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自我にとっては、関りとは、単に肉体同士が一緒に居ることだけを意味する。 自我が要求するのは、常にこのこと(形態としての見え方)であり、心がどこへ行こうと何を考えていようと重要には思えず、それに反対することもしない

 だが、彼らは一緒にいるように見える・・・傍点)だけである。 というのも、自我にとっては、関りとは、単に肉体同士が一緒に居ることだけを意味するからである。 自我が要求するのは常にこのことであり、心がどこへ行こうと何を考えていようと重要には思えず、それに反対することもしない。 肉体がそこにあって自我の犠牲を受け取る限り、自我は満足である。 自我にとっては、心は私的なものであり、肉体のみが共有され得るものである。 想念というものは、それが他者の肉体を自分に近づけるか遠ざけるかという点を除けば、概して自我の関心事ではない。 そして自我が想念の良し悪しを評価するのは、これらの見地からである。 相手に罪悪感を抱かせ、罪悪感を通して彼をつなぎとめておくものは「善きもの」である。 彼を罪悪感から解放するものは「悪しきもの」である。 なぜなら、そうなると彼はもはや肉体がコミュニケーションを行うとは信じなくなり、それゆえに、「去って」しまうからである。

 

奇跡講座テキスト 第15章  七 不必要な犠牲  8.