最終更新日: 最後↓
今なお誤解され続けている『聖霊』について、です。
聖霊とは何か。 これまでにも聖霊に関する誤解について触れてきました。
今回、ワプニック氏の解説を借りてもう少し丁寧に見ていきたいと思います。
我々の考える『聖霊』とは
私たちが奇跡講座において、一般的によく耳にする聖霊に関するフレーズについて次のようなものがあります。
- 聖霊に任せる
- 聖霊の手にゆだねる
- 聖霊に預ける
- 聖霊に頼む
- 聖霊にお願いする
- 聖霊に与える
- 聖霊に差し出す
- 聖霊に受け取ってもらう
実はこれらは『奇跡講座』においてすべて同じ意味のことを言っているのですが、少なくともこれは何やら『聖霊』というものが居て、その『聖霊』に何かを任せたり預けたりすることを意味するのではない、ということです。
これまで私たちは、日常生活において、キリスト教などから『聖霊』に関する擬人的イメージをさまざまに受け取ってきました。
それによると、『聖霊』というものがいて、その『聖霊』に頼むと何かしてくれる、そういうイメージです。
しかし、ワプニック氏はこの点に関して別の説明をしてくれています。
その説明の前に、まずは『奇跡講座』の本文ではどのように語っているのかを見ることにしましょう。
奇跡講座にみる『聖霊』についての説明
『奇跡講座』の本文より、該当する記述を見てみます。
聖霊は、聖なる三位一体の中で象徴としての機能をもつ唯一の位階である。 聖霊は、癒す者、助け主、導き手として言及されている。 聖霊はまた、父からも子からも離れた、「分離した」もののようにも記述されている。 私自身が、「われ父に請わん、父は他に助け主を与えて、永遠に汝らとともに居らしめ給うべし」と語った。 その象徴としての機能により、聖霊は理解しにくいものとなっている。 象徴的意味については異なった解釈の余地があるからである。
奇跡講座テキスト 第5章 一 聖霊への招待 4. より
難解です。 ここでは、次のことを理解します。
- 聖霊は、象徴である
-
聖霊は、神や神の子からも「分離した」つまり独立した存在のように記述されているが、そうではない
(わざわざ「分離した」というように記述しているということは、実際の意味においてはそうではないということ) - 聖霊は、象徴ゆえに異なった解釈の余地があり、理解しにくいもの
ですので、聖霊は異なった解釈がされやすく、また「分離した」何かとして捉え違いされやすいということです。
つづいて同じく第5章より引用です。
聖霊とは癒しの考えである。 この考えは、想念であるから、共有されるにつれて増加する。 それは神を代弁する呼びかけでもあるから、神の考えでもある。 あなたは神の一部であるから、それはまたあなた自身の考えでもあり、神の被造物たちすべての考えでもある。
奇跡講座テキスト 第5章 三 救済への導き手 2. より
このことにより、聖霊は癒しの想念、すなわち神の想念であり、神の子の想念でもあるということです。
ワプニック氏による『聖霊』の解説
では、ワプニック氏が『聖霊』について述べている記述を見てみます。
同じような説明を各所でされていますが、その代表的記述は JACIMサイト Q&A 【質問】No.30 (org.#93)にあります。 文中に『〔訳注〕 この回答で「イエス」と述べられているところは、すべて「聖霊」と置き換えて差し支えありません。』とありますので、「イエス」を聖霊に置き換えて以下に引用します。
イエス(聖霊)は、『コース』の内容を表す一つの象徴ですから、その教えを私たちが自覚しているときには、彼(聖霊)は私たちの心の中に現存しています。さらに、私たちが自ら進んで、自分の自我による知覚にそうした教えを適用しようとしているとき、そしてまた、イエス(聖霊)のメッセージの観点からそうした知覚の信憑性を疑問視しようとしているときには、特にそうだと言えます。
これらの引用は、次の2つのメッセージで構成されています。
- イエス(聖霊)の教えを私たちが自覚しているときには、彼(聖霊)は私たちの心の中に現存している
- 私たちが自ら進んで、自分の自我による知覚にそうした教えを適用しようとしているとき、そしてまた、イエス(聖霊)のメッセージの観点からそうした知覚の信憑性を疑問視しようとしているときには、特にそうだと言える
つまりは、次のように整理できます。
- 自我でなく聖霊の思考体系を選択しているときは、その時点であえて何かをしていなくても聖霊はそこに居るということ
- また、赦しの実践をしているとき(自我を直視しているとき)には、特にそうだと言える
ですので、赦しの実践をしているとき、幻想直視をしているときはそこに聖霊が居るのだから、わざわざ「聖霊にこの自我を渡します!」などと宣言しなくてもいいということです。
あなたが真剣に、自我を直視することを通してどこかでした自我と同一化を図る決断について自分の心の中を探索しているのなら、わざわざ聖霊に対して何かを依頼したり宣言しなくても、そこに居る聖霊が自然に答えを返してくれる、ということです。
もし答えが返ってこなければ、何かがおかしい、ということでもあります。
奇跡は自然なものである。 それが起こらないときは、何か間違いが起こったのである。
奇跡講座テキスト 第1章 一 奇跡の原理 6. より
以上、JACIMサイト Q&A 【質問】No.30 (org.#93) より
https://www.jacim.com/acim/?p=2309
他にも見られる『聖霊』についての解説
以下、他に関連する記事からの引用です。
JACIM ≫ 【質問】No.93 (orig.#652)
「聖霊と一緒に眺める」というのは、その想念を超えて、その想念が仕えている目的を見るということです。
https://www.jacim.com/acim/?p=6494
JQA#13: 罪悪感と投影と赦し
あとは聖霊に任せれば罪悪感を消せると期待するなら、再び、罪悪感を否認(=抑圧)してしまう可能性があります。
もし「聖霊にすべてをゆだねなさい」と教えるだけのためなら、こんなに分厚いコースは必要ありません。
https://www.jacim.com/jcm/?p=1179
JQA #34: 「思考」についての質問
私たちが「自我を選ぶ」とか「聖霊を選ぶ」と言うときも、実際には、同じ心の中の一つの部分が残りの二つのうちのどちらか一つに焦点を合わせる選択をする、という話をしているだけなのです。
https://www.jacim.com/jcm/?p=4325
赦し自体が「聖霊に預ける」ということ
聖霊にゆだねる、聖霊に預ける、などさまざまなオーダー方法がありました。
ですが、結局のところすべては聖霊の教えの中で自我の想念を直視することそのものが聖霊にゆだねる、聖霊に預けていることになるということでした。
つまりは赦しをすること自体が、すでに聖霊にゆだね、預けている状態だということです。
極論するなら、『聖霊』のことを一切認識していなくても、聖霊の教えるものの見方で自我と同一化する決断をしたその場所を自分の心の中に探索するなら、その人は聖霊と共に居て聖霊にそれをゆだね、預け、尋ねている、ということになります。
ですので、赦しをする、すなわち自我を直視しているのなら、それ自体がゆだね、預けている状態なので、わざわざ「ゆだねます」、「預けます」、などと宣言しなくてもいいし、むしろそう宣言するのなら実際は聖霊にゆだねてもいなければ、預けてもいない可能性が出てきます。
私たちが自ら進んで、この奇跡講座の教えるものの見方によって知覚の信憑性を疑問視することこそが、聖霊と共に見、ゆだね、預けることだと言えるので、この自我を直視することをせずにただ単にゆだねているつもりになっているだけなのであれば、むしろ自我を強化する方向に進んでしまうことになります。
他にも、『奇跡講座』を理解する【全15回】に『聖霊』に聞くとはという記事もありますので、参考ください。
関連記事:【第10回】『聖霊』に聞くとは
これまでに触れてきた聖霊に関する誤解の記事