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誰が癒しを恐れるのだろうか。 それは、兄弟の犠牲(一体性の犠牲/一なる子からの除外/平安でないままにする)や苦痛を、自分の安らぎを表象するものと見ている者たちだけである。 (兄弟の犠牲や苦痛を喜ぶ彼らにとっては、)兄弟を絶えず悩ます罪悪感の痛みは、兄弟は奴隷だが自分たちは自由だと証明するのに役立つ

 そうなると、誰が癒しを恐れるのだろうか。 それは、兄弟の犠牲や苦痛を、自分の安らぎを表象するものと見ている者たちだけである。 彼らにとっては、自分たちの無力さと弱さが、兄弟の苦痛を正当化する根拠を表している。 兄弟を絶えず悩ます罪悪感の痛みは、兄弟は奴隷だが自分たちは自由だと証明するのに役立つ。 自分たちが被る絶え間ない苦痛は、自分たちは兄弟を捕縛しておくからこそ・・・・傍点)自由であると実証する。 そしてこの犠牲における均衡を崩さないために、病気が要求される。 病気をよしとするこのような議論に加わるために、聖霊が一瞬たりとも足止めされたりするだろうか。 また、狂気に耳を傾けようとしてあなたが立ち止まるからといって、あなたの癒しを遅らせる必要があるだろうか。

 

奇跡講座テキスト  第27章  二 癒しに対する恐れ  9.