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平和の君(キリスト)は、「肉体をコミュニケーション(想念の共有)に必要な手段と見なしさえしなければ、たとえ肉体が破壊されてもコミュニケーション(神の想念の共有/親交)は途切れずに残る」と教える

 聖なる瞬間には、愛の条件が満たされる。 なぜなら、そのとき心と心は肉体の介在なしにひとつにつながり、親交コミュニケーションがあるところには、平安があるからである。 平和のきみは、「肉体をコミュニケーションに必要な手段と見なしさえしなければ、たとえ肉体が破壊されてもコミュニケーションは途切れずに残る」と教えることによって、愛の条件を再確立するために生まれた。 そしてこのレッスンを理解するなら、あなたは、肉体を犠牲にしても何も犠牲にならず、心のものであるはずの親交コミュニケーションは犠牲にされることはあり得ないと悟るだろう。 それならば、犠牲とはいったいどこにあるのだろう。 私が生まれたのは、「犠牲はどこにも存在せず、愛はあらゆるところに遍在する」というレッスンを教えるためであり、今もそのレッスンをすべての兄弟に教えたいと思っている。 というのも、親交コミュニケーションは一切を包み込むものであり、それが再確立する平安の中で、愛はおのずと訪れるからである。

 

奇跡講座テキスト 第15章  十一 犠牲の終わりとしての降誕祭クリスマス  7.