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赦しがうまくいかない人が大きく勘違いしていること

最終更新:  作成開始: 5-10-12 最後↓

 

こちらの記事を先に投稿

前回投稿記事で「核心部分は次回記事で明らかに」と伝えていたが、米国コラムに目が止まり赦しをめぐって多くの人が見落としている「ある本質」について言及すべく、先に記事にする。

 

約束の記事は準備しているので、仕上がり次第公開する。 もう少々お待ちいただきたい。

 

 

 

チャーリー・カーク氏銃撃事件の追悼式の2人の声明と「赦し」

コラムは、米国が震撼したチャーリー・カーク氏銃殺事件の追悼式についての記事

 

追悼式にて彼の妻であるエリカ・カーク氏と、盟友のトランプ大統領の2人の声明が記事に書かれている。 その部分について以下に取り上げる。

 

 

エリカ氏(妻)の声明:

 

「憎しみを憎しみで返してはいけない、愛でこたえないといけない、私は犯人を許す、キリストがそうしたように、チャーリーがそうしたであろうように、私は犯人を許す」

 

 

トランプ大統領の声明:

 

「チャーリーは敵を憎まずに敵の幸福になることを望んでいた。それがチャーリーと私の違うところだ。私は敵を憎んでおり、敵にとって最善なことなど望まない。申し訳ない、エリカ」

 

 

 

これを読んであなたはどう感じただろうか。 何を思っただろうか。

赦しがうまくいかない人が大きく勘違いしているある部分がまさにここに埋め込まれているので、今日はこれを題材にしていく。

 

 

 

赦しがうまくいかない人が大きく勘違いしていること

許し(赦し)に言及した妻エリカ氏(彼女自身が敬虔なカトリック信者)の声明に感銘を受けた人も多いだろう。

 

だが、焦点はそこではない。

 

注目すべきはトランプ氏のほうだ。

一見すると、赦しにおいてはエリカ氏が“正しい”ように見えるが・・・

 

 

実はトランプ氏のほうが赦しに近いと言える。

 

理由は、トランプ氏のほうが自分自身に正直だからだ。(誤解のないように言っておくと、2人が事実そうだと断定しているわけではない。 彼らの真意は誰にも分からない。 あくまで赦しの理解を深めるための象徴的な題材として用いている。)

 

多くの人は、本心からではなく世間体や道徳、宗教的な教え、これまでの教育、それがいいからそうする、いやそうするべきだと言ったところからの判断で赦しに近づこうとする。 そのように赦しを目指しても、自分に正直でなければ、その努力は空振りに終わる。

 

 

赦しにおいて大事なことは、まずは自分自身に正直になることがとても重要で、そういう意味でトランプ氏のほうが赦しに近いと言った。

 

もちろん、今のトランプ氏の状態からでは赦しはまったく眼中に入っておらず、遠い遠い存在であることは間違いないであろう。 だとしても、自分自身に不誠実なまま赦しに取り組むよりも、自分自身に正直になって、そうしてしかるべきときに本当に本心から — 自分自身の正直な思いから —「赦そう」となって初めて赦しに近づける。 そしてこれは私たちの意志ではどうすることもできない。 それはしかるべきときに内側から湧いてくるものだからだ。

 

 

 つまり、赦しの入り口に立つためには無理に赦そうとすることではなく、自分の今の気持ちを正直に認めることであると言える。

 

 

 

正直さの先にしか、真の赦しは起こらない

たとえ今は赦せなくても、「赦せない」と正直に認めることのほうが、ずっと赦しに近い。

 

自分に不誠実なまま「赦そう」と頑張っても、それは心の表面での作業にすぎない。 本当の赦しは、「本心からそうしたい」と思える瞬間に、内側から自然に湧き上がってくるものだ。

 

それは私たちの意志でコントロールできるものではない。

“しかるべきとき”に、“内側から”訪れる。 

 

単に赦しを目指したり取り組むことが重要なのではなく、自分自身への正直さから・・取り組むということが、赦しがうまくいかない人が大きく勘違いしている部分であると言っていいだろう。

 

つまり、「形だけの赦し」が本当の赦しにはならないことを端的に示している。

 

 

 

 自分の心の中にあるものを信頼できなくて何を信頼できるというのだろう。

 

 奇跡講座ワークブック 第一部  復習  Ⅲ. 序  6. より

 

 

 

 不本意な気持ちで与えることは、その贈り物を取得しないということである。

 

 奇跡講座テキスト  第25章  九 天国の正義  2. より

 

 

 

 「意欲のない意志」とは、実際には何の意味もない矛盾した言葉であるから、何も意味しない。

 

 奇跡講座テキスト 第8章  六 神の宝  7. より

 

 

 

 注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。 私たちは互いから何も隠してはならないのだから、あなたはこの点について自分自身に非常に正直にならなければならない。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  三 葛藤のない愛  8. より

 

 

 

私はあなたを愛し、尊び、あなたの作り出したものへの完全な敬意をもち続けるが、それが真実でない限り、それを支持することはしない。 があなたを見捨てることがないのと同じように、私は決してあなたを見捨てはしない。 しかし、あなたが自分自身を見捨てることを選んでいる間は、私は待たなければならない。 私は、もどかしさの中ではなく、愛の中で待っているのだから、あなたは必ず本気で私に頼むようになるだろう。 少しの躊躇ためらいもない一つの呼びかけさえあれば、それに応えて私は来るだろう。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  三 葛藤のない愛  7. より

 

 

 

私の決断はあなたの決断をくつがえすことはできない。 なぜなら、あなたの決断は私の決断と同じく強力だからである。 もしそうでなかったなら、神の子らは対等ではないことになる。 私たちが共同で決断をするなら、すべてのことが可能であるが、私の決断だけであなたを助けることはできない。 あなたの意志は私の意志と同じく自由である。 そして神ご自身もあなたの意志に逆らうことはしない。 が意志しないことを意志することは、私にはできない。 私はあなたの強さを不屈のものとするために私の強さを差し出すことはできるが、あなたの決断に対抗することはできない。 そうするなら、あなたの決断と競い合うことになり、それにより、あなたのための神の意志を侵害することになるからである。

 

 奇跡講座テキスト 第8章  四 自由という贈り物  5. より

 

 

 

 

 

 

多くの人は本心の見つけ方を知らない

さらに問題なのが、本人ですら「自分が本心からそうしているか」を明確には理解していないこと。 多くの人はそれが本心からのものかそうでないのかその出どころを確認していないし、その確認方法、見分け方もよくわかっていない。

 

自分の思いのみなもとを注意深く確認しておかなければ、たまたまそれが本心からのものだったら上手くいくこともあるが、多くはそうではないので、望んだものと正反対の結果を生み出すことになる。

 

 

 

知覚の法則についての自我の解釈は、聖霊の解釈の正反対であり、また正反対とならざるを得ない。 

 

 奇跡講座テキスト 第11章  五 自我の「力動論」  14. より

 

 

 

聖霊は延長し、自我は投影する。 両者のゴールは正反対であり、その結果も同様である。 

 

 奇跡講座テキスト 第6章  二 投影に代わる選択肢  4. より

 

 

 

 

 

 

「本心からの思い」とは何か

本心からの思いとは、あなたの実相(真の自己)から生じた真の声である。(正確には、実相とつながった今の自分がこの世界で経験したいと思っている

 

その、本心からの思いは、私たちがその思いを持とうとしても持つことはできない。 それはそこにただあるか、湧いてくるだけだ。 意志の力で捻り出すことはできない。 私たちにはコントロールすることができない領域なのだ。

 

聖霊もまた同じである。 私たちにできることはその、本心からの思いを確認して受け入れる(認識する)ことだけだ。 あるいは、はじく(却下する)ことだけだ。

 

本心からの思い聖霊の答えも自分自身に正直でいることが出来なければ、自我によって無視され、却下し遮断されてしまう。 そして、偽りの自分(自我)からくる声のほうを本物だと勘違いして採用してしまう。

 

 

創造されたものと作り出されたもの——それは「真の自己(実相)」と「偽りの自己(自我)」の違いでもある。 この真の自己からの思いによって赦しの入り口に立ち、区別によって真の赦しが始まるのである。

 

 

 

 創造されたものと作り出されたものとの間の明確な区別が不可欠である。 あらゆる形の癒しは、レベルの知覚におけるこの根本的な訂正に依拠している。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  五 奇跡を行う者の機能   A 奇跡を行う者たちの特別の原則  12. (2) より

 

 

 

 

 本心の見分け方やコツなど簡単なところは過去に記事で紹介している。 次期クラス(仮)では具体的にレクチャーしていくつもりだ。 セッションではそれに加えて実践して見せることも行っている。

 

 

 

結びに

今回は、自分自身に正直になること、今頭の中にあるこの考えは、本心からのものなのか、そうでないのかの見極めが大事であることの2つを伝えた。

 

この理解は、前々から約束している赦しの核心部分の教えのすぐ下に位置するほどの重要なテーマである。

 

「創造されたものと作り出されたものとの間の明確な区別」をせずに赦しを通ることは出来ない。

 

 この点においても、赦しに取り組む多くの人が誤解している点だと思ったので先に記事にした。

 

 

(私たちにとって難題なのが、これら2つも私たちの意志の力ではどうすることも出来ないということ。 そうしたいという思いが本心からのものでないかぎり、手も足も出ない。 これについての秘策が次期クラス(仮)やセッションの中心的テーマである。)