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あなたは、自分が怒っているときはいつでも、自我の「祝福」を受けた特別な関係を形成したと確信してよい。 怒りこそが自我の祝福だからである。 すべての怒りは、誰かに罪悪感を感じさせようとする試みにすぎない

 あなたは自分が怒っているときはいつでも、自我の「祝福」を受けた特別な関係を形成したと確信してよい。 というのも、怒りこそが自我の祝福だからである。 怒りは多くの形態をとる。 しかし、愛はいかなる罪悪感ももたらさず、罪悪感をもたらすものは愛でなく怒りに違いないと学ぶ者を、怒りは長い間だまし続けることはできない。 すべての怒りは誰かに罪悪感を感じさせようとする試みにすぎず、この試みこそが、特別な関係のための基盤として自我が受け入れる唯一のものである。 罪悪は自我がもつ唯一の必要であり、あなたが自我と同一化している限り、あなたにとって魅力的なものであり続ける。 だが、一個の肉体と共に居ることは、親交コミュニケーションではないということを、覚えておきなさい。 そうであると考えるなら、あなたは親交コミュニケーションについて罪悪感を感じることになり、聖霊の声の中にあなた自身の親交コミュニケーションの必要を認識して、聖霊から聞くことを恐れるようになるだろう。

 

奇跡講座テキスト 第15章  七 不必要な犠牲  10.