これが実相世界であったなら、神はまさしく残酷である。 救済の代価としてわが子をこのような目にあわせる父が、愛ある存在であるはずがないからである。 愛は救うために殺したりはしない。 もしそのようなことがあったなら、攻撃が救済だということになるが、これは神による解釈ではなく、自我による解釈である。 罪悪の世界のみがこのようなことを要求でき、罪悪感を抱く者のみが、そのようなことを思い描けるからである。 アダムが自分を楽園から追放したのは父だと信じなかったなら、彼の「罪」は誰に影響することもなかっただろう。 その信念の中で、父についての智識が失われた。 なぜなら、父を理解しない者だけがそのようなことを信じられるからである。
奇跡講座テキスト 第13章 序 3.