最終更新日: 最後↓
精神世界では超有名な本『神との対話』。 コースとの違いが方々で取りざたされています。 論点としてはいくつもありますが、そのいずれもなんら矛盾していないことをここでは語ります。
すべては概念、モデルである
初めに理解しておくべきことがあります。
この世界は幻想である。 そして、神しかない。 つまりそれ以外は、神から分離した(と思い込んでしまっている)我々人間にとって理解しやすいなんらかの「概念/モデル」としてのものである。
以下、JACIM小冊子より引用します。
始まりは、神だけが存在しています。 これは神と神の子が完全にひとつの状態です。 ここだけが実在しているレベルです。
神が創造するものは神から離れてはいない。 ここまでが父で、ここからは父から分離した子が始まるといった境目は、どこにもない。(W-pl.132.12:4)
ですから、これからお話しすることは全部、本当は実在していないレベルの話となります。 幻想についての話、ということです。 私たちにとって現実と思えている世界の起源についての、このコースによる説明のしかたであり、ある意味では、「神話」と呼ぶことができます。 象徴的な説明のしかたということであって、文字通りの事実として受け取るべきものではありません。
JACIM小冊子「『奇跡講座』の赦しのプロセス~思考の逆転」 Ⅲ. 自我の思考体系(P.18) より
『奇跡講座』自体も、『神との対話』あるいはそれ以外のものも、あくまでも我々が理解しやすいように便宜上設定した解釈、ということになります。
当然、それぞれの説明する立ち位置によって違いが見られるし、『奇跡講座』や『神との対話』の中でも矛盾が生じています。
『奇跡講座』と『神との対話』との間でも、矛盾を見出そうとすればいくらでも見出せることになります。
重要な点は、最初の頃は、実際のところ、完全な口述筆記ではなかった、というところです。
『奇跡講座「50の奇跡の原理」解説~奇跡の原理』ケネス・ワプニク(著) 序(P.13) より
特にワークブックでは、「神」と表現されているものが、機能的に考えれば明らかに聖霊のことを言っていることが明白である例がたくさんあります。
JACIM小冊子「『奇跡講座』テキスト第6章Ⅴの解説~聖霊のレッスン」 Ⅰ. はじめに(P.13) より
真に理解すれば、そのほとんどが信じられないくらいに一致していることが見て取れるはずです。
神はこの世界を創ったのか、創らなかったのか
相違があると言われている代表格である次のことについて、考察してみます。
「神との対話」
人間を創造し、万物を創造したのは神である。
自分が何者であるかを知るために、自分を分裂させて体験したかった。
「神の使者(奇跡講座/奇跡のコース/ACIM)」
神はこの宇宙を作ったわけではなく、神の一部が自分たちが神から離れたらどうなるだろうかと考え、そしてその考えたことに罪悪感を感じ、恐れから宇宙を作りそこに逃げ込んでしまった。
一見、違うように見えますが、同じことを言っています。
「神との対話」人間を創造し、万物を創造したのは神である。
→ ここで言う神とは、神が創造した神の子であるあなた方のこと。 すなわち神と同じ性質を受け継いでいる神の子。 その神の性質を受け継いでいる神の子が一時的に神から分離したと思い込んでしまったがゆえに分離を信じ、この世界である万物を自らが夢(幻想)の中で誤創造することとなった。 神からの分離という夢から醒めれば、何の万物も一切創造していなかったことがわかる。 これらをあえて詳しくは説明していないだけ。
「だが、この創られた現実はほんとうに現実的に見える。 現実的に見せて、ほんとうに存在すると思わせるのが目的だったからだ。」『神との対話』(P.81)
「神との対話」自分が何者であるかを知るために、自分を分裂させて体験したかった。
→ 神(神の性質を受け継ぐ子)であることを真に知るために、自分自身を分裂させて創ったこの世界(幻想)を活用して『贖罪』することにより、幻想から目醒め、自分自身を真に知る(神の性質を受け継ぐ者であることを知る)ことを示している。 自分自身を分裂させて世界を創造しなければ、自分自身を真に知る「贖罪の道」を開くことはできなかった。
このように、同じことを言っています。 単に、伝える立ち位置が違うだけです。
「神との対話」は、まだこの(幻想)世界で勝ち残る、幸せになろうとして格闘している人生の前半を生きる我々に向けて語ってくれている。 だが暗に、そうではないのだよ、すべては自分自身が創り出していて、感情とこの(幻想)世界での経験というツールを使って、もはや傷つくことのない状態、すなわち幻想から目覚めることができるのだよ(これはつまり、赦しによる幻想解除であり贖罪のこと)、とやさしく語りかけてくれている。
「神の使者(奇跡のコース/奇跡講座/ACIM)」は、人生の後半の部分にフォーカスして語られている。 ゆえに、人生の前半の部分にまだ魅力を抱いている者に対してはずばり言わなければならない立ち位置で語られている。
これ以外にも、おそらく多くの相違や矛盾点があると指摘される向きがあると思いますが、「神との対話」も「神の使者(奇跡講座)」もそうですが、『わたし』という言葉自体が、その時々によって用いられ方が違うことが大きな要因の一つだと考えます。
神としての『わたし』、神の子としての『わたし』、キリストである『わたし』、神であるにもかかわらず、神を忘れてしまい、自我と同一化してしまっている『わたし』などそれらをひっくるめて『わたし』と言っている。 奇跡講座では時には『彼』と表現している部分も多数ある。 それらが混乱の一要因だと考えられる。
相違を訴える者たちと、相違はないと言う者の違い
結論として、相違を訴える者たちは、この世界が現実であり思い通りに変えることができるし、変わって欲しい、と思っている者であり、相違はないと言う者は、この世界は神に帰るために活用されるものである(赦しに使われるツールである)、つまりこの世界は幻想である、と理解している者との違いであると私たちは考えます。