本当はその福音は愛のメッセージ以外の何ものでもない。私(キリスト)が「汝は、接吻をもって人の子を裏切るのか」と言ったはずがない。 私がそのようなことを信じていなかったということが、十字架刑が伝えているメッセージのすべてである。 ユダは、私の兄弟であり、私自身と同じように一なる子の一部をなす神の子であった

 これらは新約聖書の上下が転倒した考え方のいくつかの例である。 しかし、本当はその福音は愛のメッセージ以外の何ものでもない。使徒たちが罪悪感を感じていなかったなら、彼らは、「平和にあらず、剣を投ぜんために来たれり」と私が語ったと引用することはなかったはずである。 これは明らかに、私が教えたすべてのことの正反対である。 また、彼らが本当に私を理解していたなら、ユダに対する私の反応を、あのように描写しなかったはずである。 私が裏切りを信じていたのでない限り、私が「汝は接吻をもって人の子を裏切るのか」と言ったはずがない。 私がそのようなことを信じていなかったということが、十字架刑が伝えているメッセージのすべてである。 私がユダの上に呼び起こしたと言われている「処罰」も、同種の間違いであった。 ユダは、私の兄弟であり、私自身と同じように一なる子の一部をなす神の子であった。 罪の宣告は不可能だと実証する用意ができていた私が、彼に罪を宣告しようとすることが、あり得ただろうか。

 

奇跡講座テキスト 第6章  一 十字架刑のメッセージ  15.