肉体の自由が選択されている場合は、心は手段として使用され、その手段の価値は、肉体の自由を達成するための方法を考案する能力にあるとされる。 だが、肉体の自由というものに意味はない。 したがって、心は幻想に仕えるために捧げられていることになる。 これはあまりに矛盾した、あり得ない状況であり、こうした選択をする者は、何に価値があるのかが皆目わかっていない。 だが、言葉に尽くせないほど甚だしいこの混乱の中でも、聖霊は優しい忍耐をもって待ち続け、創造主の愛を確信しているのと同様に、その結果に確信を抱いている。 聖霊は、この狂った決断をした存在も、愛が愛自身を愛しむように創造主が愛しむ存在であることを知っている。
奇跡講座テキスト 第22章 六 神聖な関係の光 2.