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罪への信念とは、(実相に対する)一つの調整である。 そして(その実相に対する)調整とは、(知覚の)変更である。 したがって、(実相に対する)どの調整も(知覚の)歪曲であり、それを(本来の)実相に対抗して支えるには、(実相に似せるための知覚の)防衛に頼ることになる

 罪への信念とは一つの調整である。 そして調整とは変更である。 すなわち、知覚の変化であり、以前の状態が異なるものに変えられたという信念である。 したがって、どの調整も歪曲であり、それを実相に対抗して支えるには、防衛に頼ることになる。 智識は何の調整も必要とせず、実際、もし少しでも変換や変更が行われたなら、失われてしまう。 なぜなら、それは智識をただちに単なる知覚へ、すなわち、確かさが失われ、疑いが入り込んだ一つの見方へと、格下げしてしまうからである。 このように損なわれた状態においては、それが真実でないからこそ、調整が必要となる。 真理に対してであれば、誰が調整を必要とするだろう。 真理は彼の本性のみを引き合いに、理解されるものだからである。

 

奇跡講座テキスト  第20章  三 調整としての罪  1.