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結論。 「聖霊は行動を導かない」。
聖霊は形態レベルの導きはしない。
少なくともこの話題にあなたに関心があるのなら、あなたにとっては「導かない」でファイナルアンサーだ。
なぜそう言い切れるのか。 奇跡講座の教師ケネス・ワプニック氏がそう言っているからなのか。 いや、それだけではない。
まずはワークブックのレッスン71を見てみることにする。 まるで聖霊に行動指針のお伺いを立てるレッスンにも見えるが、よく見てみよう。
以下、レッスン71より引用。
レッスン71 主題概念:神の救済計画だけがうまくいく。
このことを思い出しながら、残りの練習時間は、神の計画が私たちに開示されるように神に願うことに捧げよう。 きわめて具体的に、次のように神に尋ねる。
私が何をすることをお望みですか。
私がどこに行くことをお望みですか。
私が誰に何を言うことをお望みですか。
練習時間の残りは、完全に神にゆだね、あなたの救済のための神の計画において、あなたが何をする必要があるかを教えてもらいなさい。 神の声を聞こうとするあなたの意欲に応じて、神はあなたに答えてくれるだろう。 聞くことを拒んではならない。 あなたがこの演習を行っているという事実そのものが、あなたには聞きたいという意欲があることを証明している。 神からの答えを受け取る権利を手に入れるには、それだけで充分である。
奇跡講座ワークブック レッスン71 神の救済計画だけがうまくいく。 9. より
このレッスン71で述べられている内容は、聖霊への行動指針のお伺いでも何でもない。
そのようにあなたには見えるかもしれないがそれは違う。
「私が何をすることをお望みですか。」「私がどこに行くことをお望みですか。」「私が誰に何を言うことをお望みですか。」
これらの問いかけは「この私はどうすればいいのでしょうか」というものである。
聖霊の望みであり答えは、あなたの行動レベルに関しては「何もしない」である。
そして「赦せ」である。
それについては、ワークブックの「1. 赦しとは何か」を見れば分かる。
一方、赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。 実相のどの側面をも害することはせず、自らが好む外観へとねじ曲げようともしない。 ただ見て、待つのみであり、判断はしない。 赦そうとしない者は価値判断をせずにはいられない。 赦すことができずにいる自分を正当化してしまうからである。 しかし、自分自身を赦そうとする者は、必ずありのままの真理を歓迎することを学ぶことになる。
だからあなたは何もせずにいなさい。 そして、何を為すべきかは、聖霊による赦しを通して、教えてもらいなさい。 聖霊はあなたの導き手、救済者、保護者であり、強い希望を抱き、あなたが最後には成功をおさめると確信している。 聖霊はすでにあなたを赦している。 それが神から聖霊に与えられた機能だからである。 今度はあなたが聖霊の機能を共有し、聖霊が救った者を赦さなければならない。 聖霊は彼の無罪性を見ており、神の子である彼を讃えている。
奇跡講座ワークブック 第2部 1. 赦しとは何か 4.-5. より
つまり、「じっと静かにしていて、何もしない」。 「ただ見て、待つのみであり、判断はしない」。 そして「赦しを通して、教えてもらいなさい」である。
これはつまり、何か行動を起こすことはせず、静かにして、赦しを行いなさいということである。
「私が何をすることをお望みですか。」「私がどこに行くことをお望みですか。」「私が誰に何を言うことをお望みですか。」
このような質問に見られる聖霊から何らかの行動指針、つまり聖霊からのガイダンスをあなたが期待しているのであれば、今のあなたは「何かしらの最適な行動指針がある」という前提に立っている。
これは「正しい行動あるいは、間違った行動というものがあり、間違った行動は取りたくない」という思いが内在している。
つまり、今のあなたは何かしらの「嫌な」状態があると思っている。 そんな状況、状態になることを避けたい、そのことを恐れているということになる。
つまり、神の子であるあなたは脅かされる何かがあり、外の世界において「いい状態」と「悪い状態」があると思っている。
だが真実においては、実在するもの、すなわち神の子は脅かされない。
実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
奇跡講座テキスト 序文 2. より
今のあなたは、なぜ聖霊からのガイダンスを欲しがっているだろうか?
ガイダンスがない状態の何を恐れているのだろうか?
自分の都合に合わない状況になることで何を恐れているのだろうか?
それをよく見なさい。 そして赦しなさい。 この部分こそ聖霊に導いてもらいなさい、聖霊の答えを得なさい、ということである。
まさにこの恐れているものを見なさい、恐れは幻想であるから、この恐れという幻想を直視せよ、と言っている。
聖霊は「赦しを通して」あなたの心を導く
ここで大事なのは「赦しを通して」である。
赦しを通さずに聖霊に導いてもらおうとしたところでそれは無理である。
そして赦し、すなわち心の訂正以外に心を導いてもらう必要はない。
聖霊による赦しを通せば、つまり心の訂正が完了すれば、何を為すべきかは分かる。 それが黄金律である。
何を為すべきかは、聖霊による赦しを通して、教えてもらいなさい。
奇跡講座ワークブック 第2部 1. 赦しとは何か 5. より
赦し、つまり心の訂正において聖霊に導いてもらうのみ
聖霊による心の訂正により、正しい知覚に戻すことで適切な行動ができる<黄金律>
<黄金律>については、下の「テキストに書かれている行動指針」のところで説明する。
ゆえに、聖霊に正しい行動を導いてもらうために聖霊に聞くのではない
赦し、つまり心の訂正をするためにどうしたらいいかの部分を聖霊に導いてもらうのであって、適切な行動をするにはどうしたらいいかを聖霊に導びいてもらおうとするのではない。 最適な振る舞いを知るために、あるいは、誤った行動をしたくないから聖霊に聞くのは、前述のとおり「自分は脅かされる存在である」という前提が内在している。
聖霊に正しい行動を導いてもらうために行う赦しは自我の所作
赦しにおいて聖霊の導きを求めるのであって、適切な行動指針を聖霊に導いてもらうのではないと言った。 その正しい行動を導いてもらいたいがために、赦しを行なおうとするのであれば、それは獲得思考であり、自我の所作であり、本末転倒。
「得るために与える」とは、常に自分を他の自我との関連において評価する自我にとっては、逃れようのない法則である。 したがって、自我は自分を生じさせた欠乏の信念に絶えずとらわれている。
奇跡講座テキスト 第4章 二 自我と偽りの自律 6. より
正しい知覚に戻ることで、インスピレーションとして行動欲求が生じる。これを聖霊からの導きと感じることはあり得る
だがこのインスピレーションを求めている時点で聖霊は導かないし、導くことができない
あくまでも心の訂正が主眼。 行動指針を得るためのインスピレーションを求めるのであればそれは獲得思考であり、自我の所作である。 聖霊は答えない。
あなたは、聖霊が答えてくれないと主張するかもしれないが、あなた自身がどのような質問者なのかをよく考えてみるほうが賢明だろう
奇跡講座テキスト 第9章 一 実相の受容 7. より
赦しの伴わない行動レベルの質問は「自我からのもの」
行動レベルの質問、つまり最適解の獲得思考は卑小がゆえに「卑小」を求めるものである。 卑小、すなわちそれは自我である。
この世界にあるすべては卑小である。 それは、卑小さがあなたを満足させられるという奇妙な信念によって、卑小さから作り出された世界だからである。 この世界の中の何かが自分に平安をもたらしてくれると信じて、それを手に入れようと努力するとき、あなたは自分を卑小なものにしており、栄光に対し目を閉ざしている。 卑小さか栄光か、どちらかがあなたの努力や警戒の対象として選べる選択肢である。 あなたは常に、一方を犠牲にした上でもう一方を選択する。
奇跡講座テキスト 第15章 三 卑小さと偉大さ 1. より
聖霊は自我からのものには答えない
自我に由来している願望はどれも無を求める願望であり、それを求めることは要請ですらない。 それは単に、願望の形をした拒否にすぎない。 聖霊は意味のみを意識しており、形には関心がない。 自我は聖霊に何も求めることはできない。 なぜなら、自我と聖霊の間にはコミュニケーションがまったく成り立たないからである。
奇跡講座テキスト 第9章 一 実相の受容 10. より
聖霊は、歓迎しない接待主に語ることはできない。 なぜなら、語りかけてもその人には聞こえないからである。
奇跡講座テキスト 第11章 二 癒しへの招待 5. より
テキストに書かれている行動指針<黄金律>
テキスト第一章によると、適切な行動ができるようになるには、「知覚が正確でなければならない」とある。 これが奇跡講座で語られる「黄金律」である。
「正確な知覚」は、赦しにより訪れる。
赦しが完了することによって、誤った知覚が訂正されそれが正される。
正されずして、つまり赦さずして誤った知覚のままでは適切な行動は取れないと記されている。
あなたは自分が知覚するものに応答し、自分で知覚する通りに行動する。 黄金律は「すべて人にせられんと思うことは、人にもまたその如くせよ」とあなたに求めている。 ということは、どちらの者についての知覚も正確でなければならないという意味になる。 黄金律は適切な行為のための規則である。 あなたは正しく知覚しない限り適切に行動することは出来ない。 あなたとあなたの隣人はひとつの家族の対等な構成員であるのだから、あなたは両者を知覚する通りに両者に対して行うことになる。 あなたは、自分自身の聖性を知覚し、そこから他の人々の聖性を見なければならない。
奇跡講座テキスト 第1章 三 贖罪と奇跡 6. より
コースに取り組む多くの人が誤解している重要な箇所
奇跡講座に取り組む多くの人が誤解しているのはこの部分であろう。
「ただ聖霊にあらゆることを尋ね、すべての決断を聖霊のやさしい助言にゆだねなさい。」(T-14.Ⅲ.12.)
「あらゆることにおいて、聖霊に導かれなさい。」(T-14.Ⅲ.17.)
「あなたはどんな具体的な問題に対する答えでも聖霊に尋ねるようにと告げられ、その必要があるなら具体的な答えを受け取るだろうと教わってきた。」(S-1.Ⅰ.2:1)
つまり、「聖霊になんでも尋ね、聞けばいい。」 そう思っているのなら、あなたは完全にミスリードしている。
そもそも奇跡講座は心的レベルの話であり、外的な形態レベルについての話ではない。
この世界でどうなるかといった目的はそもそも存在しない。
奇跡講座で言えば、この世界自体が幻想だからだ。
(もちろん、この世界を幻想と思っていない私たちが、幻想を解くためのツールとしてこの世界を用いるという聖霊の目的は存在している。 だがこの世界を改善するための目的は一切ない。)
『奇跡講座』全体からそれは理解できることである。
また、それぞれの引用部分の前後を注意深く読むだけでもそれがはっきり分かる。
つまり、「赦しに関することについて(なぜなら、奇跡講座は『赦し』という誤った心の訂正の話がすべてだから)聖霊になんでも尋ね、聞けばいい。」である。
以下にそれぞれの前後の部分を引用しておく。
あなたは救済を知らない。 なぜなら、救済を理解していないからである。 それが何であるか、またはどこにあるかについてどんな決断もせずに、ただ聖霊にあらゆることを尋ね、すべての決断を聖霊のやさしい助言にゆだねなさい。
奇跡講座テキスト 第14章 三 無罪性を選ぶ決断 12. より
あらゆることにおいて、聖霊に導かれなさい。 そして考え直してはならない。 何らかの形でその決断が触れることになるすべての者のために、聖霊が速やかに、確実に、愛をもって、答えてくれると信頼しなさい。 そしてその決断はすべての者に触れるだろう。 あなたは、何がすべての者に善きことのみをもたらせるかを決断するという全責任を、自分ひとりで背負いたいのだろうか。 あなたにそれがわかるのだろうか。
奇跡講座テキスト 第14章 三 無罪性を選ぶ決断 17. より
偶像を求めて祈りながら、神に到達することを望んでも、それは不可能である。 真の祈りは、願いを叶えてもらおうとして求めるという落とし穴を回避しなければならない。 そのように求めるのではなく、すでに与えられているものを受け取ることができるように、すなわち、すでにそこにあるものを受け入れられるようにと、求めなさい。
あなたはどんな具体的な問題に対する答えでも聖霊に尋ねるようにと告げられ、その必要があるなら具体的な答えを受け取るだろうと教わってきた。 あなたはまた、一つの問題と一つの答えがあるだけだとも、教えられてきた。 祈りにおいては、これは矛盾していない。 (中略)
真の祈りの秘訣は、あなたが自分に必要だと思っている諸事を忘れることにある。 具体的なものを求めるということは、罪を見咎めておいて、それからそれを赦すのとよく似ている。 祈りにおいても同様に、あなたは自分が見ている処々の具体的な必要は意に介さず、それらを神の御手の中へと委ねるのである。 そこにおいて、それらはあなたから神への贈り物となる。
奇跡講座祈りの歌 第一章 祈り Ⅰ. 真の祈り 1.-4. より
ものごとや地位や人間の愛や、その他あらゆる種類の外的な「贈り物」を求める祈りは、常に、牢番を仕立て上げて罪悪感から逃れるために作り出されているのだが、このことに気づくのは容易ではない。 これらのものごとは、神の代替となるゴールのため、したがって祈りの目的を歪曲するようなゴールのために使われている。 そうしたものごとを欲求すること自体が、そのような祈りである。
奇跡講座祈りの歌 第一章 祈り Ⅲ. 他者のために祈る 6. より
結論。赦しを通さずに聖霊が行動を導くことはあり得ない
結論。 あなたが赦しを行わずして聖霊が行動を導くことはあり得ない。
(当然のこととして、行動を導くことを期待しての赦しは機能しない。 それはエコーを求めることだから。)
答えの形は、もしそれが神により与えられたものであれば、あなたが見ている通りのあの必要に合致するだろう。 これは、単に、神の声からの返答のエコーにすぎない。 真の音源は常に、感謝と愛の歌である。
それならば、あなたはエコーを求めることはできない。 贈り物は、歌そのものである。 歌と一緒に、倍音や和音やエコーが生じるが、これらは副次的なものである。 真の祈りにおいては、あなたは歌だけを聞く。 他のすべては、単に添えられているものにすぎない。 あなたはまずはじめに神の国を求めたのであり、だからこそ他のすべてが確かにあなたに与えられたのである。
奇跡講座祈りの歌 第一章 祈り Ⅰ. 真の祈り 2.-3. より
それでも聖霊は行動を導くと言うのなら
それでも「聖霊は行動を導く」と言うのなら、「ソウルメイトを求める」人たちともはや同じである。
彼らは「ソウルメイトがどこかに居る」と思っている。 そんな彼らに「いやいや、あなたが出会うすべての人がソウルメイトだ」と言ってもきっと理解しないだろう。
「神(あるいは聖霊)は、求めるよりも前に与えてくださる」
もちろんこれは、「赦しの機会において」である。
自我が求めるような偶像についてではない。
これはあなたの、神(あるいは聖霊)に対する信頼である。
「台本はすでに書かれている」
台本から逃れようとすることは、幻想を真実にしようとするもう一つの企てだ。
ホーリースピリット:時間と空間に自らが縛られていると信じている「私」とは誰のことでしょう? (中略) 台本から逃れようとすることは、非リアルをリアルにしようとするもう一つの企てなのです。
『とある神秘家との結婚~「奇跡のコース」とパートナーシップについての真摯な実践録』 カースティン・バクストン(著) 第二十五章 台本はすでに書かれている(P.444)より
そしてこのことは「私たちには自由意志などない」と同じことを意味する。
あなたはこのことを受け入れなければならない。 ワークブックには次のように書かれている。
私の身に起こることは、私が望んでいることである。 生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。 このことを、私は受け入れなければならない。
奇跡講座ワークブック レッスン253 私の自己は、宇宙の支配者である。 1. より
最後に。
聖霊は行動を導くのか導かないのか。
最後に、こちらで締めくくろう。
幻想はどれも同じだと信じていながら、それでもその中の一つが一番良いと主張できる者がいるだろうか。
奇跡講座テキスト 第26章 六 定められた友 1. より
コメントをお書きください
毛利 貴子 (火曜日, 15 8月 2023 10:51)
ありがとうございます。
幻想世界の中でも、優しさ思いやりといったの想いは実在だと思っていたので、幻想の中にもより良い序列、選択があるのではと思っていました。世界はもう終わっていて、自由意志などないのなら、深く考えずに精霊がいることを信じて自分がしたいことを選択すればいいのかなと思いました。この世界は幻想であり、自分を含めた全ての人はキリストの認識をして心を静かにしていこうと思いました。ありがとうございました。