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「咎めずに見る」これが赦しにおける最大の難関

最終更新:  作成開始: 4-05-20 最後↓

 

「咎めずに見る」とは「聖霊と共に見る」見方を指す

 赦しにおいて自分の内面を見つめる、幻想を直視する作業が必要ですが、そのとき「聖霊と一緒に眺める」「聖霊と共に見る」といった表現を奇跡講座テキスト内でもJACIM解説でもたびたび目にします。

 

 ではこの「聖霊と一緒に眺める」「聖霊と共に見る」とはいったいどのように行う見方なのでしょうか。

 

 

 それはずばり、「咎めずに見る」という見方のことです。

 

 

 

 思考を「咎めずに眺める」姿勢そのものが聖霊と共に見る、聖霊と一緒に眺める、あるいはイエスと共に見るということです。

 

 よって、「幸せになるため」や「問題を解決するため」や「自我を解消するため」などといった思いをもって思考を眺めるかぎり、すでにその原因自体を問題視している、つまり「咎めている」ということになり、聖霊と共に見ていないことになります。

 

「この状況が嫌だ、この状況を変えたい」コントロールしたいと思っている時点でアウトなわけです。

 

 そして、これは今の私たちにはコントロール出来ない部分でもあります。 今の私たちがいくら「咎めずに」見ようと努力しても、その姿勢自体が「咎め」をはらんだ状態にある、ということです。

 

 これが赦しにおいて最も難しい部分です。

 

 今の私たちにはどうすることもできない。

 

 ただやれることがあるとすれば、「今私は何とかして咎めずに見ようとしている自分がいる」このことに気づくことです。

 

 「咎めないように頑張って努力している自分がいる」このようになっている自分に気づくことです。

 

 「この状況を変えたがっている、コントロールしたがっている、つまりこの状況や自我や自分あるいは誰かを咎めている自分がいる」ことに気づくことです。

 

 「ああ、またやっちゃってる。。」こう気づくことが今の私たちにできることです。

 

自我と同一化している今の自分を認識することです。

 

 

 「なぜ今の私はこうもこの状況が嫌なのだろうか、この状況が受け入れられないのだろうか」つまり、「なぜこうもこの私は幸せになりたいのだろうか」「問題を解決したいのだろうか」「自我を消滅させたがっているのだろうか」という、「そのように思う自分とは誰か」にさかのぼって焦点を当てていくことです。

 

 このように動機をさかのぼって疑問を投げかけることは自我にはできません。 ですから、もしこのようにさかのぼって思考に焦点が当てられているなら、これはもうすでに聖霊と共に見ている「咎めのない状態」になっている、ということです。

 

 自我と同一化している今の私たちには「聖霊と共に見る」ことは不可能です。 可能になるのは自我との同一化に破綻がみられるとき、緩んでいるとき、自我が弱っているときです。

 

 そういう意味でも、今の私たちが正しいと考えることをとことんやって、問題という「山を動かす」ためにできるだけのことをやって、へとへとになる、限界を迎える、どうやっても「山は動かせない」そう悟る、極限に至ることでようやく「聖霊と共に見る」準備が整う、ということになります。