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「光の体験」とは文字通り光が見えるということではない - JACIM【質問】No.46より

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 JACIMサイトQ&Aの【質問】No.46からです。

 

 

 『奇跡講座』には「光」という表現が多く見られます。 なかでもワークブックのレッスン15には「物体の周りが光輝く」ような表現があります。

 

 私たちは、赦しに取り組むうちに、目に見える外の世界がまばゆい光に包まれたり、輝いたりする光景を目にするようになるのでしょうか?

 

 あるいは、そのような体験がないと赦しが進んでいないということなのでしょうか?

 

 

 

 これらについて、明快に回答されています。

 

 

「光」というのは象徴であり、知覚できる対象のことを言っているのではない

 以下、問題のワークブックのレッスン15より引用です。 

 

 

「今あなたが目にしている見慣れた物体の周りが光で縁取られているように見えてきたときに、あなたはそれを理解し始めるだろう。それが真のヴィジョンの始まりである。こうして進んでいくにつれて、あなたは多くの「光の体験」をするかもしれない。 」(W-pI.15.2:2 – 3:1). 

 

 

 

 たしかに、霊視体験のような表現がなされています。

 

 ですが、これについて、ずばり、「それは『奇跡講座』の教えに反する」と切り捨てています。

 

 

 以下Q&Aの回答より引用です。(下線は当方より)

 

 

「光」というのは象徴であり、知覚できる対象のことを言っているのではありません。あなたの外側に光を知覚するというのは、あなたの心の中の闇の一部を手放し、もっと多くの光を中に入らせるということを、象徴的に意味しています。このコースが私たちの中の光について語るとき、それは電球や、オーラや、私たちが実際に知覚する何らかのもののことを言っているのではありません

 

 

 

 もちろん、物理的な光を目にする人もいることは否定していません。 ですが、あくまでも一つの象徴として扱うべきである、としています。

 

 

 以下、Q&A回答から引用。(下線は当方にて)

 

 

ある人々は実際に物理的な光を知覚します。しかし、そうした光は、彼ら自身の心の内側における癒しのプロセスに属する象徴として、しかも、非常に数多くの象徴のうちの一つの象徴にすぎないものとして、理解されるべきものです。

 

 

 

 ですので、誰でも光輝く何かを目にするということではなさそうです。

 

 

「光」とは神や生命、真理のこと

 結局のところ、『光』とは、比喩的表現であり、つまるところ、生命いのち、真理といったものを意味するということです。

 

 

 以下、Q&Aの回答より引用。(下線は当方にて)

 

 

このコースが私たちの中の光について語るとき、それは電球や、オーラや、私たちが実際に知覚する何らかのもののことを言っているのではありません。霊性の道においては、伝統的に、「光」は、神や生命{いのち}や真理といったものを意味する一つの象徴として使用されてきました。ですから、このコースもそれと同じ比喩的表現を用いているのです。

 

 

 

 

 

 以上、JACIMサイトQ&Aの【質問】No.46の(1)より

 

https://www.jacim.com/acim/?p=4009