最終更新: 作成開始: 4-02-06 最後↓
奇跡講座はどんな教えなのか。 何をすることなのか。 あまりにも誤解されている。 正しく理解されていない。 みんなよくわからずに取り組んでしまっている。 これはとてもとても重要なこと。
他の数ある教えと何が違うのかを見たほうが分かりやすいと思うので、その対比で見ることにする。
奇跡講座では、あなたはすでに幸せであり「幸せになる」ことはできないと説く
数ある教えのほとんどは「幸せになる」ための教えであろう。 一方、奇跡講座は「幸せになるための教え」ではない。 そもそもあなたは「幸せ」なのだから「幸せになる」ことはできない、そんなことをすれば「幸せ」から遠ざかるだけだ、と奇跡講座は説く。
奇跡講座は「勘違いを解く」ための教え
奇跡講座は「勘違いを解く」ための教え。 あなたはそもそも「幸せ」なのだから「不幸は勘違い」。 つまり不幸は幻想、存在しないものを見ている、勘違いしている。 自分の勘違いに気づくことで幻想を解くという考え方。 「不幸」を「不安」「苦痛」「ネガティブな感情」「恐れ」「嫌なこと」「病気」「問題」としても同じこと。 「幸せ」は「平和」「平安」「無垢」としても同じ。 奇跡講座の教義にもあるようにあなたは「脅かされることのない存在」である。
不幸を無視することではない
「不幸は勘違い」。 だからと言って「これは勘違いなんだ、幻想なんだ」と自分に言い聞かせて気にしないようにしたり、無視することでは絶対にない。 もうすでに「勘違い」してしまっているのだから、そしてその「勘違い」に気づいていないのだから、つまり今すでに「不幸」なのだから、その「勘違い」のありかを探して正体を見破らないかぎり、不幸は解消しない。
つまり「幸せになりたい」なら奇跡講座は答えを提供しない
「幸せになりたい」、「このつらい思いをなんとかしたい」、「病気をなんとかしたい」、「苦痛をなんとかしたい」、、何とかしたいには奇跡講座は答えない。 奇跡講座は「何とかする必要はない。 何もする必要はなく、ただ勘違いを解きなさい」とだけ教える。
そもそも前提、スタートが違う
結局、他の教えとは何が違うのか。 そもそもスタート、出だしが違う。 前提が違うということ。 「幸せでない自分」からスタートしているのか、「幸せな自分」からスタートしているのか。 「問題を抱えている自分」を前提にスタートしているか、「問題はない自分」」でスタートしているか。 「不完全な自分」を前提にしているか、「完全無欠な自分」を前提にスタートしているか。
「幸せになりたい」は自我の発想
「自分は幸せでない」だから「幸せになりたい」、「幸せにならないといけない」、「幸せを手に入れないといけない」という思想。 つまり「不幸」が前提。 これは幸せを「獲得する」という自我の思考体系そのもの。 そのように考えるあなたは自我と同一化している。 そう言われても自覚すらしないだろうが、あなたはまさに自我の考え方そのものになってしまっている。
奇跡講座は自我からでは行えない
奇跡講座には、幸せになるための方法は何一つ書かれていない
ゆえに奇跡講座には「幸せになるためにどうすればいいか」についての文章は何一つ存在しない。
したいことをしよう。逆説的だが全力で幸せを求めよう
今の時点ではきっとあなたは「幸せになるためにはどうしたらいいか」に興味があるだろう。 もちろん幸せを求めていい。 全力で求めていい。 構わない。 ダメなものは何もない。 したいことをしよう。 もしかすると、それであなたは幸せになれるかもしれない。 奇跡講座では一時的な幸せは訪れるかもしれないが、普遍的な幸せは決してやってこないと教えている。 だが今のあなたには関係ない。 そんなのやってみないと分からない。 奇跡講座は嘘かもしれない。 違うかもしれない。 あなたは例外かもしれない。 今のあなたにはまだはっきりとは分かっていないのだから、人生という経験を積むことを通して判断に足るデータを集め、あなた自身の結論を出そう。 そのためにもあなたのやりたいと思っていることをやろう。
「このやり方では絶対に幸せにはならない」、「何か別の道があるはずだ」という日がいつか来るだろう。 そうなって初めて、奇跡講座という道を歩めるようになる。
あなたが見捨てるのを辞める日を私たちは待つ
そうなるまではあなたは自我を大切にして生き続けることになる。 自我を信頼し、自我の教える通りに生きることになる。 そこに疑問は挟まない。 自我を尊重し疑うこともない。 つまりあなたはあなた自身を見捨て続けることになる。 あなた自身よりも自我を尊重していることになる。
だがいつの日か、あなたは自我をもはやこれ以上信じることはできない地点にやって来る。 その日まで我々は待たなければならない。
あなたが自分自身を見捨てることを選んでいる間は、私は待たなければならない
その日が来るまで私たちには何もできないのか
その日が来るまで私たちには何もすることができないのか。 いつ木から果実が落ちるかは時間を待つ以外にないのか。 果実が落ちるその日とは、自我の生き方は違うとはっきり認識することと言える。 奇跡講座で言うところの「自我のカリキュラムはもうたくさんだ! これ以上自我には従えない。 何か別の道があるはずだ」と叫ぶ瞬間。 これが真のカリキュラムへの方向の転換点となる。 このカリキュラムの選択は自我からでは行えない。 心の奥からの選択。 明確ではっきりと湧き上がる選択。 つまり自我からではない真の自己からの選択が必要。
この真の選択ができるようアシストすることが今の我々にできること。
その一つはもう言った。 「したいことをする」。 これは「したくないこと」と「したいこと」を区別することでもあるとも言える。(「したいこと」の中でも「偽りのしたいこと」と「真にしたいこと」を見分ける。) 真にしたいことは自我からのものではない。
人はいつも自我として生きているわけではない。 自我からではない生き方をしている瞬間もある。(ほとんどの場合、自我として生きているだろう。) この自我とそうでない状態とが混在している状態。 人は自分の存在状態を意識しない。 この存在状態を意識してそこから生きるということ。 どちらの存在状態で自分は今生きているのか。 奇跡講座ではこの状態によって行動は同じでも結果がまったく異なると教える。 そして真偽を区別せよと教えている。 結果を見て、まずはこの存在状態を認識するところから入る。
自我から生きるとうまくいかず、本来の自己から生きると人生うまくいく。
人は人生を通して理解していくものだが、意識して日々生活することによりこの違いをはっきりと認識する。
つまり「もはや自我からは生きたくない」、「自我の選択はやめる」とはっきり認識する地点がやってくる。 決断する地点、覚悟を決める瞬間とも言えるだろう。 我々にはこれを早める役割があると理解している。
コメントをお書きください