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この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか?~学習者からの投稿7

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質問

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    管理人様     

    お言葉に甘え、また新たにつご質問させてください。

    1、この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか、を悩むときがあります。

    肉眼に映るものは自我の作り出したものであり、特別な関係であり、一切は自我の策略で騙されるものか、そのように考えると虚しく、気が滅入ることにもなります。

    気が滅入る、は、平安とは異なりますからこれは聖霊の見方ではないということでしょうか?

    第一義的なもの、真なる幸福は内なる平安であり、それ以外は幸せに似たものであり、永続性なく、いつでも憎悪や醜いものに変わる。

    これをきちんと理解した上で、五感で幸せに似たものに喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構わないのでしょうか?

    もしくはそのように感じることは幻想を強化、自我の選択になるのでしょうか?

    このあたりをどのように解釈したらよいのか、なんとなくしっくりせず、これに関する奇跡講座の該当箇所、管理人様のご見解がありましたら教えて頂ければと思います。



    2、自分の肉眼でみるものはすべて自分(この場合の「自分」は分離した迷い人)の内なる思考の投影であり、逆に言えば自分の内にないものは投影されない、人生で遭遇はしない、という理解になるのでしょうか?

    奇跡講座の赦しと異なるかもしれませんが、自分の赦しのやり方のひとつとして、相手に怒りを感じたときに、過去に自分も相手がしたことと同じことをしていないか、自分にも同じ考えやクセがないか、を考えるようにしています。

    そして思い当たることがあれば、ああこれはまさに自分の投影だと思うことができ、赦しが容易にできます。

    「神の使者」の著者も同じようなことを述べており、思い当たらないことは過去世で自分がしたことでそれを含めればすべてが自分の投影なのだ、というような趣旨の文章が彼の他の書籍にあったように記憶してます(「神の使者」の著者はJACIMでも功績は認めながらも、逸脱した部分もあると述べていますからそこは参考にすべきではないかもしれません)。


    まとめますと、

    過去世含め自分の内にないものは人生に投影されないのか

    もしくは

    『形』は関係ないため、個としての自分の過去世含めた過去の行為や思考に関係なく、無差別に原初のひとつの自我の投影が様々な形態で個々人の人生にも生じるのか

    これは奇跡講座的にはどちらの解釈になるのでしょうか? 

回答

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    迷い人さんへ、
    遅くなりました。では質問つですね。


    >1、この自我がつくった世界がみせるもの、美しいものを美しいと感じて良いのか、楽しいことを楽しいと感じてよいのか、人の優しさに感動、感謝してよいのか、を悩むときがあります。肉眼に映るものは自我の作り出したものであり、特別な関係であり、一切は自我の策略で騙されるものか、そのように考えると虚しく、気が滅入ることにもなります。

    確かに究極的には、肉眼に映るもの、つまりこの物理的世界は自我の作り出したものです。 完全に贖罪が終われば消滅します。(するようです。)

    究極的には、、ということであり、その手前の状態では、特別な関係(非神聖な関係)と特別でない関係(神聖な関係)があるように、神聖な関係としてこの世界を体験すればいい、となります。

    この世界をそのまま経験することになんら問題なく、この状況を何とかしたい、変えたいと感じなければ、つまり「嫌だ(脅かされた)」と感じなければ、そこには問題はないということです。

    経験の中でもし「嫌だ(脅かされた)」と感じるものがあるのであれば、そのとき、赦しを発動させればいいのです。(しかも赦したいと思ったとき。赦したいと思っていなければ発動しても機能しません)

    ですので、この世界がみせるものを「美しいものを美しいと感じて良く、楽しいことを楽しいと感じてよく、人の優しさに感動、感謝してよい」のです。



    >気が滅入る、は、平安とは異なりますからこれは聖霊の見方ではないということでしょうか?

    おっしゃる通りです。 聖霊の見方ではありません。



    >第一義的なもの、真なる幸福は内なる平安であり、それ以外は幸せに似たものであり、永続性なく、いつでも憎悪や醜いものに変わる。

    再度確認しておきますが、憎悪や酷いものがやって来るのではなく、やって来ているものに対してそのように感じているだけで、内なる平安があれば、憎悪や酷いものとは感じない、ということです。

    内なる平安があれば、つまり赦しが完了し、赦すことが無くなれば、完全贖罪の到達となれば、もはや外の世界はどのようなものであれ気にならなくなります。 まだ赦す必要のあるところがあれば、憎悪や醜いものとして感じられます。



    >これをきちんと理解した上で、五感で幸せに似たものに喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構わないのでしょうか?もしくはそのように感じることは幻想を強化、自我の選択になるのでしょうか?

    喜びや安らぎ、温かみを感じるのはべつに構いません。
    気を付けることがあるとすれば、その感じたことを再現しようと捉われることです。
    それは執着、つまりその状態が手に入らないと「嫌だ」という自我の策略になります。



    >これに関する奇跡講座の該当箇所、管理人様のご見解がありましたら教えて頂ければと思います。

    今回の質問自体が奇跡講座のあらゆる個所に及ぶため、シンプルにまとまってここに書かれていると今すぐ指摘することができません。 また、いくつもの箇所を総合するとこのようになる、といったものも含まれます。 それでも「ここについての該当箇所を知りたい」という場合は、直接記述がある場合とそうでない場合がありますので、その都度聞いてもらえれば回答する、ということになります。



    >2、自分の肉眼でみるものはすべて自分(この場合の「自分」は分離した迷い人)の内なる思考の投影であり、逆に言えば自分の内にないものは投影されない、人生で遭遇はしない、という理解になるのでしょうか?

    「自分の肉眼でみるもの【を通して感じるもの(知覚するもの)】はすべて」としてください。 この世界はすべて関係性を生じさせるために存在します。単独では意味はありません。

    自分の内にないものは投影されません。それはその通りです。(出来事には遭遇するかもしれませんが、それに自我が投影されない、ということです。)



    >過去世含め自分の内にないものは人生に投影されないのか

    はい、されません。自分の内にあるものが投影されます。 赦しによって取り除かれればそれ以降は自我は投影されなくなります。


    >『形』は関係ないため、個としての自分の過去世含めた過去の行為や思考に関係なく、無差別に原初のひとつの自我の投影が様々な形態で個々人の人生にも生じるのか

    「無差別に原初のひとつの自我の投影」は、おそらく次のことでしょう。
    自分自身の実相を誤認するという「原初の誤り」から「多数の自我」が生じます。
    それが様々な形態で個々人の人生に投影されることで「脅かされる」体験として経験されます。
    この「脅かされる」体験を生み出すための最適な環境を常に聖霊が用意しています。
    これが「偶然はない」と言われる所存です。

(※こちらの記事は掲示板に投稿された質問とそれに対する回答を転載したものです。)