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質問
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管理人様
ご無沙汰しております。
以前は真摯にご回答くださりありがとうございました。
なんとか以前の疑念は克服し、またワークブックを中心に学んでおります。
新しく疑問が生じたため、ご回答くだされば幸いです。
1、赤ちゃんは自己概念AにもBにもCにも属しておらず、聖霊の選択も、自我の選択もしていないように思います。赤ちゃんのまま亡くなる場合もありますが、目覚めの機会すらないのは何故なのか?と思ってしまいます
2、怒りは自我の選択に思いますが、人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか?
3、神の創造されたままの私を自覚すれば、その反映として病気はなおる。あくまでもオマケ的な位置づけですが、奇跡講座では病気は反映として治るとされてます。
それならば、老いや様々な悲惨な状況も反映として癒やされる、幻想世界でも老いず、悲惨な状況は投影されないはずですが、敢えて病気のみはなおると限定されているのは何故でしょうか。
すいません、宜しくお願い致します。
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すいません、一部補足と訂正です。
>1、赤ちゃんは自己概念AにもBにもCにも属しておらず、聖霊の選択も、自我の選択もしていないように思います。赤ちゃんのまま亡くなる場合もありますが、目覚めの機会すらないのは何故なのか?と思ってしまいます
聖霊か自我かの選択は、結局は思考ができる年齢からであり、それは脳が行っていることを意味すると思います。結局は脳なのか?脳は自我が作り出した幻想ではないのか?とわからなくなります。
>2、怒りは自我の選択に思いますが、人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか?
甘んじて受ける、というより、舐められても自我の投影だとして、相手の聖性をみるレッスンと捉えればよいでしょうか?単に幻想世界でよい人間関係を構築するためならば怒りを示したほうがうまくいきますが、それは自我の考え、特別な関係にあたるのでしょうか。
回答
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迷い人さん、お久しぶりですね。
学習を継続されているとのこと、嬉しく思います。
さっそく疑問にお答えします。
Q1.赤ちゃんには目覚めの機会すらないのは何故でしょうか。
A.赤ちゃんにとっては関わる人たちを目覚めさせるという役割を持ってこの地上にやってきました。 その赤ちゃんにとってはそれで充分だったのでしょう。 (それで目覚めるかどうかは関わる人たち各人の選択となります。 赤ちゃんはあくまで機会の提供としての役目です)
Q1-.聖霊か自我かの選択は、結局は思考ができる年齢からですか。
A.はい、迷い人さんのおっしゃる通りです。 しかし、選択は自我と同一化している今の私たちには出来ません。 ワプニックさんも言及していますが、まずは健全な自我を育て、この私たちが考えている幸せのやり方では幸せになれないとはっきり自覚できたとき、すなわち自我を信じる自己アイデンティティが崩壊したとき、そのとき初めて真の選択が可能となります。 それまでは自我を信じる力が強すぎて聖霊の思考を選択することが私たちにはできません。 自我から選択しようとしてしまうからです。
Q2.怒りは自我の選択に思います。
A.はいそうです。
Q2-.人間関係においてきちんと怒りを示さないと舐められてしまうことが往々にしてあります。ここは甘んじて受けることが奇跡講座としては聖霊の選択をしたことになるのでしょうか?
A.はっきりさせておきたいのですが、迷い人さん自身がどうしたいか、つまり迷い人さんの意志が最重要です。 怒りを示したければ示すしか選択肢はありません。 自分自身が怒りを示したいのに、示さなければ自分と闘うことになります。
Q2--.舐められても自我の投影だとして、相手の聖性をみるレッスンと捉えればよいでしょうか?単に幻想世界でよい人間関係を構築するためならば怒りを示したほうがうまくいきますが、それは自我の考え、特別な関係にあたるのでしょうか。
A.はい。自我の考え、特別な関係にあたります。
繰り替えしになりますが、迷い人さん自身がどうしたいか、が最優先です。 「聖霊のレッスンがいいから」という理由で選んでもそれは自我からの選択です。 「いい・悪い」で選択するものではありません。 そうしたいかどうか、意志の問題です。
Q3.神の創造されたままの私を自覚すれば、その反映として病気はなおる。あくまでもオマケ的な位置づけですが、奇跡講座では病気は反映として治るとされてます。
それならば、老いや様々な悲惨な状況も反映として癒やされる、幻想世界でも老いず、悲惨な状況は投影されないはずですが、敢えて病気のみはなおると限定されているのは何故でしょうか。
A.病気が治ることもある、です。 治らない場合もあります。
癒されるのは病気ではなく、実相からずれた心が癒されるのです。
奇跡講座では外の世界とあなたの幸せ(心の平安)とは一切関係がないと言います。
外の世界がどうであれ、たとえ老いていようと悲惨に見える状況であろうとあなた自身の心の平安とは一切関係がありません。
つまり心が癒されていれば、平安であれば、老いも悲惨な状況も一切気にならない、ということです。
老いも悲惨に見える状況も、嫌なもの、悲惨なものと見ているのは(そう決めつけているのは)今のあなたです。
私たちはそのようには見ません。 ただ老いがある、そういった状況がある、ただそれだけです。
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