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 知覚が存在している間は、祈りの存在理由はある。 知覚は欠乏に基づいているので、知覚する者たちは贖罪を完全に受け入れてはおらず、自らを真理にゆだねていない。 知覚は分離した状態を土台としているため、少しでも知覚している者なら誰でも、癒しを必要としている。 知っている者にとっては、祈りではなく聖餐(せいさん)が、自然な状態である。...
 赦しとは、分離しているという知覚を癒すことである。 心が自らを分離したものと見ることを選んだので、兄弟についての正しい知覚が必要となっている。 霊は神を完全に知っている。 それが、霊の奇跡的な力である。 誰もがこの力を完全に所有しているという事実は、この世界の思考にとってはまったく異質な状態である。...
 もし判断というものがなく、完全な一様性以外に何もなかったとしたなら、知覚に何が起こるだろうか。 知覚は不可能となる。 真理は、知ることができるだけである。 そのすべてが同じく真実であり、そのいずれかの部分を知ることは、そのすべてを知ることである。 知覚のみが、それを部分的に自覚するということができる。...
 「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)り給えり」という言葉は解釈し直す必要がある。 「像(かたち)」は「想念」と理解し、「如くに」は「同じ質をもたせて」と理解することができる。 神は確かに、ご自身の想念の中で、神ご自身と同じ質をもたせて、霊を創造した。 その他にはまったく何もない。...
 祈りとは、何かを求める方法の一つである。 それは奇跡の媒体である。 しかし、唯一の有意義な祈りは、赦しを求める祈りである。 なぜなら、赦された者は一切を有しているからである。 ひとたび赦しが受け入れられたなら、通常の意味での祈りはまったく無意味となる。...
 知るということには、解釈の余地はない。 あなたは意味を「解釈」しようと試みることはできるが、それは常に誤りの余地を残す。 なぜなら、それは意味について知覚されたこと(・・・・・・・傍点)に言及するからである。 このような一貫性のない解釈は、あなた自身を、分離していると同時に分離していない者と見なそうという試みの結果である。...
 あなたが絶えず自問している根本的な問いは、正しくは自分に向かって問うことなどできないものである。 あなたは自分とは何かと問い続けている。 そこでは、その答えがあなたの知っている答えであるのみならず、自分で答えるべきものでもあると見なされている。 だが、自分を正確に知覚するということは、あなたにはできない。...
 すでに述べた通り、知っているという状態は、行うことにはつながらない。 真に創造されたあなたと、あなたが作り出した自分自身との間の混同は実に甚大であるため、あなたには何かを知るということが文字通り不可能になってしまった。 智識は常に安定したものであるが、あなたが安定していないことはきわめて明白である。...
 分離以来、「創造する」と「作り出す」という言葉が混同されてきた。 あなたが何かを作り出すとき、欠乏や必要という具体的な感覚からそうしている。 具体的な目的のために作り出されたものは何であれ、真の普遍化の可能性をもたない。 知覚された欠乏を補うために何かを作り出すとき、あなたは分離を信じているということを暗黙のうちに示している。...
 私は、あなたが所有している能力の数々はあなたの本当の強さの影にすぎないと述べたし、さらに、もとより判断を下すものである知覚というものは、分離の後にはじめて導入されたとも述べた。 それ以来、誰も何ごとにも確信をもてなくなった。...

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