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真に救われるためには赦しを行なうことですが、その赦しに対する障害がもう一つある、という話です。(一つ目の障害は、聖霊やあなた自身の役割をあなたが誤解しているという話です。 「私はエゴに気づいた。 だからあとは聖霊にお任せするだけ。」は赦しではないと13章に書いてあるを参照のこと。)
T-13.Ⅲ.1.「救いに対する恐れ」から
13章からの引用ですが、ここには「真の恐怖は、救いに対する恐怖」とあります。 これはいったいどういうことなのでしょうか。 一文づつ見ていきたいと思います。
だが、あなたが自分自身と贖罪との間に置いた障害が、もう一つある。 恐れを認識したなら、それを黙認する者など誰もいないと、私たちはすでに述べた。 だが、あなたの無秩序な心の状態においては、あなたは恐れを恐れてはいないのである。 それを好んではないが、あなたを真に恐れさせているのは、攻撃への欲求ではない。 あなたは自分の敵意に深刻に悩まされてはいない。 あなたはそれが覆っているもののほうをもっと恐れているがゆえに、それを隠しておくのである。 自我なくしては、もっと恐ろしい何かを自分の中に見出すことになると信じていなければ、あなたは自我の最も深い闇に覆われた隅石でさえ、恐れずに正視できただろう。 あなたは実際には十字架刑を恐れているのではない。 あなたの真の恐怖は、救いに対する恐怖である。
奇跡講座テキスト 第13章 三 救いに対する恐れ 1. より
あなたが自分自身と贖罪との間に置いた障害が、もう一つある。
「自分自身と贖罪との間に置いた障害」とは、真の自分を見えなくしてしまっている障壁、すなわち自我のことです。
恐れを認識したなら、それを黙認する者など誰もいないと、私たちはすでに述べた。
「恐れ」とは自我(自我の思考体系)を生起させている闇、すなわち真の自分を見誤った想念(罪)のことです。
自我の想念を生み出す元凶と呼んでもいいでしょう。
ですので、「闇を認識したなら、それを放置しておく者など誰もいない」ということになります。
すでに述べているというので、探してみたところ、直接的な記述は見られず、それに近いと思われる部分は以下です。(他に見つかればまた追記します。)
あなたが自分で作り出したものはあなた自身にはまったくふさわしくないものであるため、それをありのままに見てみようとする意欲があったなら、あなたがそれを望むことはあり得ない。
奇跡講座テキスト 第10章 四 病気の終わり 5. より
あなたの無秩序な心の状態においては、あなたは恐れを恐れてはいないのである。
「あなたの無秩序な心の状態」とは、秩序ある心の状態(正しい心)の反対ですから、間違った心すなわち自我を信奉している、自我に毒されている今の私たちのことです。
「恐れを恐れてはいない」とはなんでしょうか。
これは、自我を生起させる心の闇である罪、本来の自分を見誤ったことを嫌がってはいない、その部分をなんとかしたいと思っていない、すなわち問題とは思っていないという意味になります。
ですので、「自我を生起させている心の問題(誤り)を、今のあなたは実のところ、それほど問題だとは思っていない」ということになります。
それを好んではないが、あなたを真に恐れさせているのは、攻撃への欲求ではない。
「それを好んではいない」の「それ」は、恐れすなわち罪、自我を生起させる心の闇です。 もちろん、私たちはそれを好んではいない。(だが、嫌ってもいない、というニュアンス)
「あなたを真に恐れさせているのは、攻撃への欲求ではない。」
自我を抱いている私たちは、必然的に攻撃欲求を持たざるを得ません。
ですが、この攻撃してしまいたくなる衝動を私たちが恐れている、嫌がっているのではない、そこが真の問題ではないということを言わんとしています。
あなたは自分の敵意に深刻に悩まされてはいない。
「自分の敵意」、これは前文であった攻撃欲求ですね。 攻撃してしまいたくなる衝動です。 このことが問題として悩んでいるわけではないということですね。
あなたはそれが覆っているもののほうをもっと恐れているがゆえに、それを隠しておくのである。
「それが覆っているもののほうを」、攻撃欲求が覆っているもののほう、すなわち攻撃欲求がなければ顕になるもの、それは、救われること、神の愛です。
なんと私たちは救われることを恐れていて、それを見ないように、気づかないようにしているということです。
自我なくしては、もっと恐ろしい何かを自分の中に見出すことになると信じていなければ、あなたは自我の最も深い闇に覆われた隅石でさえ、恐れずに正視できただろう。
むしろこの自我がなければ、もっと恐ろしい何かを自分の中に見出すことになると信じているということです。
その自分の中に見出すことになるもっと恐ろしい何か、すなわち救いや神の愛を見出すことに恐怖を感じていなければ、すぐにでも闇である罪を正視することができるのに、ということです。
あなたは実際には十字架刑を恐れているのではない。 あなたの真の恐怖は、救いに対する恐怖である。
ここで言う「十字架刑」とは、イエスが受けた十字架刑といった具体的な刑罰のことではなく、自我の想念からくるあらゆる嫌な出来事のことを指しています。
自我の想念は攻撃への欲求を抱きますから、それにより問題を生み出し、あらゆる嫌な出来事を引き出すということです。
ですので前の文章にある、攻撃への欲求のことを指しています。
つまり、「あなたは、その攻撃欲求からくるあらゆる嫌な出来事を好まないものの嫌がっているわけではない、恐れているわけではない。 あなたの真の恐怖、最も忌み嫌っている、遠ざけたがっているものは、救いに対する恐怖である。」というわけです。
なんと、自我よりも、嫌な出来事よりも、救われることのほうが深層心理では嫌がっているだなんて!
そのことにさらに言及しているのが以下の部分です。
自我の土台よりもさらに深いところにあって、常にそれよりも強きものであり続けるのが、神に対してあなたが抱いている激しく燃えるような愛であり、神からあなたへの同様の愛である。 これが、あなたが真に隠しておきたいものである。
奇跡講座テキスト 第13章 三 救いに対する恐れ 2. より
つまり、私たちは激しく燃えるような愛で神を、救いを愛しているということです。
ではそれならなぜ、それを嫌がっている、恐れているというのでしょうか。
神の愛をそれほどに恐れる真の理由は、「自分はダメだ」と自覚したくないから
次の引用を見て下さい。
あなたは愛から弱さを連想し、憎しみから強さを連想する。 だからあなたには、自分自身の真の力が自分の真の弱さのように見える。 というのは、愛の呼びかけを聞いてしまったなら、もはやそれに対して自分が大喜びで応答することを抑制できなくなるからであり、自分で作り出したと思っていた世界がまるごと消えることになるからである。
奇跡講座テキスト 第13章 三 救いに対する恐れ 3. より
あなたは、神が破壊することになるような世界を自分が作り出したと思っている。 また、神を愛するなら、それにより自分はこの世界を捨て去ることになるとも思っている。 そしてあなたは本当は神を愛しており、世界を捨て去りたいのである。 それゆえに、あなたは自分の愛を覆い隠すために、世界を使ってきた。 そして、自我の土台の暗闇に深く入っていけばいくほど、そこに隠されている愛にますます接近することになる。 そしてあなたを怯えさせているのはこのことなのである。
奇跡講座テキスト 第13章 三 救いに対する恐れ 4. より
どうでしょう。 私たちが真に恐れている、怯えているのは、神の愛によって、自分自身の弱さを目の当たりにすることなのです。
当然、神よりも自我を抱く自分のほうが弱いのは明らかなのですが、なぜか自らの弱さを自覚することはどうしても耐えられないとうことです。
神を激しく愛しているにもかかわらず、そのことによって自らの弱さを自覚してしまうことになるので、それだけはどうしても避けたいというのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。
自らの弱さを自覚したくない、すなわち「自分はダメな存在である」ということを自覚したくない、ということです。
「自覚したくない」ということは、「自分はダメな存在である」と自らどこかで薄々そのように考えているということでもあります。
これって、「自分はダメじゃないもん!」と駄々をこねている小さい子供みたいですね。
ですが、これで少し謎が解けました。
何か問題が起こると相手や外側へすぐ投影してしまう理由です。
「相手が間違っている! 自分は間違っていない!」
赦しを行なうためには、「相手でなく、自分こそが間違っている。」と見る必要がどうしてもあるのですが、これがとてつもなく難しい理由だとすれば、すごく納得のいく話です。
さらには、ここでは言及されていませんが、暗に、「もし神の愛が違っていたら、救いが本当は約束されていたものでなかったら、どうしよう。」という、神への不信もこの「恐れを恐れていない」に内在しているとも考えられます。
これらは赦しが難しい理由のうちの一つですが、参考になれば幸いです。
ということで、赦しが難しい本当の理由は「自分こそが間違っていると認めたくない」からでした。