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質問
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管理人様
ご返信ありがとうございました。
大変理解が深まりました。
ありがとうございます。
一部不明点を以下に記載させて頂きます。
>園長は罪悪感が無いのではなく、罪悪感があるからこそ嫌な気持ちになり、このような言動をとったと見ます。 嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ないと思います。
「嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ない」が腑に落ちないのですが、本当は罪悪感があるがわざと強がっている、というような意味に捉えればでしょうか?
>また、基本的に奇跡講座は他者の罪の分析には意味がない(むしろ危険)と言っています。
>自分の罪こそが焦点です。
ありこれはどこかで聞いたことがあります。
手帳に自戒の言葉として書き留めておきたいと思いますので、もしお分かりであればテキスト(ワークブック?)の該当箇所を教えていただけますでしょうか。
>「平安から遠ざかることが一切なければ」赦さないのですか?
>脅かされなければ何かを選択しないのでしょうか?
正直な回答は「YES」です。
>どんなことでも「自分がどうしたい」を尊重せず、「何が正しい・正しくない」で選択しようとします。
>そういう生き方を十二分に行った先に、「もういやだ!」と本気になれます。
>「正しい・正しくない、そんなの関係ねー!」とようやく本心を吐露できるようになります。
わたしとしては「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先すべきに思っていますが、それは自我になるのでしょうか?
「自分がどうしたい」を尊重せず「何が正しい・正しくない」で選択すると抑圧になる、ということでしょうか?
>この経験を十二分に経た後に、「怒りを示したい」という今の正直な気持ちが「もう怒りを示したくない」に変化する地点に到達する時が訪れます。
>「どうしたいか」、意志の問題です。
ひとつ前の質問と同じで抑圧して本心に逆らって無理くり行うことが問題というか自我という理解でよいでしょうか?
>自我からの選択は選択ではなく、無です。
『「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先』が自我の選択になってしまうというのが理解できないでおります。
徹底的にそれが自我であろうが自分の本心に正直な選択をし、それで自分自身で「ああもうこの考えでは苦しい、いやだ!」そう思うまでは真の意志での聖霊の選択ではない、という理解でよろしいでしょうか?
私は意志というものを「〜したい」という気持ちを抑制し、「正しい=聖霊の思考」を選ぶことと思っていました。
※セッションにつきまして
7/20(木)までで9/4(月)より再開、とありました。まだ9月平日の会社を休める日が不明確なため申し込みは確定後にさせて頂きます。
宜しくお願い致します。
回答
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>「嫌な気持ちがなければ(罪がなければ)そもそもこの言動はあり得ない」が腑に落ちない
罪がある人は罪に対処するために状況を変更しようとします。
無罪であれば、今置かれている状況のままでなんら問題と感じていないため、何かを変える必要を感じません。
園長の「もう帰っていいか?」「園長を辞任すればいいんだろ?」とまったくの他人ごとで罪悪感のかけらもない印象からは、この件に関して関わりたくない、さっさと終わらせたい、ではないかと思います。
他者が関わってくるこの状況を関わりのない状況に変えたい。
関わられているこの状況が『嫌』だから。
もし『嫌』でなければ(『脅かされている』と感じていなければ)、むしろ真摯に対応しているでしょう。
>テキスト(ワークブック?)の該当箇所を教えていただけますでしょうか。
T-12.Ⅰ.1:6(T-12.Ⅰ.1.-10.)
>正直な回答は「YES」です。
平安から遠ざかるのが嫌だから赦す、では、『嫌』(脅かされている状態)つまり自我からの選択だということです。
条件付きの赦しは自我、愛は無条件です。
条件がなければ、何の制約もなければ、無条件であれば、迷い人さんの回答は「赦さない」でした。
意志の力は強力です。
神よりも強い(あなたには逆らえない)と奇跡講座にはあります。
赦しは、奇跡志向の衝動(両面感情を伴わない獲得衝動が皆無な思い)から行なわれるものです。
>わたしとしては「正しい=聖霊の思考」と思っており、「自分がどうしたい」よりもそちらを優先すべきに思っていますが、それは自我になるのでしょうか?
「べき」は、明らかに自我です。
自分をないがしろにしてしまっています。
真のあなたは神や聖霊と同じく「実在するもの」です。
この「実在するもの」に耳を傾けずに世間一般論である「べき」に委ねてしまうのであれば、私たちにできることは何もありません。
>抑圧して本心に逆らって無理くり行うことが問題というか自我という理解でよいでしょうか?
はい、おしゃる通り自我です。
ですが、(奇跡志向の衝動は今の私たちが起こそうと思っても起こせるものではありませんので、)奇跡志向の衝動が生じない今は、自我に従い無理くり行うしかありません。 あるいは混乱するしかありません。(自我に従いたくない!も、嫌なものを避けようとする衝動のため自我)
それが成功するかもしれませんし、成功しないかもしれません。 いずれにしても経験をもってはっきりそっちの道ではないと十二分に実感することで、もはや自我は信頼できないと分かり、自我との関係に亀裂が入る瞬間を迎えます。
このときが奇跡講座で言うカリキュラムの変更(方向転換)です。
>※セッションにつきまして
急ぐことでもありませんので、必要だと感じたときにいつでもお申込みください。
いつも迷い人さんの真摯な質問に感謝しています。 それに答えることのできる喜びも感じています。
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