもシンプル。 KEN自身の内側で掴んでいるこの感覚をよりシンプルに伝えられるよう、明晰な表現を求めてこの先も続けていきます。

    この先半年、半年よりは1年先のほうがさらに解像度の高い表現が見つかっているはずですし、そうしたいものです。
    またシェアさせてください。

    波風が立たない、嫌なことがなければ、奇跡講座は役立たずです。 嫌なことが何もない本来の状態、そこがゴール。 嫌なことがなければ奇跡講座は必要なしです。 案外みっちーさんはもうすでにそこにいるのかもしれませんよ。

    これから先も静かに皆さまを支援していければと思っています。 ありがとうございます!


    【日本語字幕】キング牧師演説「私には夢がある」
    https://www.youtube.com/watch?v=eQ6q2cnVXqQ

    スティーブ・ジョブズ 伝説の卒業式スピーチ(日本語字幕)
    https://www.youtube.com/watch?v=RWsFs6yTiGQ
    「ハングリーであれ。バカであれ。Stay hungry. Stay foolish.」
    「最も大事なことは自分の直感に従う勇気を持つことです」
    癌、それ以前にすでに死(絶望)に彼もまた直面していたかもしれませんね。

    「弓と禅」(武田鉄矢今朝の三枚おろしラジオ語り)
    https://www.youtube.com/watch?v=zewp3GgeoCg

    本「パスワーク」自己のすべてを受け入れ統合された意識で生きる
    https://www.amazon.co.jp/dp/4903821013

  • #94

    みっちー (金曜日, 14 7月 2023 21:41)

    KENさん、久々のセッションありがとうございました。
    自分を愛することの大切さは、奇跡講座以外でもよく言われます。でも、ここに至るまでが非常に難しいのですね。
    提示いただいた、JACIMサイトの質問No.71「健全な自我を育てる…」を読んで、このページは以前読んで抵抗を感じたことを思い出しました。奇跡講座の道に背を向けるような、こんな回答あり?と。
    今日のセッションの後、改めてこれを読んで、自分は若くはないし、多分これまでに自我をしっかり育てられていないこともないだろうから、この自我は意外とうまく表面上は問題解決してきたのかも、と思いました。少しうまくいかないと、小手先でごまかす、みたいな。そうやって、荒波を立てないように生きてきたから、波が小さい分、絶望もなく、方向転換できない…!

    自分にやりたいことをやらせてあげる時、自我の意図でさえそれを認める、これは、前にも「自己否定を重ねない」トピックで言われていたことかもしれませんが、それよりも積極的な感じで、驚きでした。
    獲得思考からの意図であっても、それをやりたい、と言っていたらやらせてあげる。これは自我だから、とか気にせずに。わたしに必要なことかも、と感じました。
    以前なら、「それって自己中で、周りに迷惑をかけるのでは」と思ったでしょうが、今はちょっと楽しみな気持ちです。それが荒波になるとしても!

    また何かご報告できれば嬉しいですが、さざ波で何もないかもしれません。
    でも、今日お話できて心からよかったと思います。ありがとうございました。

  • #93

    KEN(管理人) (火曜日, 22 11月 2022 10:43)

    「オンライン学習教材」の受講生の一人で、1年かけて教材を学んでこられた方です。
    ぼんやりとしたやり方ではなく、地に足がついた赦しのやり方を学びたいということで、「真の赦しのやり方~超実用講座」を希望されました。

    「赦しとは何か、どうすることなのか、どうなれば赦しは完了したことになるのか」
    受講生ということもあり、赦しの基本的な理解もしっかりされていましたので、実用講座の理解も早く、実践セッションのさわりの部分まで行なっています。

    ―――
    tomoeさん、感想ありがとうございます。

    あれからご自身でも向き合われたようですね。
    感じ方が変わったということで、先輩/上司との「非神聖な関係」を「聖性な関係」に戻せたと見ていいと思います。
    赦しが出来たということです。
    赦しが機能するとよく起きる、「これまでの相手の対応が変わる」があるかもしれません。
    もしそうなら、赦しは完全に完了したと見ていいと思います。
    そして次はこれですね。
    「私の目標にしていたものを同僚が(先に)叶えてしまう」
    手順は同じです。
    超実用講座図①のところの一番の問題を絞り込む作業が大事です。
    では次回会える日を楽しみにしています。

    KEN

  • #92

    tomoe (月曜日, 21 11月 2022 22:45)

    こんばんは

    先日はセッションをありがとうございました。私にはとてもためになりました。
    あれから先輩/上司のことは嫌にならずにいます。

    最近になり、自分は目標を立てるといつもかなわないことに気づきました。
    正確に言うと、他の人がそれを叶えています。

    以前からそのようなことは多かったのですが、しばらく忘れていました。
    しかし、またそのことに気付いたという感じです。

    何か強い思い込みか罪悪感か何が作用しているのかわかりませんが、最近の会社の同僚たちを見ていて、自分が目標としていたのを私ではなく他者が叶えているさまを見ている自分を見ています。

    以前のセッションで打ち明けた思い以上に強力な縛りであるように思います。

    あまり感想になっていなくてすみません。

    またお会いする日を楽しみにしております。
    それまで教えていただいた赦しをしたく思います。

    それではまた

  • #91

    迷い人 (土曜日, 12 11月 2022 19:48)

    管理人様

    回答ありがとうございます。
    誤魔化さず、わからないところはわからないと述べられ、私が納得いかないであろうことも述べられている回答のご姿勢に尊敬、感謝申し上げます。

    もう少しよく考えてみます。
    いや、考えてもわかる領域ではありませんね、、、

    奇跡のコースに出会い、小躍りした自分でしたが、再び迷い人となってしまいました。奇跡のコースを捨てるつもりはありませんが、歩みは止まってしまい、しばし離れることにはなりそうです。

    ご回答ありがとうございました。

  • #90

    KEN(管理人) (土曜日, 12 11月 2022 19:08)

    ちなみに、
    神は、私たちがどんな夢を見ているかについては知らないと思います。
    ただし、人間(あるいは神の子)というものは夢を見る場合があるということについては、神は知っていると思います。
    なぜなら聖霊という存在を送り込んでくれていますので。

    KEN

  • #89

    KEN(管理人) (土曜日, 12 11月 2022 18:57)

    お待たせしました。
    迷い人さんはじめまして。
    ひとまず回答します。

    1. 厳密には私にも分かりません。(いろんな情報を駆使して私なりの回答をでっち上げることはできますが。)
    2. 奇跡講座としてはこのあたりが参考になるのではと思います。

     「自我はどのようにして始まったのでしょうか? 何が分離の再発を防ぐのでしょうか?」
     「神がこの世界や肉体を創造しなかったのなら、誰がそれらを創造したのですか? そしてまた、私たちは誰であり、どのようにしてここにやってきたのですか?」

    『赦しのカリキュラム 奇跡講座について最もよく聞かれる72の質問と答え』 ケネス・ワプニック(著) グロリア・ワプニック(著) 澤井美子(訳) 加藤三代子(監) 質問11. 質問12.より
    Amazon和書サイト:https://www.amazon.co.jp/dp/4813607705/


    質問11.と質問12.の両方をまとめてざっくり言えば、
     質問者「あなたは奥さんを虐待するのをいつやめたのですか?」

    そもそも虐待をしたこともないのに、ここに登場する質問者は完全に奥さんのことを虐待していたと信じ込んでいます。これと似ていると言っています。

    つまり、そもそも起こってもいないことを「どうして起こったの?」と聞いているということです。

     存在していない自我と同一化しているあなたが、自我としての存在を確立するために、そのように「尋ねている」だけだと言っています。

     「私は自分がここに存在していると信じている。 だから、私がどのようにしてここにきているのかを、今、あなたから私に説明してもらいたい」と言っているのと同じだということだそうです。

    偽りの自己が、自分が「ここ」に居ると信じて、自分自身の起源らしきものについての質問を「尋ね」、それにより自分を証明しようとしている。

    真実は、そんなことは一度も起こったことがない、です。


     『神との対話』でも似たような問答があり、そちらのほうがもう少し分かりやすいですが、『奇跡講座/赦しのカリキュラム』であろうと『神との対話』であろうと、ある意味すべては”神話”であり、人間側が納得するために後付けされた説明にすぎないと私は理解しています。


    そしてきっと納得できないのもよく分かります。

    回答が一部のみになっているところもありますが、あらためて質問して頂ければ、またお答えしたいと思います。

    KEN

 2019.12.24 掲示板の運用開始。