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ワークブックのレッスン185の主題概念はこうである。
レッスン185 主題概念:私は神の平安を望む。
これは単に「平安を望む」ということではない。 単に平安を望むということであれば、「心安らかになりたい」であろう。 もっと簡単に言えば「幸せになりたい」である。
だが、ここでは「神の平安」である。
「神の平安を望む」ということは、本来の自分(実相)に戻したいということであり、すなわち「贖罪を望む」ということである。
この「贖罪」は、赦すことによって誤った知覚を訂正することで達成され、そのためには前回の記事に記した通り「真に知る」ことが必要とされる。
つまり、レッスン185の主題概念は、「私は真に知ることを意志する。」と同じ意味である。
そしてこの言葉をいくら繰り返したところで意味はなく、「本気でそうする」と、いつ焦点が定まるかが勝負となる。
「まだ本気ではない」。 これが赦しが行える者が少ない理由だ。
この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。 しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。
奇跡講座ワークブック レッスン185 私は神の平安を望む。 1. より
多くの者がこの言葉を口にした。 しかし、それを本気で言った者はほとんどいなかった。 こうした者たちがいかに少ないかを確かめたければ、あなたの周りに見える世界を眺めさえすればよい。
奇跡講座ワークブック レッスン185 私は神の平安を望む。 2. より
焦点を定めるためのワークブックでの手法
そしてワークブックの手法は秀逸である。
レッスン185の演習である、その日の練習にそれが見られる。
(これは当方の【初級編】サポートクラスで「赦し以前の準備」として支援していることでもある。)
ワークブックでは、そもそも私たちがまだ「神の平安」だけを望んではいないことを見抜いている。
つまり、「神の平安」よりも優先される「望み」をあなたはまだ抱いているということが前提となって演習が組まれている。
「望み」とは夢、つまり幻想をあなたは「神の平安」よりも大事にしているということ。
あなたは本当のところ、心の中では何を望んでいるのだろうか?
「神の平安を望む」と口に出して連呼したり、「真に知りたい」と思い込もうとするのではなく、自分の心の中にある考えを慎重に探していくことで、実際に胸のうちに抱いている望みが何なのかに気づきなさい、それを暴きなさい、明確に認識しなさいという演習である。
そして、見つけたその望みに対して「本当にそれが真に自分の望んでいることなのか」と問うことを要求している。
これをせずして「私は神の平安を望む」と宣言したところで、それは「神の平安」を選択したことにはならず、「あなたは思い違いをしている」とレッスンでは指摘している。
さらには「これについては妥協を許さない」という固い神の意志が添えられている。
以下、レッスン185より引用。
今日の練習では、あなたが依然として大切にしている夢を探し出すために、心の中を念入りに検索する。 胸の中で、あなたは何を求めているのだろうか。 願いを立てるときに自分が使う言葉のことは忘れなさい。 何が自分に慰めと幸福をもたらすと信じているのかだけを、よく考えなさい。 しかしいまだに残っている幻想を目にしても狼狽してはならない。 今や問題となるのはそれらの形ではないからである。 また、恥や秘密はほかの夢に押しつけて、いくつかの夢だけを許容できるものとしてはならない。 それらは同一のものである。 そして同一であるから、その全部に対し、一つの問いが問われなければならない。 「これが、天国や神の平安のかわりに、私が望んでいるものだろうか」と。
これがあなたが行う選択である。 そうではないという思い違いをしてはならない。 ここではいかなる妥協も不可能である。 神の平安を選ぶのでなければ、夢を求めたということになる。
奇跡講座ワークブック レッスン185 私は神の平安を望む。 8.-9. より
平安を求める願望が真のものであるとき
あなたが本気で赦すと決めたとき、本気で神の平安を望んだとき、目の前にある他者との関係がまさに平安を見出す手段となっていることに気づくだろう。 そうなるまであなたは気づけない。 このレッスンではそのように指摘している。
平安を求める願望が真のものであるとき、平安を見出す手段は、それを誠実に探し求めるそれぞれの心が理解できる形で与えられる。 彼が真摯に求めているなら、レッスンはどのような形をとるにしても、彼が見間違うことのない形で計画されている。 しかし、もし彼が真摯に求めないなら、そのレッスンが受け入れられ真に学ばれる形は存在しない。
奇跡講座ワークブック レッスン185 私は神の平安を望む。 6. より
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