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最新更新日[2025.12.11]

 

コメント: 252
  • #252

    KEN(管理人) (火曜日, 14 4月 2026 09:53)

    いまだ考察中ですが現時点での備忘録として。

    「本気で生きる」は、「意図してはできない」という整理でした。
    「本気で生きる」すなわち「本気で動く」、つまり「本気でなんとかしたい」ことがある、ということ。
    「意欲」の問題ですね。(コースでもよく出て来るワードです)

    この「意欲」、どういうときに強く現れるかというと、
    「自分が地獄に居ると感じるとき」(脱出するためだったら何だってやろうとする)ですね。

    ただ「地獄に居ると感じる」のは、人それぞれです。
    客観的に見て、とてつもない状況に居るのにそう感じない人もいるし、ささいなことでも「地獄」と感じる人もいる。
    つまり「感受性の問題」は一つあるのかな?、と。

    そして「自分の人生」を本気で考えるようになるきっかけは、もちろん人それぞれですが、よくあるのが、身近な人の死、911や311などの震災を肌で感じた時などが挙がるのかもしれません。

    まだまだ考察の余地がありそうです。

  • #251

    いわた (月曜日, 13 4月 2026 09:44)

    お世話になっています

    #248 の御返事ありがとうございます

    「本当のところ、自分はどうしたいのか」という問いかけ、深く響きました。
    正直なところ、私のなかでは「興味があって読みたい」という気持ちと、「文脈が難しくて立ち止まって本を閉じてしまう」という感覚がずっとループしています。また「読みたい」と戻ってしまうのは、やはりどこかで心が求めているからなのだと、考えています。

    第1章Ⅲ.1の解説をいただき、本当にありがとうございます。
    「キリスト(聖霊)の存在が必須であること」「最終地点で控えてくれていること」という視点で読むと、難解だった一文が、解りやすいです。

    解説を読んで「あぁ、なるほど」と、今の私なりの理解ができている感覚です。

    *まずは、自分の本心が「今どうしたいか」を置いてけぼりにせず、教えていただいた自我の声の見分け方を意識しながら、自分のペースで向き合ってみようと思います。

    いつもフィードバックありがとうございます

  • #250

    KEN(管理人) (月曜日, 13 4月 2026 07:34)

    連日関連投稿が続きますが、

    どうすれば人は「そのように生きれる」ようになるのか?
    人は「本気で生きる」と決めて生きられるものなのか?

    人が「そのように生きる」かどうか「決められる」ようなものではないと思います。
    勝手にそう「決まる」ような性質のものです。
    なぜか「そう生きる」と決まってしまう。
    つまり「意図してはできない」。
    できる人はなぜかそできるし、まだできていない人はその時点ではどうやっても出来ない。
    つまりあるとき「そうなっている」、です。

    人の意志では出来ない。

    私自身も「そのように生きよう」と自分で「決めて」生きたわけではありませんでした。
    勝手にそういう生き方になってしまっていました。

    つまり「小学生のことろはなぜか足が速かった」みたいな部類。
    「高校生になって急に勉強に目覚めた」部類。
    なぜそうなったかの理由はいくらでも後付けできるが、実際のところはどれも「結果的にそうなった」部類。


    誰でも「今もっとも最適な場所に居る」。
    それが受け入れられる人は受け入れられるし、そうでない人は今はまだそれが出来ない。
    つまり結局は仏教でいう「縁」ということになりそうです。

    後付けですが、「本気で生きる」と決まっている人たちがどういう人たちかは・・・
    キーワードは「主体性」「自己信頼(自信)」「逆境(突き放し、放置、助けない、過保護にしない、本人に取り組ませる、間違ってもいいから本人にさせる)」
    幼少期に関わっていたまわりの環境、つまりもっとも影響を与える人(親など)がそういう関わりをしてくれたのが大きい、のか

    もしそうなら社会全体がそのような関わりをもつ機能に変わっていくことで「本気で生きる」人がもっと輩出されるようになっていくだろうし・・・何よりこの自分がそのように関われる人になればいい。影響を与える存在に。


  • #249

    KEN(管理人) (日曜日, 12 4月 2026 09:59)

    前回投稿では、『奇跡講座』を何度も読めるようになるかどうかは分かりませんが、大事なことは「自分自身の本心がどう言っているかに耳を傾け、それに沿う」でした。

    1日経って「自分自身、強烈に本心に耳を傾けられるようになった理由を1つ挙げよ」を考えていました。

    結論としては、「一度死んだ」です。

    これは積極的に「死にに行く」わけではなく、結果的に「死を覚悟した」です。
    自分自身の取り組みとしては、「必死で生きた」その結果です。
    今風に言えば「燃え尽きた」。

    ある意味人生を賭けて、「それしか生きるすべがない、それが出来ない人生はあり得ない、生きている意味がない」と完全に思い込んで生きてしまった結果です。
    今のように内面に深く向き合えるような状況でもなく、ただ単に無条件に(ここではまったく吟味されることがないという意味での「無条件に」)無意識レベルで「そうするものだ」という勝手な思い込みのもとに、これまた無意識に「全身全霊」で取り組んだ結果です。

    私の「それ」とは「偉くなる」ことです。「人よりも偉くなる」。雑に言えば「権力者」でありその先に見ているものは「カネ」であり「金銭的豊かさ」です。とても世俗的ですね。
    「生活に何不自由なくラクに生きたい」、それは突き詰めれば「生存の恐怖」です。

    つまり「切迫した恐怖」に冒されて生きてきた。

    この恐怖から逃れるためによく吟味されずに、無意識レベルで「全身全霊」で取り組んだ。
    その結果、「どうやっても絶対に無理だ」と悟った瞬間です。
    つまり「生きている意味がない」に至った瞬間。
    それが「死を覚悟した」です。

    この整理でいけば、結局のところどうであろうと(自我からであろうと)結論は「本気で生きる」になってしまいますが。(「本気で生きていない」つまり「本気で生きようという意志がないから」という結論になってしまいますね。 この言葉はまさに『神との対話』という本の中に出てきます、13章「なぜなら、あなたには生きようという意志がないからだ」。 12章には「なまはんかな気持ちでなく、実際に、思いきり選びなさい」つまり徹底的に生きよ、と。 では、どうすれば人はそのように生きれるようになるのか?そう生きれる人とそうでない人との違い・・・今のところは分かりません。この分野は自分の中ではまだ十分に吟味できていません。今後の課題です。)

    これらは今振り返っての分析です。
    もちろん当時はまったく言語化されてもいなく完全な無意識駆動です。


  • #248

    KEN(管理人) (土曜日, 11 4月 2026 10:30)

    第一章Ⅲ.1「私は贖罪の過程を任されているが、その過程は私が始めることを引き受けたものである。」の箇所ですね。

    ここでの「私」とはキリストを指します。
    段落の後半を見ていけば、キリストであることがわかると思います。
    「贖罪の過程つまり赦しは、私キリスト(キリストの心が聖霊なので聖霊を含む)が居ないと出来ない。 キリスト(聖霊)が居ないとそもそも不可能。 つまりキリスト(聖霊)の存在が必須。 天上界においてキリストに赦しは任されている。 私キリストが責任をもってそれを行うことを引き受けているのだから安心しなさい。」という意味になります。


    私が何度も読み進められているのは、自分の心が求めているからです。
    「なぜかわからないけれどもそうしたい」自分がいるだけです。
    こういうことは実際のところ全員の心にもあるのかもしれませんし、そうでないかもしれません。
    人によるのかもしれません。
    また、時期やタイミングもあるのでしょう。
    私の場合は生まれる前からそのような傾向が設定されていたのかもしれません。
    私にとっては「趣味」のようなものです。
    「趣味」とは言っても暇つぶしの要素はありません。
    やるなと言われても、お金を払ってでも、無い時間を作ってでも「そうしたい(読みたい)もの」なんです。


    アドバイスとしては、「そうしたければやる(読む)」、「そうでなければやらない(読まない)」でいいと思います。
    つまり、「自分自身の本心がどう言っているか」に耳を傾け、それに沿うだけです。
    もし「読みたい」と言っているなら読みます。
    「どうもまだ読みたいとは言っていないようだ」「むしろ他のことを優先してしたいことがある」と言っているなら、それに従うだけです。
    やりたいことをやりましょう。 やらせてあげましょう。

    「自分自身の本心がどう言っているかに耳を傾ける方法」はセッションで教えている通りです。
    ポイントは「自我からの声を選り分け排除して本心からの声を拾いやすくする」ことです。
    1.自我の主要戦略である「獲得思考」からの発想かどうかを見分け排除
    2.それでも本心からの声を見つけにくければ、本心は愛つまり「無条件」なので、無条件ならほんとうはどうしたいのかを確認する (「そうしなければならない」などの条件が付いていないか、あまりにも当然の前提になりすぎて、条件付けがあるのに気付いていない場合があるので、プロに見てもらうことが必要な場合もあります)


     私は贖罪の過程を任されているが、その過程は私が始めることを引き受けたものである。 あなたが私の兄弟たちの誰かに奇跡を差し出すとき、あなたはそれをあなた自身と私に差し出している。「あなた自身」が「私」よりも前にくる理由は、私は、私自身の贖罪のために奇跡を必要としてはいないが、あなたが一時的に失敗した場合に備えて最終地点に控えているからである。 贖罪における私の役割は、あなたが他の方法では訂正できないような一切の誤りを無効にすることである。 あなたが自分の本来の状態についての認識を取り戻したとき、あなた自身が自然に贖罪の一部となる。 あなた自身の中にも他の人の中にも誤りを受け入れようとしない私の意志をあなたも共有するにつれて、あなたはその誤りを正すための大いなる聖戦に必ず参加することになる。 私の声を聞き、誤りを取り消すことを学び、それを正すために行動する。

    奇跡講座テキスト 第1章  三 贖罪と奇跡  1.


  • #247

    いわた (金曜日, 10 4月 2026 23:39)

    いつもお世話になっております。

    質問させて下さい

    テキストを読み進めていますが、一語一句が難解だなとかんじてます。

    例えば第一章Ⅲ.1の「私は贖罪の過程を任されているが…………」という箇所。
    これは、「私は初めから罪がなかった、咎められる原因は無かったという事を今後受け入れていく」という意味と解釈してますが どうなんでしょうか�?
    また、この「私」とは読み手の私なのか、神やイエスのことなのか…と考え出すと読み進められなくなります。

    Kenさんはどのように何度も読み進めていかれたのですか?
    アドバイスいただけると嬉しいです。

  • #246

    いわた (木曜日, 19 3月 2026 22:34)

    先日のセッションの感想とお礼です

    特に悩みがあって申し込んだわけではなかったのですが、
    とても濃い時間で、セッション後も自分の中で何かが変化し続けている感覚があります。

    普段は一人でコースを日々実践していますが、一人でコツコツするよりも
    セッションを受け、深度と密度が違うと感じましたし、テキストの解説についても一緒に読んで頂いた事で理解が進んだと思います。

    お話頂いた、「恐れか愛か」という視点を、改めて今日の日常の中で実際に使ってみたところ、本当に「恐れ」が多いことに気づきました。

    基本的なことではありますが、「立ち止まって→観る」ということを丁寧に行うこと!これまでは大枠のところでしか捉えていなかったのですが、
    それを細部で観ていくことで、不思議と平安に入れ替わっていく感覚をかんじました。

    構造仕組みの全体像を伝えていただけたことで、
    これまでバラバラに感じていた部分的な理解が、ひとつに繋がったんでしょうね。

    静かだけれど、確かな変化が内側で起きていることを感じています。
    この感覚をこれからも大切にしていきたいと思います。

    本当にありがとうございました。

  • #245

    いわた (金曜日, 13 3月 2026 22:26)

    フィードバックありがとうございますkenさん感謝です

    あの瞬間のことを「聖なる瞬間【赦し】」というのですね!

    >「心地の良い体験」は赦しの夢です受け入れているという心境が自然に自分の中に”起こった”はずです。そしてこれは、意図して受け入れようとしたわけではないはずです
    ┗そうなんです 
     瞬間ですが何処か呆れていました(降参でしょうね).と同時に執着しない(見方を変えたいたのでしょうね)軽い愛おしさがありました
     

    以下も学びになります

    一度刻み込まれたこの"感覚"は薄らぐことはあっても忘れることはないはずです。少なくとも今の心境がそのときの心境と同じなのか違うのかは分かるようになっています。そして赦しの実践にはそれが重要なんです。
     ┗既に感覚は過去の体験になっています
     ┗現在エゴにどっぷり入り込んでいるのを感じています
       肉体.感情.思考と同一化してて抜けられない不快感
     ┗「心地の良い体験」は赦しの夢=はい!今は理解しきっているとは言えないですが、そういうことなのでしょうね..............
       


    明渡し................薄っすら意味が分かるような分からないような.......。


    *幻想直視を引き続き継続していきます
     

  • #244

    KEN(管理人) (土曜日, 07 3月 2026 09:21)

    すばらしいシェアありがとうございます。


    トリガーの振り返りについて
    >「その日は夫が子どもみたいに、はしゃいでいました。夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を私が受け入れている心境になっていたのがトリガーだったのかも知れませんこの時自分のあり方は意図してません無意識でした」

    ”夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を私が受け入れている心境になっていた”

    旦那さんに対する【アホっぽい~】にダメだという裁きが一切なかったはずです。【アホっぽい~】という感想と共にそれを”受け入れている”心境が生じていたはずです。受け入れているという心境が自然に自分の中に”起こった”はずです。そしてこれは、意図して受け入れようとしたわけではないはずです。

    これが起こった瞬間のことを奇跡講座では「聖なる瞬間」と呼びます。
    そしてこれがまさに赦しです(今回の場合は幻想直視を意図することもなく、一瞬で赦しが終わったパターンです)。「心地の良い体験」は赦しの夢です。

    この心境になった"感覚"は重要なので記憶にとどめておいてください。
    この体験があるのとないのとではこのあとの赦しの実践に大きく影響してきます。
    (とはいえ一度刻み込まれたこの"感覚"は薄らぐことはあっても忘れることはないはずです。少なくとも今の心境がそのときの心境と同じなのか違うのかは分かるようになっています。そして赦しの実践にはそれが重要なんです。)


    意図せず無意識だったということですが、少なくとも「受け入れたい」という思い(意図/意欲)はどこかにあったはずです。「受け入れない」「受け入れたくない」ではなく。つまりささやかな意欲はあった。

    受け入れたい/裁きたくない/赦したい/それでいいはず・・・そんなささやかな思い/意図があればいつかその思いが満ちたとき、赦しの体験は誰にでも訪れます。


    「ごく自然に受け入れる心境になった」。赦しはこれがいつ起きるかだけの話なんです。とはいえ、これは自分の意図の範疇ではないので、通常私たちにはコントロールできません。だとすると、「ただ待つだけなのか?神のみぞ知る?」赦しが必要なシーンは数多くあるのに・・・。いいえ、意図してやる方法はあります。これを「意図して行う」ことをやっているのが私たちが使用しているメソッドです。奇跡講座では幻想直視と呼んでいます。つまりコントロールしたいという欲をよく見て解除する方法です。


    私たちが奇跡講座を学んでいるのはこのためです。

    そしてこの方法は、ささやかな意欲ではなく、十全な意欲が必要です。

  • #243

    いわた (木曜日, 05 3月 2026 14:57)

    さっきの追記です。
    あの3/2の体験、先生のフィードバックを読んだ直後に起きたので、たぶんエネルギーが共鳴したんだと思います。

    共鳴したことが単純に嬉しかったのでそれだけ伝えたくなりました。
    分かち合えて感謝です!

  • #242

    いわた (木曜日, 05 3月 2026 14:38)

    お世話になります
    いつもありがとうございますフィードバックに感謝です

    kenさんから頂いた
    下記のお言葉とリンクする体験があたのでシェアさせてください

    【前略】
    常にそばにいるこの自分自身は神に守られたつまり背後に神の気配を感じる聖なる自己だということがわかってきます。 つまりそれがあなたの内なるキリストであり聖霊です。 聖霊にゆだねるとは「この自分自身がどう言っているんだろう」と耳を傾けている/耳をそばだてている状態のことを指します。 神なる回答を何度も受け取るたびに、内なる自己との絆が盤石化していきます。 これが絶対的な信へとつながります
    -----------------------------

    3/2の夜 以下のような体験をしました

     身体が自動に動いていてて、私はただ.そこにいて
    運ばれている【くつろいでいる】だけ
    それは心地の良い体験でした。

    そこには③つの視点がありました 

    ① 身体としての私(外的な情報と内的な空間の感覚)
    ② 外部の状況に思考で意味付けをしている私
    ③ それらを静かに眺めている私(自動で起きる内外の状況を見ている私)

    この感覚は現在、意図的な再現はできず、記憶も薄らいでいます。言葉にしようとすると、実感が遠のく感覚もあります

    トリガーが何だったのかを振り返りました
    その日は夫が子どもみたいに、はしゃいでいました。
    夫の全て【アホっぽい・呆れる・かわいい・少年のような輝き】を
    私が受け入れている心境になっていたのがトリガーだったのかも知れません
    この時自分のあり方は意図してません無意識でした

    この体験を追わないように意図します

    「自分の在り方次第でそれは在る」と感じました
    一時はその「在り方」を意図的に選択しようとも思いましたが、それは「今の自分を否定する」ことになりかねない、という危うさにも気づきました

    引き続き心の訓練をしていきます

  • #241

    KEN(管理人) (月曜日, 02 3月 2026 08:38)

    >「虚無とまでは行きませんが孤独な感覚あります」

    「孤独な感覚」に違和感がなければまったく問題ないですよ。仮に「虚無」でもそれは同じです。
    どんな感覚でも自分自身が許可を出せていればまったくもって「あっていい感覚」です。
    「許可」が出せないものがあればそれを見に行けばいいことです。

    「その感覚」を自分はどう感じていてどうしたいのか、違和感があるのか疑念があるのか、あるいはそのままでいいのかを自分自身に聞いてみてください。
    というかもうすでにされていますね!

    すぐに結論が出ない、よく分からない場合もよくあります。そんなときは、「その感覚」をそのままにしばらく過ごして見て様子を待ちましょう。そのうえで何か変化や印象の変化などがあればその時また見てみましょう。


    おそらく、自分自身に聞く/耳を傾ける感覚がもっと定着してくれば、常に自分自身がそばにいることが理解でき、実はまったく孤独ではなかったことに気づくはずです。 常にそばにいるこの自分自身は神に守られたつまり背後に神の気配を感じる聖なる自己だということがわかってきます。 つまりそれがあなたの内なるキリストであり聖霊です。 聖霊にゆだねるとは「この自分自身がどう言っているんだろう」と耳を傾けている/耳をそばだてている状態のことを指します。 神なる回答を何度も受け取るたびに、内なる自己との絆が盤石化していきます。 これが絶対的な信へとつながります。

  • #240

    いわた (日曜日, 01 3月 2026 19:48)

    レッスン276の学びと近況

    Kenさんお世話になっております

    本日はレッスン276を読み進めていたのですが、今の私にとって非常に響くテーマでしたので、今の感覚を投稿します

    「私が語るようにと神の言葉が与えられる」

    レッスンで言う「言葉」とは、音声としての言葉ではなく、言葉になる前の「意識」そのものだと受け取っています。その意識を神聖なものとして受け入れるか、それとも否定して(エゴの)恐れや防衛に走るのか。兄弟たちも皆、同じなんだと.いう事なのでしょう

    何を選ぶかは自由で、エゴでも神聖でもない場所から、あえて「神聖さを選ぶ」ということを、このレッスンは伝えてくれているように思いました。

    今の自分は、神聖でも悪でもない、そのどちらでもあり、同時にどちらでもないような境地にいます。

    孤独で、冷めているような感覚があります。

    それでも肉体がある人として感情を持ったり、目標を持ったりして過ごしていますが、日常の中で頻繁に、以前からの「反応する癖」が出てくるのも感じています。

    「意味はない」とふふふと笑いながら、つい反応で意味をつけてしまう自分もいますが、時折それすらも「意味は自分でつけているだけだった」と、一歩引いています。

    未来への不安や、過去のお土産のような思い出を抱えながら、空虚感に似た「何か」の中にいる........そんな状態です。

    以前は前のめりでコースを読んでいましたが、今は「選んでもいいし、選ばなくてもいい。でも、どうせならこれを使おうかな」という視点でコースと向き合ってます。

    また何か気づきがありましたら、投稿したです

    虚無とまでは行きませんが孤独な感覚あります
    何か軌道修正したほうが良さそうという事を、思われましたらフィードバックいただけるとありがたいです

    いつもありがとうございます。

  • #239

    いわた (金曜日, 20 2月 2026 21:20)

    応援励ましの言葉として受け取ってます
    ありがとうございます

    おぞましいほどの思いが自分の中に潜んでいました

    今後についてまたシェアさせて下さい

  • #238

    KEN(管理人) (月曜日, 16 2月 2026 19:50)

    ここから本当のレッスンになるということですが、うまくいくところもあるでしょうしそうでないところもあるでしょう。
    いわたさんは「自我」でなく「ほんとうの自分」のほうに信が置けるようになってきていますから、ナチュラルに「どうしたいか」に耳を傾けて進めていけると思います。
    仮に違っていたとしても充分違和感を感じ取れるほど敏感になっていますから、その都度自分自身に聞いて修正していくこともできるでしょう。
    またシェアお待ちしています!

  • #237

    いわた (月曜日, 16 2月 2026 00:22)

    お世話になります
    今の感覚を忘れないように忘備録です
    もし間違った認識していたらご享受ねがいます



    今までは、「この苦しい人生から何とかして逃げたい、救われたい」っていう思いを、実は心の奥にずっと隠し持ってたんです。それは小さなトゲっていうより、もう自分の一部になっちゃってる「大きな山」みたいな執着で、大きすぎて気づけなかった。でも、その「助かりたい」っていう必死さこそが、エゴの力みだったんだと思います。
    今は、「もう、どっちでもいいなぁ」っていう、静かでフラットな場所にいます。 苦しいドラマが起きようが、キラキラした幸せが来ようが、どっちもただ現れては消えるバリエーションに過ぎない。そう思えたら執着していた「自分を正さなきゃ」っていう焦りが、スッと消えていきました。
    実在そのものは、上にどんな物語が乗っかっても、傷つくことも揺らぐこともない。この場所から本当の意味で「コースという手法を使い天国を選ぶ」という準備ができた気がします。
    今の私にとっての「赦し」は、何かを必死に修正する作業じゃなくて、起きてくることをそのまま眺める「あいだの視点」です。絶対的な安心感の中にいながら、「せっかく人間やってるんだから、心地いい方を選ぼうかな」くらいのノリです。
    救われるためにコースを握りしめるのは、もうおしまい。 最初から救われている中で、天国を選んで、コースを分かち合っていく。 ここからが私の本当のレッスンになりそうです。

    いつもお導きありがとうございます!

  • #236

    いわた (日曜日, 15 2月 2026 11:13)

    返信頂き ”ふ”と気づいたことがあったのでシェアさせてください

    「よしやろう!取り組もう!」と頑張ること自体が「今の自分は駄目だ!」という自己否定があったことに気が付きました。

    今の自分を拒絶しているうちは、結局ずっと思考の中にいるだけ。

    「自分はまだだ」というエゴの解釈を手放し、ただ事実の中にいることの大切さが、腑に落ちた感覚があります。

    kenさんの暖かく優しい感覚に深い安堵を感じました

    ありがとうございます

  • #235

    KEN(管理人) (日曜日, 15 2月 2026 09:10)

    追記)
    最後の文の終わりはこのほうがいいですね。

    旧「(なぜならそれは自分で決めることだからです)」

    新「(なぜならそれは自分で決めていいことだからです)」

  • #234

    KEN(管理人) (土曜日, 14 2月 2026 21:30)

    1)「実在しないものに傷つけられたと感じて動揺しています」

    この“傷つけられた”というのは、つまり「そうなって欲しくなかった」を指していると思います。

    ですので、「なぜそうなって欲しくなかったのか、なぜそうでないほうがこの自分にとっていいと判断しているのか?」を見にいってください。


    2)「【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】が自分の状態.状況変化で、わかるときと 飲み込めないときがあります」

    「飲み込めないときがある」という表現からすると、もしかすると頑張ってそう思おうとしているのかもしれません。
    これは信念であり信仰です。
    奇跡講座で言うところの「信を置けるか」です。
    信を置ける状態になるまでは、揺れ動くこともあるでしょう。

    それまでは「どうやら【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】らしいのだが、今はまだそのようにちゃんとは思えない」で問題ありません。
    つまり、今はまだ「そう思いたくない」ということになります。
    それで大丈夫です。
    自分に正直なほうがここでは大事です。
    自分と闘っても意味はないですから。

    自分の状況が変わって「そう思いたい」と思えるようになってから(信を置けるようになってから)で大丈夫です。「よしやろう」と思えるようになってからで大丈夫だということです。
    「よしやろう」と思えていないのに無理して取り組もうとしているのなら、頑張って取り組んでいることになっているでしょうし、「頑張る」というのは心が割れていることになりますし、不自然なことをやっているということになります。そこには「早く解決したい」焦りが見え隠れします。そういうときは「現状がいやだ」と幻想を現実だと見てしまっているということになります。

    それで問題はありませんが、赦しは進みませんので膠着状態は続くことになります。
    解決しない状態が続くことで「ほんとうにもう嫌だ!本気で赦す」と決するときまでいくらでもグズグズして構わないということです。(なぜならそれは自分で決めることだからです)

  • #233

    いわた (土曜日, 14 2月 2026 10:38)

    以下の 言葉が、気になりました多分、今.必要な事柄なんだと思った自分がいます

    【kenさんの書き出し一部抜粋】
    何であれこの世界の中にあるもので、良きもので価値があり獲得するための努力に値するとあなたが信じているものは、あなたを傷つけることができ、実際に傷つけるだろう。 それ自体に傷つける力があるからではなく、それが幻想にすぎないことをあなたが否定し、それを実在のものにしてしまったからに他ならない。 それはあなたにとっては実在している。 無ではない。 そしてその知覚された実在性を通して、病んだ幻想の世界全体が入り込んでいる。」
    -- --- -- --- --- ---- ---
    【自分ごとですが】
    実在しないものに傷つけられたと感じて動揺しています
    意味がない幻想を自ら実在させてた事に気づきましたが
    実在を与えてべったり同一化していて、なかなか腑に落ちない。
    次から次に言い訳が出てきてさらに幻想物語が膨らんでいく
    最後には自己否定自己嫌悪に陥って素直になりたい清らかになりたいと願えばどんどん罪悪感へ。

    自力でできると考えているのでしょうね...........
    聖霊に明け渡します

    kenさんのユーチューブ動画の
    【実在するものは脅かされない・実在しないものは存在しない】が
    自分の状態.状況変化で、わかるときと 飲み込めないときがあります



  • #232

    KEN(管理人) (火曜日, 10 2月 2026 10:03)

    追記1の2)

     “獲得思考”(「獲得する」概念)について

    T-4.Ⅱ.7.「自我は決して豊かさから与えることはしないが、それは、自分自身が豊かさの代替として作り出されたものだからである。 だからこそ、「獲得する」という概念が、自我の思考体系の中に生じたのである。 欲望は「獲得」のメカニズムであり、自我が自分を確認する必要を表現するものである。 同様のことを、肉体の欲望についても言うことができ、いわゆる「自我の高尚な必要」についても言うことができる。 肉体の欲望の起源は、物理的なものではない。 自我は肉体を自らの家と見なし、肉体を通して自らを満足させようとする。 しかし、それが可能だという考えは、心による決断であり、心は、何が本当に可能なのかについて完全に混乱をきたしている。」


    T--26.Ⅵ.1.「何であれこの世界の中にあるもので、良きもので価値があり獲得するための努力に値するとあなたが信じているものは、あなたを傷つけることができ、実際に傷つけるだろう。 それ自体に傷つける力があるからではなく、それが幻想にすぎないことをあなたが否定し、それを実在のものにしてしまったからに他ならない。 それはあなたにとっては実在している。 無ではない。 そしてその知覚された実在性を通して、病んだ幻想の世界全体が入り込んでいる。」


    T-4.Ⅲ.4.「愛は、真にそれを欲する心ならどの心の中へでも即座に入ってくるが、そのとき心はそれを真に欲していなければならない。 ということは、心が両面感情をもたずにそれを欲するという意味であり、この種の欲し方には、自我の「獲得しようとする衝動」が皆無である。」

  • #231

    KEN(管理人) (日曜日, 08 2月 2026 21:05)

    追記2)

     “他の赦しに取り組んでいた問題も「芋づる式」に、解決します。”

    恐らくこのことをよく示しているテキストの箇所が以下です。

    T-27.Ⅴ.9.「 あなたの数多くの異なった問題も、そのうちのどの一つでも片づいたときにはすべて解決されるということが、明らかになるだろう。」

  • #230

    KEN(管理人) (日曜日, 08 2月 2026 21:04)

    追記1)

     “「趣味」なようなもの。”

    こう表現しましたが、この「趣味」には“暇つぶし”としての要素はありません。 “幸せになるために何かをやる”といった獲得思考がないことが重要です。 「ただやりたいからやる」です。 結果はどうであれただやりたいからやる、です。 悲しいかな、自我は結果を得るために何かをやります。 自我にとっては結果が重要なのです。 ですが禅も奇跡講座も(あるいはどんなことでも)自我からは取り組めません。 (もちろん取り組むことはできますが、意味をなしません)

  • #229

    いわた (火曜日, 27 1月 2026 09:41)

    回答ありがとうございます

    「ひとつのエゴを解体すると
    「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。」

    はい。
    これまで以上に敏感になってます
    お陰様で心も身体も脱力する感覚を深めました

    Kenさんのいう「芋づる式」は、オセロが一気に引っくり返る という意味なんですね
    (根が同じものならそれらも解決する)
    ⑅⃛ 頭の片隅に学習として入れておきます

    奇跡講座、引き続き取り組んでいきます
    いつもありがとうございます

  • #228

    KEN(管理人) (火曜日, 27 1月 2026 07:08)

    いわたさんの「芋ずる式にエゴが出てくる」について

    「ひとつのエゴを解体すると
    「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。」


    私の言っていた「芋づる式」は、「オセロが一気に引っくり返るように」のほうが正確です。

    赦しに取り組み始めると、多くの赦すべき問題(つまり嫌だと思っていること)を抱えていることに気づき、目を向け始めることになります。
    そのうち一つでも完了したとき、他の赦しに取り組んでいた問題も「芋づる式」に、解決します。
    「オセロが引っくり返るように」いくつかの問題は一気に解決します。
    おそらく“問題の根”がいっしょだったのでしょう。

    もちろん一つ赦せばすべての問題が解決するわけではありませんが、多くの問題は関連しているようです。

    いわたさんの言われているものは、数多くある赦すべき問題に対してこれまで以上に敏感に気づき始めたことを指しているのだと思われます。
    新たに浮上してくるものもあり、赦すべきものはたくさんありますから。

  • #227

    KEN(管理人) (火曜日, 27 1月 2026 07:03)

    崎枝さん、真摯で率直な書き込み、ありがとうございます。
    お久しぶりです。
    じっくり読ませていただきました。

    「「自分を愛する」と言われると、ほぼほとんどの人は
     愛せない自分を責めてしまうと思います。
     私的には「自分を攻撃しない」方がしっくりきます。」

    ほんとそうですね。
    「自分を攻撃しない」
    その方がしっくりきます。

    「自分を愛することが起・こ・る」以外に方法もないのが難しいところです。


    続きの追記では禅について触れられていました。

    禅も「座ることが起・こ・る」で始まるようです。
    座ろうとした時点ではまだ禅ではない。


    「正しくあろうとする私」
    そうですね。
    正しければ幸せだなんて誰が言ったんでしょうね。


    なんだっていいと思います。
    「趣味」なようなものです。

    奇跡講座でも禅でも他の何かでも何でもいいと思います、オウムでも統一教会でもサッカーでもお料理でも。

    幸せになろうとしてやらなければ。


    今の私たちは「得るために」何かをやろうとします。
    そのレベルでの私たちでは不可能なようです。

    それを“自我”と呼んだりもします。

  • #226

    いわた (土曜日, 24 1月 2026 23:52)


    お世話になります
    いわたです

    以前セッションしてもらったときの 言ってた言葉の意味が少し分かりました「芋ずる式にエゴが出てくる」と聞いたのを覚えてます


    ひとつのエゴを解体すると
    「よし!できた!自分ってすごいよね!」って感じで エゴが現れてきます。

    芋ずる式��‬‪‪�‬‪��‬‪こーゆー意味なのかなーって
    思いました。



    読んで頂きありがとうございます

    ┏○ペコ

  • #225

    崎枝 (土曜日, 24 1月 2026)

    追記です。
    ふと思ったことを書きます。

    前投稿内で使用した
    「捕まえる」というニュアンスの中に
    「私」の意志を感じる新しい「見る者」の香りがするなぁと読み返して思いました。

    前から思っていた個人的な意見です。

    奇跡講座には必ず:
    • 選ぶ私
    • 気づく私
    • 赦す私

    が機能として残る。
    それがあるから、
    • 実践できる
    • 救われる
    • 生きやすくなる

    でも同時に、

    「正しくあろうとする私」
    が最後まで温存される
    全て捨てろと最後に言ってますけどね。

    奇跡講座の落とし穴はこの
    「正しく理解している正しい私」
    が暴走しがちになることと思っています。

    最近「道元入門」という本を読みました。

    ここを、禅は一切許さない。

    禅は現実的で癒しがない。シビアだ。
    禅はこう言う。

    正しい位置?
    それがもう分離だよ

    見てる?
    それがもう迷いだよ

    何もしない?
    それを選んだ時点で迷いだ

    私にとってはとても興味深かった。
    今の私は優劣ではなくこう思います。

    人として生きやすくなる
    → 奇跡講座は最強

    構造的に一切逃げ場を残さない
    → 禅は最終兵器

    どちらがいいとかの優劣ではありません。非常に興味深い。

    禅の不立文字
    只管打坐

    私たちの先人は凄いなと思います。

    何度もスミマセン




  • #224

    崎枝 (金曜日, 23 1月 2026 20:32)

    ご無沙汰しています。
    以前何度かセッションを受けさせていただいた者です。

    当時、私は
    「聖霊を選べない」「知的には理解しているのに手放せない」
    というところで完全に行き詰まっていました。

    そのときにKENさんから
    「自分を愛することが、赦しの前提条件」
    「なんとかしようともがいてきた自分の本当の望みを聞いてあげてほしい」
    と言われ、正直に言うと、その時の私はその意味を理解できませんでした。

    今更そんな自己啓発のようなことを言われて、戸惑い、意図が全くわからなかったのでとりあえずその後も奇跡講座を真面目に学び続け、
    「わかったと思っては落ちる」を何年も繰り返しました。

    あるとき、
    「学べば楽になると思っているのは誰だろう?」
    「理解すれば迷いが終わると思っているのは誰だろう?」
    とふと立ち止まった瞬間がありました。

    自我を手放すために学んでいる、
    でもそれをやっているのも自我。
    「私が学んでいる限り、迷いは終わらないのでは?」
    そう気づいたとき、本当に動けなくなりました。

    今は
    聖霊を選ぼう!
    選べない。なぜ?
    手放そう!
    手放せない!!

    こんな迷いが起きるたびにそれをどうにかしようとせず、ただその「迷う心」を捉える、ということをしています。

    それでも現象は淡々と起き続けていて
    世界は「私を通した現象」でしかないんだなと
    世界に対する重さだけが少し薄れるように感じています。

    最近になって、
    以前KENさんがおっしゃっていた
    「自分を愛することが赦しの前提条件」という言葉を
    あらためて思い出しました。

    私なりに振り返ると、
    それは「自分を肯定する」「ポジティブになる」ということではなく、
    自分の中にある認めたくない思い――
    怒り、嫉妬、承認欲求、優位に立ちたい気持ち、逃げたい気持ち――
    それらを否定せず、存在を許した経験だったのかもしれません。これがじぶんを愛することなのかな?と思っています。

    迷う心を自由に言いたいことを言わせて、心自体を止めるのではなくて、ジタバタ迷う心を捕まえる(止観のイメージ)と何か柔らかいものが現れて、安心した感覚がありました。
    正しい理想の自分を保っていたときに感じていた想像の神とはまったく質が違うものでした。

    もしかしたら、
    「否定されている心は捕まえられないのかな?」

    心は迷う
    その心を自由にさせると
    返って心が逃げなくなるのかもしれません。

    これは私の勝手な解釈で、妄想かもしれませんけど…

    ただもしKENさんの本意が私の気づきと通じ合うところがあるのならば……

    「自分を愛する」と言われると、ほぼほとんどの人は
    愛せない自分を責めてしまうと思います。
    私的には「自分を攻撃しない」方がしっくりきます。

    ただ、あのときいただいた言葉が、
    時間をかけて今ここで静かに響いていることを
    お伝えしたくて連絡しました。

    読んでいただき、ありがとうございました。

  • #223

    KEN(管理人) (月曜日, 19 1月 2026 23:03)

    虚無感について質問がありましたのでこちらに回答します。

    私もかつて虚無というか人生に絶望しました。
    文字通り人生に夢も希望も無くなり、もう死のうと決心しています。
    その後の展開は個人的なのであまり参考になりません。

    既定路線です。
    今は虚無感を体験する必要があるからそうなっているのでしょう。
    自分に向き合う強さが最も失われているときです。
    ですので、ほとんどやれることはないです。
    つまり、何をしてもいいし、何をしなくてもいい、何ができなくてもいいし、何もできなくてもいい。まったくできなくてもいい。まったく何もできないものです。もちろん足掻いてもいいです。
    それが極まったとき内側から何かに思い至ります。

  • #222

    いわた (日曜日, 18 1月 2026 14:42)

    #220読みました

    わかりやすい内容をありがとうございます

    身に染みてます

    「幸せになりたい」
    「特別になりたい」
    「もっと上手くやりたい」
    「不安を回避したい」


    たくさんの思いを抱えている自分に気が付きました。

    それでもまだ諦められない自分を見てます。


    今この機会に居ることを感謝します。

  • #221

    KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:52)

    いわたさんの「真理の考察」に関する書き込みへの返信

    【真理の考察:実在するのは平安のみである】
    これは単純で、「恐れ」は実在ではない。存在しない。幻想である。以上
    『奇跡講座』の基本中の基本概念です。

    ですので、『実在するのは平安のみである』完璧な洞察です!

  • #220

    KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:47)

    いわたさんのレッスン253に関する書き込みへの返信

    『奇跡講座』は「本来の自分に戻る道」なので、レッスン253は「本来の自分はこのように世界を見ており、本来の自分に戻りたいのなら同じように見なければならない。」つまり「あなたの覚悟を見ている」レッスンです。奇跡講座の言葉を使うなら「信」が置けているか。

    レッスン253「1. 私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。 この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。 私の身に起こることは、私が望んでいることである。 生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。 このことを、私は受け入れなければならない。」

    なので、「こんなことは私が招いたものではない! なんてひどいことが起こったんだ。 運が悪すぎる。。 こんなことは私は望んでいない! どうして望んでいる通りにならないんだ。 最悪だ。。」なんてことを思っているとしたら、奇跡講座を一からやり直す必要がある、というレッスンです。とはいえワークブック編なので、まさにこれを学ばせるレッスンですね。


    続くレッスン311、312も同じです。
    レッスン311「私はあらゆるものごとを、自分が望む通りのものとして判断する。」
    レッスン312「私はあらゆるものごとを、自分が望む通りのものとして見る。」

    いずれも簡単に言えば、「それでいい、(そうであっても、そうでなくてもまた)それでいい。 外の世界はそのままで完全完璧。」を言っています。

    ですので、赦しに取り組む私たちはこれらを前提としているので、「もしそう思えないのだとしたら、なぜこの自分はそう思えないのか。 思いたくないのか。 それをよく見る必要がある。」です。

  • #219

    KEN(管理人) (金曜日, 16 1月 2026 21:44)

    以下のブログ記事にコメントを頂きましたので、こちらに書き込みます。
    『AIに聞いてみた:赦しが不可能な理由「もっと衝撃な事実とは何か?」』
    https://acim.jimdofree.com/i-asked-ai#commentEntry226835488

    ――――――――
    雀さん書き込みありがとうございます。
    今回はアニメ映画「ひゃくえむ」からの洞察。
    映画を観てからコメントと思ったものの、まだ先になりそうなので書き込みます。
    「非二元が起きる直前の人間のリアルを描いたアニメ」とのことで、次観る映画になりました。
    世間の情景を深い洞察力で読み解く雀さんのコメント、いつも脱帽です。
    相当赦しを実践されているように見受けられます。
    奇跡体験もいくつもされているのでしょう。

    >赦しの一歩手前、とは何か
    >奇跡講座的に言うと:
    >   赦し=幻想だと完全に見抜く
    >  その前段階=幻想に“乗らない”

    まだ観ていないので何とも言えないのですが、その前の前の段階=幻想に"気づく"も描かれていそうですね。

    いつも貴重な意見ありがとうございます。

  • #218

    いわた (水曜日, 14 1月 2026 15:16)

    度々投稿失礼します

    Kenさんの今日の教えを拝見しての感じたこと


    【真理の考察:実在するのは平安のみである】
    もしかしたら、こういうことでは?(とインスピレーション)

    恐れや恐怖という感情の中に、人の意識は留まり続けることができない。 私たちは、平安の中でしか留まることができない。



    苦しみや恐怖の中にずっと留まれないのと同様に、一方で「世俗的な快楽」や「楽しさ」、あるいは誰かに対する「優越感」といった感情もまた、そこに永続的に留まることはできない。

    「ずっと留まれないもの」は、実在しない。
    「本当に実在しているのは、平安だけである」と言えるのではないだろうか。

    たとえ三次元の世界でどんなに辛い状況にあったとしても、自らの意識が永遠に留まれる平安であるならば、それこそが「実在」に繋がっている証拠?!
    一過性の感情の波に一喜一憂するのではなく、ただ唯一、意識が永続して留まれる「平安」こそが真実。

    -------------------
    この投稿には承認欲求が入っています・笑

  • #217

    いわた (水曜日, 14 1月 2026 15:00)

    今ほどKENさんの【今日の教え】を拝見してきました
    冒頭から

    ------時間のことは、気にかけずにいなさい。------
    を読んで笑ってしまった
     
    先程の掲示板投稿で私はレッスンを読み解くのに時間かかりすぎた自己否定感があったので 爆笑しちゃいました

  • #216

    いわた (水曜日, 14 1月 2026 14:56)

    今年初の掲示板投稿です
    今年もどうぞよろしくお願いします

    以下を私なりにAIと読み解いてみました
    レッスン253は長くない文章ですが読み解きにかなりの時間がかかりました
    //------------------------------------------//


    レッスン253 私の自己(純粋意識)は宇宙の支配者である

    ①私自身(純粋意識)から招かれずに 私(三次元人間世界)の元に来るものはない。 この世界においてさえ、私(三次元人間世界)の運命を支配するのは私(純粋意識)である。 私(三次元人間世界)の身に起こることは、私(純粋意識)が望んでいることである。 生じないものは、私(純粋意識)がそれが起こることを望まないものである。 そのことを私(三次元人間世界)は受け入れなければならない。 なぜならそうすることにより 私(三次元人間世界)はこの世界を超えて天国の中の私(純粋意識)の被造物 すなわち 私(純粋意識)の意志から生まれた子供達へと導かれるからである そこには私(純粋意識)の神聖なる自己が私が創造した彼らと私(純粋意識)を想像した神と共に住んでいる


    ②あなた(大いなる源.神)は大いなる自己(大いなる源.神+純粋意識)であり ご自身(大いなる源.神)のために子(純粋意識)を創造されました その子(純粋意識)はあなた(大いなる源.神)と同じように想像しあなた(大いなる源.神)と一つのもの宇宙を支配する私(純粋意識)の自己は私自身(純粋意識)の意思と完璧に一致しているあなた(大いなる源.神)の意志に他なりません その 私(純粋意識)の意志はそれ(大いなる源.神)自体へと 延長されるようにとただあなた(大いなる源.神)の意志に喜んで 賛同するのみです
    //------------------------------------------//
    自己解釈ですが
    ①は純粋意識の私が人間の私へ向けて
    ②は純粋意識の私が大いなる源神へ向けて
    と解釈しました
    //------------------------------------------//
    罪:ここで言う罪とは現状に抗うこと受け入れれないこと
    平安を求めるのであれば喜んで宇宙の支配者である愛ベースの自己を観ることなのでしょうね
    //------------------------------------------//
    流れるように読みたいと思いました
    引き続き深めていきたいと思います
    上記について補足等あればご教授ねがいます

  • #215

    いわた (日曜日, 28 12月 2025 09:31)

    ありがとうございます

    引き続き深めていきます

  • #214

    KEN(管理人) (日曜日, 28 12月 2025 08:12)

    >「私の、防御は一切発動しない 体験」

    “それでいい、(そうであっても、そうでなくてもまた)それでいい”
    外の世界はそのままで完璧。
    場合によっては今回のように「罵声」であるかもしれない。
    それでもまったく問題はない。自分の心の中が平和であるなら。
    もし感情的になんらかの反応が自分の中に見つかるなら、赦しのテーマ。

    おそらく今回は、感情的反応は皆無なので赦しは完了している。
    相手の罵声に対して反応することなく、ただ受け止めることが相手に対してできる(というかごく自然に出て来る)愛の表現だったということ。

    「彼らにはいくらでも好きなように、憎々しく狂暴にさせておきなさい。 これが自分の夢だということを、あなたが認識しそこなったのでない限り、彼らはあなたにどんな結果ももたらし得ない。」T-27.Ⅷ.10.

    そしてこれが「引き寄せの法則」で言うところの『許容し可能にする術』である。

  • #213

    いわた (金曜日, 26 12月 2025 16:15)

    〜追記を読んで〜
    (ありがとうございます)

    攻撃はせず、愛する

    赦しとは訂正することであり裁くことでは無い。


    ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
    先日
    身内から罵声罵倒の言葉を浴びせられた。
    あなたなんて
    大っ嫌い!
    ムカつく!
    全部あなたのせいだ!
    と、言われました�


    私は愛を求めている叫びだと察知しました。そこには怒りも裁きもありません。愛を求めていんんだな、(罵声として であっても)よく言葉にしてくれたね。苦しい沈黙を、破壊してよく連絡してくれたね【⠀おかえり 】と 思う気持ちになりました。

    相手の本当の声(言葉にはしてない)を、聴く時 攻撃は愛の叫びに聴こえ 私の、防御は一切発動しない 体験を、しました。

    その後に
    相手へ
    【⠀もう、その役目(辛く苦しく不安で怯える)はやらなくていいんだよ 】と 心から祈りました。


    お読みいただきありがとうございます

  • #212

    KEN(管理人) (月曜日, 22 12月 2025 09:25)

    (追記)
    「癒しのためにただ一つ要求されることは、恐れの不在である。 恐れている者たちは癒されてはいないし、癒すこともできない。 これは、癒すためには、あなたの心から葛藤が永遠に消え去っていなければならないという意味ではない。 もしそうであったなら、癒しの必要はなかっただろう。 しかしそれは、ほんの一瞬であれ、あなたが攻撃せずに愛するということを意味してはいる。」(T-27.Ⅴ.2.)

    「慈愛は、今すぐに達成できるという限られた意味において、正しい心の状態にとって必要不可欠なものである。」(T-2.Ⅴ.9.)

    「奇跡志向の赦しとは、訂正に他ならない。 それには裁きの要素はまったくない。」(T-2.Ⅴ.A.16.)

  • #211

    KEN(管理人) (土曜日, 20 12月 2025 10:13)

    メールで頂いていたものをこちらに転載していただきました。いわたさん、いつも素晴らしい報告ありがとうございます。
    ________________________________

    セッションで、奇跡講座(コース)を理解すると神との対話(神対)は実はすごい内容なんですよという話をしました。

    両教えをシンクロさせて理解されているのが、内容からうかがえます。
    併読することで難解な教えがより確実な理解に昇華されている印象を受けます。
    バッチリです。

    内省と気づきの部分も、すばらしく驚きを覚えます。
    エゴの言い分を否定せずよく聞いてあげる必要があります。
    エゴを否定したままだと耳を傾けられません。
    否定せず素朴に(ニュートラルに)接することがカギ。
    エゴも自分の心(心に抱く信念)の一部。
    否定せず心を開いて接することでエゴも真実を語り始めます。
    ご自身でちゃんと気づかれている、感動しました。

    セッションで伝えていたことが、正確に伝わっています。
    ご自身の中で照らし合わせて一つひとつ理解の歩みを進めているのがよく分かるシェア内容、ありがとうございます。

    また進展がありましたらシェアお待ちしています。

  • #210

    いわた (金曜日, 19 12月 2025 21:30)

    自分にとって 大きな気付きがありました。



    234 父よ、今日再び、私はあなたの子です

    (レッスン234ですが神対の影響受けているので少しズレています)

    愛の対局は恐れです。愛を知るために恐れがある。 つまり、愛を知るための道具として恐れがあるのであれば、恐れそのものは幻想でしかありません。 恐れは愛を知るためだけにあるのだから、ただそれを見ればいい。 恐れやエゴを否定しなくてもいいし、追いやらなくてもいい。

    源は愛であり、私たちは自由な人間としての表現者です。魂が軽やかに喜ぶことをすればいい。 恐れを見る際、無理に喜ぶ必要も、積極的に迎え入れる必要もなく、ただ見ればいい。

    私は常に恐れを抱いていました。不安、心配、自己否定、他者否定。 つまり、これら「反対側」を体験することで、真実を認知したいという自分がいるのでしょう。 もう、恐れは見ました。今日もまた見るでしょう。 ただ見なさい、眺めなさい。恐れを恐れて正当化したり、隠したりしないように。

    時間は、本来の自分ではないものを経験し、それを認識することで「本来の自分」を知るためのツールです。愛を思い出すために、この時間が与えられているのだと感じています。

    二元性を受け入れます。それは愛(自分自身)を知るための贈り物でしょう。 はじめから恐れは幻想でした。恐れの反対側(真実)にあることに気がつくこと。 厳密に言えば、反対側へ行くのではなく、恐れと愛の二極性を同時に知り、エゴの機能を理解した上で、愛(軽やかな自分)に戻ることなのだと認識しました。
    ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
    (ここからは、内省と気づき)

    私、勘違いしていました。 エゴは悪いものだと思って、エゴが出てきたらすぐさま蓋をしていた。

    エゴを見ることをせず、懺悔もしなかった。 聖霊に差し出さず、解体もできていなかった。

    私の「黒いエゴ」だと思っていた部分は、麻痺していました。 実際は黒くもなんともなく、ただのエゴです。

    純粋だと思っていた私が、エゴを踏みつけて蹴飛ばし、いなかったことにして「自分は純粋だ」と言い聞かせていた。 本当に(エゴに対して)ごめんなさい。 ※この「ごめんね」は、重苦しい罪悪感ではなく、慈悲深い温かな気持ちです。

    エゴは私を導くために存在していた、とも捉えることができます。 エゴを閉じ込めてごめんね。これからはエゴも見るよ。 エゴの中に、私の本心も一緒に隠してしまったような気がしています。


    お読み頂きありがとうございます
    引き続き学習していきます

  • #209

    いわた (金曜日, 12 12月 2025 09:35)

    理解し難いと感じていた内容が、今は潤滑油を垂らしたかのように不思議と読めるようになってます。

    【自我と同一化している今の自分】と言い換えると自我を赦し俯瞰して見れるように感じました。

    ありがとうございました
    (感謝)
    引き続き深めていきます。

  • #208

    KEN(管理人) (木曜日, 11 12月 2025 12:37)

    L226 1.
    「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。 これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。 もし私が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私にとって価値あるものであり続ける。 しかし、もし世界を見ながら、その中に価値を見ず、自分のものとしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去ってゆく。 それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。」

    一部、私【自我の私】(自我と同一化している今の私)と読み替えてみてください。


    「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。 これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。 もし私【自我の私】が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私【自我の私】にとって価値あるものであり続ける。 しかし、もし世界を見ながら、その中に【自我の私が価値ありと見なしていたものの中に、つまり偶像に】価値を見ず、自分のものとしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去ってゆく。 それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。」


    要約)自我として今まで通り世界を見るなら、自我にとって価値のある世界を見る(引き続き今と同じ争いの世界を見る)。 だが、自我を超えて見るのであれば(偶像や魔術からの誘惑を一切拒絶するなら/キリストの心眼で見るなら)、自我の眼(奇跡講座ではこれを「肉体の眼」と呼ぶ)で見ていた世界は私から消え去る。


  • #207

    いわた (木曜日, 11 12月 2025 09:17)

    返答ありがとうございます
    *KENさんの要約参考になりました

    私が腑に落ちなかった点(本から抜粋)は以下です

    ⇨......................その中に価値を見ず 自分のものとしておきたいものや ゴール として追求したいものを何一つ 見なければ 世界が私から去ってゆく それは私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。


    この部分何度読んでも 何を指しているのか理解しかねます

  • #206

    KEN(管理人) (水曜日, 10 12月 2025 18:54)

    いわたさんへ

    セッションの感想、そしてセッション後の気づきのシェアありがとうございます。
    さてワークブック226についてです。

    適切に理解されているように見て取れます。

    世界の展開はそのままある。
    自分の中のエゴの視点を通して世界を見るため、同じ世界を見てもエゴの視点を通した印象を受け取る。
    自分の中のエゴが解消されていれば、エゴの視点のない価値観を通して世界を見るため、同じ世界を見ているにもかかわらずエゴの視点のない価値観を通した印象を世界から受け取る。
    見ている世界は同じものでありなんら違いはない。(もちろん聖霊による最適なレッスンの提供上、変化し違う世界が展開する場合もある。ex.病気が治る、など)
    自分の中のエゴが完全に解消されてしまえば、そもそも目に映る世界自体が消滅する(らしい)


    どのあたりに腑に落ちなかったのか教えてください。

  • #205

    いわた (水曜日, 10 12月 2025 15:13)

    お世話になります
    質問です
    ワークブック/レッスン226の理解が解りかねます
    ()書きの部分は私の解釈です

    レッスン226
    「私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。」
    ----------
    もし私がそう選ぶならこの世界を 完全に立ち去ることができる これを可能にするのは死ではなく 世界の目的について心を(分離のエゴ視点から分離していないキリスト視点に)変えることである
    もし私が今見ている通りに世界を価値あるものと信じるなら世界は私にとって価値あるもの(エゴにとって価値がある世界観)であり続ける。しかし もし 世界(エゴの世界観)を見ながら
    その中に価値を見ず 自分のものとしておきたいものや ゴール として追求したいものを何一つ 見なければ 世界(エゴの世界観)が私から去ってゆく それは私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったから(赦しの視点でいた)である。
    --------------
    --------------
    自分なりにですが、
    ・端的に解釈すると、エゴの視点でこの世界を見ているとエゴの偽りの幸せの価値観で世界は在り続ける。
    がしかし、エゴの偽りの幸せの価値観で世界を見なければ、または世界にエゴの偽りの幸せの価値観を要求しなければその世界観は私の前には現れない

    と解釈をしましたが、イマイチ腑に落ちませんでした。

  • #204

    いわた (水曜日, 10 12月 2025 13:18)

    ☆ セッション後の内省☆

    セッション後、以下の重要な気づきがありました。

    長年、「世界から存在否定されている」という根本的な誤解をベースに生きてきました。

    *これは自分にとって根本的大きなモノ(エゴ)だったと認識しています

    その誤解ゆえに、人にやさしくする 相手を優先するなど、あらゆる努力を…「世界に受け入れられるための証明作業」にしていたのでしょうね。

    実は幼少期家庭に居場所が無いと感じていて「存在否定さている!」という誤った解釈が背景にあり、私はこの「存在否定されている」というトラウマを生きる活力(エゴからのエンジン)として利用していたと気づきました。

    • 投影の撤回: 虐待やネグレクトは、ただ起きただけであり、それに意味(加害者/被害者)をつけたのは、私自身の勝手な解釈と投影でした。
    • 私は肉体ではない。私を傷つけられるものはなく、この傷は私が私につけたものです。加害者だと決めつけていた親や家族も、加害者ではありません。意味はないのだから。

    私はこの自己否定のゲームと、意味づけの誤りを認めます。
    堂々と親と家族を赦し(投影を撤回し)ます。

    ☆聖霊の視点を選択します。濁りがない愛の視点から見る☆
    • 私は世界に対して何も証明する必要はありません。 世界に愛を働きかける義務もない。
    • 「世界が私を拒絶している」という思い込みは、誤りだったと認めます。
    • 純粋な愛は常に注がれている。私は、ただその純粋さを受け取って良い。
    安心して良いのですね。私がエゴの働きかけをやめたところから、愛の延長は自然に始まります。

    Sessionありがとうございました
    引き続きコースを学習していきます

  • #203

    いわた (金曜日, 05 12月 2025 18:20)

    お世話になっております
    昨日はsessionありがとうごさいました。
    奇跡講座について分かり易く丁寧に教えて頂き本当にありがたい!

    これからも、引き続き学んでいきます。

    YouTubeも拝見しました。
    分かっているつもりでも
    Kenさんからの学びは大変身に染みます。

 2019.12.24 掲示板の運用開始。