聖霊の導きを何らかの形で避けている間は、あなたは弱いまま(非実相/卑小な自分/自我と同一化している者)でいたいのである。 投影とは(強きにつくか、弱きつくかの)動機についての混乱である。 そして、この混乱があるとき、(神への)信頼は不可能となる

 聖霊は常にあなたとあなたの強さの側についている。 聖霊の導きを何らかの形で避けている間は、あなたは弱いままでいたいのである。 だが、弱さとは恐ろしいものである。 となれば、この決断は、あなたが恐れることを望んでいるという以外に何を意味するだろう。 聖霊は決して犠牲を求めないが、自我はいつでも犠牲を求める。 こうした動機の相違についてあなたは混乱しているとしたら、それは投影のせいでしかあり得ない。 投影とは動機についての混乱である。 そして、この混乱があるとき、信頼は不可能となる。 自分が信頼していない導き手に喜んで従う者はいないが、これはその導き手が当てにならないという意味にはならない。 この場合には常に、それに従う者のほうが当てにならないということを意味する。 しかしこれも、彼自身の信念の問題にすぎない。 自分自身が裏切ることができると信じているので、彼はあらゆるものが彼を裏切ることができるとも信じている。 だが、これは単に、彼が誤った導きに従うことを選択しているからである。 恐れを抱かずにその導きに従うことができないので、彼は恐れを導きに関連づけ、いかなる導きに従うことをも拒む。 この決断の結果が混乱をもたらすとしても、それは驚くに足りない。

 

奇跡講座テキスト 第7章  十 苦痛と喜びの混同  5.