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肉体(自我が見ているこの世界)とは自我の偶像(自我の勝手な好み)であり、罪への信念が肉(形象/イメージ)となり、外(心の外側)に投影されたものである。 ここでは、彼(死に恩義を受けている囚人/自我の信奉者)は生きているというよりも、むしろ死んでいる。 それでも、彼が偶像崇拝と愛の間で再び選択するのも、ここにおいてである

 肉体とは自我の偶像であり、罪への信念が肉となり、外に投影されたものである。 このことが、心の周りを取り囲む肉の壁のごとく見えるものを生み出し、心を、空間と時間を占める微小な一点の中に囚人として幽閉する。 死に恩義を受けているこの囚人には、嘆息をもらし、悲嘆にくれ、その主人を讃えて死んでいくために一瞬が与えられるだけである。 そしてこの神聖ならざる瞬間が、生命いのちのごとく見えている。 この絶望の一瞬。 忘却のおもてにぼんやりと浮かぶ、水もなく乾ききった砂の小島が、である。 ここに神の子はわずかの間とどまり、死の偶像たちに帰依し、それから去っていく。 そしてここでは、彼は生きているというよりも、むしろ死んでいる。 それでも、彼が偶像崇拝と愛の間で再び選択するのも、ここにおいてである。 ここで彼には、肉体を称賛しながらこの瞬間を過ごすか、それとも、肉体からの自由を自分自身に与えることにするかを選ぶ機会が与えられている。 ここにおいて彼は、以前に選択した神聖ならざる瞬間を、受け入れることができる。 そして、ここにおいて彼は、関係とは自分の破滅ではなく救済であると、学ぶことができる。

 

奇跡講座テキスト  第20章  六 聖霊の神殿  11.