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奇跡講座もスピリチュアルなのだから自分を愛さないまま取り組めるわけがない

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 タイトルままだが、スピリチュアルを説いている人たちにとっては当たり前すぎて(彼らにとっては自分を愛することはごくごく自然で、あまりにも普通すぎて認識すらしていない場合も多い)、このことを強調して言っている人をあまり見かけないが、結局みんなここが抜け落ちたままスピリチュアルに取り組んでいるから機能しないと私は断言する。

 

 

スピリチュアルなことで愛が抜け落ちたまま進むスピリチュアルはない

 スピリチュアルなことで愛が抜け落ちたまま進むスピリチュアルはない。 このことには同意してもらえると思う。

 

 

 奇跡講座でもコース自体があなたについてのコース、愛についてのコースだと教えている。

 

 

 

今では、あなたがこのコースを恐れている理由が明らかになったはずである。 これは、あなたについてのコースであるがゆえに、愛についてのコースだからである。

 

 奇跡講座テキスト 第13章  四 時間の機能  1. より

 

 

 

 

 

すべてのスピリチュアルのベースは愛。それは自分を愛することから

 すべてのスピリチュアルのベースは愛。 しかもそれは自分を愛することから。

 

 奇跡講座でもそれは同じ。

 

 

 

意志は、あなたが自分に対するを共有することであり、と同じくらい愛を込めて自分自身を眺めることである。

 

 奇跡講座テキスト  第24章  六 恐れからの救済  3. より

 

 

 

 

 ちなみにインドの聖者ラマナ・マハルシはこのように答えている。

 

 

 

あなたが神をディヤーナ(瞑想)しようと自己をディヤーナ(同)しようと、それは重要なことではない。 ゴールは同じだからである。 いずれにせよ、あなたは自己を逃れることはできない。 あなたはすべてのものの内に神を見たいと望む。 それであなた自身の内には見ないのかね。 すべてが神であるなら、そのすべての内にあなたも含まれているのではないかね。 そしてあなたが神であるからには、すべてが神であるということが不思議なことだろうか。 これが、シュリ・バガヴァタその他の聖典でいつも示されている方法である。 けれどもその実践のためには、その神を見る人、あるいは考える人がいるはずである。 その人は誰であろうか。  (中略)

 

自己の内に永遠に破られることなく、自然な状態で在ることをジュニャーナ(知識)と言う。 自己の内に在るためには、あなたは自己を愛さなくてはならない。 神は自己そのものであるから、自己の愛は神の愛である。 それがバクティ(帰依)である。 このようにジュニャーナとバクティは一つにして同じものである。

 

 『ラマナ・マハルシの教え』 マハルシの福音  バクティ(帰依)とジュニャーナ(知識) P.114-115 より

 

 

 

 

 

「自分」には2つある

 こう聞くとびっくりするかもしれないが、「自分」ということで指し示している先は、本当の自分偽りの自分とのつある。

 

 偽りの自分のほうは、本当の自分を忘れ(誤認識し)自我と同一化してしまっている状態のこと。

 

ほとんどの人はこの偽りの自分から生きている。

 

しかもこのことにまったく自覚がない。

 

 

 この偽りの自分で生きていると嫌なことが起こるので、かろうじて何か変だなと感じるように出来ている。

 

 

自分を愛するとはどういうことか

 自分を愛することはどういうことかよく考えて欲しい。

 

もちろんそれは本当の自分を尊重するということ。

 

本当の心である本心に耳を傾けるということ。

 

偽りの自分が思っていることではなく、本当の自分が何を思って何を考えて何を感じているのか、それをちゃんと聞いてそれに従うということ

 

 

 それがどんなに恐ろしくて異端で狂っていても、そうするという覚悟。

 

 極端に言えば、たとえ全世界を敵に回しても、よりも自分の真の自己を優先し自分で自分の味方をするその決意。 (が愛している神の子であるあなたを、あなた自身が愛することを望んでいる。)

 

それが自分を愛するということ。

 

 

それは真の自己愛。自分に向けた慈悲の心

 ほんとうの自分を愛する、それはつまり真の自己愛

 

自分みずからが自分自身に向けた慈悲の心。 自分自身に対する慈悲心

 

 

「こんなみじめな自分のままで居させるなんてもう耐えられない! 可哀そうすぎる! もう本当になんとかする。」

 

 

 この思いの発露が必要。

 

 

ほとんどの人が「偽りの自分」から取り組んでいる

 ほとんどの人が自我と同一化した偽りの自分から取り組んでしまっている。 だからどんなスピリチュアルなことに取り組もうともうまくいかない。 奇跡講座であっても同じ。

 

 

「自我の自分」を中心に置いて取り組んでいるからだ。 今の自分が自我と同一化した偽りの自分だと気づいていないかもしれないが、それが自我の自分だ。

 

そして大事なもの、つまり「真の自分」を尊重しないまま取り組んでいるからだ。

 

 

 

 この「自分を愛する」ことが大事だといくら伝えても、「自分の本心を尊重する」と伝えても、彼らにはピンとこない。

 

 

1. 彼ら自身が、自我と同一化している「自我を信奉する偽りの自分」だから。

(おそらくそう言われても今の彼らには信じられない。 今のこの自分が「偽りの自分」だなんて。 このことを認識することすら彼らには難しい。)

 

2. ニーズがないから

 

 

 そんな彼らでも「自分を愛することが大事なのは分かってますよ」と言う。 だがそれは頭で分かっているだけだ。 腹の底からの理解があるわけではない。

 

 ほんとうの意味で自分を愛するという必要性をそこまで感じていない。 だから本気になって取り組めない。 決意できない、覚悟できない。

 

 彼らが自分を愛そうとするときは、今の自分が幸せになったり楽になったり不幸が避けられる場合に限る。 つまり手段として自分を愛そうとする。 それが自我の戦略だから。 真の愛はそんなものではない。 愛に条件は付かない。

 

 同じく「自分の心に耳を傾ける」と言っても、自分の頭で考えていること、思っていることを自分の心の意見だとみなす。

 

 

 

 そうじゃないんだ。

 

ほんとうの自分の心の声を聞くにも技術がいる。 (放っておくとすぐ自我の声を聞いてしまう)

 

 だが、そもそも「本気で自分の本心を聞く」この覚悟がないと無理なんだ。

 

 ただ条件もなく、純粋にそうしたいという思いが必要なんだ。

 

 どうしてもあなたの中にその意図が自然に芽生える必要があるのだ。

 

 

自分を愛するにはどうしたらいいのか

 本気で自分を愛するというニーズが今のあなたにはないから真に自分を愛すると決められない。

 

 強制的でなく、ごく自然に自分を本気で愛したいという思いが自分の内側に芽生えてこない。

 

 どうしたら。。

 

 そのまま行くしかない。

 

 したいようにすればいい。 今まで通り生きていく、それまでだ。 自我と同一化している今の自分に従ってこれまで通り生きるということだ。 スピリチュアルに首を突っ込みたければもちろんそうすればいい。 徹底的にやってみてその結果をぜひ検証してもらいたい。

 

 

自分の心の声を聞かずに無視したまま生きているとひどい目に遭う。 当然のことだ。

 

 なぜなら自我を選択しているから。 自我から生きているから。

 

 

 そうじゃないことを教えるために聖霊が痛みを通してあなたにそう伝える、そのような出来事が展開する。 そう、ネガティブな感情を誘発してくれるのだ。

 

 

 

 それが極まれば、辛い状況の限界がくれば、あなたは「他に道があるはずだ」と内面から湧き上がる日がいつの日かやって来る。 (今世ではないかもしれないが。)

 

 

 

幽閉された意志は、その極限においては、まったく耐えられなくなるような状況を生み出す。 苦痛に対する許容度は、高くなることはあっても限界のないものではない。 いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道が必ずあるはずだと認識し始める。 この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。 これが究極的には霊的な心眼ヴィジョンを再び目覚めさせ、同時に肉眼の視覚の重視を弱める。 この二つのレベルの知覚が交互に重視されるとき、それは通常、葛藤として経験され、しかも、きわめて熾烈な葛藤となり得る。 しかしそれが行き着く結果は、と同じく確実である。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  三 神の祭壇  3. より

 

 

 

 

 自分を愛することが大事だからと言って、嫌なことを避けたいために自分を愛そうとするのではうまくいかない。 (それは自我の戦略。 避けるためという条件付きの偽りの愛であり、ではない。)

 

  ごく自然に、実が熟して木から落ちるかのように、そうなるしかない。

 

 

 そのためには、「もう愚痴すら出ない。 もはや涙しか出てこない。」状況が必要なのかもしれない。

 

 それは何の希望も見えなくなり絶望する瞬間。 もはや死しか選択が残されていない瞬間。 私もそこを通った。 絶望し本気で死ぬことを意志した。 この自分の本心が訴えていること、それだけを最後やって死のうと考えた。 生まれて初めて自分の本心に耳を貸した。 それをやってあげた。 本心に従ったのだ。 そんな過去が私にもある。

 

 そこまで来ないと自我に信を置くのを止めて、本当の自分のほうに信を置くように切り替えることは私には難しかった。 それ以前では私には無理だった。

 

 

 

この世界が提供できる道は膨大な数にのぼるように見えるが、どの道も他の道と同じだとわかるときが、誰にも必ずやってくる。 このことがわかって、死んでいった者たちがいる。 この世界が提供している道以外の道が、彼らには見えなかったからである。 そして、それらの道がどこにも到達しないことを学んで、彼らは希望を失った。 しかし、そのときにこそ、彼らは最大のレッスンを学べたはずだった。 すべての者がこの地点に到達し、それからそれを超えていかねばならない。 この世界の中に選択の余地はないというのは、まさしく真実である。 しかし、このこと自体がレッスンなのではない。 レッスンには目的があり、こうしたことの中で、あなたはそのレッスンが何のためのものかを理解するようになる。

 

 奇跡講座テキスト  第31章  四 真の選択肢  3. より

 

 

 

 

 これほど自我と同一化してしまっている(つまり自我を信じ切っている)私たちにとっては「自己を信頼する、愛する」というのは恐ろしく、避けて通りたいことであり、最後で最後の選択となる。 (自我からすると恐ろしくて当然だが。)

 

 

少なくとも「本気で自分を愛したい!」と決意することからはじまる

 本気で自分を愛すると決意する。 本気で自分の本心に耳を傾けると決意する。 自分の本心に従うと決意する。

 

 百歩譲って、「本気で自分を愛したい! 本気で自分の本心に耳を傾けたい!」こう決心することがどうしても必要

 

 

このように見てくれば、結局そんな人はほとんどいない。

いたとしても、自分で何とかするはずだし、何とかできる。 (なぜならもはや自分の心の声に従っているのだから。)

 

 

自分を本気で愛するなら赦しは避けては通れない

 自分の心の声に耳を傾けその声を尊重し従うことの重要性を説いた。

 本心がすぐに赦しに取り組むことを望むことはないかもしれない。

 普通はもっと先にやりたいことがあるはずだ。

 

 だが、いずれの日か、必ず赦しに取り組む日が来る。

 

 

自分を究極に愛するなら、今の自分をほんとうの自分に戻してあげたいとどこかで意志するはずだから。

 

 

 

これは奇跡についてのコースである。 必修科目である。 いつ受講するかだけがあなたの自由である。 自由意志とは、あなたがカリキュラムを編成できるという意味ではない。 ある時期に何を受講したいかを選択できるというだけのことである。 このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。 それは教えることのできる範囲を超えているからである。 しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、たしかに目指している。 愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。 愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はありえない。

 

 奇跡講座テキスト  序文  1. より

 

 

 

 

それが赦しであり、奇跡講座で言うところの贖罪である。

 

 

 長くなったので、次の記事に譲ることにする。