あなたが兄弟に祝福を拒む(兄弟を聖性と見ようとしない/つまり赦しを行わない)ときはいつでも、あなた自身が、自分から何かが奪われているように感じる。 一なる子の一部(兄弟、あるいはあなた)だけを愛することが不可能であるのと同じく、その一部(同左)だけを拒むことも不可能である (常にあなたも共有する)

 あなたが兄弟に祝福を拒むときはいつでも、あなた自身が・・・・・・傍点)、自分から何かが奪われているように感じる。 なぜなら、拒否は愛と同じく全的なものだからである。 一なる子の一部だけを愛することが不可能であるのと同じく、その一部だけを拒むことも不可能である。 それをときどき全面的に愛する、ということもできない。 あなたにはときどき全面的な忠誠を誓うということはできない。 拒否はそれ自体では何の力もないが、あなたはそれに自分の心の力を加えることができ、その力には限界がない。 あなたが実相を拒否するためにその力を使うなら、実相はあなたから消える。 実相を部分的に賞美することはできない・・・・・・・・・・・・・・・・・・傍点)。 だからこそ、その一部でも拒否することは、あなたがその全体についての自覚を失ったことを意味するのである。 だが、拒否とは防衛である。 それゆえに、それは肯定的に使うことも否定的に使うこともできる。 否定的に使われたときには、それは破壊的になる。 なぜなら、それが攻撃のために使われるからである。 しかし、聖霊により使われるときは、拒否するということが、あなたが実相の一部を認識してその全体を賞美するための助けとなり得る。 心はあまりに強力なので、除外の対象とはなり得ない。 あなたは決して自分の想念から自分自身を除外することはできない。

 

奇跡講座テキスト 第7章  七 神の国の全体性  1.