真理というゴールには、信が求められる。 信は、聖霊の目的を受け入れることの中に潜在しており、この信は、すべてを包括するものである。 真理というゴールが設定されているところには、必ず信があるはずである

 真理というゴールには信が求められる。 信は聖霊の目的を受け入れることの中に潜在しており、この信はすべてを包括するものである。 真理というゴールが設定されているところには、必ず信があるはずである。 聖霊はその状況を全体として見ている。 そこに関与する者たち全員が、そのゴールの達成において各自の役割を果たすことになるという事実を、そのゴール自体が確立する。 これは必然である。 誰も、何においても、失敗しない。 これについては、あなたには及びもつかないような信や、あなたが差し出せる以上の信が求められているかに見える。 だが、自我の視点から見るときにのみ、そのように見えるのである。 自我は断片化を通して葛藤を「解決」できると信じており、状況を全体として知覚しないからである。 だから、状況をいくつもの断片へと切り離し、それらに別々に対処しようとする。 というのも、自我は全一性ではなく分離に、信を抱いているからである。

 

奇跡講座テキスト 第17章  六 ゴールの設定  6.