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知覚とは願望の充足(そうであって欲しいという信念の維持継続)であるから、神の子は、自分で見たいと思ったものを知覚したのである

 罪悪は処罰を求め、その要請は聞き入れられる。 ただしそれは、罪の上に築かれた影と幻想の世界でのことであり、真理においてのことではない。 知覚とは願望の充足であるから、神の子は、自分で見たいと思ったものを知覚したのである。 不変の智識に取って代わるものとして作り出された知覚は、変化するものである。 だが、真理は不変である。 それは知覚されることはできず、ただ知られることができるだけである。 知覚されるものは多くの形を取るが、そのどれにも意味はない。 真理のもとに運ばれたなら、その無意味さはきわめて明らかである。 真理から離れたところに置かれるなら、それには意味があって、実在するかに見える。

 

奇跡講座テキスト  第26章  七 赦しの法則  3.