何らかの形で自分が幽閉されていると感じていない者は誰もいない。 もしこれが彼自身の自由意志の結果だというのなら、彼は自分の意志を自由ではないものと見なさなければならない。 さもなければ、この立場における循環論法はきわめて明らかとなる。 自由意志は自由に至るものでなければならない。 裁きは常に幽閉する。 なぜなら、それは、欲求という不安定な天秤によって、無数の実相の切片を選り分けるからである。 願望は、事実ではない。 願うということは、意志するだけでは充分でないと示唆している。 だが、正しい心の状態に居る者なら誰も、願われていることが意志されていることと同じ実在性をもつとは信じない。 「まず神の国を求めよ」と言う代わりに、「まず神の国を意志せよ」と言いなさい。 そうすれば、「私は自分が何であるかを知っており、自分が受け継いでいる賜物を受け入れる」と言ったことになる。
奇跡講座テキスト 第3章 六 裁きと権威の問題 11.