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『とある神秘家との結婚』を読んで

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コース学習を始めたばかりの人が書いた赦しの実践録

 『奇跡のコース(奇跡講座)』の学習を始めて間もない女性(著者カースティン)が3年ほどの間(2004年春~2007年夏)に経験したことを記した本。

  二度の運動中(マウンテンバイクとスキー)の死に直面するような大事故を経て人生を見つめ直し、「A Course in Miracles(奇跡のコース)」に出会い学習者になる。

 

 怪我から回復中の彼女が「とある神秘家」を囲む夕食会に招待され、彼のリトリートに参加する。

 「とある神秘家」とは、アメリカの人気ACIM教師デイヴィッド・ホフマイスター氏。

 そんな彼と「ピースハウス」で同居からのスピード婚、2年で離婚した彼女がその間に起きた出来事を赤裸々に記している。

 

 この本で特筆すべきなのは「ジャーナリング(問答日記)」という聖霊からのメッセージとされるアドバイスを彼女は受け取っていて、それをシェアしている。

 

 

 

初心者が陥りやすいワナを見事表現

 初心者が陥りやすいワナを彼女自らの体験をもとに展開してくれている。

 ただ読むだけでは分からないが、以下のポイントに注意して読み進めることで、大いに参考になると思う。

 

 

 

聖霊はこのように現れるわけではない

 この本の特徴である「ジャーナリング(問答日記)」という聖霊からのメッセージとされるアドバイスについてだが、少し注意が必要。

 

 

それは、コースを始めた人がこの本を読むことで「聖霊はこのように現れる」と誤解してしまう点。

 

 

 あくまでもこれは彼女に起こったことであり、誰にでも起こり得る普遍的なものではない。 むしろ特別なケースだと考えた方がいいと思う。

 

 また、彼女は「ホーリースピリット」と言っているが、これは「聖霊そのもの・・・・傍点)ではない。 ワプニック氏もこれは聖霊ではないと言うだろう。 私も聖霊ではないと思う。 「聖霊の思考を持つ存在」からのものであるとは言える。 とはいえ、この「ジャーナリング」に記述されたメッセージは有益

 

 

 

 ただし少なくとも一ヶ所は、聖霊のものではないと思えるものがある。 聖霊は「どうしたらいいか」には答えない(文中のホーリースピリット自身も「具体的なことは、エゴのもの」P.324と説明している)にもかかわらず、それに答えている以下の部分。

 

コースの集まりで教える役割から退いてもいいかどうかというカースティンの問いに対して、「ホーリースピリット:今なら退いてよいですよ。」(P.338)

 

 

 文脈上の影響はない。 

 

 

 

聖霊への渡し方が分かっていない

 全編を通して「ホーリースピリット」から何度も繰り返し、「あなたの恐れを聖霊に渡してください」 「聖霊を信頼してください」と彼女は言われている。

 

 彼女自身がこの時点でコース学習者としてまだ浅いがゆえのことだが、これほどまでに言われ続けているのを見る限り、彼女自身、おそらく聖霊への渡し方、つまり恐れの手放し方(幻想直視)がちゃんとできていない、あるいは幻想直視のやり方自体を知らないために聖霊へ渡せていないように見える。

 

 

 

「どうしたら」という導きを求めるシーンが多い

 これも初心者によくあることだが、形態レベルの「どうしたら」を聖霊に求めるシーンが各所に見受けられる。

 

 そして「ホーリースピリット」から、 「どうすれば?という心配は、手放してください」と言われている。

 

 以下はそのいくつかから引用。

 

 

 

ホーリースピリット:「誰が、何を、いつ、どこで、なぜ」と質問して時間を費やす代わりに、このすべては捏造されたものであるという単純な事実をただ受け入れてみてください。 それほどシンプルなことなのです。 あなたは、自分が見るすべてのもの ―あなた自身、あなたの周りにいるすべての人― に役割やアイデンティティを与えています。 このことについてのあなたの考えをすべて私に渡してください。 そうすれば、私はあなたのために、それらを解釈し直しましょう。

 

 『とある神秘家との結婚』カースティン・バクストン(著) 第八章  闇から 光へ運ばれて(P.142) より

 

 

 

ホーリースピリット:分離、罪悪感、恐れの強烈な感覚が含まれるとき、決断は大変なことのように感じられます。  (中略) あなたは「自分は何をするべき?」と聞きました。 はい、あなたの恐れ、疑い、そして罪悪感を含むあなたの考えを、私に渡してください。 私の導きに耳を傾け、すべては良きことのために一体となって働くということを信頼してください。 エゴは、スクリーン上の物事を変えるために行動したがります。 しかし、問題の原因が罪悪感であるとき、形をいじくり回すことが解決につながるでしょうか? 問題はマインドのレベルにあるのです。 罪悪感を手放してください。 そうすれば、解決しなければならない問題など、何もないことにあなたは気づくでしょう。

 

 『とある神秘家との結婚』カースティン・バクストン(著) 第十七章  幽閉 対 自由(P.312-P.313) より

 

 

 

ホーリースピリット:具体的なことは、エゴのものです。 私は、今この瞬間のあなたのマインドの状態ー あなたの幸福 ーだけに関心があります。 具体的なことにあなた自身を縛りつけると、今この瞬間の喜びへの気づきをブロックしてしまいます。

 

 『とある神秘家との結婚』カースティン・バクストン(著) 第十八章  二つの世界の衝突(P.324) より

 

 

 

ホーリースピリット:あなたに必要なものは提供されます。 「どうすれば?」という心配は、手放してください。 私がその「どうすれば」なのです。 私が、あなたがどこにいればいいか導きます。 あなたがサポートを受けられる場所や状況へ、私が導きます。 あなたは、今この瞬間にもサポートされています。

 

 『とある神秘家との結婚』カースティン・バクストン(著) 第十八章  二つの世界の衝突(P.339) より

 

 

 

ホーリースピリット:時間と空間に自らが縛られていると信じている「私」とは誰のことでしょう?  (中略) 台本は過去です。 それは遥か昔に終わりました。 私の声が、それについて湧き上がるあらゆる質問への答えです。 台本から逃れようとすることは、非リアルをリアルにしようとするもう一つの企てなのです。 キリストと同一化することが答えです。 そのとき、台本というアイデアは消えてなくなります。 真理の中に溶けてなくなるのです。

 

 『とある神秘家との結婚』 カースティン・バクストン(著) 第二十五章 台本はすでに書かれている(P.444-P.445) より

 

 

 

 

 

参考記事:聖霊は行動を導くのか、導かないのか

 

 

 

ここで一つの疑問

 カースティン自身がコース学習を始めてまだ間もないことを考慮しても、かの有名なデイヴィッド・ホフマイスター氏を夫に持ち、同じ屋根の下で暮らし、四六時中彼に付いて各地の「コースの集まり」に同席しているのを見る限り、おそらく「赦しのやり方」について夫デイヴィッドから何かしらのレクチャーを受けているはずだし、彼が誤ったことを教えているとも思えない。 とはいえ、彼を師事する日本人ACIM教師に「赦しでもなんでもすべて聖霊に聞く」派が多い印象も受ける。 デイヴィッド自身が「なんでも聖霊に聞く」ことを推奨しているのだろうか?

 

 彼の著書『覚醒へのレッスン ―「奇跡のコース」を通して目覚める』を読む限り、そのような箇所は見出せなかった。 (YouTubeにも彼の動画が上がっているようだが、そちらは未確認。)

 

 (このカースティンの本のエピソードが15年前のものであり、デイヴィッド自身、当時そこまでの教えが出来ていなかった可能性もある。 現在のデイヴィッド自身のコースに対する理解がそうだという訳ではない。)

 

 

 

「決断の主体」はあなたである。それ自体を聖霊や神に委ねないこと

 彼女自身、「私は、自分が神秘主義に人生をささげるために生まれたと分かっていました。」(P.101)とあるように、コースへのコミットはされていると思う。

 

 だからと言って、「さあ、ここからは自分ではなく聖霊を権威にして何でも聖霊に聞こう、聖霊に委ねよう、丸投げしよう」とやってしまったのでは元も子もない。

 

 

それは明け渡しではない。 放棄・・傍点)でしかない。

 

 

 

自分自身を否定しておきながら、すでに与えられていて自分が受け取っているものを認識することは不可能である。

 

 奇跡講座テキスト 第17章  五 癒された関係  13. より

 

 

 

 

 「自分は何も知らない」を「自分は取るに足らない弱い人間だから聖霊に教えてもらう必要がある」と取り違えると大変なことになる。 (「何も知らない」は、真の救済・・・・傍点)において・・・・傍点)私は何も知らない」ということであり、あらゆることにおいて私は何も知らないということではない!)

 

 

 

自分が傷つきやすく弱いものだという感覚をもっている間は、あなたは奇跡を行おうとすべきではない。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  五 奇跡を行う者の機能  2. よ 

 

 

 

 

彼女からはその印象が拭えない。

 

そして、「自分に聞く」ということを辞めてしまっている印象を受ける。

 

 

 「自分に聞く」という”自分”は、当然のことながら「本当の自分」のこと。 あなた自身の本心に耳を傾けるということ。 本心がどう言っているのかを聞くということ。

 

 

「本当のあなた」は、あなたの実相であり、神の子であり、実在である。

 

 

 聖霊を権威にするのではない。 を権威にするのでもない。 ましてや霊能者や占い師を権威にすることなどありえない。

 もちろん、「自我と同一化してしまっている自分」を権威にするのでもない。

 

 

神の子であるあなた自身・・・・・傍点)を権威にする。

 

 

 決断の主体にあなた自身が立つことなく、その場所を聖霊に丸投げすることは明け渡しでなく権限放棄であり、決断の主体のポジションを空席のままにしてしまっている。 (当然のことながら、恐れからその場所に立つことはできない。) 

 

 

あくまでも決断の責任者はあなた自身

 

 

 

あなた自身の意志の他に、あなたを導くに充分に強く、充分にふさわしい力はない。 この点において、あなたはと同じく自由であり、また必ず永遠にかくあり続ける。

 

奇跡講座テキスト 第4章  三 葛藤のない愛  6. より

 

 

 

 

 つまり、たえず「ほんとうの自分の意志」をあなたが決断の主体となって確認する必要がある。 (本心と乖離していては赦しは出来ない。 自分の本心がどうしたいと言っているのか、ほんとうに赦したいと言っているのか。 本心を聞いたあなた自身が決断の主体として赦しを選択するとなって初めて、赦しのプロセス上自分で救済方法を決めず聖霊に委ねることを選択することになる。 それが自我を権威にせず聖霊を権威にするということ。 本心との調和なく盲目的に赦しをやっても意味をなさない。)

 

 

自分の本心」に耳を傾けることは、「ほんとうの自分」を信頼するということであり、「ほんとうの自分」を愛することによってそれは発揮される。

 

 

自分を愛すると決意してそれは行える。

 

自分を愛する決断なくしてそれは不可能である。

 

 

あなたは自分で自分を本気で愛すると覚悟が決まっているだろうか。

 

 

決断できていれば、必然的に「ほんとうの自分」に耳を傾けることになる。

 

 

「ほんとうの自分」を無視するのであれば、パニックにならないまでも不調に終わる。

 

 

 

実在しているものを拒否しようとする試みはどれも、恐ろしいものとならざるを得ない。 そして、その試みが強硬であるなら、パニックを引き起こす。 実相に逆らって意志するということは不可能だが、それが、自分で望んではいないのに極めて執拗に追及されるゴールとなることはある。 しかし、この奇妙な決断の結果をよく考えてみなさい。 あなたは自分が望んでいないものに心を捧げているのである。 このような献身に、いったいどれほどの実在性があるだろうか。

 

 奇跡講座テキスト 第9章  一 実相の受容  12. より

 

 

 

 

 「自分に聞く」という”自分”は「自我の自分」の場合もあれば、「本当の自分」の場合もある。 「本当の自分に聞く」ことが重要だが、最初はその区別は難しい。 「自我の自分」に聞いてしまうこともあるだろう。 区別がつかないうちはそれで構わない。

 

 なぜそれで構わないと言えるのか。

 「自我の自分」に耳を傾けてしまっていた場合でも、聖霊が常にサポートしてくれている。 それは、「うまくいかない」という結果によって。 あなたの心にネガティブな感情でフィードバックしてくれる。 これにより「自我の自分」に耳を傾けてしまっていることに気がつける。 それにより耳を傾ける先が誤っていることが分かり、修正することが可能になる。

 

 

 

自分を愛することは癒すこと。 癒すことは赦すこと究極の自己愛は最終的には赦しを行うことになる。

 

 

 

自分を愛することは、自分を癒すことである。

 

 奇跡講座テキスト 第11章  八 問題と答え  11. より

 

 

 

すべての癒しは恐れを愛に置き換えることを伴うので、目覚めるという決断は、愛したいという意志の反映である。

 

 奇跡講座テキスト 第8章  九 訂正された知覚としての癒し  5. より

 

 

 

 

 

 

聖霊に丸投げせず、きちんと「恐れ」を明確にする

 赦しにおいては聖霊に丸投げするのではなく、「恐れ」を聖霊に渡すということ。

 

 

 この本にもそう書かれている。

 

「あなたの恐れ、疑い、そして罪悪感を含むあなたの考えを、私に渡してください。」(P.312-P.313)

 

 

 つまり、何が自分にとっての「恐れ」なのか。 これを事前に自分自身とよくすり合わせて特定しておく必要がある。

 

 

 

 これは赦しのプロセス。

 これを彼女を含め、ほとんどの人がやっていない印象を受ける。

 

 

 結局のところ、「自己対話」が絶対に必要。 静かにして、自分の内に向き合う作業を避けては通れない。

 

 

 

結局この結婚は何だったのか

 カースティン本人にこの認識があるか分からないが、彼女の結婚は私はこう見る。

 

「アルゼンチンの田舎で開催した二度目の集まりのあと、私の苛立ちはピークに達していました。 私はまるで、この神秘家のアクセサリーみたいだわ。 その神秘家はデイヴィッドよ。 みんなが聞きたがっているのは彼の話。 私はまるで彼のかばんのように、ただ椅子に座っているだけなのよ。」(P.71)

 

「今回は、復讐心が伴っていました。 アルゼンチンで感じた、私はこの神秘家のアクセサリーでしかないんだわという経験と同じでしたが、今回はもっと強烈でした。 どの集まりでも始まって少しすると、私はイライラしはじめ、自分は十分に活用されていないと感じました。」(P.422)

 

 

 

 ここに見られるとおり、「私はこの神秘家のアクセサリーでしかない」という彼女のフレーズ。 まさにこれは「相手は鏡」という視点から見れば一目瞭然。

 

 つまり、彼女自身こそが・・・傍点)デイヴィッドのことをアクセサリーとして見ていた」ということ。 「彼を手に入れる(デイヴィッドと結婚する)ことで、一人前のスピリチュアルワーカーとして見てもらえる」という期待があったのかもしれない。 また「自分は十分に活用されていない」についても、デイヴィッドからすればカースティンに十分に活用されていないという状況を反映している。

 

 

 以下、「相手は鏡」に関するテキストからの引用。

 

 

 

知覚が続いている間は、あなたの兄弟は、あなたに自分自身の姿を映し出してくれる鏡である。 そして、知覚は、一なる子が自らを全一なるものとして知るときまで続いていく。 あなたが知覚を作り出したのであり、それはあなたがそれを望んでいる間は続いていかざるを得ない。

 

 奇跡講座テキスト 第7章  七 神の国の全体性  3. より

 

 

 

彼はあなた自身の鏡であり、あなたはそこに、自分たち二人に対して自らが下した審判を見る。 あなたの中のキリストは、彼の聖性を見る。 あなたの特別性は、彼の肉体を見て、彼を見ることはない。

 

 奇跡講座テキスト  第24章  六 恐れからの救済  8. より

 

 

 

裁きの剣とは、あなたが自分自身の幻想に与える武器であり、兄弟を切り離しておく空間を愛に満たされないまま維持しようとして戦うためのものである。 しかし、この剣を握っている間は、あなたは肉体を自分自身であると知覚せざるを得ない。 なぜなら、彼は彼であるものについての別な見方を、すなわちあなたであるはずのものを映し出す鏡を掲げているので、あなたは彼を見ずにいられるように、必ず分離したくなるからである。

 

 奇跡講座テキスト  第31章  七 救済者の心眼ヴィジョン  9. より 

 

 

 

 

 カースティン自身は、次のように問題となっている信念にたどりついている。

 

「その夜、私は遅くまで祈りました。  (中略) すぐに、私は核心となっている信念を感じることができました。 競争です。 私はデイビッドと競争していたのです!」(P.423)

 

 

 この信念にたどり着いたのなら、次に彼女がやるべきことは、「なぜこの私は、デイビッドと競争する必要があるのか。 それは何を恐れているのか?」これを特定し、その過程において聖霊に委ねる。

 

 

 

誤りとは、その正体が認識されていない幻想以外の何だろうか。

 

 奇跡講座ワークブック 第一部   レッスン107  真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。 1. より

 

 

 

幻覚はその正体が認識されたときには、消え去る。 これが癒しであり、治療法である。 幻覚を信じるのをやめなさい。 そうすれば、それらは無くなってしまう。 そしてあなたがする必要のあることはただ、自分がそれらを作り上げたのだと認識することだけである。 ひとたびあなたがこの単純な事実を受け入れ、それらに与えていた力を自分自身に取り戻すなら、あなたはそれから解放される。

 

奇跡講座テキスト  第20章  八 無罪性の心眼ヴィジョン  8. より

 

 

 

 

 

 

本のAmazonリンク、エビデンスなど

 

 

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「『『奇跡のコース』を勉強しはじめて、六ヵ月がたっていました。」(P.28)

「ある夜、デイヴィッドに、私は婚姻関係から退く必要があると告げました。 (中略) そして私は指輪を左手から右手に移したのです。」(P.356-357)

「結局のところ、私はコース学習者となって、まだ二年目だったのです!」(P.357)

「一緒に旅をして教えることはあっても、デイヴィッドと私はもはや婚姻関係のパートナーではないことが明らかになりました。」(P.415)

「デイヴィッドは、この二年間ずっと私と一緒にいてくれました。」(P.428)

「デイヴィッドと私はもう婚姻関係にありません。」(P.463)