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幼稚園バスの園児閉じ込め事件で罪悪感のかけらもない園長は聖霊の思考を選択しているのか?~学習者からの投稿4

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質問

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    管理人様

    大変遅くなりました。

    改めてご回答本当にありがとうございました。

    追加質問へのご回答につきまして

    実相と一致していれば(心が癒されていれば)黄金律に則って適切な行動が生じます
    適切な行動を取るには、まず実相とのずれを癒す必要があります。
    実相とのずれは「嫌な気持ち」として現れます。

    ありがとうございます。

    誤解釈かもしれませんが、自分としては、

    罪を犯した場合は「実相とのずれ」が生じ、「嫌な気持ち」として現れる。その「嫌な気持ち」については真の想念ではなく、幻想直視を行い、それにより幻想世界の行動としても必要であれば「反省、謝罪、懺悔」の行動が自然に表現されていく。

    このように理解を致しました。合っておりますでしょうか?

    もし合っておりましたら、ここまでは非常に納得がいきます。

    ただ、

    それはまったくの無反省かもしれません

    これはあり得るのでしょうか?ここがどうしてもひっかかります。自分は「反省、謝罪、懺悔は必要である。不要なケース、無反省でよいケースなどない」と強く思っているが故だと思います。

    自分としてはその「実相とのずれ」による「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、導かれるものと思っております。ここに自分の凝りといいますか、なにか強烈な信念があるのだと感じます。

    少し前になりますが、ニュースで幼稚園バスの園児閉じ込め事件がありました。そのときの会見による園長の態度に驚愕したのを覚えております。その園長はまったく申し訳なかったという態度や言動はなく、「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない感じでした。

    ここで思ったのは、しかし奇跡講座では罪悪感は自我であり、罪悪感を感じて泣いて反省しているようにみえる保育士の方々が自我の思考であり、幻想を深刻に捉え罪悪感を感じている。対し、園長は罪悪感なく、深刻にもなっていない。園長は聖霊の思考を選択しているのか?いや、違う、、、

    とわけがわからなくなったことがあります。このときに「やはり人間として反省、謝罪、懺悔は不可欠」と強く思ったのかもしれません。

    わたしとしては罪悪感をいつまでも持ち続けるのは間違い、しかしながらその対極として、まったく罪悪感なく無反省も同じく間違いと思っています。しかしながら奇跡講座で「まったく罪悪感なく無反省も同じく間違い」とは述べていないように思い、また迷い人になっているのだと思います。

    このあたり、なんらかアドバイス頂けますと幸いです。

    ●Q3につきまして
    ご回答いただきました内容については私も理解しているつもりでおります。

    そのうえで、なぜ「病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。」なのか?なぜ「老い」は回避されないのか?が疑問としてございます。

    神に創造されたままの私としての自覚が深まれば、それが幻想世界にも反映され、老いも含め、神にふさわしくないものは一切が投影されず、代わりに神に創造されたままの姿で、老いず、病も消滅する。これが法則として100%生じるのではないか?なぜ病にのみ限定され、かつ、その病ですらも治癒する場合もそうならない場合もあるのか?が疑問にございます。

    もちろん、幻想世界での健康や若さなど形自体は奇跡講座ではまったく重視しておらず、それと関係なしに内なる平安にフォーカスしており、そこは私もとても賛同しております。ただ、自分は完璧主義というか、思想的な矛盾が気持ち悪く感じてしまうためご質問させて頂きました。

    ここまで書いていて思いましたが、私は決して奇跡講座にケチをつけたい、なにか思想的な弱点をみつけ崩したいというわけではありませんので誤解なさらないでください(正確には私の自我がなんとか奇跡講座から切り離したいと躍起になっているということかもしれませんが、、、)

    ●Q2につきまして

    >はっきりさせておきたいのですが、迷い人さん自身がどうしたいか、つまり迷い人さんの意志が最重要です。 怒りを示したければ示すしか選択肢はありません。 自分自身が怒りを示したいのに、示さなければ自分と闘うことになります。
    >繰り替えしになりますが、迷い人さん自身がどうしたいか、が最優先です。 「聖霊のレッスンがいいから」という理由で選んでもそれは自我からの選択です。 「いい・悪い」で選択するものではありません。 そうしたいかどうか、意志の問題です。


    これは無理に教えに沿って行うことは抑圧するだけだからということでしょうか?

    わたしとしては正直な気持ち、意志としては怒りを示したいと思っています。

    しかしそれが自我の選択であり、平安から遠ざかるのならば、その意志を止めて、怒りを示さないようにしたい、(ここまで書いて思いましたが、「したい」とは思っていない自分がいます。平安よりもとにかく怒りを示したいのですね、、、、)。

    この場合、やはり、無理くりに怒りを抑圧し、聖霊の選択(怒りを示さない)をしたとしても、それはおっしゃるように結局は自我の選択になる、ということでしょうか?

    もしこれまで私が述べてきたことが正しいとするならば、長期的にはどうすればよろしいのでしょうか?「抑圧するから意志に従い怒りを示す」ことをずっと続けていてはいつまでも平安にたどり着けないのもまた事実で、それも困ると思う自分も事実おります。

    長文になり申し訳ございません。

    何卒宜しくお願い致します。

    (別件)
    セッションも行っておられることを知りました。

    他にもご相談したいこともあり、別途、是非申し込みさせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。

    本当に長くなりました。
    何卒宜しくお願い致します。 

回答

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    >罪を犯した場合は「実相とのずれ」が生じ、「嫌な気持ち」として現れる。その「嫌な気持ち」については真の想念ではなく、幻想直視を行い、それにより幻想世界の行動としても必要であれば「反省、謝罪、懺悔」の行動が自然に表現されていく。
    >このように理解を致しました。合っておりますでしょうか?

    少し気になる点があります。
    次の部分です。
     >罪を犯した場合は

    この部分を、次のように理解があれば問題ないのですが。
     >罪を犯しているので

    なぜこの箇所を指摘したか、ですが、
    文章の流れを読むと迷い人さんがここで言われている「罪」というものを、この世界で一般的に使われている「罪」として理解しているのではないか、と感じたからです。

    奇跡講座での「罪」は、実相の自分と今の自分とのずれのことです。
    私たちはすでに「ずれ」ていますので、この世界で嫌な気持ちを体験します。
    つまりすでに「罪」があるので、外の世界を見て嫌な気持ちになる、ということです。
    奇跡講座は、この「ずれ」すなわち「罪」に気づいて訂正しましょう、という教えです。
    これが赦しです。



    >それはまったくの無反省かもしれません
    >これはあり得るのでしょうか?

    無反省があり得るかどうかはわかりません。
    これは、実際に赦しによる贖罪、つまり「ずれ」の解消がなされたとき、直感的に(インスピレーションとして)何をすべきかを知るというものです。 ですので、可能性として無反省も排除しなかっただけです。 実際問題としては無反省はないかもしれませんが、今の時点ではそれは誰にも分かりません。 いわゆる神のみぞ知る、というやつですね。



    >自分としてはその「実相とのずれ」による「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、導かれるものと思っております。ここに自分の凝りといいますか、なにか強烈な信念があるのだと感じます。

    ここも気になります。
    >「嫌な気持ち」の解消のために必ず「反省、謝罪、懺悔」の行動は必須、

    「嫌な気持ち」の解消のために赦しをやるのではありません。
    また、その方法が「反省、謝罪、懺悔」の行動であることもありません。
    方法は「赦し」です。
    赦しは「反省、謝罪、懺悔」の行動ではありません。
    赦した結果、なんらかの行動が現れる、あるいは現れないということです。



    >少し前になりますが、ニュースで幼稚園バスの園児閉じ込め事件 (中略) その園長はまったく申し訳なかったという態度や言動はなく、「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない感じでした。

    この文章を見ても「罪悪感」の捉え方が奇跡講座のそれではなく、一般的な「罪悪感」の理解を迷い人さんがされているように感じます。
    園長は罪悪感が無いのではなく、罪悪感があるからこそ嫌な気持ちになり、このような言動をとったと見ます。 嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ないと思います。
    また、基本的に奇跡講座は他者の罪の分析には意味がない(むしろ危険)と言っています。 自分の罪こそが焦点です。



    >●Q3につきまして
    >ご回答いただきました内容については私も理解しているつもりでおります。
    >そのうえで、なぜ「病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。」なのか?なぜ「老い」は回避されないのか?が疑問としてございます。

    前回も申しました通り、自分の心の平安は「外の世界は関係ない」です。
    外の世界がどうであろうと私たちは神の平安をすでに受け継いで保持しています。
    奇跡講座では「世界は無い(存在しない)」とも宣言しています。
    もちろんこの幻想世界に実相世界が反映されることはすばらしいことです。
    ですが、反映していなくても赦しが完了しれば(すなわち贖罪すれば)すでに心の平安はそこにあります。
    心の平安があるからこそ、もはや反映していようとしていなかろうとどちらでもいいのです。
    実相世界の反映を気にするのは自我だけです。




    >わたしとしては正直な気持ち、意志としては怒りを示したいと思っています。

    ご自身でお気づきになられています。
    自我は、「平安から遠ざかるの・な・ら・ば」赦しを行いたい、いや行うべきだ、とよく言います。
    「平安から遠ざかることが一切なければ」赦さないのですか?
    脅かされなければ何かを選択しないのでしょうか?
    もしそうなら自我にからめとられています。
    どんなことでも「自分がどうしたい」を尊重せず、「何が正しい・正しくない」で選択しようとします。
    自我の人を咎めているのではありません。 自我とはそういうものです。 仕方がないのです。 今はそれ以外の選択肢がないのですから。
    そういう生き方を十二分に行った先に、「もういやだ!」と本気になれます。
    「正しい・正しくない、そんなの関係ねー!」とようやく本心を吐露できるようになります。




    >長期的にはどうすればよろしいのでしょうか?「抑圧するから意志に従い怒りを示す」ことをずっと続けていてはいつまでも平安にたどり着けないのもまた事実で、それも困ると思う自分も事実おります。

    迷い人さんはいいところまで来ていると思います。
    心の奥深くでどこかでこのまま怒りを示し続けてもうまくいかないと感じています。
    この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。
    それまでは悩み悶々とした揺れ動く日々を過ごすことは避けられません。
    「長期的にはどうすれば」ですが、「どうすれば」はありません。
    つまり方法はありません。
    「どうしたいか」、意志の問題です。

    真の意志によって赦しが選択されるとき、これが奇跡講座の序文にある「いつ受講するかだけがあなたの自由」の意味です。
    それまでは選択できません。
    自我からの選択は選択ではなく、無です




    以上、お答えできずにいる部分もあるかもしれませんが、基本的な回答としてご理解頂けましたらと思います。
    また疑問がありましたら追記ください。
    セッションでも対応しております。

(※こちらの記事は掲示板に投稿された質問とそれに対する回答を転載したものです。)