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前回までの記事で、もうこれ以上自分を苦しませたままにしたくないという思い、本気で自分を救ってあげたい、なんとかしたい、なんとかしてあげたい、つまり自己救済への強烈な思い、その手段としての真の救済方法が「赦し」だと述べた。
奇跡講座の赦しについては手垢がつくほどさまざまなところで語られているのでここで詳しくは述べない。
ただ端的に言えば、「あなたの嫌な感情の原因は相手にあるのではなく、あなた自身の内側にある誤った信念が原因であり、それを直視することで取り除く、それが赦し」ということ。
もっとわかりやすく言えば、「イライラするのは自分の問題」だということ。
この自分の問題がどこにあるのかを心の内側に本気で探しに行く作業が赦しの実践ということになる。
もしこの方法を真に望むなら、あなたに準備が整ったということになる。
赦しのためのセットアップ
大前提)赦しとは何か、どうすることなのかが理解できている
「嫌な感情の原因は相手にあるのではなく、自分自身の内側にある誤った信念が原因なのだから、それを直視することで取り消す(元に戻す)ことが赦し」という理解があること。
「イライラするのは自分の問題」というこの認識が出来ていること。
1.どの感情を癒したいか、赦したいかを決める
ここからは実践的赦し、すなわち自分の問題に向き合っていくことになるが、まず最初に行うことはどの感情を癒すかを決めることから始める。
つまり今抱えているどの感情を解決したいか、赦したいのか、癒したいか。
そそもそも嫌なことがなければ赦しは必要ない。 感情がネガティブに反応するからこそ、そこには赦すべき何かが存在する。
まずは癒すべき感情を見つけるところからスタートする。
取り組むべき感情に旗を立てるのだ。
2.そもそも赦したいのかを確認する
その感情は、誰かとのなんらかの出来事を通して起こったもののはずである。 あるいは、病気や肉体的症状、外的環境かもしれない。
赦しとは問題の原因は相手にあるのではなく、この自分の中にある誤った信念にこそ問題があると見て、真摯に自分の中の誤りを探しに行くことになる。 病気や肉体的症状、外的環境についても同様である。
このようにその問題を見たいか、本当に赦しによって癒したいのかを今一度、確認する。
つまり「奇跡講座の赦し」という考え方(概念)によって取り組みたいかを確認する。
もちろん、ノーという反応もあるだろう。
少なくとも今は赦したくないかもしれない。
そもそもこの赦しという概念をまだ採用したくない、この考え方に疑念を感じる、信を置けないという場合もあるかもしれない。
それはそれでいい。 その正直な思いを尊重しよう。 人は常に何でもすぐ赦しに入れるわけではないのだから。
そしてもし本気で赦すと覚悟が決まったなら、いよいよ赦しに入って行く。
3.ゴールを確認する
いざ赦すと決まったなら、ゴールを確認しておく。
最終的にどうなっていれば赦せたとなるのか。
ここが理解できていないと赦しは出来ない。
赦しの実践方法の概要
準備ができたなら、実践に入って行く。
端的に言えば、「そのように感じている自分は誰か?」を探る作業になる。
これはまさに、聖者ラマナ・マハルシの唱えた実践方法に重なる。
自己を知るためには、「私は誰か」という問いで自己を尋ねる知識の道が、最も重要な方法である。
ラマナ・マハルシの小冊子「私は誰か?」 より
小冊子については、Sri Ramana
MaharshiサイトでPDFが無料公開されている。(現在サイト上ではダウンロード先のリンクの案内が削除されている。 下記のリンク先で入手可)
- ラマナ・マハルシの小冊子「私は誰か? (Who Am I?) 」※(電子小冊子PDF・日本語訳の直リンク)
※書籍にも収録あり
このラマナの教えが起こったのは1902年、ヘレンによる『奇跡講座』の書き取りが1965年の開始であるため、それ以前のものであることに驚愕を覚える。
私の赦しの実践方法は結果この教えを踏襲している。 私自身、ラマナを知って間もないころはこの「私は誰か?」という真我探究のやり方をいくら読んでもまったく理解できず挫折したことを覚えている。
ラマナが頻繁に「『私』がどこから立ち現れてくるのか見いだしなさい」「心の源を見いだしなさい」と言っているが、その「見いだし方」自体を実際どうしたらいいのかが当時の私には難解すぎて理解が追いついていなかった。
結局それを手放し、独自で取り組むことになる。 結果、幻想直視メソッドに昇華させるまでに至る。 そして振り返ってみると、ラマナが提唱している「私は誰か?」とまったく同じ手法であることに気づく。 奇跡講座のゴールも「汝自身を知れ」(T-8.Ⅲ.5)であるから、当然といえば当然であり、 ようやくラマナの言っている意味を理解するに至った。
今ははっきりと理解している。 そして実際に応用している。
おそらくほとんどの人はラマナの教えを読んだだけではまったく分からないか、単に「私は誰か?」という問いを繰り返すことだと誤認する。 そして成果が得られず、辞めてしまう。(「探究」という文字が重要なのだが。) この部分はさらに踏み込んだ丁寧な説明がないと私たちには難しい。 ラマナの教えはシンプルであるが単純ではない。
むろん探究の過程は容易なものではない。 「私は誰か?」と探究を始めるやいなや他の想念が起こるからだ。 だがその想念の後を追うのではなく、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。 これをするには、極端なまでの注意深さが必要となる。 心がさ迷い出し、それ自体が創り出した想念の迷宮に迷い込むのを許さず、たゆまぬ探究を通して心を源にとどめなければならない。
ラマナ・マハルシの小冊子「私は誰か?」のT.M.P. マハーデーヴァンによる「はじめに」より ※探求を「探究」に変更(おそらく誤植と思われる)
マハルシは求道者に向かって、「誰が道を求めているのか」「誰がこの質問をしているのか」を見つけよと、絶えず厳しく説いた。 彼はまた、悟りへの最大の障害は、自分は悟っていないという思い込みにあるとも繰り返し述べた。 大事なのは、誰が自分は悟っていないと信じているのかを見つけることである(これが難しすぎると感じるのであれば、「誰にとってこれが難しすぎるのか」が次に考えるべき問いとなる)。
バーソロミュー2~夢から目覚める P.103 より
小冊子に収録されているもの以外でさらに詳しい記述を探すも、ラマナの他の著書や数あるサイトを探っても特に見つけることは出来なかった。 このやり方で心を源にまで戻したことのある人から直接伝達を受けない限りは分からないのではないか。 私はそのような人を知らない。 ゆえに独自探究せざるを得なかった。
探究により見出した幻想直視メソッドについても、何も知らないままに手順を眺めても理解されるとは思えない。 実践的なセッションを通す必要がある。 泳法に喩えるなら、横で支えられながら一緒に泳ぐことで体得してもらうといったことになる。
そしてそのためにもあなたに準備が整っていることが必要である。
次回は、準備に関係する記事を予定している。
コメントをお書きください
Rumi (木曜日, 09 5月 2024 09:01)
この続き「準備に関係する記事」はありますか?
KEN(管理人) (木曜日, 09 5月 2024 12:44)
この記事の続きは、以前公開していましたが、現在非公開にしています。
KEN(管理人) (土曜日, 11 5月 2024 18:33)
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