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「最後の審判」(聖霊による自我に対しての最終的な審判/真の癒しへの到達)が本当は生命への扉であることは、きわめて明らかである。 恐れの中に生きている者(自我と同一化している者)は、誰も本当に生きてはいない

 「最後の審判」という表現が恐れを抱かせる理由は、それがに投影されてきたからだけでなく、「最後」という言葉が死を連想させるからでもある。 これは上下が転倒した知覚の顕著な実例である。 「最後の審判」の意味が客観的に検討されたなら、それが本当は生命いのちへの扉であることはきわめて明らかである。 恐れの中に生きている者は誰も本当に生きてはいない。

 

奇跡講座テキスト 第2章  八 「最後の審判」の意味  5. /1