智識は全的なものであり、自我は全体性を信じない。 この不信が自我の起源である。 もし(自我を作り出した)この心が、一なる子のどの部分(どの兄弟の一人)であれ(正しく)認識したなら、その心は、(神の愛を)確実に知ることになる

 自我は何も知るわけにはいかないのである。 智識は全的なものであり、自我は全体性を信じない。 この不信が自我の起源である。 自我はあなたを愛してはいないが、一方では自らの素性には確かに忠実であり、自分が生まれた通りに生んでいる。 心は常に、それが生み出された通りに生み出す。 恐れによって生み出された自我は、恐れを繁殖させる。 これが自我の忠誠であり、この忠誠により、自我は愛を裏切る存在ものとなる。 なぜなら、あなたは愛そのものだからである。 愛があなたの力であり、そのことを自我は否定しなければならない。 自我はまた、この力があなたに一切を与えるからこそ・・・・傍点)、この力があなたに与える一切のものを否定しなければならないのである。 一切を有する者が自我を望むことはない。 だとすれば、自我を作り出した存在もの自身が、自我を望んでいないということになる。 したがって、もし自我を作り出した心がそれ自身を知ったなら、自我が直面することになる唯一の決断は、拒絶のみである。 そして、もしこの心が一なる子のどの部分であれ認識したなら、その心は確実に知ることになる。

 

奇跡講座テキスト 第7章  六 警戒から平安へ  4.