赦しの原理では、夫婦やパートナーとの憎悪と化した人間関係、恋愛、親子問題、職場や家庭問題、病気や難病、どんな問題であれ、赦しによって解決しない問題はありません。
「あなたがもっている問題で、聖霊があなたに奇跡を差し出すことで解決できない問題はない」(T-14.Ⅺ.9)
「どの問題も聖霊にとっては同じである。 なぜなら、どの問題もまったく同じ観点から、同じやり方で解決されるからである」(T-26.Ⅱ.1)
「聖霊の問題解決こそが、問題を終わらせるやり方である」(T-25.Ⅸ.5)
そもそも問題だと思っていたものは、幻想で実在しないから。
その幻想の正体を見て取れたとき(看過したとき)、まるで課題 が終わったかのように物理的にも問題は消えていきます。
「幻覚はその正体が認識されたときには、消え去る。 これが癒しであり、治療法である」(T-20.Ⅷ.8)
「すべての愛の表現はその真の意味において常に奇跡的であるが、それらと同様に、この交換は物理的法則を逆転させる」(T-1.Ⅰ.9)
原理自体は難しくはありません。
「どの問題もみな、一つの誤りである」(T-26.Ⅱ.4)
これまで生きて来た(沁みついた自我による)強固な考え方が実践を難しいものにしています。
赦しは自我からではできません。
「自我に由来している願望はどれも無を求める願望であり、それを求めることは要請ですらない」(T-9.Ⅰ.10)
まずは考え方を知って自我との同一化を緩めるところから始めます。
すでに自我との同一化が緩み始めている人もいるかもしれません。
問題に対処することで一時的に解決したかに見えることはあるかもしれませんが、相手や状況を変えることでは根本的には解決しないため、また人や状況を変えて同じような状況に陥ります。
「それを何らかの特別な形で解決しようと試みることは、何の目的にも役立たない。 それは何度でも再発し、繰り返される」(T-26.Ⅱ.1)
「こうした繰り返しは、自発的に放棄されるまで果てしなく続いていく」(T-4.In.3)
「問題は正義と出会ってはじめて解決される。そうなるまで問題は繰り返し生じる」(T-25.Ⅸ.5)
このような状況に陥っていること自体に気づくことが難しいものですが、かたちや状況を変えて問題が繰り返し起こっていることに遅かれ早かれ気づくことになります。
この状況に陥っていることを自覚することは解決への一歩です。
すでに赦しを実践しているという方もいるかもしれません。
問題はきちんと解消しているでしょうか。
問題が解決していなければ赦しをやっているとは言えません。
「赦しは、訂正を伴わない限り、空虚なしぐさにすぎない。 それがなければ、本質的に、それは癒しをもたらすどころか、裁くものとなる」(T-2.Ⅴ.A.15)
その赦しは空虚なしぐさにすぎず、裁くものとなります。
赦しているつもりが、裁いているかもしれません。
赦しは幻想直視を避けては通れません。
きちんと出来事を辿って幻想を直視しているでしょうか。
「幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。 見ないでいることにより、幻想が保護されているからである」(T-11.Ⅴ.1)
何が幻想であり、その幻想をどのように直視すればいいのか、そこが問題です。
具体的に出来事を辿ってそれぞれの形を点検する必要があります。
「あなたがそれらの形のすべてを支配している原則をもち続けている間は、それぞれの形を点検することは確かに必要である」(T-15.Ⅹ.5)
赦しが完了したときに訪れる奇跡は即時的です。
「救済はまさに即時的なものである」(T-26.Ⅷ.3)
漸次的ではありません。
段階を踏んで徐々に赦しが進行するなどといったことはありません。
即、瞬間です。
準備が整った瞬間、即座に問題が解消します。
赦し、すなわち奇跡は数千年もかかったかもしれない学びに代わるものとなります。
「奇跡は何千年もかかったかもしれない学びに代わるものとなる」(T-1.Ⅱ.6)
つまり、一生かけても解決し得ない問題、あるいは何十年もかかる問題を赦しは解決し、それにかかる時間を大幅に短縮します。
真の赦しの体験は、途方もない解放感と平安をもたらします。
「途方もない解放感と深い平安がどのようなものであるか、あなたには想像もつかない」(T-3.Ⅵ.3)
それは神の平安です。
赦し体験のない人にとっては想像できないものです。
目から鱗とはまさにこのことです。
この衝撃が何かをあなたは赦しに達したときに知ります。
「自分の救済者はもはや自分の敵ではないということを学ぶ者たちは、ある種の衝撃を受ける」(T-29.Ⅰ.8)
真理である真の赦しは体験することでしか理解することができません。
描写も説明も不可能です。
「真理は体験することしかできない。 描写することも、説明することもできない」(T-8.Ⅵ.9)
学習によって赦しの準備に対する理解は得られますが、赦し自体の直接の理解が学習だけでもたらされることはありません。
赦しを理解するには実際に実践によって体験することです。
「赦しの根本的な原理を教えるのに、最も難しく見える奇跡が、最初に達成できると実証する以上によい方法があるだろうか」(T-19.Ⅳ.C.ⅰ.6)
だからこそ私たちはこの奇跡体験、真の赦しをまず経験することに注力します。
真の赦しを一度でも経験すれば、赦しの重要性が理解できるので、もはや誰からも赦しの重要性を説得される必要はなくなります。
「枯れることなくせせらぐ小川と楽しげに流れる清らかな生命の水を見たとき、心眼の贈り物を受け入れるようにとあなたを説得する必要があるだろうか」(T-20.Ⅷ.11)
「一つの選択が平安と喜びをもたらし、もう一つの選択が混沌と災いをもたらすことを経験から学んだ者であれば、誰もこれ以上の説得を必要としない」(T-4.Ⅵ.3)
「最初の真の赦しは、もっとも小さい一歩だが、それでも神の贖罪の計画の中では最大の達成である」(T-17.Ⅱ.3)
赦しの達成は簡単ではありません。
最初の赦しは特にそうです。
それをまず支援しようというのがこのサイトの主旨です。
『奇跡講座』は、「普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験ならば、可能であるばかりか、必要である」(「教師のためのマニュアル」:「用語の解説」 序文・2)
『奇跡講座』の学習は、真の赦し体験があって初めて機能します。
体験なく進める『奇跡講座』の学習は苦難の道です。
実践による真の赦し体験、奇跡体験が必要です。
これらは私KEN自身による体験および、『奇跡講座』内に同様の記述が存在します。