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赦しに必要な閃光、強烈な動機、ささやかな意欲の正体とは

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 前回の記事で、まず本気で自分の心の声に耳を傾けたい、聞きたい、その声に従いたいという意志が芽生えてこないと始まらないと説いた。

 

自分を愛したいという思い、自分への慈悲の心の発露、閃光、強烈な動機、ささやかな意欲。

 

 だがこれらは今の自我と同一化している私たちにはどうすることもできず(つまり頭で考えてどうこうできるものではなく)、重くのしかかっている自我の層を突き破って魂からの発露がどうしても必要とも言った。

 

 この思いの発露、閃光、強烈な動機、ささやかな意欲の正体とはいったい何だろうか。

 

 既存のリーダーシップ論に考察を加え紐解いていく。

 

 

 <参考図書>

 

 

すべては欲の強さ

 すべては欲の強さ。

 欲求の強さとしてもいいだろう。

 

 

それはどうしても成し遂げたいという思い

「目的・ゴール・夢・ヴィジョン・理想・願い・望み・願望」への情熱=【欲】

欲(欲求)には2つある

「欲望」か「魂の願い」か

その奥に自分が居るのか(自我、獲得思考)、居ないのか(私心がない、無私、純粋思考、つまり肉体と同一視していない)

 

 

 

自らを肉体と同一視することを選択しない者であれば、聖霊の開放と希望のメッセージが聞こえないということはありえない。

 

 奇跡講座テキスト 『奇跡講座』まえがき   ◆◆◆教義 (P.22) より

 

 

 

 

 

期待なく取り組むの意味

 この私心の無い純粋な思い。 魂の願い。

 最終の結果がそうなろうがならなかろうが、どっちでもいい。 私はただそうしたい。 とにかく自分にそうしてあげたい、させてあげたい。 そしてそれをやる。 これが期待なく取り組むの意味。

 

 

欲求不満が爆発するほどの「追い込まれた状況」が思いを生み出す

 

 

 

幽閉された意志は、その極限においては、まったく耐えられなくなるような状況を生み出す。 苦痛に対する許容度は、高くなることはあっても限界のないものではない。 いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道が必ずあるはずだと認識し始める。 この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。 これが究極的には霊的な心眼ヴィジョンを再び目覚めさせ、同時に肉眼の視覚の重視を弱める。 この二つのレベルの知覚が交互に重視されるとき、それは通常、葛藤として経験され、しかも、きわめて熾烈な葛藤となり得る。 しかしそれが行き着く結果は、と同じく確実である。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  三 神の祭壇  3. より

 

 

 

 

自分の惨めさのすべてを見て、自分の計画が失敗したことを自覚し、これからも永遠にそれがいかなる平安も喜びももたらせないと自覚することを通してでなければ、どうしてあなたにその準備が整うだろうか。 今あなたは、この絶望の中を通り抜ける旅をしているが、それは絶望という幻想にすぎない。 特別性の死はあなたの死ではなく、永遠の命へとあなたが目覚めることである。 あなたはただ、自分の本性についての幻想の中から抜け出て、が創造したままの自分自身を受け入れるだけである。

 

 奇跡講座テキスト  第24章  二 特別性の背信  14. より

 

 

 

 

 

あなたがどうしても成し遂げたいことは何か

情熱を傾ける先が今まだ赦しでないかもしれない。本心に従うことが重要。それが真の自己愛。自分を愛することは自分の本心に耳を傾けることだから

 自分の本心に従い、したいことをする。 自分にそれをさせてあげる。 その許可を出す。

 そしてそのことに邁進する。

 

「一番大切なのは、心の声や直感に従う勇気を持つこと。」

❞And most important, have the courage to follow your heart and intuition.❞

 

 こう言ったのはかのスティーブ・ジョブズだ。

 

 それに従った結果、彼のように外側に表現を求めていく人もいる。

 それを内側の変革に求めていく人もいる。

 

 自分のやりたいことに取り組むことは幸せだ。 それがなんであろうと。 だがいずれは「まだ何かがある」というかすかに満たされない何かを感じる。

 

 それはすべての人間には内奥に「への帰還」すなわち「との分離の解除」という魂の望みが内在するから。

 

 そしていずれは究極の自己救済である赦しを本気で目指すようになる。

 

 それが準備が整ったということ。 ゴールが定まったということ。

 

 

赦しに関しては、もうこれ以上、自分を苦しませたままにしたくないという思い

本気で自分を救ってあげたい、なんとかしたい、なんとかしてあげたい、つまり自己救済への思い

真の自己救済の方法は「赦し」

もし真に自己救済を望むなら、つまり赦しを選択するなら準備が整ったということ

あなたはどうしたいのか、目的は何か、それは何のためのものか

 

 

 

あなたが確信を持てない状況にいるときにまず最初に考慮すべきことは、端的に言えば、「私はここから何を望んでいるのか。 それは何のための・・・傍点)ものか」ということである。 ゴールを明確にすることが最初にすべきことである。 それが、結果を決定するからである。

 

 奇跡講座テキスト 第17章  六 ゴールの設定  2. より

 

 

 

 

しかし、これらの陽動作戦を展開する者たちによって決して尋ねられることのない一つの問いは、「それは何のためのものか」というものである。 これこそが、すべてのことに関連してあなたが・・・・傍点)尋ねることを学ぶべき質問である。 その目的は何なのか。 どのような目的であろうと、それが自動的にあなたの努力を方向づけることになる。 あなたが目的について決定するなら、そのとき、あなたは自分の将来の努力についての決定をしたことになる。 それは、あなたの心を変えない限り効力をもち続ける決定である。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  五 「自我と肉体」という幻想  6. より

 

 

 

 

ゴールは明確だが、今あなたは、それを達成するための具体的な方法を必要としている。 それをどれだけ速やかに達成できるかは、一つのことのみにかかっている。 すなわち、一つひとつのステップを練習するあなたの意欲である。

 

 奇跡講座テキスト  第30章  序   1. より

 

 

 

 

 

準備と意欲

 

 

 

奇跡を行う機会は私が用意するが、あなたにその準備と意欲がなければならない。

 

奇跡講座テキスト 第1章  三 贖罪と奇跡  1. より

 

 

 

 

聖なる瞬間は、神聖であろうとするあなたの決意がもたらす結果である。 それは答え・・傍点)である。 それを来させたいという欲求と意欲が、その訪れに先行する。 あなたがそのために行う心の準備は、自分が何にもましてそれを望むと認識するところまでである。 あなたがそれ以上何かをする必要はない。 実際、あなたにはそれ以上は何もできないと悟ることが必要である。

 

 奇跡講座テキスト  第18章  四 ささやかな意欲  1. より

 

 

 

 

準備が整った状態についてはすでに簡単に述べたが、ここで、いくつかの点を補足することが役に立つかもしれない。 準備が整った状態とは、達成のための必要条件にすぎない。 この二つは混同されてはならない。 準備が整った状態が生じたら、すぐにも達成したいという欲求が、ある程度生じるのが普通だが、それは必ずしも一筋にそれだけを望むという欲求ではない。 準備が整った状態とは、心の変化の可能性以上のものを示唆しているわけではない。 すでに私たちは、恐れの制御に熟達できると思い込むという根本的な誤りを訂正するよう試み、また、唯一の真の熟達とは、ただ愛によるものだと強調しておいた。 準備が整った状態とは、自信のはじまりにすぎない。 準備が整った状態から熟達までには途方もなく長い時間が必要だと示唆されているように、あなたは思うかもしれないが、時間と空間は私の支配下にあるということを、思い出してほしい。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  七 原因と結果  7. より

 

 

 

 

注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。 私たちは互いから何も隠してはならないのだから、あなたはこの点について自分自身に非常に正直にならなければならない。 あなたがこれを行おうと真に努力するなら、あなたは聖なる存在ものが入ってこられるように自分の心を準備する最初のステップを踏み出したことになる。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  三 葛藤のない愛  8. より 

 

 

 

 

そして、もし抵抗感が強く、献身が薄いと感じられるなら、あなたにはまだ準備ができていない。 自分自身と・・・・・傍点)格闘・・傍点)しては・・・傍点)ならない・・・・傍点)。 その代わりに、どのような一日を自分が望んでいるのかを考え、今日という日がまさにそのようになるための方法があるのだと、自分に言い聞かせなさい。 それから、あなたが望んでいる日が自分のものとなるように、もう一度、試みなさい。

 

 奇跡講座テキスト  第30章  一 決断のためのルール  1. より

 

 

 

 

 

もし本気なら「自分はほんとうはどうしたいのか」という本心への問いかけが始まる

「自分はほんとうのところ本当はどうしたいのか」

 

 もちろん本気でなくても本気であってもこの問いかけは始められる。

 ほとんどの場合、それが本気かどうかなど気にかけられることなく問いかけはスタートされる。

 

もちろんどちらでもいい。

 

 とにかく「自分の本心が聞きたい」。 もし真摯な態度で臨んでいるのであれば、それはいずれ答えられるだろう。

 

 そうでない場合は、答えが得られないか、その前に問いかけ自体を辞めてしまうだろう。

 

 あるいは頭で考えた答えを答えだとしてそれに取り組むかもしれない。

 

 その場合も結果が答えになっている(望む結果ではないものとなる)ので、誤りに気づくだろう。(すぐには気づかないかもしれないが、その場合は何度も似たような状況を繰り返すことによっていずれは何かに気づくだろう。)

 

 

結論。自分の人生を本気で生きるということ。その覚悟の表れ

 結局のところ、「この自分は本当のところどうしたいのか」これが本心に寄り添う真摯な問いかけになるには、つまり本心の声を聞くことができるのは、「自分の人生を本気で生きる」(つまりは自分を愛すること)という決定的覚悟に帰着すると私は考える。

 

 まだ本気で生きると覚悟が決まっていない人も、結局のところそれもプロセスであり、いずれは人生を通して覚悟が決まるようになっていると見える。(今世ではないかもしれないが)

 

 

 

 次の記事では私のやっている赦しの実践方法、幻想直視について書きたいと思う。