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奇跡講座の学習についての考え方や赦しに関する質問もお待ちしています。

 

コメント: 170
  • #170

    エム (金曜日, 25 10月 2024 06:42)

    付箋シェア会参加させていただきました。
    KENさんの赦しに対する深い理解をシェアしていただきありがとうございます。
    今回は自分の内側がとても静かで納得感を持って聞いていました。
    イエスが伝えたいことを一言一句素直に受け入れたい自分を感じました。
    本来の自分とのズレはもちろんまだまだあり先は見えていませんが 笑
    見たい世界は決まっています。
    KENさんの言葉はいつも何かを気づく為のきっかけのように作用しています。
    学習会を開催してくださることに感謝です。

  • #169

    ゆうすけ (金曜日, 25 10月 2024 00:50)

    KENさん

    第2回付箋シェア会ありがとうございました!
    獲得思考が少し剥がれてきてるかと感じてます。そしてこれまで自動的に外側からの影響を受けっぱなしだと感じてましたが、自分で選びとっていただけだなと納得しております。
    ここ最近は全てそれでよしとする生き方とはどんな在り方か自身の生活で特に意識して過ごしています。
    まだまだ勘違いだらけですが、このような貴重な機会を与えていただきありがとうございます。

  • #168

    エム (月曜日, 21 10月 2024 08:09)

    KENさんありがとうございます。
    源が何処からかなのかが大切で厳密な区別をする必要はないですね。
    深読みしたい私がいました 笑

  • #167

    KEN(管理人) (日曜日, 20 10月 2024 21:32)

    エムさんこんばんは
    ここでの「私たち」は、キリストをはじめとする「神のグループに属する存在たち」という理解です。
    聖霊も同じグループですが、聖霊の場合はその中でも特別な役割があるので、「聖霊」と表記している、と理解しています。

  • #166

    エム (日曜日, 20 10月 2024 14:42)

    KENさんこんにちは
    ワークブックレッスンから質問です
    レッスン169を読んでいて「?」と思ったのですが、4段落から書いてある「私たち」とはなにを指しているのでしょう?
    これまでのレッスンに出てくる「私たち」は「分離を信じている神の子の心」と置き換えて読めましたが、レッスン169に出てくる「私たち」には当てはまりません

    太字ではないので真理側ではなく夢の中のそんざいですね
    ということは、真理を知っている正しい心側の私たちが語っているということになるのでしょうか?
    であるなら聖霊と区別してわざわざ「私たち」としている意図があるのでしょうか?

  • #165

    ゆうす (木曜日, 03 10月 2024 03:55)

    KENさん

    先日は長時間にわたりフォローセッションありがとうございます。

    やりたいことを聞かれ、何も答えることができず、、そのことについてひとり向き合ってみたら、やりたいことはでてきましたが、こんな本音をKENさんに言うのが恥ずかしいという思いが伝えることを防御していました。
    自己責任にすら至っていないのか、、、
    やはりとことん恐れがありますね。
    奇跡講座に取り組むまでの足元すらまだ見えてないというのが、今の現状かと認識できました。
    しかし、奇跡講座等、気になる読書を通して語られていることに純粋に強い関心があり、趣味としてその教えにに何かを期待することなく継続していき、自我の戦略なのかどうかはまだ慎重に見極めていき、実践としては、背伸びせず、自分を大切に、接待主として扱いどんな自分でも愛するということに向き合っているところです。
    神の子であるならば、どんなことをしようが神の子であることに変わらない、あれこれ正解を探すような在り方が自分は神の子ではないと宣下してしまっているんだなと。
    正直、嫌なことはよくなればそっちのほうがいいけどそうならなくても別に大丈夫、私自身の幸せとは関係ない。幻想は幻想だから。自分の本音を大切に自分を愛する。神を信頼する。というように感じてみたら、なんだか、暖かい気持ちと心強さを感じてます。
    お話していただいて今の自分に求められてるのは、やりたいようにやってみる!につきるのかなと理解しました。
    地獄をみるまでヘトヘトになるまでやりきるしかないということに関して、自分も背伸びはせずに向き合っていきます。

    全く見当違いでしたら指摘していただけるとありがたいです。
    今回も本当にありがとうございました!
    最新のブログの更新もありがとうございます!自身にあてはめ振りかえっています。

  • #164

    崎枝 (火曜日, 01 10月 2024 09:26)

    先日はセッションありがとうございました。

    あれから「心」と「本心」に向き合いました。それで本当に今更ですが、人間って「自分の好きなことをやろう!」とかいうより「好きな事しかできない」んだなと実感しています

    聖霊を選びたいのに自我を無意識に選んで反応してしまう。これの繰り返しでウンザリでした。

    この「無意識」を「意識的」に最近過ごしていたんです。

    無意識に自我を選んで裁きがちの私の自我に「意識的」に「これを本心の私はしたい。したい事をしている。」

    と自我を選択した後で心の中で付け加える。

    一つ心は「本音」ではないという記事がKENさんのブログにありましたが、
    昨今の体験から一つ心というのは
    正しいこころと間違ったこころの2つが見える地点で、実際に選ぶのは「本心」じゃないのかな?と思いました

    この本心は自我の外なので当然無意識。よって選びたいと自我が思っても選べるシロモノではないし実際多くの人がここでジレンマに苦しんでいる

    それを打開するために更なる探求をして迷宮入。

    私はここに向き合っています

    「無意識だからどうしようもない。
    でもその選択は確実に本心が望んでいるらしい…」という事実

    コース学習者誰もが知的以上の理解が難しいところだと思います。

    自我は恐怖を感じたくないけど
    本心は感じたい、体験したい。

    この矛盾は知的に理解できても
    実践で凄まじい抵抗に合う

    「恐怖は避けたい」のであって「恐怖を体験したい」なんて意味わからない!と言ってるのは自我

    当然現在自我と一緒になっているので葛藤する

    意味わからなくても「これがやりたい事らしいし少なくとも本心とは繋がった」

    感じはしています

    「もうやりたくない!!!」って本心が思うまでダンジョン攻略を失敗し続けるハードモードを私の本心は望んでいるみたいです。
    「もうムリ」とずっと思ってきましたが実は私の自我はまだ余力があるんだ!と自覚せざるをえない。

    気が遠くなりますが、どうやらわたしは徹底的にウンザリするまで恐怖を感じないと本心は違う選択をしてくれないようだ…

    そういう心の最奥からの「諦め」が沸いた時、本心が選んで体験したい恐怖を「咎めず」に見れる様になったかもしれない。

    本心と繋がりながら恐怖体験をしている感じです。

    ブログの更新楽しみにしています!

    ありがとうございました。



  • #163

    ゆうすけ (木曜日, 26 9月 2024 19:25)

    付箋シェア会の実施ありがとうございました!
    KENさんを通してワークブックのレッスンの文章を読むことで、今まで自分一人で読んでいて、大切に感じて響いてきた箇所でも、どのように重要なのか、より突っ込んだ角度からそれらの文章を捉え直すことができ、参加させていただきとてもよかったです。
    自分一人で奇跡講座を読んでるいるとき、自我の世界の不毛さを徹底的に述べる文章を読んで、自らに光が差し込むような力が湧いてくるような感覚を抱いていてましたが、しかし普段日常の中で全くもって、自我の計画に固執している自分にも度々気づき、実践し真に理解することはなかなか難しいなとかんじてます。
    そんな中、今日のシェア会を通してまたあらたに取り組む意欲の再確認ができました。レッスン41の爽快感、このことを、信頼して恐れを笑い飛ばしていきたいです。
    今日の要点メモしてポケットにいれて常に持ち歩こうと思います!

    【全てのことは最善。必ずいるべき時にいるべきところにいる!
    全ては神聖。例外なく!!祝福されている。 
    (あなたは神が創造したままのあなたである。)
    神の子とはあたたのこと。神の強さを信頼、自覚。
    自我の救済計画を信じることは狂気
    救済がわたしの唯一のはたらき。救済とは赦し。
    神の意志が私に望むのは、完全な幸せである。】


    シェア会の後、公園のベンチで奇跡講座を読んでいると、紙の上に鳩のフンが落ちてきました、また少し経つと鳩が数匹飛び立ち、白い羽根が1枚ひらひらとまた紙の上に落ちてきました。なんだか面白い1日となりました。
    今日という日を、またまだまだ先があるから、まだまだ未熟だからとだらだらと救済を先延ばしにするために生きるのはもう、お終いにしたいです。
    そして自身の、真の動機は、どこにあるのか、丁寧に自分自身の内側からの、声に耳を傾けていきたいです。
    今日は貴重な機会をありがとうございます!

  • #162

    安田 (木曜日, 26 9月 2024 15:29)

    今日はワークブックシェア会に参加させて頂きありがとうございました。KENさんが付箋を貼ったワークブックの文を読み上げるたび、私の中では苦笑いとイエスに対するツッコミが湧いてきました。レッスン94
    「あなたは永遠に神の子である。」
    というワードには特に…笑
    「いや、できないよ!というか神の子と見たくね〜よ!」という自我の抵抗する声が…笑
    「はいはい、見たくないのね~」
    と、受け入れ笑うしかありません。

    それでも今日読み上げた中で心に響いた文もたくさんあり、以前と違う捉え方をしている私もいるんだなと新たな気づきもありました。

    まだ「赦し」に入るまではある意味時間がかかると思いますが、全て受け入れ学習を継続しようと思いました。
    参加させて頂きありがとうございました。

  • #161

    エム (木曜日, 26 9月 2024 13:41)

    付箋シェア会に参加させていただきありがとうございました
    KENさんの付箋を貼られた箇所はやはりとても重要で深く熟考する必要がある文言だなと思いました
    赦しについて浅い理解を、深い理解へ導いてくれるように感じました

    今を変えたい、何とかしたいのが自我の思いですが、赦しとは何かを理解せず
    とりあえずコースを学べば幸せになれると思ってワークブックに取り組んでも、何をレッスンさせたいのか理解せず取り組むことになり意味のない取り組みになってしまうのだと思いました
    イエスが伝えてくれていることは
    一切の妥協を許さない厳しいものですが本気で真理を望むならやる価値があります
    今回KENさんのコンセプト「笑えるワークブック編」笑
    妥協の無さに本当に笑ってしまいますね
    KENさんが言われたように「笑いながらも真剣に取り組む」
    この態度で学びを続けていきたいと思いました
    次回も楽しみにしています!
    ありがとうございました^ ^

  • #160

    ひろ (水曜日, 25 9月 2024 20:48)

    KENさん フォローアップのお時間を取っていただきありがとうございました。
    KENさんのブログに書かれていたように、とにかく「自分に聞く、どうしたいのかをちゃんと聞いてみる」を慣れないながらも続けてみました。
    しかし自分をどうしても責めてしまう時などは、そんな余裕はどこかに消し飛んでしまいます。
    そんな時でも、私の中にある声がありました。
    「いいよ そのままでいいよ」と言うのです。
    私がどうであっても、何であっても、どれほど落ち込んでも「いいよ」と言い続けているのです。
    でもそう言われても私の心は晴れませんでした。
    少しも楽しくもありませんでした。
    「いいよ」と言われても私自身は少しもいいよとは思えなかったからです。
    そのようなことをお話していく中でKENさんは「いいよっていうのはある意味無責任だよね」と言い、可笑しくなって私も一緒に笑ってしまいました。
    KENさんから「いいよって言うのは、それはひろさんを信頼しているからだよ」と言われた時、思い出したことがありました。
    どれほどいいと言われても納得できなかったのですが、そのいいと言ってくれている、その奥にまだ何かがあるように思えたのです。
    それは「そのままでいい そのままのあなたが好き」というものでした。
    少し時間がかかりましたが、どんな自分でも「いいよ」と言ってくれて「そのままで好き」と言ってくれている、それが私を信頼してくれている。
    今はこれほど強い見方が自分にはいたのだということに励まされています。
    毎日の日常の中では、自我と分かっていても引かれてしまうことも多々あります。
    KENさんのブログにあるように「聖霊が見るのと同じように見る」それは咎めずに見るということ。
    これはなかなか難しく思うことしきりですが、その時こそどうしたいのか、何を選びたいのかを静かに自分の心に聞いていきたいと思います。
    ありがとうございました。

  • #159

    安田 (金曜日, 20 9月 2024 15:43)

    KENさん、昨日はセッションありがとうございました。
    赦し以前に大切な事を気づかされました。奇跡講座は多大な意欲と努力を要するとどこかで学んだような気がして、これまでがむしゃらに自我を見つめる・頑張るという事をしてきましたがそもそも間違っていたように思います。
    神から預かっている完全な神の子を任されているにも関わらず、自分の声だけには一向に耳を傾けずそれどころか罵倒さえしてきました。
    セッションの中で、相手に対する怒りが自分に向けられていたものだったと少しではありますが分かったように思います。
    私は私に理解してもらいたかった、話を聞いてほしかった、認めてもらいたかった、なのに全っ然聞いてくれない!それどころか否定される!と
    私は私を全然信用してなかったんだ…と痛感しています。
    まずは、ゆっくりと自分自身との信頼関係を取り戻し、話を聴いていこうと思います。それからじゃないと赦しも不可能だなと思います。
    地道に和解していきます。
    ありがとうございました。

  • #158

    エム (木曜日, 19 9月 2024 20:02)

    回答ありがとうございます
    ワプニックさんの軌跡の原理の解説も読んでみました
    KENさんの理解と合わせ納得できたのは

    時間が存在していると思っている間違った心は
    時間の概念を証明する為に別々の心の断片(兄弟達)があると信じている

    分離意識(時間という概念)を癒す為に兄弟達は「間違った想念を信じている」と教えてくれる役割をもって世界を使い次々と目の前に現れてくれる

    赦しを行うことで
    「自身の罪と兄弟の役割が解かれ心に平安が訪れる」
    このことは平安が訪れたなら心の中の間違って信じている分離の意識(時間という概念)が癒されることになる
    だから「すべての心にもそれが到来する」という表現なのだと理解しました

    ありがとうございました

  • #157

    KEN(管理人) (木曜日, 19 9月 2024 13:02)

    ワークブックレッスン169
    4段落3について、解釈は前者か後者か、ということですが、
    前者です。
    以下、私の理解をお伝えします。

    >「あなたが神の言葉を証しする者となって真理の体験を急ぎ、真理があなたに与えた影響を認識するすべての心にもそれが到来する時を早めるようにと、あなたに勧めている」

    これは、「意欲のある者は赦しを急いで欲しい。 あなたに赦しを行うきっかけとなった嫌な役割を担ってくれたその相手、また(いまだ会ってはいない)別の場所で同様に控えている誰か、そんな役割を持った人たちが存在し、あなたが赦しを行い自身の罪を訂正することで神の平安があなたに訪れると同時に、あなたの赦しに対する彼らの役割が解かれ、彼らにも同様の平安が訪れる。 だから急いでほしい、そのようにあなたに勧めている。」

    これは、奇跡の原理45番目と関連しています。


    またあればいつでもどうぞ。

  • #156

    エム (水曜日, 18 9月 2024 23:05)

    KENさんいつもありがとうございます
    ワークブックレッスン169を読んでいて疑問に思ったことがあるので質問です
    コースの「時間を省く」という概念についてです

    4段落3
    「あなたが神の言葉を証しする者となって真理の体験を急ぎ、真理があなたに与えた影響を認識するすべての心にもそれが到来する時を早めるようにと、あなたに勧めている」

    これは赦しをする者によって真理が心に共有されることで、全ての間違った心の側面にも時間の短縮が起こるということ
    要は無意識(人間の集合意識)の領域で変革が起きるという意味なのでしょうか?

    それとも「認識」という言葉は比喩的な使い方ではなく、この世界において真理を見出している人がいることを認識することで、その人の意識が真理を見出す方向に向くことを時間の短縮といっているだけでしょうか?

    KENさんはどのように解釈されますか?

  • #155

    エム (日曜日, 08 9月 2024 09:00)

    KENさん先日はセッションありがとうございました。
    KENさんとお話しして分かったことがあります。
    私は自分を愛する覚悟、自分を信じる覚悟がまだ全然出来ていなかったのです。

    自分に聞くということが出来ているのか出来ていないのかも分からず出来ているつもりでいました。

    でも私は、自分に尋ねても答えをもらえないことを凄く恐れていたのです。
    答えをもらえなかったら私は見捨てられてるように感じてしまう恐れです。

    KENさんはご自分のお話をされていただけですが、答えをもらえないことが答えであって、その状況を信頼しているということが分かりました。
    私に起きることが全て神の計らいなのだという態度で受け取る覚悟が出来ていなかったのが、いつまでも自己信頼が強いものにならない原因でした。
    自分を愛したい思いは強いのにいつまでも信頼出来ないジレンマから解放出来る道が見つかった感じがしています。
    いつもありがとうございます。

  • #154

    KEN(管理人) (金曜日, 06 9月 2024 07:13)

    崎枝さんへ
    率直なコメントありがとうございます。

    より丁寧に回答しようとも思いましたが、表現が変わるだけなので止めました。
    これまでにも答えていますし、ブログでも記述しています。
    これ以上知識を追加したところで意味のないことです。

    セッションを受けられる99%の方が同じ状況にあります。
    ほかのの大多数の人も同じ状況にあります。
    崎枝さんだけではありません。私もかつてはそうでした。ほかの人にとってもそうです。
    崎枝さんには2度も自我がなすすべを無くした経験をお持ちです。
    最近も自我が緩まった瞬間がありましたね。
    これらの経験は多くの人にとってはまだ訪れてもいません。

    今は苦しい、とにかく辛い大変な時期なのは痛いほどわかります。
    これは誰かがどうすることもできません。 代わることもできません。 通り抜けるしかないんです。

    大丈夫、人生が計らってくれます。 いえ、人生は常に計らってくれています。 今もそしてこの先も。
    偶然はない(そう)ですし、必要なことが起こるだけです。
    人生を通して学びが起こります。
    頭に蓄える知識ではなく経験によって知ることになります。

    ご自身で書き込まれた疑問にご自身で答えられる時が来ます。
    KENがなぜそう言っていたかということを。
    次回のセッションはその時です。 あなたのような人が必要です。 もちろん無料です。
    きっとわかる時が来ます。


    (改版)

  • #153

    崎枝 (木曜日, 05 9月 2024 16:21)

    先日は長々とセッションありがとうございました。

    意外なセッションでした。
    「自我」を一緒に見ていくのかな?と勝手に思っていました。コースのテクニック的な事を考えていましたが通常のカウンセリングの様に私個人の傷から入っていきました。

    最近「本心を見る」事が自我の邪魔なくできればできるほど「自己嫌悪」と常にぶつかってしまい、
    その自己嫌悪の根源を探っていきました。私は両親とくに母が信奉する神様、その神はとても厳しい神で自分が完璧じゃないと裁かれる、でも可哀想で神に背かなければ赦してもらえるという「恐怖の神」を私も無意識に信奉していると指摘されました。

    私は罪の意識が凄まじく強く、神に許してもらいたいけど、許してもらえない。神はどうせ私を拒否する。なぜなら私は罪人だからと言う思考回路が根底にありました。

    常に付きまとう「いつか裁かれる、断罪される」恐怖
    から逃げるため、自分を責める事によってその見返りに神に許してもらえるという歪んだ信念も根底にありました。

    自分を責めていじめることはあっても優しくなんかできない。被害者であることで、自分が守られていると固く信じているから、恐ろしくて自分を愛することができない。

    「あなたはいつか死にます。赦しをしようがしまいがコースを勉強しようがしまいが貴方は貴方から逃げられない。なのにずっと喉元にナイフを突きつけている。貴方は自分自身を愛せない。貴方は今のままの自分じゃ愛せないと思っている。
    もっと完璧にならないと愛せないと思ってる。貴方の神様はとても厳しくて、貴方はなんでも赦してくれるコースの神様より、自分の厳しい神様を崇拝している。」

    とKENさんに言われました。

    「あなたは結局のところどうしたいのか?」
    「コースの優しい神を信じたいのか
    貴方の厳しい神を信じたいのか」

    「これまでの厳しい神を信じたいのなら
    これまで通り自分を他人を責めればいい

    不快を感じる事自体が自我を選んでいるという事だ。あなたは厳しい神を自ら進んで選んでいる。」

    「貴方は自分に優しくすることができない。自分を愛することができない。だから「神がどんなあなたを許す」なんて言うことはとても信じられない。」

    「あなたはあなたを愛したいですか?」
    「あなたはどうしたいですか?」

    はっきり言って、コースの内容なんてどうでもいい。

    あなたはコースの優しい神を選びますか?
    それともあなたはこれまでの厳しい神を選びますか?

    あなたが決めるのです。あなたの意思です。

    もしあなたが自分を裁き始めたら、あなたは厳しい神を選んでいることになる。と言うことはあなたは間違ったイメージを見ている。そこで初めて赦しのステップが導入されて心を見ることができる。
    それらはあなたの間違ったイメージの投影だ。つまり、勘違いで知覚が間違っていただけだ。

    常に不快を感じたら自分に問うてほしい。
    厳しい神を選ぶか優しい神を選ぶか。どちらの方向を見ているのか?

    優しい神を選んだら見えるものはみんなあなたの間違ったイメージでしかないことに気づく。イメージという幻想、何も起きていなかったとわかる。これが赦しだ。

    の様なことをセッションで言われたと理解しています。

    「〜さん、ご自分がどうしてこんなに嫌いなんでしょう。可哀想ですよ」

    と言われて

    「知ってる。だからずっと自愛とかやったけどできなかった。だって嫌いすぎる」

    と自分を好きになるなんてムリ!と最初心理的に跳ねつけました。

    「私の信奉する神」は自分を責める厳しい神だから当然自愛なんてできない。
    信奉する神を変えるというのはいわゆる「決断の主体」なのか!
    責める自我の思考体系ではなく、自愛する事が決断の主体で聖霊を選ぶということとリンクできた時何かが動きました。

    やさしい神を選ぶと強く決断する事によって
    「赦し」のステップが始まるんだ….みんな自分の意思

    赦しのステップをどこかで嫌な感情を取り除くメソッドとみなしていたのかもしれません。
    自我が赦そうとしていた。心に戻っていなかった!
    との今更ながらの気づき

    間違った恐怖の神を選んでしまったことによるイメージを赦すのが赦しのステップ

    「自分を愛する」と言う言葉にとてつもない抵抗を感じていたんです。それは自分を存在化させて愛そうとするこの世的な自愛。分離の概念でできた自分を愛するなんてよく考えたらムリですよね。
    心に戻って「全てを赦す優しい神」を選ぶ事がコースでいう自愛なのかな?

    と思いました。

    間違っていたらご指摘願います。


    最後に疑問点があります。

    「貴女はこの世界が自分の心を表したもの、そう思って人生生きるだけで幸せですか?」と質問されました。

    その前に「好きなことやってください」
    という話をしてたんですけど、どうとらえていいのかわかりませんでした。私は言葉通り受け取って「夢の中で好きなことしても所詮夢でしかないのでは?」と思ってしまい言葉に詰まりました。答えられなかったのです。

    あの時KENさんは何が仰りたかったのかな?て思います

    コースは心を変える事が目的で結果を変える事ではないと強く言われるので私の様な訓練されていない心でこの世的な幸せは考えてはいけない、コースを学ぶ際にエサになってしまう。「優しい夢」を第一目的にしないよう心がけてきました。

    なので上記の質問を投げかけられた時言葉につまりました。世界は「赦し」をするための教材以外に考えてはいけないと思ってきたからです。

    それとも質問の意図はこの世界を超えた幸せを示唆されておられたのでしょうか?

    覚えておられないとは思いますが気になっていました。

    心の話なのになぜ「好きなこと」が関係するのかな?と頭が整理しきれないのです。

    上手に言語化できていませんね。スミマセン

    この度はセッションありがとうございました。

  • #152

    りこ (水曜日, 04 9月 2024 13:19)

    長い時間セッションして頂いてありがとうございました!

    自我を直視するやり方がなんとなく分かりました。そして、やり方が分かっても難しいものだと知り、今回一緒に掘り下げて頂き、小学校のとき嫌われて傷ついた記憶にまで繋がりました。

    独学で奇跡講座を勉強するのに行き詰まっていたので、セッションを申し込み、赦しまでのプロセスを一緒に進めて頂けて良かったです。

    ネガティブな気持ちをなんとかしようとするのが目的ではないというところは、思考の逆転を読んでいたつもりで見落としていたポイントでした。
    ネガティブな感情を使って、その奥にあるものを突き止めるということですね。

    またこれから自分で掘り下げていこうと思います。
    ありがとうございました。

  • #151

    KEN(管理人) (火曜日, 30 7月 2024 21:43)

    エムさん、いえいえ。私の解釈が間違っているかもしれません。
    もっといい解釈があるかもしれません。
    ただ、解釈しない限り実用できません。

    私は、元に戻りさえすれば、贖罪が完了すればそれでいいと思っています。そこにそれ以上の期待はありません。啓示があろうとなかろうとどちらでもいいと考えています。

    教えにとどまって熟考することは大切です。
    こちらこそいい機会をありがとうございます!

  • #150

    エム (火曜日, 30 7月 2024 20:45)

    KENさんご回答ありがとうございます
    私の啓示という概念の捉え方の混乱は結局自分を誰かと見ているのかとという事なのだと思いました

    人間であるか、霊であるか
    贖罪の計画の一部を成している自分という事がまだピンときません

    私が赦しをする目的は贖罪の完了の為なのですね
    それが啓示と同意という事がよく理解できました
    ありがとうございました

  • #149

    KEN(管理人) (火曜日, 30 7月 2024 18:17)

    エムさんへ
    ご質問ありがとうございます。
    回答はブログ記事として投稿しました。
    記事URL
    https://acim.jimdofree.com/revelation-is-not-the-result/

  • #148

    エム (火曜日, 30 7月 2024 11:33)

    KENさんこんにちは
    奇跡の原理を読んでいてなんだか違和感がある部分があるのですがKENさんはどう思われるか教えてください

    奇跡の原理28
    ー奇跡は手段であり、啓示は目的である。

    原文に詳しい方に教えてもらうと
    原文はMiracles are thus a means and revelation is an end.
    「啓示は目的」の部分は
    revelation is an end.
    だそうです

    啓示は目的と言われると私の思考は途端に掴みどころの無い雲の中に放り込まれたような感覚になり思考停止状態です

    奇跡は手段はその通りだと思います
    啓示は結果と言われるとなんだかスッキリします

    endという単語は目的という意味だから間違いはないのではないかという事なのですが、啓示を目的にしてしまったら私達学習者は途端に迷宮に彷徨う事になるのでは無いでしょうか?
    これは誤訳なのでしょうか?
    それとも私が赦しの側面で理解が足りない部分があるのでしょうか?
    KENさんはどう解釈されますか?

  • #147

    エム (金曜日, 19 7月 2024 08:25)

    KENさんセッションありがとうございました
    今回の私のテーマは依存でした
    誰かから私の欲しいものを得て満足したい強い欲求です

    依存を良しとしてしてしまえば
    そこに本来の自分自身では無いズレが生じ弱さからの痛みを伴う投影を見続けることは避けられません
    それをそのままにしておく訳にはいかないと分かっているので取り組んでみます

    見えてきたのは自分自身で全てを受け入れて全責任を取ることに逃げたいという思いがあるということです
    私はこれまでの人生振り返ってみると様々なシーンで責任から逃げたいと何度も思ってきました
    喜んで責任を果たしてきたことはあるのか?と考えると
    責任をきちんと果たしてきたと思えること全て義務感からやり遂げたことばかりです

    でも今私に与えられた役割があることを認識しています
    それに対しては喜んでその責任を果たしたいと感じているし、私はそれをすべきだと深いところで知っているし、私にとって自然なことだと分かっています
    人から与えてもらえる事でそれを自分への信頼に繋げるのではなく私自身だから信頼できる、信頼の根拠はそこにしかありません

    さて、さも分かったような風に報告していますがまだ全然スッキリ感は無い状態です
    他者への依存は一回赦しをしたからといって外れるものではない根深いものだと思います
    この幻想解除には自己信頼を育んでいくプロセスを飛ばすわけにはいかないということが分かりました
    自分自身と繋がり目の前に用意されている赦しをし続けることでこの問題は解決できることが腑に落ち安心してプロセスに身を任せようと思えることができています

    KENさんと話している時は人から与えてもらえることを諦めることは難しいなぁと感じていましたがやはりこの幻想を取り消したいと強く思えるのは自分自身を大切にしたいという思いと、私が依存したいと思っている人たちに対しても同じぐらい大切にしたいという思いがあるからです
    他者に甘えたい、承認して欲しいという思いは私の中のかわいい幼子です
    今はその子供の部分を咎めずかわいいなぁぐらいで見守っていきたいです
    本来の自分自身を思い出していけば人から与えてもらいたいなど思う自分では無くなることは分かっています

    あと今回世界から認めてもらえていない、受け入れてもらえていないという思いは自己信頼が無いから他者信頼も無く当然の結果として痛みを伴う幻想を見ていたということです
    目の前の人達がどのような反応を示そうがそれは自分なりに成長したい、自分自身を自分で癒せるようになりたいという共通の課題に取り組んでいるのだと要は本当にただ自分自身を見ているだけなのだと分かりました
    この納得感の中、目の前の人が私にどんな態度を取ったとしても構わないじゃないかという思いも湧いてきています

    ただココは自我意識にいるとすぐ忘れてしまいまたぶっちゃけトークがしたいなどと言い出すかもしれません笑

    では今後ともよろしくお願いいたします
    ありがとうございました

  • #146

    エム (土曜日, 13 7月 2024 11:38)

    KENさんセッションありがとうございました

    今回のテーマは
    1.父との関係性から生じている恐れ
    2.自分を迷惑な存在という隠されている信念がある
    3,自分らしさが分からない
    でした

    KENさんに自分ではできない心の声を拾い上げてもらう質問をしてもらいながらセッション後色々な気づきがあったのでシェアさせていただきます

    幼い頃私は父の言動から与えられ信じ込んでいた思い込みは
    迷惑をかける=怒られるでした
    私がすること発言することで父を苛立たせると信じていたのでいつも顔色を伺って怒られたくないと思っていました
    でも父は私の言動など関係なく自身の問題から怒りたい時にただ怒っていただけで私が怒らせていた訳ではなかったのかもしれません

    今思えば100%拒絶されていた訳ではなく楽しい思い出もあります
    ただ私を肯定する言葉はかけたもらった記憶がありません
    どちらかと言うと否定し皮肉を言うことが多くそれは今でも変わりません

    欲しかったのは父からの愛情(表現)でもそれは諦めなければいけないものです
    大人になった今離れて暮らしもう昔みたいに怒りをぶつけられることはないのに父の顔を見るといつもざらっとした不快な感覚を感じそれが嫌で父の顔をまともに見ることに抵抗感がありました

    この避けていた不快感をしっかり感じてみましたそれで気付いたことは、それはもらえなかった愛情を諦められない執着心の表れだったのだと分かりました
    父から得たかったものがもらえず傷ついてきた責任を父に償ってもらいたい、でもそれは望めないこの不快な感覚をもたらしているのは父のせいだと責めているのです

    両親が喧嘩した時に父が母に言った言葉「俺の気持ちはどうなるんだ」
    正しくコレだなと思いました。
    他者によって傷ついたと信じ他者によってなんとかしてもらいたい私たち自我の愛を求める声なのだと理解できました
    全ては自我の作り出したストーリーです

    自分の間違って信じてきた思い込みや感情そういったものは他者から償ってもらうことで自分が癒されるのではないと前回のセッションを通じて得た体験的理解があるので傷ついてきたと信じている自分に寄り添えるのは自分だけなんだと腑に落ちたら父は父のままでいいし私達家族の為に変わってほしいという思いや執着心も無くなったと言っていいかもしれません‥
    次回父と会った時の自分の反応をしっかり観察したいと思います

    自分らしさが分からないというテーマは父との関係性ももちろん絡んでいるし、中学生時代に自分の価値は他者が決めると言う間違った思い込みを作る経験が関係していると分かったので自分なりに解いていきたいと思います

    今回私の中でずっと背負ってきた重たいテーマでしたがやっと向き合えることが出来るタイミングに来たことが感無量です
    KENさん本当にありがとうございました

  • #145

    ひろ (月曜日, 08 7月 2024 13:06)

    個人セッションをありがとうございました。
    今ある葛藤を話していくなかで、自分の気持ちをどれほど抑えつけてきていたのか、自分の本音を隠し聞き流していくことが、まるで闇を看過することのよう思っていました。
    兄弟と交流し繋がっていたいという思いは、本当は自分と交流し、本当に繋がっていたかったのは自分自身だったと気づいたときは、それを今までどれほど無視し、邪険に扱ってきたのかと唖然としました。

    聖霊を選んだつもり
    赦したつもり
    こんなことでコースをやっている気になっていました。
    もう、こんなフワフワしたものはいらない。
    どんなに不器用でもいい、地に足をつけた一歩一歩を着実に歩んで行きたい。
    今回のセッションを受けまして、まだコースを始めてもいなかったこと、まずその準備段階が必要であることを教えていただいたと思います。
    これからもよろしくお願いいたします。

  • #144

    ゆう (土曜日, 06 7月 2024 23:45)

    こんばんは。
    近況上げさせていただきます。
    全くの初歩的な事かもしれませんが、重大な誤りをしていました。
    職場の中で善良な、優しい、無欲な、聖者のような人物になろうと対人関係においてそのような人であろうと努力してきたんだなと気づきました。
    ワークブックの言葉ですら、それに役立つように自身で唱え、優しく穏やかでいようと頑張ってる自分がいました。
    わたしは見ている世界の犠牲者ではない!
    などと唱え、頑張る自分がいました。
    学習の方向が逆でした!
    ほんとの事に向き合うより楽だし、めんどくさくないから、ある意味でスッキリするから、そこにずっと留まっていたのかもです。
    出来事の方に価値があるとしてマジック的なものに魅力を感じていたのだと思います。

    自分自身の間違えた考え方を変えること!
    なんとシンプルで見過ごされてしまうような言葉の凄みを感じ、はっきりと目が覚める思いがしました。

    まだ、自分なりの幻想直視と前回までのセッションの復習、コースの読解のために奇跡講座入門と覚醒へのレッスンという本の読み込み作業をしている段階ですが、何故か身体も軽く、みえている景色も異なるように感じてます。穏やかな感覚です。
    原因は自分にある!とほんとに思えてなかったのかもです、それを認めて、見つめていたら、いかに様々な人に対する勝手な、判断を下してたのか!全然まだコースの取組は今まではじめてすらいなかった!と思えました。
    ありがとうございます。

  • #143

    ゆう (金曜日, 05 7月 2024 01:50)

    kenさん

    本日はセッションのフォローアップありがとうございます!
    かなり、詳細に掘り下げて自身や問題に関してアプローチして頂きありがとうございます。
    なんとなく、取り組んでいたことに関して明確な道筋を示して頂けました。スピリチュアルなことに関してたくさんの情報があり、しかし、この日々に着実に当てはめるには、一つ一つ地道にやっていくのみ、その向き合い方、心の持ち方に関して理解がすすみました。
    【やりたいようにやる】ということの本意についても訊けてよかったです。
    嫌な出来事や動揺する出来事がわたしにはまだまだたくさんありますが、それを解除し解放することは可能なんだと認識できたらなんだか少し清々しくも感じられ、そういった取組をやることがまだまだたくさんあるということことは面白いことなのかもと感じました。
    もう、このままの地獄はいやだ、もう終わらせたい!そんな声が内側からかすかに聞こえてきてます。わたしは、やりたいようにやると意欲を感じます。
    まずは実践してみます。極めて具体的に!
    さっそく、寝る前の内省から取組んでみます、
    また、その都度セッションで進捗にあわせていろいろとお伺いできればと思います。
    そのときはまた宜しくお願いします!


  • #142

    ゆう (木曜日, 27 6月 2024 23:18)

    kenさん

    先日はセッションありがとうございます!
    やはり、直接お話することで本やブログなどの文章で読んだ内容のことでも、今はじめて聞いたかのように、自身に響くのを感じ、今まではまだ何もはじめていなかったなとこれから、自身の今の思いとの対話を大切にしていこう、自身が抱いてしまった幻想を具体的に認識していこう、そこから奇跡を体験していきたいと思いました。
    日常で起きてくることは、全てがレッスンなんだなと、今までは本ばかり読みないがしろにしていたレッスンをいよいよはじめて行く時がきたなと感じてます。
    そして、自身の抱えるプライドにも気づきました。全く赦せてないのにあたかも赦しを行ってるかのような思いこみ、自我からの理想追求的な取り組みをやめて、自身の中から湧き上がるどんな卑近な思いでも耳を傾けていこうと思えました。
    自分自身の経験を大切に!していかねば。
    ご紹介頂いた神との対話1を今読んでる最中です。
    今ここに平安がある、今すでに幸せである、と読書などからそのような気分や、心構えを感じていたはずなのに何故葛藤や、苦しみを、感じるのか!やはり具体的に、取り組んでいくしかない!やっぱり、手っ取り早さを感じるものは怪しいのかなと、瞑想やむやみやたらな読書などはサプリメント的に捉え、しっかり本質と地道に向きあっていきたいです。
    このような、貴重な機会を経験でき感謝してます。
    ありがとうございます!

  • #141

    エム (火曜日, 25 6月 2024 12:06)

    KENさん昨日は個人セッションありがとうございました。

    赦しの実践をしていて隠された信念を見つけても辛い思いをしてきた自我に上手く寄り添うことが出来ず分かったふりしか出来ない‥
    自我に対してかける声も上滑りしているような感覚‥
    KENさんのブログでそもそも私たちは自我に興味がない寄り添う気持ちがないというような内容の記事を読んだ時ドキッとしました。
    きっと赦しが機能しないのはこの部分に関係しているのだろうという直感があり個人セッションの申し込みに至りました。

    KENさんに言われたのは、出来ない自分を責めているのは自分に対して期待値が高い、今までの人生何でも自分の力でなんとかしてきてその自分をむしろ気に入っているという言葉。
    もう本当にその通りでグーの音もでません‥
    そしてKENさんに、今までよく頑張ってきた、努力家で勤勉家だからそんな自分を認めてあげればいいと言っていただいた時涙が溢れてきました‥
    私は自分に対する自己承認を全くせず頑張れば何でもできる精神で「自分は何も分かっていない」と自分を退かす教えのコースの教えでさえも頑張ることで何かを得ようとしてきたことが自覚されました。

    今朝ふと「なんの制限もなく何でも出来るとしたら何がしたいか?」というセッション中に聞かれた質問が私の中に起こった時出てきた答が「私を真から理解してくれるパートナーと一緒にいたい」でした。
    この時なぜ今までの赦しが機能しなかったのか理解しました。
    私は私を理解するパートナーであったことなど無かったのです‥
    頑張ってきた私を、労うことなくいつも頑張れば出来る!とムチ打って「もう疲れたしんどい」という声をスルーしていたんだと理解した時心から「本当に今まで気づかずごめんなさい」が言えました。
    泣きたくなり涙がまた溢れてきたのですが「ごめんね、今は職場だから仕事が終わるまでちょっと待ってて」と自然に自分中に対話が起きていました。

    今回のセッションは自分の中の見捨てられた自分に気づくことで
    なぜ赦しの実践が上滑りしているのか理解することのできるとても大きな学びの機会となりました。
    そしてこの気づいて欲しい癒しが必要なのは誰か?という問いも内側で起きていて
    これこそが自己探求なんだと、その道にいることが嬉しく感じました。
    KENさんありがとうございました。
    フォローアップもしていただけること本当に感謝いたします。

  • #140

    崎枝 (火曜日, 28 5月 2024 21:45)

    セッションありがとうございした。

    「自分の本心と一致していないと心が分離する」という話を今回は掘り下げていだだきました。

    聖霊を選びたいのに自我を選んでしまうジレンマ、コース学習者なら必ず経験するはずです。

    もう咎めたくないのに咎めてしまう
    もう自分を責めたくないのに責めてしまう

    私はそれらを延々やっていて本心は咎めたい。自分を責めたいを「自ら」進んでやっている事実に向き合いました。

    こういった自分を苦しめる選択をする自分にほとほとうんざりしているのに、苦しむ選択をしたい自分の奥底に、苦しむことでせめて神に罪を軽減してもらえるのではないかと期待している自分がいました。

    個人の卑小な私は怖くて怖くて今のままの自分じゃ楽になってはいけないと固く信じています
    自分に厳しくする事でせめて許してくださいと思っているのです。

    私の神は裁く神、厳しい神です。
    コースの聖霊とは全く違う

    「決断の主体」に戻って実は聖霊なんて選びたくない事実、自我を選びたい事実に向き合いました。

    そんなバカな…と抵抗しますが
    「決断する」という本気度が赦しをやる前に大切な前段階のように感じました。

    決断に責任を持つというか
    「もう自我を選びたくない」という決断という意思、すなわち自分の本音がどこにあるのか見定める。

    赦しの前段階のような「覚悟」ですが
    ここが本心とズレると赦しができない

    「もう私は罰する神のいう事は聞きません」

    と強く意思表示をします。

    ありがとうございました。

  • #139

    崎枝 (火曜日, 14 5月 2024 17:50)

    本日はセッションありがとうございました。

    ある程度コース理論は理解したつもりでおり、「どうやらこの世は幻想らしい。幻想には見えないけれど幻想に見えるようになったらどれだけ生きるのが楽だろうか。そういう風に見えるようになりたい。」が学習モチベーションでした。

    なので必要以上に出来事に向き合うことは幻想を更にリアルにしてしまう。出来事に動揺せず「幻想として」笑って看過ごす事がヴィジョンだと思っていたので出来事の内容には必要以上に入らない、幻想に意味はない、入ってさらに幻想をリアルにする事はコースの正しいやり方ではないと思っていました。

    確かに「赦し」の実践においては間違ってはいないのでしょうが、赦しの前段階として私は本音が曖昧だった。本音こそが実は聖霊の声であるという事を全く理解していませんでした。(今だによくわかっていません)

    この本音に向き合うこと。私の心の声は「助けてほしい」ではないかと指摘され、触れてはいけない場所に触れられた気がしてドキッとしました。

    私はこの心の声を自我の声としていたのでこれ以上触れても無駄、自我を助長すると思っていたのでかなり意外な点を指摘されました。

    自我の心を声を聞いてみたいと思いました。
    自我の中へ逆戻りするような感じですが、赦しができない理由がぼんやりとわかったような気がしました。

    苦しかった過去の自我の悲鳴をセッションの中でKENさんにお話させて頂き、自我が少し喜んで(癒されて)、私はこう言った思いに蓋をしてたんだなと思いました。

    本音に向き合いたいと思います。宜しくお願いします。

  • #138

    Rumi (水曜日, 08 5月 2024 12:17)

    お返事ありがとうございます。

    そうですね。私はコースを取り組む準備段階だったんですね。

    この後どうするかは自分次第。

    ありがとうございました。

  • #137

    KEN(管理人) (火曜日, 07 5月 2024 23:35)

    Rumiさん、はじめまして。
    管理人のKENです。

    「コースの理解を独学でやるのは難しい」これについて何か意見があればとのことでした。

    多くの人にとって確かに難しいと思います。
    難しく感じるのは意志の力で取り組もうとしているからです。

    準備が整った人にとっては、気がついたら「独学でやっている」です。
    彼らにとって難しい難しくないは関係なくなります。
    これは奇跡講座でよく出てきますが「意欲」の問題です。
    彼らはもはや意志ではやっていません。そうせざるを得ない内側から湧き起こる要請に突き動かされてごく自然にやっています。
    そんな「意欲」が彼らにはあります。

    では難しいと感じる私たちはどうしたら。その答えも載せておきます。
    「今の自分はどっちへ行きたいのか」ちゃんと聞く、耳を傾ける、ということです。
    「自分と繋がる」と言ってもいい。
    つまり「自分についていく」ことです。
    「あなたがあなた自身についていく」ことです。
    「自分と調和する」です。
    「ハートで生きる」とも言います。

    そしてもっと経験に耳を傾ける、です。
    「学習した知識でもって判断する」ことに偏重しすぎています。
    経験体験してきたことよりも経験せず知ってもいない知識を優先しすぎている。

    このように、コースに取り組むよりも前にもっとやることがあります。
    奇跡講座でいう「準備が整う」に向けた取り組みです。

    とはいえ「グループでの悩み」や「独学は難しい」も、「職場や家庭での困難」もこれらすべての「体験」は、「準備が整う」ために確実に貢献しています。
    「準備が整う」その日が来ればそれが分かると思います。

  • #136

    Rumi (火曜日, 07 5月 2024 11:51)

    はじめてコメントさせていただきます。

    #131の中で「他人」の記述つまりコースにおいての「兄弟」の記述がありました。

    > 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。

    ↑を心において他人と付き合うという事が人生と心に置いて生活すると理解しますが同時に色々思う所があります。

    コースグループ等で「兄弟と一緒に目覚める。だからグループ内での会話は助けになる」

    と仰るティーチャーが多いと思います。

    一体感とか分かち合う喜びも多く、自分の内面を理解し合う事で深く絆を感じモチベーションにもなる…と同時に関係が深まると投影により悩まされる…
    これではただの「特別な関係」でしかないのではないかと思います。

    お互いが分かり合えて嬉しい!というのは正しく自我の動きで、自我は認められたいので人生においていろんな形で「特別な関係」を探し続け落胆します。

    うんざりとわかっていてもやめられない。

    コース学習者でさえやります。

    < 相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。

    ↑を完全に定着した上でのグループ学習は有意義と思いますが、自他の区別をしている状態だと通常の特別な関係に悩まされるのでは?と思います。

    他人との関係においての喜びも実相の反映として享受し嫌な感情は「赦し」のレッスンとして他人と接するのは未熟な心ではなかなか難しいです。

    やはり自学がベースなのかなと思いますが、コースの理解を独学でやるのは難しい。

    だからKENさんのような方がおられるのはありがたいのですが、この点においてもし何か思うところがあればご意見いただけたらと思います。

  • #135

    まつ (日曜日, 28 4月 2024 08:02)

    KENさんのブログを読んでセッションを受けて変われました。
    今まで読んだり聞いたりした事でも実際にセッションを受けて、今まで気にしていたのはなんだったのかと生まれ変わった気がします。
    本当にありがとうございます。

  • #134

    aki (水曜日, 31 1月 2024 15:41)

    セッションありがとうございました。
    奇跡講座をどのように学んでいったらいいのか何をしたらいいのか分からずにいました。
    相談できた事に感謝でいっぱいです。とても安心できました。
    学べる事が嬉しいです。
    これからは自分に寄り添えるよう、幸せから選択できるよにいきたいです。
    これからもよろしくお願いします。

  • #133

    はちみつ (金曜日, 15 12月 2023 08:26)

    セッションを受けて、最近起きた自分のトラブルについて考え、自分の中で出た答えをKENさんに聞いていただいた。するとどうやら赦しができている様だった。
    赦しができていると聞いたときはポカンとした感じだったが、お腹の奥のずっと奥の方から『神様が居るのだ』という確信が込み上げてきて涙が出た。
    KENさんに確認しなければ気づけないほど、赦しはとても自然に行われていた様だ。
    赦しは確かに、精霊さんに委ねた瞬間自動的に起こっている様である。

  • #132

    eve (日曜日, 05 11月 2023 17:47)

    KENさま、お考えをありがとうございます。
    お返事をいただけて本当に嬉しかったです!ありがとうございます。
    今日は普段はしない、義母と主人の農作業の手伝いをしました。
    義母も主人も本質はキリストなので、一つに結びつこうという思いで、自分を愛するために奉仕作業を選びました。
    昨晩は作業を手伝おうとしている私はこの世界に価値を見いだそうとしているんじゃないか、間違っているんじゃないか、そんなことよりコースの勉強をしたほうがいいという思いが出ました。
    でもその声自体が一つにつながることへのエゴの抵抗の声じゃないかと混乱して、どう行動したらいいかわからなくなり、とりとめもなくご質問をしてしまいました。うまく自分の思いを表現できずに書いてしまい、すみませんでした。

    今はそんなときは、自己対話が必要だと気づくことができました。
    KENさまに自分の心への向き合うことの大事さを優しく教えていただき、もっと自分の心に正直になろうと思えました。赦しと自己対話、キリストへの信頼をもっと深めていこうと思います。
    KEN先生さまには、本当に心から感謝の気持ちでいっぱいです。
    私の心はこの世界にいないのかもしれませんが、神の子にふさわしく、赦しを通していただいた愛をKENさまのように、たくさんまわりに表現していきたいと思います。ありがとうございました。

  • #131

    KEN(管理人) (日曜日, 05 11月 2023 12:48)

    >コースの教えは、この世界は無価値な夢だと認めていく道なのだと自分なりに理解しています。

    コースの教えは、(すごくざっくり言えば)この世界で起きる出来事を通して自分の嫌な感情を見つけ出し、それを本来の状態に戻していく道だと理解しています。 つまりこれが赦しの説明です。


    >その夢の中での行動面に関してなのですが、世界も相手も、すべて自分でキリスト、相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道なのではと感じています。

     「>世界も相手も、すべて自分」・・・それはそうなのですが、これだけでは活用しづらいので、一足飛びにいくのはやめて今は脇に置いておきましょう。

     「>相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して」・・・これもそれはそうなのですが、どちらかと言うと、自分が癒されると、その瞬間同時に相手も癒される、がいいかと思います。

     「>精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道」・・・これがどのレベルのものを指しているのかわからないのですが、「>相手に奉仕」が特に気になります。
     相手の為に赦しを行うのではなく、自分のためです。 相手が嫌な振る舞いをしてくれることで、こちら側にある問題に気づける、そんな役割をしてくれているという意味で相手は協力者です。


    >怖れがなければ奉仕をしたい、でも、奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのではないだろうか?という声もあります。

     「>奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのでは」・・・この世界を実在としたくない、転じてこの世界は実在してはならない、存在してはいけない、だから消滅させなければならない、となっているとしたら「すでにこの世界はそんな世界として実在している」ことが前提に話が展開していることになります。


    >私の意思は神の意志なので、神のような考えをしたいのです。

     「>私の意思は神の意志」・・・そうです。 つまり私たちが何を意思しようとなんでもOKです。 それが神の意志です。 「これをするな、あれをせよ」は、ありません。 なのでしたいことをしましょう。

     「>神のような考えをしたい」のであれば、自分の中に答えさせてあげてください。 KENや教典、外からの答えは意味がありません。 「なんでもしていいならどうしたいのか。何がしたいのか。もちろん何の罰則も制限もないとして。」


    全体的に、頭でっかちになって難しく考えてしまっている印象をお見受けします。 べつに赦したくなければ赦さなくったっていいんです。 赦すことがいいことでもありません。 赦さないことが悪でもありません。 なんでもいいんです。 したいことをしましょう。 自分がどうしたいかが大事ですから。


  • #130

    eve (土曜日, 04 11月 2023 21:55)

    KENさま、いつもありがとうございます。
    コースの教えは、この世界は無価値な夢だと認めていく道なのだと
    自分なりに理解しています。
    その夢の中での行動面に関してなのですが、世界も相手も、すべて自分でキリスト、相手が癒やされることが自分が癒やされることだと認識して精霊の心を持って相手に奉仕して、相手のキリストと一つに結びつきながら、神を知っていく道なのではと感じています。
    私の心の中で、それは違う、そんな暇があるならテキストを読むなりコースの勉強をしたがいいという声があります。兄弟と結びつくことで、解放されることへの怖れ声なのだと思います。
    怖れがなければ奉仕をしたい、でも、奉仕することは夢の中に入り込み、この世界を実在としたいのではないだろうか?という声もあります。
    私の意思は神の意志なので、神のような考えをしたいのです。
    KENさまのお考えを教えていただけたらありがたいです。

  • #129

    eve (木曜日, 02 11月 2023 16:07)

    KENさま、とてもわかりやすいご回答をありがとうございます。

    実相を知るということは「自我を見ない」ということである。

    KENさまのご指導のおかげで、真の赦しにより自分の誤りが訂正され(白紙に戻され)、相手にも自分にも罪である自我はどこにも見当たらない状態に戻ることだと理解することができました。ありがとうございます。

    「相手もしくは自分のエゴが存在していると気づいた、でも、そもそもその見方がおかしい自分がいる、相手は間違っていない、間違っているのはこの自分だ、自分のどこが間違っているのか(勘違いしているのか)その誤った知覚、認識、信念をこの相手との関係性を示す出来事を辿ることによって真剣に見つけよう」が正解です、とご指導いただけたことにより、個人の非実在性への認識と自我の誤りを見ていく重要性を改めて感じることができました。

    「罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うのではない。 罪は存在していなかったと見るのである。 その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。 赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。 そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。」
    答えをありがとうございます!この文章は毎日読んで、しっかり認識していこうと思います。
    自分の目的(神の平安、神の子)を意識して自分の誤りに気づかせていただけることに日々感謝をしながら無罪の神の子を選択していきたいと思います。
    エゴの誘惑で弱気になることもありますが、KENさまの聖性あふれるご指導に感謝感激し、ブログに救われ勇気をいただいて前進できております。
    心から深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。

  • #128

    KEN(管理人) (木曜日, 02 11月 2023)

    eveさんへ
    こちらこそ熱心な学習者に感謝します。
    ワークブックにある『自我とは何か』の部分についてですね。

    >「実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」

    この「自我を見ない」についてさまざまに誤解されてきました。

    看過ですが、無視とは違います。

    (ここで言う無視とは気づいているのに気づいていないようにふるまう、見なかったことにする、あるいは無かったことにするという意味で使っています。 テキストには「無視」という用語が使われている箇所がありますが、無視の意味が違います。ややこしいですね)


    看過とは見過ごすことであり、「誤りを超えたところを見る」です。
    つまりこれが、赦すことです。

     「赦すことは見過ごすことである。 それならば、誤りを超えたところを見なさい。」(T-9.Ⅳ.1.)
     https://acim.jimdofree.com/acim-text-09-04-01-1


    >これは相手と自分のエゴは存在しないと無視(看過、赦し)し、その先にある光だけを見る心眼を言ってあると解釈していいのでしょうか?
    >実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので、ここで言われる「見ない」とは、どう解釈したらいいかわかりません。

    「>実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので」・・・もちろんそうです。


    ここでの論点は、姿勢の問題です。 心構えの問題です。
    基本中の基本です。

     「実在すると自分で信じている罪を赦すことができる者はいない」(T-27.Ⅱ.2.)
     「本人にとって真理と思えるものを看過して赦そうとするのではない」(同)
     「赦しは最初に罪を確立して、その後にそれを赦すことはしない」(同)
     https://acim.jimdofree.com/acim-text-27-02-02


    そして以下が答えです。

     「罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うのではない。 罪は存在していなかったと見るのである。 その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。 赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。 そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。」(ワークブック 第2部 1.赦しとは何か 1.)


    つまり、赦しには

    (1) 相手に問題があると見てそれを見ないでいたり無視するのではなく、「相手には問題がない(罪がない)と見て、問題があるのはこの自分であり、でも、この自分にも罪はないのだから、あるのは自分の中にある誤り(勘違い)だけであり、この誤った部分はどこなのかを知りたい」という理解であり姿勢です。

    (2) その上で、その誤り(勘違い)を解くために「その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していく」です。


    結論としては、

    「相手もしくは自分のエゴが存在しているとすでに思ってしまっている自分がいるのに、そんなのは存在しないと「無視」し、障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくこともしない」では二重に誤解しているということになります。

    ですので、

    「相手もしくは自分のエゴが存在していると気づいた、でも、そもそもその見方がおかしい自分がいる、相手は間違っていない、間違っているのはこの自分だ、自分のどこが間違っているのか(勘違いしているのか)その誤った知覚、認識、信念をこの相手との関係性を示す出来事を辿ることによって真剣に見つけよう」が正解です。


    そして、看過しきったとき(赦しが完了したとき)、自分の誤りが訂正され(白紙に戻され)、相手にも自分にももはや罪である自我はどこにも見当たらない、すなわち「自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」となり、これが「実相を知る」ということです。

  • #127

    eve (木曜日, 02 11月 2023 10:01)

    いつも素晴らしいブログをありがとうございます。
    ワークブックパートⅡ12、自我とは何か 4
    「実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」
    とあります。
    これは相手と自分のエゴは存在しないと無視(看過、赦し)し、その先にある光だけを見る心眼を言ってあると解釈していいのでしょうか?
    実相を知るのは、その障壁である自我(幻想)をしっかり「見て」手放していくと思っていたので、ここで言われる「見ない」とは、どう解釈したらいいかわかりません。KENさま、どうかご教授いただけませんでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。

  • #126

    eve (土曜日, 14 10月 2023 01:30)

    KENさま、愛のこもったわかりやすいご回答をありがとうございます!
    これからは、解放されたくないという自分の気持ちに気づいたときは
    しっかり認識して精霊に頼っていこうと思います。
    KENさまからいただいたたくさんの愛に感謝して
    日々精進していきます!本当にありがとうございました!

  • #125

    KEN(管理人) (金曜日, 13 10月 2023 18:46)

    お役に立てたのなら何よりです。
    少し追記します。

    1) >「意欲を持って、手放すと決意することでいいのでしょうか?」の部分について、

    意欲や決意は「する」ものではなく、意欲や決意は「起きる」ものとし、この部分は努力でなんとかできるものではないと記述しました。

    意欲は、人によってももちろん強弱があります。

    ときには、意欲が出ないときもあるでしょう。
    私にもあります。誰にでもあると思います。


    奇跡講座には次の記述があります。

     「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。」(T-16.Ⅵ.12:5)


    これは、意欲が持てないときは、つまりやる気がないときは、このようにすることでやる気が強化されることを示しています。

    1) 「なんだか今、やる気がない」という状態にあることに気づく
    2) 「なぜこの自分はこんなにやる気が起きないのだろうか?」と自問する、その理由に気づき、認識する
     そうすれば、聖霊の意欲が与えられる、つまりやる気が強化されるということです。


    とはいっても、これに取り組むこと自体、そもそもやる気がないと始まりませんので、どうどうめぐりですが。。

    こちらこそありがとうございます。

  • #124

    eve (金曜日, 13 10月 2023 17:47)

    KENさま、
    私の質問の意図に沿った丁寧でわかりやすいご回答をありがとうございます。
    自分の勘違いに気づくことができ、よく理解できました。
    意欲への激励のお優しさも、とてもありがたいです。実践へのやる気がでます。
    真摯に本来の自分に向き合い、自分の感情に目を光らせて動揺を常に監視、赦しを実践していこうと思います。また、多大なるKENさまの貴重なご理解をブログを通して共有させていただけることにも心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

  • #123

    KEN(管理人) (金曜日, 13 10月 2023 14:25)

    eveさま、以前にも記事にコメントを残してくれていましたよね。
    あらためてお礼申し上げます、ありがとうございます。

    さて、ご質問の件です。

    >「テキスト6章第三のステップ、C神と神の国を守るために警戒するために、精霊を教師にし自我の考えを侵入させないよう考えの一つひとつを精霊の光で判断するよう書かれてありました。」

    該当するテキストは以下になりますね。

     「聖霊はあなたの心の中で、誤ったものから真実のものを選り分け、あなたが心の中に入らせる考えの一つひとつを、神がそこに置いたものの光に照らして判断するように教える。」(T-6-5.C-1:2)


    ご質問は、実践に関してでした。

    >「これを実践するにあたり、意欲を持ち、心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放すと決意することでよろしいのでしょうか?」


    おおざっぱにはこれでいいのですが、実践に関してのご質問でしたので、もう少し丁寧に見ていきます。

    1) >「意欲を持って、手放すと決意することでいいのでしょうか?」の部分です。
    意欲や決意はするものではありません。
    意欲や決意は起きるものです。そのような思いに至る、生じると言ったほうがいいかもしれません。
    この部分は努力でなんとかできるものではありません。

    eveさんは実践に足を踏み入れていますから、意欲と決意はすでにあってのことだと思います。
    ですので、この部分を気にしても仕方ありませんので、次に行きます。


    2) >「心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放す」の部分。
    心に浮かんでくる考えを意識して認識するのではありません。
    ここは警戒の話です。(第六章 愛のレッスン Ⅴ.聖霊のレッスン C. 神と神の国を守るためだけに警戒していなさい。)

    聖霊が常にあなたの思考を監視してくれていますので、あなたの思考が聖霊のそれと合わない場合は通知してくれます。
    つまり「感情が動揺する」という方法によってです。
    ですので、私たちがここで実践としてやることは、「感情に目を光らせて動揺していないかを常に監視する」というものです。
    聖霊からの通知を見逃さないようにする、ということです。

    動揺したのであれば、それは何を誤認したのか、それを聖霊の光に当てて見ていく、これは誤った自我の考えを手放していくという意味であり、つまり赦しを実践する、ということです。


    ご質問の意図を誤認しての回答の場合もありますので、その場合はあらためてご質問ください。
    質問に感謝します。
    みなさまからの多くの質問をお待ちしています。

  • #122

    eve (木曜日, 12 10月 2023 16:04)

    KENさま、いつも素晴らしいブログをありがとうございます。
    奇跡講座の理解に本当に助かっております。
    可能であればどうかご質問させてください。
    テキスト6章第三のステップ、C神と神の国を守るために警戒するために、精霊を教師にし自我の考えを侵入させないよう考えの一つひとつを精霊の光で判断するよう書かれてありました。これを実践するにあたり、意欲を持ち、心に浮かんでくる考えを意識して認識し、実存を疑う自我の考えは手放すと決意することでよろしいのでしょうか?

  • #121

    迷い人 (水曜日, 27 9月 2023 06:05)

    管理人様

    先日は個人セッションありがとうございました。
    様々な気づきを頂きました。
    自分だけで考える限界というものを感じ、人に相談することの重要性を改めて知ることができました。

    ただ、やはり自分の自我、手放したくない気持ちは強烈で、神への反抗心、消滅願望は根強く残っております。

    しばらく管理人様にアドバイス頂いたことを考えてみたいと思います。

    掲示板質問にも丁寧にご回答頂き、本当にありがとうございました。

 2019.12.24 掲示板の運用開始。