いかなるものも、自らの霊を父なる神の御手にゆだねる神の子に打ち克つことはできない。 ゆだねることにより、心はその眠りから覚め、自らの創造主を思い出す。 分離の感覚はすべて消え去る。 神の子は聖なる三位一体の一部だが、三位一体それ自体は一なるものである。 そのレベルの間に混乱はない。 それらは、ひとつの心とひとつの意志に属するものだからである。 この単一の目的が、完璧な統合を創造し、神の平安を確立する。 だが、この心眼は、真に無垢なる者によってのみ知覚され得る。 無垢なる者は、自らのこころが清いので、真の知覚に対抗して自分を防衛するのではなく、真の知覚を守るために防衛する。 贖罪のレッスンを理解しているので、彼らは攻撃の願望をもたず、したがって、真に見る。 これが、聖書の中の言葉、「主の現れ給うとき(すなわち、知覚されるとき)、われら之に似んことを知るなり。 われらその真の状を見るべければなり」ということの意味である。
奇跡講座テキスト 第3章 二 真の知覚としての奇跡 5.