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JACIMサイトQ&Aの【質問】No.65からです。
質問者は、次のように相談しています。(当方にて簡略)
「嫌な出来事、つまりは自我の想念を抱いていたとしても、それに気づくのはその時は無理で、たいていコトが終わった後だし、気づいたとしても事後なので思い出しずらい。 だから聖霊に、「私は間違っていました(これらの考えは、私の真の機能を私自身が受け入れるのを妨げているゴールを反映しています)」とだけ言って済ましている。 それを習慣化(普遍化することのできる手法)している。 ときにはまとめてそれをすることもある。 うまくいっている気がしているのでこれでいいですよね?」
これに対し回答者であるワプニック氏は、「いえ、違います。」と言っています。
実際には、「そうしたことは、このコースが私たちに行うよう求めていることではありません!」と強く言っていますが、何がどう違うのでしょうか?
直視しないものを聖霊は消し去らない
ワプニック氏は、「もちろん具体的な出来事、形は問題ではなく、その背後にある目的こそが問題ではあるが、その目的を暴くためには具体的なステップを飛ばさずやるしかない」と言っています。
以下、Q&A本文より引用。(下線は当方にて)
そうは言っても、自分のレッスンがそこまで普遍化されたレベルに達することができるようになる前に、私たちにとって重要なことは、自我の判断は全て同じだという認識へと導いてくれる具体的なステップを一つも抜かさずに進んでいく、ということです。
ですから、もし振り返ってその時の出来事から自分はどんな考えを抱いていたのかを見ずに、ただ単に聖霊に差し出すということを行なっているだけだとしたら、あなたのやっているその行為(見ずに聖霊に差し出していること)自体をよく見ることです。
そこには恐れや罪悪感の結果である可能性はないか、そうワプニック氏は提案してくれています。
そして次のように、ワプニック氏は質問者さんの真意はこうではないかと示唆しています。
以下、Q&Aの回答より引用。
つまり、「それを見てはいけない! これらの裁きや攻撃の想念は、あまりに恐ろしくて直視することなどできない。ただ自分が罪を犯したことを受け入れ、そのようなものは聖霊に差し出すことにより削除してしまいなさい」ということなのではないか、ということです。
すなわち、「そんな直視したくないもの、面倒くさいものは、さっさと聖霊に差し出して消し去ったほうがいい!」とあなたは言っているのと同じです、ということです。
もちろん聖霊は魔術師や魔法の使い手ジーニーではないので、直視しないものを聖霊に差し出されても消し去ってはくれません。
ですので、「そうしたことは、このコースが私たちに行うよう求めていることではありません!」(T-13.III.1:1-2 参照) とワプニック氏は言っているのです。
JACIMサイトQ&A【質問】No.65より
https://www.jacim.com/acim/?p=4739
「具体的なステップ」とは
では、ワプニック氏の言う、「自我の判断は全て同じだという認識へと導いてくれる具体的なステップを一つも抜かさずに進んでいく」の「具体的なステップ」とは何のことを指すのでしょうか。
これは、赦しの3つのステップを指しているのでしょう。
そしてわざわざ「具体的なステップ」とありますから、第2ステップ、特に「自我直視」のことを指していると思われます。
つまり「幻想を直視する」です。
そのやり方の中に、「具体的な出来事をすべて辿って点検し、自我の訂正に活用する」があります。
おそらく「具体的なステップ」の具体的なという箇所はこのことを指しているのでしょう。
これらについては、こちらも参考になると思いますので、リンクしておきます。