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私が支援メニューの提供を全て停止した理由、そして「準備が整う」とは

最終更新:  作成開始: 2022-11-08 最後↓

 

 昨年よりセッションを含め当方が提供しているすべての支援メニューを停止した。

 (個別セッションにて再開)

 

 なぜ停止したのか。 主要部分を語る。

 

 

結論。赦しが行えるレベルにいる人がいない。

 これまで赦しの支援としてセッションやクラスを3年間提供してきたが、実際のところ赦しの実践が機能する人がほとんどいないという結論に達した。

 

 少数であろうと想定はしていたものの、赦しが機能する人がこれほどまでに少ないことについては予想外であった。

 

 もちろん、奇跡講座および赦しに関心があり、取り組まれている方が数多くいることは承知している。

 

 私のところにも多くの方が訪れ、学習ならびに支援をさせていただいた。

 

 赦しの実践についての支援を中心に提供してきたが、提供に値する人がほとんどいないことが分かった今、すべての提供をストップした。

 

 なぜ提供に値する人がほとんどいないのかを今一度整理したいと思う。

 

 

 

ほぼ全員が自我から取り組んでいるから。自我からではうまくいかない

幸せになるために赦しに取り組んでもうまくはいかない

 意外に思うかもしれないが、幸せになるために赦しをしてもうまくいかない。

 幸せになろうとして、あるいは幸せになりたいがために赦しに取り組んでも機能しない。

 

それは自我の行為だから。

 

 幸せになるために、あるいは、幸せになろうとして何かをしている時点で、あなたは今「幸せではない」ことを認識しており、幸せを獲得すべく行動しようとしている。

 

つまり自我から生きている。獲得は自我からの発想であり行為。

 

 今の自分には欠けた部分があることを意味し、欠けたるところを知らない完全無欠としての本来のあなた(実相)を誤って認識している状態であり、だからこそ「幸せになりたい」という欲求が私たちの駆動の動機となっている。 つまりこれは明らかに「今私は自我として生きている」(自我と同一化している)と宣言していることになる。

 

 

 

あなたは豊かに満たされて創造されただけでなく、完全無欠なものとして創造されている。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  一 分離の起源  1. より

 

 

 

神の子にはどんな苦しみもあり得ない。

 

 奇跡講座テキスト  第31章  八 もう一度、選び直しなさい  5. より

 

 

 

からの分離という感覚だけが、あなたが真に正すべき唯一の欠乏である。 この分離の感覚は、あなたが真理についての自分の知覚を歪め、それによってあなた自身に欠乏があると知覚したのでなければ、決して生じることはなかった。

 

 奇跡講座テキスト 第1章  六 必要という幻想  2. より

 

 

 

 

 

「獲得は自我の発想」とは

 自分自身を欠けた部分がある存在として見ている自我は、罪悪感、つまり恐れを抱くようになる。

 自我は、欠けていると思い込んでいる自分の空虚な部分を外側の何かを獲得することによって埋め合わせしようとする、そうすることでこの罪悪感から逃れようとする。

 

 自我からのものであるこの「獲得欲求」(獲得思考)は、奇跡講座では最初に取り消すべき概念であるとまで明記されている。

 

 

 

逆転のプロセス、すなわち取り消しのプロセスにおける最初のステップは、「獲得する」という概念を取り消すことである。

 

 奇跡講座テキスト 第6章  五 聖霊のレッスン   B 平安をもつためには、平安を学べるように平安を教えなさい。  3. より

 

 

 

 

 

自我からでは赦しは不可能

 つまり「獲得欲求」(獲得思考)をしている限り、自我由来の動機でいるかぎり、聖霊からの答えは受け取れない、赦しは不可能ということになる。

 

 

 

自我に由来している願望はどれも無を求める願望であり、それを求めることは要請ですらない。

 

 奇跡講座テキスト 第9章  一 実相の受容  10. より

 

 

 

自我は聖霊に何も求めることはできない。

 

 奇跡講座テキスト 第9章  一 実相の受容  10. より

 

 

 

あなたは、自分自身や他の人々を救うために、自我からは何をすることもできない

  

 奇跡講座テキスト 第4章  一 正しい教え方と正しい学び方  12. より

 

 

 

 

 

自我からでは真逆の結果が生じる

 さらには自我からだと、知覚に対する解釈(受け取る結果、つまり行き着く先)は正反対になると指摘されている。

 

 

 

知覚の法則についての自我の解釈は、聖霊の解釈の正反対であり、また正反対とならざるを得ない。

 

 奇跡講座テキスト 第11章  五 自我の「力動論」  14. より 

 

 

 

 

 

赦しには聖霊の声は必須

 このように「幸せになるために奇跡講座ならびに赦しに取り組もうとしているという過ち」をほぼ全員が犯している。 ごく一部の人を除いて。

 

 確かに学習や赦しに取り組むことは誰にでもできる。

 

 だが、赦しには聖霊の協力がどうしても必要なのも理解いただけると思う。

 

 そして聖霊の協力、つまり聖霊を聞くためにはどうしても次のことが必要になる。

 

 

 

自我からではない真の衝動

 自我からではない真の衝動、これを奇跡講座では「両面感情のない欲求」、「奇跡衝動」と表現されている。

 

 

 

愛は、真にそれを欲する心ならどの心の中へでも即座に入ってくるが、そのとき心はそれを真に欲していなければならない。 ということは、心が両面感情をもたずにそれを欲するという意味であり、この種の欲し方には、自我の「獲得しようとする衝動」が皆無である。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  三 葛藤のない愛  4. より

 

 

 

あなたの歪んだ知覚が奇跡衝動に分厚い覆いをかけており、それにより、その衝動があなた自身に自覚されにくくなっている。 奇跡衝動を肉体レベルの衝動と混同することは、知覚の歪曲の主要なものである。 肉体レベルの衝動は、間違った方向に向けられた奇跡衝動である。

 

 奇跡講座テキスト 第1章  七 奇跡衝動への歪曲  1. より 

 

 

 

 

 「両面感情」は、嫌なことがあってそれを何とかできればいい気分になれるはず、というもの。(現在の嫌な感情と解決イメージによる良い感情の両面)

 現在ある問題を抱えており(嫌なこと)、この問題を解決することでいい気分になろうという思考を「両面感情をもつ欲求」と呼んでいる。

 

 「肉体レベルの衝動」、これは「自我レベルの衝動」であり、獲得欲求(獲得思考)のこと。

 これは、何かを獲得することで解決しようとする衝動。 上述の「両面感情をもつ欲求」と同じことを指す。 つまり自我由来の欲求である。

 

 

 一方、「両面感情を持たない欲求」、「奇跡衝動」は真の衝動のこと。

 真の衝動については次に詳しく述べる。

 

 

 

両面感情を持たない欲求「真の衝動」とは

 真の衝動とは、前述の肉体レベルの衝動、獲得欲求(獲得思考)とは逆のもの。 つまり、嫌なことがあってそれを解決しようとするための衝動ではなく、ただ純粋な衝動、

 

ただそうしたい。

 

 

 嫌とか嫌じゃないとかそんなことではなく、ただ純粋にそうしたい。

 無条件にそうしたい。

 (卑近な例では「趣味」がこれに近い。 趣味は幸せになるためにやるものではなく、ただやりたいからやるという意味で。)

 

 

 これをもう少しかみ砕いて言えば、

 

 

「もはや幸せになることなんてどうでもいい」

 

 

 幸せになるとかならないとかをもはや超越した衝動である。

 

 そしてこれを赦しに関して見るなら、

 

「ただ知りたい」

「純粋に知りたい」

 

 

 「なぜ今の自分がこうなのか、こんなことになっているのか。 こんなに苦しいのか。 辛いのか。 困っているのか。 解決できていないのか。 これをただ純粋に知りたい。 知れるものなら知りたい。 いや、何としてでも知りたい!」 これがどうしても必要になる。

 

 自分ではいくら考えても答えは出ない。 この世界には答えはないから。 それはこの世界にはない答え、それは聖霊が運んできてくれる。

 

 

「私が考える範囲では分からないことを知っている。 もはや解決なんてどうでもいい。 ただ答えを知りたい。 なぜなのか知りたい。 私の何かが間違っているはずだ。 まだ気づいていないことがあるはずだ。 この自分のどこが間違っているか、何に気づけていないかを本気で知りたい!!」 つまり真実、真理をただ純粋に知りたい

 

 

 

これが奇跡講座でいうところの「意志する」である

 

 

 真に知りたい。 これが聖霊に要請する、聖霊に委ねる、委ねて答えを待つと表現されている真意でもある。

 

 

 

真の衝動はどこから来るのか

 奇跡講座で言うところの、「この世界ではない」ところから。

 つまりこの世界にはないということであり、自我としてこの世界を生きている(自我と同一化している)今の私たちにはどうすることもできないものである。

 

 

 

絶望せずに、この世界の中には答えが見つかる希望はないということを、今、学びなさい。

 

 奇跡講座テキスト  第31章  四 真の選択肢  4. より 

 

 

 

 

 つまり、自我で生きているかぎり方法はない。

 (獲得欲求で取り組むかぎりうまくいかない。 つまり「どうしたら」と方法を探している時点で不可能となる)

 

 ゆえにこの時点で、自我と同一化している私たちには自由意志はない

 私たちにはコントロールすることができない。

 私たちにはどうすることもできない。

 

 

 

赦しに取り組むための準備が整うとは真の衝動によるもの

 JACIMサイトでは次のように比較的やさしいニュアンスで語られている。

 

 

 

まず、自分というものをしっかりと自覚し、その上で、そうした自分が幸せだと感じられないのはなぜなのかといったことを実感した後に、はじめて人は、自分がもつすべての価値観を疑問視することを求めてくる思考体系(T-24. in.2:1) に取り組むための準備が整います。

 

 JACIM Q&Aリスト 【質問】No.71 (org.#1279, #454)  健全な自我を育てることの大切さに関する2つのQ&A より

 

 

 

 

 一方、奇跡講座では次のように言及されている。

 

 

 

幽閉された意志は、その極限においては、まったく耐えられなくなるような状況を生み出す。 (中略)  いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道が必ずあるはずだと認識し始める。 この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  三 神の祭壇  3. より 

 

 

 

自分の惨めさのすべてを見て、自分の計画が失敗したことを自覚し、これからも永遠にそれがいかなる平安も喜びももたらせないと自覚することを通してでなければ、どうしてあなたにその準備が整うだろうか。

 

 奇跡講座テキスト  第24章  二 特別性の背信  14. より

 

 

 

この世界が提供できる道は膨大な数にのぼるように見えるが、どの道も他の道と同じだとわかるときが、誰にも必ずやってくる。

 

 奇跡講座テキスト  第31章  四 真の選択肢  3. より

 

 

 

 

 

真の衝動はいつ訪れるのか

 今の人生を生きることで、それが最終的に自我の生き方として機能不全に陥り、自我への信奉が極端に低下し、自我が限りなく弱まる(それに伴い行き場の無い苦悩も限界を迎える)。 自我のベールに力がなくなることで、本来の自己が現れやすい状態となり、ここでようやく本来の自分の声が聞ける状態が整う。 ここで立ち止まらずに本来の自分の声に耳を傾けることができれば、それに従おうとする気持ちがようやく確保される。 つまり自我から聖霊のカリキュラムへの転換が起こる、真の衝動が起きるということ。

 

 

 内から湧き起こる衝動。 なりふり構わぬ意欲、渇望の激しい欲求。

 これは往々にして、恐ろしいほどに不満が高まったときにその衝動はやってくる

 

 心からの悲鳴であり、魂の叫び、いや絶叫

 

 

 本当になんとかしたい、結果はどうだっていい、もうこれ以外の選択肢はない。

 

 それは、もはやどんな幸せも求めなくなった強烈な不満。

 

 

 これまで正しいと信じてきた自分としての生き方(自我)がもはや信じられるものではなくなり、限界が訪れ一時的にでも自我が停止した瞬間自我による分厚い歪んだ知覚が吹き飛んだ瞬間

 

 

ある意味、人生に絶望した瞬間である。

 

 

自我の分厚いベールが吹き飛んだことで本来の自分が自由に表出できるようになった瞬間でもある。

 

 

 

 これが私に起こったことである。

 

 

 一部の人に起こったことである。

 

 

 これが起きないかぎりどうにもならない。

 

 これは自分では意図して起こすことはできない。

 

 

 

 だから、その赦しに取り組みたい思いは、本当の衝動、真の衝動か、ということ。

 

 それはどの源から生じているものなのか、ということ。

 

 つまり、本気か。 ということ。

 

 

 

「それまで自明だった自分の世界がいったん完全に壊れるということを経験することで、新しい意味がつかまれるということが起こる。 人間は大きな危機にぶつかるとき、そいういうぎりぎりの経験の水際までゆく可能性がある。」(竹田青嗣/早稲田大学教授)

 

 

 

「ある時点でこの探求も絶望的な試みだったと気づきます。 ついにはマインドがすべての可能性に疲れ切り、どこにも行くことができなくなる、何も知らない、という状態にいることに気づきます。 マインドを照らすこの光り輝く気づきを、マインドでは手にすることができないことを理解し、動きをとめます。」(フランシス・ルシール『今、永遠であること』P.83)

 

 

 

「無常観や苦諦を理解して、ギリギリの切羽詰まった状態にならないと、人間は怠け者であるから、道を求める気にはなれない」(宮下裕司『幸福とは何か―仏教による幸福論』P.30)

 

 

 

 結局は神の恩寵が必要だということ。

 努力し頑張って行き着けるものではない。

 いつそれがもたらされるかは分からない、文字通り「神のみぞ知る」となる。

 

 

 

とはいっても。赦しに必要な訓練から始まる。それは自分自身に向き合うこと。つまり「心の訓練」

 赦しに関して「準備が整う」には、今の私たちにはどうすることもできない、であった。

 

 それでは今の私たちにはお手上げなのか。

 そんなことはない。

 

「したいことをする。」

 

そのために自分自身が本当にしたいことは何なのかを心の奥深くに入って、確認すること。

 

 

 そしてすべての人は誰しも今この瞬間、したいことをして生きている

 

 「私はしたくないことをやっている」という人もいるが、そんな人でも、それが「今したいこと」である。 誰しも自分がしたくないことはしない

 したくなければ最初からやっていないし、「したくないことをやっている」と口で言っていたとしも今それをやっているのなら、「それをやめるより、やったほうがメリットがあるからやっている」。 結局その人にとってはそれが今やりたいことだろう。

 

 もちろん、このことに気づいている人はそう多くはいない。

 きちんと自分の考えを整理すれば、やはりそれは明確にやりたくないことだと気づくかもしれないし、今はそれがやりたくてやっていたことだと気づくかもしれない。 思いと行動が一致すればストレスは無くなる。 葛藤が解ければ自分と調和する。 他にもっとやりたいことに気づくかもしれない。 気づいた瞬間に人は行動が変わる

 

 そういう意味でも「自分に向き合うこと」は大切だ。

 

 

 「自分に向き合うこと」、これは、準備が整った後に行う赦しにおいても絶対的に必要な能力である。 そういった能力の訓練は今からでも行える。 もちろんあなたがそうしたければ

 

 

 

これは心を訓練するコースである。

 

 奇跡講座テキスト 第1章  七 奇跡衝動への歪曲  4. より

 

 

 

 

 それにはどうしても自分自身の本心にアクセスする必要がある。

 最初にやることは自分の本心に耳を傾け、自分自身と争わない、和解する、調和させることが必要。

 そして願わくば、本心の行きたいところへ行かせてあげる。 行くべきところではなく。

 

 

 

自分を愛することは、自分を癒すことである。

 

 奇跡講座テキスト 第11章  八 問題と答え  11. より

 

 

 

自分自身と戦っている心は永遠の優しさを思い出さない

 

 奇跡講座テキスト  第23章  一 和解不可能な信念  1. より

 

 

 

 

 また、次のことにも取り組む。

 今自分が自我から選択しているのか本源(真の自分)からなのかの見極めを意識的にはしてきていないはずなので、今この動機の源が自我からのものかそうでないのか、真偽の選別を絶えず意識し、見極めることを常に行う。

 

 

 

自由への最初のステップは、真から偽を選り分けることを伴う。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  八 「最後の審判」の意味  4. より

 

 

 

創造されたものと作り出されたものとの間の明確な区別が不可欠である。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  五 奇跡を行う者の機能   A 奇跡を行う者たちの特別の原則  12. (2) より

 

 

 

 

 もし仮に、見極めた先にそれが自我であり、即座には修正できないとしても、このこと自体に自覚できただけでも、成果である。

 これに気づくだけでも金星、聖霊の意欲が与えられる

 

 

 

解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。

 

 奇跡講座テキスト 第16章  六 実相世界への橋  12. より

 

 

 

 

 このあたりについては、赦しのトレーニングとして記事があるので参考にして欲しい。 

 

 これ以外にも優先的に取り組んだほうがいい課題をもつ人もいるが、まずはこのことを意識するだけで十分だろう。 源が人生を左右していることをはっきりと自覚し、源に対して、つまり真の自分に対してもっともっと関心を高めていくことが狙いだ。 これは自分の人生を大事にしている人には出来るし、必ず辿り着く。 自分の人生を懸命に生きる、自分の人生を愛する、これが自分自身を愛するがゆえの所作であり取り組みだから。

 

 赦しの実践においても、「自分には今まだ解決できない問題があり、あらゆる方法を試してきたがもはやどうすることもできない、どうしたらいいのか分からない」これは自我が限界を迎え、限りなく弱まっている状態。ここまで来ていれば、一緒に紐解いていくことができる。 そうでなくても何かしらのサポートはできるだろう。 それらは個別セッションで提供される。

 

 

 

「準備が整う」についての結論。

 この赦しに関して「準備を整える」ことは自分では出来ない。

 「準備が整う」にはの恩寵が必要。 それがあなたに起こる・・・傍点)必要がある。

 

 今の私たちにできることは、懸命に生きる、ただそれだけ。

 

 そういう意味では、イエスは正しかった。

 

 

「求めよ。さらば与えられん。」 (文語訳 マタイ伝福音書第7章7節)

 

 

  これはつまり「山をも動かす思いで懸命に生きよ。 そうすればいつの日か準備は整う。 それは約束されている。」 自分が正しいと思う道を生きていれば、幸せを追求せざるを得ない。 難題をなんとかこなし、前進する。 やがてどうしても解決できない難題が立ちはだかる。 「山をも動かす」思いで人生を生きてきたが、どうやっても山を動かすことができない。 あらゆる方法を画策し講じるも、すべての試みは失敗に終わり、もはやどうすることも出来なくなる。

 

 そこまで来て、自分にはどうすることもできない、と絶望に瀕する。 ある意味、「気が狂う」といった表現をしてもいいかもしれない。 人によっては「降参」と呼んだり、「もう死のう」「死んでいい」「死ぬことを決める」と呼ぶ人もいる。 (私自身がそうだった。 ある意味、武士道の「死ぬことと見つけたり」はこれを意味するのではとも思う。)

 

 ここまできてようやく与えられる「準備が整う」

 

 人生どうやら、そういうもののようだ。

 

 そうでなくても、人生は続いていく。

 

 人生は続いていくのだから、葛藤したまま人生を生きるのではなく、少しでも自分と調和しながら、葛藤の少ない人生を過ごした方がいいのではないか、と私たちはそう考える。

 

 だからこそ「今、自分のしたいことは何なのか」これに向き合うことが大事だし、「ほんとうのところ、この自分はどうしたいのか」これがとても重要な問いかけとなる。

 

 

 つまり「自分の人生を懸命に生きる」ことであり、それは「自分自身に向き合う」ことであり、それは「自分を愛する」からこそである。

 

 

 どこまでいっても自分からは逃げられない。

 

 自分と向き合い和解し、調和することしか方法はない。

 

 

だからこそ「あなたはどうしたいのか」である。

 

 

これは恐怖由来ではない、恐怖をベースとしない真のあなたから発出される思いから来る

 

真の・・主体性の発揮。 これが今の私たちにできる最終回答である。

 

 

 

支援メニューの提供を停止した理由の、結論。

 自我から取り組む人が後を絶たず、コンテンツの提供は彼らの自我にエサを与える行為であり、なんら役に立たない、むしろ自我を肥大化させるだけにしかならないと判断したため。

 

 そんな情報はここに来なくとも、インターネット上にはいくらでも存在する。 それを教えてくれるティーチャーやスピーカーというやからも数多く見つかる。

 

 もちろんこれらを理解した上で、それでもと言うのであれば提供は可能

 だが、意味はない。