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聖霊の目的を自我の目的に代わるものとして受け入れたとき、あなたは死を放棄して、それを生命と交換したのである。 死は、私たちが自我と呼んでいる想念から生じた結果であり、生命は、神の想念から生じた結果である

 しかし、影には殺すことはできない。 生ける者たちにとって、影が何だと言うのだろう。 彼らが通り過ぎるだけで、影は消えてしまう。 しかし、生きないことに献身している者たちはどうだろうか。 黒い装束をまとった「罪人つみびとたち」、すなわち、鎖を引きずりながら重い足取りで生命いのちから遠ざかり、自我の哀悼の歌を合唱しながら、死の君主である陰鬱いんうつな主人を讃える行列をのろのろと進む者たちについてはどうだろうか。 彼らの中の誰かに、優しい赦しの手で触れてみなさい。 そして彼の鎖があなたの鎖と一緒にほどけて落ちるのを見なさい。 彼が自分の葬儀のためにまとっていた黒い外衣ローブを脱ぎ捨てるのを見なさい。 そして、死を一笑に付す彼の笑い声を聞きなさい。 彼はあなたからの赦しを通して、罪が彼に下そうとする死の判決から抜け出すことができる。 これは傲慢さではない。 神の意志である。 神の意志を自分の意志として選んだあなたに何が不可能だろう。 あなたにとって死が何だろうか。 あなたの献身は死に対するものでも、死の主人に対するものでもない。 聖霊の目的を自我の目的に代わるものとして受け入れたとき、あなたは死を放棄して、それを生命いのちと交換したのである。 私たちは、想念はその源を離れないと知っている。 そして、死は私たちが自我と呼んでいる想念から生じた結果であり、それと同じく確実に、生命いのちは、神の想念から生じた結果である。

 

奇跡講座テキスト  第19章  四 平安への障害  C. 第三の障害 ― 死の魅力  2.