どのような処罰の概念にも非難の投影が伴い、非難は正当化できるという考えが強化される。 その結果もたらされるのは、非難についてのレッスン(自我)である。 すべての行いは、その動機となっている信念を教えるからである

 使徒たちの教えを読むときには、当時はまだ彼らが完全に私に従う準備ができていなかったために、のちにわかるようになることがたくさんあると、私自身が彼らに語ったことを思い出しなさい。 私はあなたを一つの思考体系に向かって導いているが、あなたはその思考体系の中にどのような恐れも入り込ませずにいてほしい。 私が求めているのは、殉教者ではなく、教師である。 誰も罪のゆえに罰せられることはなく、神の子は罪人ではない。 どのような処罰の概念にも非難の投影が伴い、それにより、非難は正当化できるという考えが強化される。 その結果もたらされるのは非難についてのレッスンである。 なぜなら、すべての行いは、その動機となっている信念を教えるからである。 十字架刑は、明らかに相互に対立する思考体系がもたらしたものであった。 それは、自我と神の子との間にある「葛藤」のように見えるものの完璧な象徴である。 この葛藤は、今も同じく実在するかに見えており、そのレッスンは、当時と同じく今も、習得されなければならないものである。

 

奇跡講座テキスト 第6章  一 十字架刑のメッセージ  16.