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「自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される」のか、「投影されたものを知覚する」のか~学習者からの投稿8

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質問

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    管理人様

    お返事本当に遅くなり申し訳ありません。

    憎悪や酷いものがやって来るのではなく、やって来ているものに対してそのように感じているだけで、内なる平安があれば、憎悪や酷いものとは感じない、ということです。

    ハッとさせられました。奇跡講座の基本理論は理解したつもりでも、過去の信念に何度も戻ってしまっている自分に気づけました。ありがとうございます。


    内なる平安があれば、つまり赦しが完了し、赦すことが無くなれば、完全贖罪の到達となれば、もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります

    ありがとうございます。

    「もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります」

    これがまさに私が若い時からずっと追い求めたものです。
    改めて奇跡講座にこそ自分がずっと探し求めた答えがあると確信できます。


    自分の内にないものは投影されません。それはその通りです。(出来事には遭遇するかもしれませんが、それに自我が投影されない、ということです。)

    すごく納得いくご説明ありがとうございます。
    これまでモヤモヤしていたところがスッキリしました。

    出来事そのものには意味がない(ニュートラル)であり、その出来事に遭遇することもあるだろうが、自分の内にあるものに基づいた投影(知覚、解釈)はされない、ということですね。

    あ、違いますね。
    「投影(知覚、解釈)」ではないですね。
    またモヤモヤしてしまいましたが、投影と知覚の解釈が未だにスッキリしていないかもしれません。

    自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される

    のか

    投影されたものを知覚する

    のか

    ふたつとも違うのか

    かなり基本的な部分かもしれませんが、投影と知覚について改めて教えて頂けないでしょうか。


    この「脅かされる」体験を生み出すための最適な環境を常に聖霊が用意しています。
    >これが「偶然はない」と言われる所存です。

    上記は

    「偶然はない」というのは幻想世界で遭遇する出来事すべては聖霊が用意するものであり、なにひとつ偶然はなく、いわゆる「不慮の事態」と呼ばれるものも必然であり、敢えて自我的なポジティブな言い回しをすれば、自分の目覚めに不必要な「不幸」なるものには一切遭遇しない。

    このような理解でよろしいでしょうか?

    質問が多岐に渡りすいません。
    また宜しければご回答頂ければ幸いです。
    よろしくお願い致します。 

回答

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    戻りました。回答しますね。
    まずは投影と知覚について、です。

    投影とは、自分の中の罪悪感を解消するために、外側つまり他者のせいにすることを言います。 自分の問題を人のせいにして自分の問題に向き合わないようにする戦略です。これは自我による自我を存続させるための戦略です。
    (罪悪感は、自分が自分の実相(ほんとうの自分)を見誤ったことで作り出された差異による罪から生じます。)

    知覚は、起きる出来事に対する私たちの「いい、悪い」といった解釈です。 常に二元的です。
    この解釈は自分の中にある想念を元に判断されます。
    自我の誤った想念と本来の正しい想念とで、同じものを見てもまるで違った解釈、つまり正反対の知覚が生じます。


    そして、投影も知覚も別のレベルの意味があります。(これが少々混乱させる原因かもしれません。)

    この物理的世界は幻想であり、そもそも存在しません。無です。
    ありのままの自分を自身が誤認識した瞬間にこの世界が生じます。
    誤認識、すなわち赦すべきことがら(罪)に合わせて最適な物理環境が展開されます。
    (つまり、1つでも赦すべきものがあれば世界は生成され、すべて無くなれば用済みとなり消滅します。)

    ですので、誤認識つまり心の中に生じた罪を解消するためにその罪を解消するのに最適な世界が展開する、ということになります。
    ここを指して、この世界は心の反映、あるいは、この世界で赦しに使われるために生じる出来事(つまり嫌な出来事)のことを『罪の投影』と言うことがあります。


    また、あるがままの自分を誤って認識したことにより差異を『知覚する』ことで罪が生じました。この場合の「知覚」は「認識」程度の意味です。(テキストでは「知覚」を「認識」という意味で使われていることが多いです)
    誤認識がもともとの智識という一元の世界から二元の世界(つまりこの物理的世界)を生じさせます。 この二元の世界をひっくるめて『知覚の世界』と呼んだりします。
    つまり、本来の自分を誤った卑小な自分と勘違いすることで差異を認識(知覚)した、それを自分以外の外側で何とかするために投影、となります。


    ですので、ご質問の回答は、
    「自分の内にあるもの=知覚、であり、それが投影される」は、
    自分の内にある差異の認識(=差異を知覚)=罪であり、この罪から罪悪感が生じ、罪悪感を何とかするために罪が外側へ投影(他人のせいに)される、です。

    「投影されたものを知覚する」は、
    まず投影は、自分の内にあるもの(罪=差異、つまり自分の勘違いであり誤り)を見ないようにするために外側の何かや人のせいにすることでした。
    そもそも投影が生じたのは、自分の中にある差異を「知覚した」ことからでした。
    差異(罪)による自分の中の嫌な感情(罪悪感)を「知覚した」ことでそれを自我の戦略により外側の世界へ投影することで、結果、外側の出来事を見てまったく同じ嫌な感情を「知覚する」ことになります。

    結論としては、他の人との関わりや出来事を通して知覚した嫌な感情は、自分自身の中の誤認識、罪、つまり自分自身の勘違いが原因だということです。

    ですので、赦しは外側を見て感じた嫌な気持ちを人のせいにするのではなく、自分の問題だとして取り組むことを指します。


    次に、もう一つの質問への回答です。
    「「偶然はない」というのは幻想世界で遭遇する出来事すべては聖霊が用意するものであり、なにひとつ偶然はなく、いわゆる「不慮の事態」と呼ばれるものも必然であり、敢えて自我的なポジティブな言い回しをすれば、自分の目覚めに不必要な「不幸」なるものには一切遭遇しない。」このような理解でよろしいでしょうか?

    まったくその通りです。
    ただし、そのすべてが「偶然ではなかったんだ」とすんなり理解できるほど簡単なものばかりではありません。 その時点ではどう考えても必然とは思えない出来事もたくさん遭遇します。ですが、私たちがそう理解できないだけで聖霊のレベルでは必然であると考えます。(ずいぶん後から必然だったということが分かるものもあります。) そういう意味ではほとんど「信仰」のレベルですが、そう信じられなくても構わず、とりあえず「気にしない」か「そうかもしれない」程度で取り組めばいいと思います。


    他にあればまたご質問ください。

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    ご質問の「投影されたものを知覚する」についての補足追記です。 (青字は記事作成時に加筆)

    「投影されたものを知覚する」は、
    まず投影は、自分の内にあるもの(罪=差異、つまり自分の勘違いであり誤り)を見ないようにするために外側の何かや人のせいにすることでした。 (←外側の何かや人のせいにしないようにすることはできません。 差異をもつ限り外側へ自動的に投射/投影される仕組みです。)
    そもそも投影が生じたのは、自分の中にある差異を「知覚した」ことからでした。 (←ここを赦しで訂正したいのですが無意識下の判断なため直接の訂正はできず、認識すらできない部分です。)

    差異(罪)による自分の中の嫌な感情(罪悪感)を「知覚した」ことでそれを自我の戦略により外側の世界へ投影します。
    つまり、自分の内側にある問題を外側の問題としてすり替えて原因を外側に見ることで、まるで外側にある出来事が嫌な感情の原因であるかのように「知覚」します。

    この外側の出来事で生じたかに見える嫌な感情は、内側に知覚したものとまったく同じ感情です。

    結論としては、他の人との関わりや出来事を通して知覚した嫌な感情は、自分自身の中の誤認識、罪、つまり自分自身の勘違いが原因だということです。

    ですので、赦しは外側を見て感じた嫌な気持ちを人のせいにするのではなく、自分の問題だとして取り組むことを指します。

    そしてこれは、外側によって知覚した嫌な感情をたどることによって、無意識下で下した自分の誤認識による罪を見つけ訂正するための足掛かりにする、ということになります。


    以上です。

(※こちらの記事は掲示板に投稿された質問とそれに対する回答を転載したものです。)