最終更新: 作成開始: 4-10-03 最後↓
とあるブログ記事にて
たまたま読んだブログ記事から。
本の中から印象に残った箇所を紹介する内容。
ある本になんと私が常々言っていることをそのまんま言っている人がいることを知って驚いた。
本は読んではいないが、記事とAmazonページから取り上げてみた。
その本の著者は斎藤一人とそのお弟子さん。
そう、かつて記事を書いたことのある斎藤一人氏の発言である。
一人氏と言えば、「あやしい(?)健康食品を販売代理先に卸しまくることで長者番付1位をひた走る銀座の中卒おっさん」のイメージ(あくまで私個人のイメージ)だが、やはりとしか言いようがない。
彼や弟子の本が死ぬほど出版されていて、目にする機会は多い。 それらは「成功本」のたぐい。 私自身「成功」とは距離を置いてきたため、ほとんど読んでこなかった。 これからもおそらく読むことはない。(彼らの言っていることはだいたい分かるし、本質は同じ。 だた平易な「行動レベル」のコツの話が多く、本質とは違う回答が散見されるので、私は距離を置いている。)
とは言え、これから取り上げる部分については、彼らの言っていることはまさしく私が言ってきたことと同じなので、ここに紹介する。
【彼らが言っていること】
自分を否定するって、神様を否定するのと同じ。
みんな自分のことすら可愛がってない状態で、他人に優しくしようとしている。 人の為と書いて「偽り」。
この世の中は、自分との関係がすべて。
世界中が敵にまわっても、自分を愛する。世界中を敵にまわしても、自分の味方をする。世界中から嫌われても、自分を愛する。
無条件の愛と、無条件のゆるしを自分に与えるこれができれば、誰でも幸せになれる。これができないことが、不幸の原因。
自分が好きになれない。 それは、自分をゆるしていないってこと。
【参照のブログ記事とAmazonページ】
以下、参照したブログ記事とAmazonページ。
本を読まずとも以下を参照するだけでも同程度の理解は得られるはず。
ブログ記事:
「人生の流れにまかせる――明日のことを思いわずらうな、額に汗して働け。 斎藤一人 神様とお友だちになる本 Kindle版 みっちゃん先生 (著)」
http://arjuna626.blog.fc2.com/blog-entry-470.html
「人生の流れにまかせる――明日のことを思いわずらうな、額に汗して働け。 斎藤一人 愛とゆるし Kindle版 斎藤 一人 (著)」
http://arjuna626.blog.fc2.com/blog-entry-471.html
書籍:
『斎藤一人 神様とお友だちになる本』 みっちゃん先生 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4569843530
『斎藤一人 愛とゆるし』 斎藤 一人 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/404604389X
あらためてあなたに「問う」
そもそもあなたは自分を赦したいのか。愛したいのか。そのままでいいと受け入れたいか。
「自分を赦したいし愛したいよ。でも、そのままでいいなんて思えないし、ダメな今の自分なんてやっぱりダメだよ。」つまりそれはまだ自分を愛したくないということ。
結論。あなたは何があってもダメな自分の味方になると決めていますか?
そう。 自分を赦したいかどうか。
自分を愛したいかどうか。
自分を受け入れたいかどうか。
自分をそれでいい、そのままでいいとしたいかどうか。
そんな自分の味方になれるか、なりたいか。
そもそも自分のことを赦したい、受け入れたい、愛したいと思っていなければ、赦しをいくらやりたいと思っていてもそれは不可能でしょう。
ダメな自分は赦したくないし、愛したくもない。
でも赦しは行いたい。
それは矛盾していますね。
赦しは不可能です。
でも間違ってはいけないのは、
自分を赦したくない愛したくないがダメではないですよ。
今のそのままの自分でいいとしたくない、受け入れたくないというのは全くダメではないですよ。
今の自分がそうしたいのならそれで何にも問題ありません。
「ダメな自分自身を今のあなたはどうしたいのか」それをあなた自身が決めることです。
赦したくないなら赦したくない、それでいい。
そのままにしたくない、もっと良くしたい、改善したい。 それでぜんぜん構いません。
「どうしたい」が無い、出ない人たちがいる
今回ブログを見たのがきっかけでこの記事を書き始めた。
「100%自分の責任」というAmazonレビューを目にする。
一見当たり前の話しすぎてスルーしがちだが、思考が動き出す。
深く考察した結果、なんと本人に「どうしたい」と問いかけても答えが無いか、出てこない人たちがいることに至った。
これまで散々自己問いかけを推奨してきた私だが、それすらも難しい人たちがいるということに愕然とした。
理由は以下の通り。
この自分はどうしたいかを決めるには「選択のすべての結果は自分の責任」と責任を持つ覚悟が必要だということ。
当然、自己責任にまだ至っていない人がいて、自己責任が伴うがゆえの「どうしたい」が無い、出せない人たちがいる。
結局「自分はどうしたいか」に答えるには、自分で決めたことの責任を取る覚悟がなければそれに答えることはできない。
「責任を取りたくない」という思いがある限り、誰かに決めてもらうか、指示を待つ。 主体的に動かないというか動けない。 結果が思わしくなければその責任を他人へ転嫁も辞さない。(つまり奇跡講座でいうところの「投影」という他罰や自罰が頻繁に生じる。)
そもそも赦しにおいては「自分の選択はもちろん、自分が選択していない出来事であったとしても、それによりこの抱く感情を選択したのは自分の責任」を完全に受け入れる必要がある。
ぶっちゃけ、「雨が降っても自分の責任」なのだ。
もちろん覚悟を決めなくったっていいし、 いつまでもぐずぐずしていたってかまわない。 それも自分の選択だから。 いつ決めたっていい。 今はまだ決めないと決めたって構わない。 ただ「まだぐずぐずを続ける」と決めるのも自己責任の覚悟がないとそれすらも決められない、ということ。
「自己責任を持つ」つまり、「もう人のせいにはしない」と決めること。
「自分の選択に責任を持つ」ということは、自分自身を受け入れた、信頼したということ。
「自分の選択の結果は自分の責任」と見れない限り、まだ自分を受け入れていない、信頼していない、ということです。
そもそも自分自身を受け入れられていなければ、つまり自分自身を否定したままになっているから、自分自身を信頼していないから、自分自身に素直に耳を傾けることもできない。
自己信頼、つまりこれは、「自分の選択に責任を持つ」といつ決めるか、いつ決めることができるか、という問題。 そして自分をいつ信頼する(愛する・受け入れる)と決めるかという問題。 つまり同じ問題。
そしてこれは、いつ決めるか、ではなく、いつ決まるか、かもしれない。
しかしそれまでは地獄を見ることになる。
いや、地獄を見ることで決まるのかもしれない。
これはおそらく意志や努力では何ともならない気がする。
なぜなら、自己責任を負うことは、あるいはダメな自分を受け入れることは、多大な恐怖をはらむから。
だからその恐怖を超える恐怖によって、覚悟する瞬間を迎えるのかもしれない。
これは恐れによる深い執着が関係する。 この執着は簡単には外れない。 この恐れを上回る恐怖によって執着の強制解除がなされ転換することはよくあることだ。 つまり絶望することによって。
このステップをもう少し緩やかにする方法はないのか、提示できる形をこの先も模索していく。

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崎枝 (木曜日, 03 10月 2024 17:25)
ブログ更新嬉しく思います…
「雨が降っても自分の責任」
………ここまでの覚悟がなかったです。
ありがとうございました!