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『奇跡講座』理論では、「病気は消えない。 病気を苦にする気持ちが消え去る」 - JACIM『奇跡講座』の理論より

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 JACIMサイト「『奇跡講座』の理論」から。

 

 これによると、結論は「赦すことで、病気の症状は消えるかもしれないし、消えないかもしれない。 だが、病気を苦にする気持ちはすべて消え去る。」と書かれている。

 

 

『奇跡講座』理論より

 『奇跡講座』理論からの引用。(下線は当方にて)

 

 

 

このように、『奇跡講座』が焦点としているのは私たちの思考・想念であり、真実には私たちの思考・想念の投影に過ぎない外的な事物事象はその焦点から外れている。テキストに「これは原因についてのコースであり、結果についてのコースではない」(T-21.VII.7:8)と言われている通りである。私たちは、この世界(結果)を変えようとするのではなく、この世界についての私たちの心(原因)を変えようとしなくてはならないと促される(T-21.In.1:7)。「ワークブック」のレッスン193は、「私は赦す。だから、これは消えていくだろう」(W-pI.193.13:3)と述べているが、それが意味しているのは、「その問題についての私たちの知覚と、その知覚に起因する苦痛はどのようなものでもみな消え去る」ということであり、必ずしもその問題の物理的表象が消え去る、ということではない

 

 

 

 

 つまり、赦しによって「病気は残るかもしれないが、気になることは一切無くなる」ということになる。

 

 

 JACIMサイト「『奇跡講座』の理論」より 

https://www.jacim.com/acim/?page_id=140

 

 

 

 

病気は治ることもある

 ここからは奇跡講座の本編を見ていくが、それによると、病気が絶対に治らないというわけではない。 病気は治る。 いや、治る場合もある。 少なくとも、肉体の状態は必ず・・傍点)変化する。 癒される。 そのように奇跡講座には書かれている。

 

 

 

 肉体が真の赦しの結果として癒されることはあり得る。

 

 奇跡講座マニュアル『祈りの歌』   第三章 癒し  Ⅰ. 病気の原因  3. より

 

 

 

 

ただちに治らないような病気の形態は一つもない。

 

 奇跡講座マニュアル   五.  癒しはどのようにして達成されるのか  Ⅱ.  知覚の変化  2. より

 

 

 

 

心が目的として保持するものは変えることができ、肉体の状態は必ずそれに従って変化する。 (中略)   癒しの手段として見れば、それは癒される。

 

 奇跡講座テキスト  第24章  四 特別性と無罪性  2. より

 

 

 

 

病気の無価値性が認識されるにつれ、その認識の度合いに厳密に比例して、必ず癒しが起こることになる。

 

 奇跡講座マニュアル   五.  癒しはどのようにして達成されるのか  Ⅱ.  知覚の変化  1. より

 

 

 

 

 

だが、病気を治すためのものではない

  赦しにより病気は癒され、治る。 だが、病気の治癒が目的であるなら、赦し(奇跡)は無益で意味の無いものとなる。 病気を治す為に赦しがあるわけではない。

 

 

 

肉体は奇跡によって癒される。(中略)  もしあなたが、肉体が癒され得るということだけを学ぶのであれば、奇跡は無益である。 なぜなら、そのようなレッスンを教えるために奇跡が送り出されたわけではないからである。

 

 奇跡講座テキスト  第28章  二 結果と原因の逆転  11. より

 

 

 

 

 

病気を治すためなら残念な結果に終わる

 病気を治すために赦しに取り組むなら、あなたは残念な結果に終わる。

 

 

 

 肉体の改善が主要な利益とされているようなゴールを目指しているときはいつでも、あなたは自分の死をもたらそうとしているのである。

 

 奇跡講座テキスト  第29章  七 自分の外を探すのはやめなさい  4. より

 

 

 

 

 

真に赦しが行われるとどうなるか

 もし真に赦しが行われた時、次のような心境になる。 (実践者による)

 

 

「病気が治ろうと治らなかろうとどっちでもいい、いや、むしろ病気になってくれていてよかった。 これまでずっと病気が嫌で嫌で仕方がなかったが、病気を気にする気持ちがもはや見当たらない、消えてしまった。」

 

 

 病気のことを完全に手放し、病気のままでもまったく気にならない、つまり今の状態をごく自然に受け入れられている状態にもかかわらず、不思議なことに、まるで赦しに取り組んだご褒美としての象徴しるしのように(そして課題レッスン傍点)が完了したという意味で)、物理的にも病気は治り改善している(治り始めている)ことに気づく。

 

 

 

 つまり、「それでいい」

 結局そもそも最初から「それでいい」。 なんら問題はなかった。

 問題があると思っていたのはこの自分だった。

 

  全く信じられないかもしれないが、赦しが完了するとこのようになる。

 

 

 赦しは、この信じられないことを信じるところから始まるとも言える。

 信じられないかぎり、信じたくないかぎり、赦しは始まらない。

 

 

 

やはり病気が治ると喧伝する者は、赦しを理解していない

 もう一度言っておくが、だからと言って病気が治ったり、癒されたりということに対して「赦しは病気を治し、癒す」などと強調すべきではない。 なぜならそれは本筋ではなく、だから。 あくまでも重要なのは赦しであり、癒しは赦しのおまけ程度として扱う。

 

 

 

その重要性は、過度に強調されるべきものではない。 なぜなら、癒しとは、赦しの強さのしるし、またはその象徴であり、祈りのゴールについて心が変化したことの一つの結果であり、影であるにすぎないからである。

 

 奇跡講座マニュアル『祈りの歌』   第三章 癒し  序 1. より