最終更新: 公開日: 5-12-25 最後↓
どうしたいが「出ない」のではなく「出せない」人たち
「どうしたい」が出ない人たちについて、以前記事にしたことがある。
記事は「斎藤一人氏と弟子の教え、そして「どうしたい」と問いかけても出ない人たち」の後半部分。
その時の結論は、「責任を取りたくない」という思いがあるから、であった。
その後、実は「どうしたい」が出ないのではなく、「出せない」のであり、「責任を取りたくない」ではなく「責任を取らないといけない」がゆえの人一倍責任感の強い人である可能性が高いという見識を自分の中に持った。
そして結論としては、『禁止令』が悪さをしており、それが自分とのアクセスを遮断しているとの理解に至った。
禁止令によって自分とのアクセスを断絶してしまっている
「責任を取りたくない」 →「責任を取らないといけない」 →「責任を取らなければならない」 →「責任を取らないのは良くない、ダメだ」禁止令 →「責任を取りたくないからどうしたいかを決められない」 →「どうしたい」が出ない →だが実は「どうしたい」が無い訳ではなく「出せない」だけ
「恥を掻きたくない」 →「バカだと思われたくない」 →「失敗したくない」 →「失敗してもいい」という許可が出せない →「失敗してはいけない」という禁止令
禁止令によってそれ以上の思考を断絶してしまっている。
まさに思考停止というところ。
「トランプ大統領の声明」の記事も
「トランプ大統領のほうが赦しに近い」と書いた記事も実は同じ話しだ。
チャーリー・カーク氏銃撃事件の追悼式において、「私は犯人を許す」と語った敬虔なクリスチャンである妻エリカ氏よりも「私は敵を憎んでいる」と言い放った大統領トランプ氏の方が赦しに近い(近いとはいってもまだまだ先だが)という話。
そこには、やはり自分自身に対する禁止令を持ち得るケースが示唆される。
「道徳的に正しくなければならない」 →「道徳的に誤ったことはダメ」これもやはり禁止令
エリカ氏が実際のところはどうかはわからないが、トランプ氏自身は彼の中にはおそらく禁止令はなく自分自身に率直にアクセスできている印象を強く受けた。
「禁止令」を解いて、自己信頼を取り戻そう
これら「禁止令」によって、自分自身の内側とのアクセスを遮断してしまっている。これをまず復旧させるところから。
復旧方法としてはこうだ。
とりあえず「責任を取らなくてもいいのならどうしたい?」自分自身に耳を傾け、正直な答えを待つ(人にシェアしなくていいから自分の中だけで)
同じく「恥を掻いてもいい」「バカだと思われてもいい」「失敗してもいい」のならこの自分は「本当のところどうしたい?」に自分自身の正直な思いを吐き出す
「道徳的に正しくても正しくなくてもそんなことは関係なく、ほんとうの自分はどうしたいのか?」に正直に答える
このようにして、自分自身の何の制約もないときに出てくる声をすくってあげる。
何か具体的に行動に出るわけでもなく、誰かに聞かれるわけでもなく、自分の思考の中でただぼんやりと考えるのでいいのだから、安心して取り組もう。
自分でも思いもよらないような回答が返ってくるかもしれない。
とにかく今の自分が自分の率直な思いを聞いて知って把握することが大事。
もし「ダメなものはダメだろう」「責任を取らないとか、失敗することとか、道徳的に正しくないことをするなんて絶対ダメだろう」という思いが出るのであれば、それはそれでいい。 今の自分はそれを大事にしているのだなと自覚できたのだから。
そして覚えておいて欲しいのは、次の通りである。
裁いてはならない。 あなた自身も哀れな罪人だという理由からではなく、あなたには裁くことができないからである。
奇跡講座テキスト 第25章 八 愛へと戻される正義 13. より
知るよりも裁くという選択が、平安を失う原因である。
奇跡講座テキスト 第3章 六 裁きと権威の問題 2. より
結局これらの問いかけができるというのは、自己信頼がゆえのこと。
何を考えてもどう答えてもこの自分は大丈夫だという、自分に許可が出せている。
そこには自己信頼がある。
すぐには心の声が聞こえないかもしれない。
それでも時間をかけて何度も聞いてみよう。
やさしく耳を傾けてほしい。素朴に。裁いたり決めつけることなく。
時間をかけて丁寧に。
自己信頼を育てていく必要がある。
自分を信頼しないで、自分を愛さないで幸せになんてなれないのだから。
イエスもあなたがあなた自身を愛するのを待っている。
神があなたを見捨てることがないのと同じように、私は決してあなたを見捨てはしない。 しかし、あなたが自分自身を見捨てることを選んでいる間は、私は待たなければならない。
奇跡講座テキスト 第4章 三 葛藤のない愛 7. より
これは「許し」であり「赦し」である
結局のところ、「禁止令」によって自分自身を束縛しているものに対して、それでもいいよ やってもいいよと束縛を緩め「許可を出す」。
もちろん実際に行動に移していいかは別物ではあるが、とにかく自分自身の正直な気持ちを汲み取る上では必須。
禁止令が張られているのはそこには「恐れ」があるから。
「恐れ」があることについては、奇跡講座では「幻想」を見ているということ。
恐れのあらゆる側面は真実ではない。 なぜなら、それらは創造的レベルでは存在せず、したがって、まったく存在しないからである。
奇跡講座テキスト 第1章 六 必要という幻想 5. より
そこに無いものを見ている。そこに無い「幻想」を事実かのように捉えて、その「無」に対処しようとしてあらゆる思考や行動を作り出している。
そんな「無」に対するアクションはすべて無意味とまで奇跡講座は言い放っている。
あなたが自我のゴールを認識するなら、それを恐れることが筋違いであることがさらに明瞭になる。 それはあまりにも明らかに無意味なので、その達成のための努力はどれも、虚無に費やされるだけである。
奇跡講座テキスト 第11章 五 自我の「力動論」 4. より
危険や恐れのために作られたものの中で安全を追求することに、何の意味があるだろうか。
奇跡講座テキスト 第28章 七 安全の箱舟 6. より
したがって、それらにはまったく何の意味もない。
奇跡講座テキスト 第13章 五 二つの感情 1. より
「許可」の文字にもあるように「許可」の「許」は ”ゆるし” だ。
まずは自分自身を許していこう。それが「赦し」につながっていくのだから。
許さないところに赦しはない。
メリークリスマス。

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